菜月・昴は特に理由もなく高校三年生にしてひきこもり、ずるずると生きるごく普通の若者である。
それ以上に語るべきところはない。
たった今の今までは。
「まさかの異世界召喚……てふべ」
「スバル?大丈夫?」
異世界転移者ナツキ・スバルの頬が白い両手にガッと掴まれる。それをしたのはすぐ目の前にいる銀髪の美少女だ。
――正直なところ、どえらい美少女だった。
ありえん程の美しさ。スバルの語彙では表現などできない。マジで、やばい。
「スバル?ずっと起きなかったのよ。心配したんだから!」
「は、はひ、ナツキ・スバルです」
顔だけでなく、声も震えていたかもしれない。あと、笑顔もキモかったかもしれない。どういった理由かは不明だが、この美少女はスバルにやけに親しげだ。
美少女と美幼女が何かとスバルについて言い争っている。
無事がどうのと。異常がどうのと言われるが、スバルは至って健康だ。素晴らしい目覚めである。
いやはやしかし、召喚者たちが取り合い心配をしてくれるなんてかなりイージーな世界に喚ばれたらしい。
ふふ、罪な男だぜ。俺のために争わないでと言う日が来るとは思わなんだ。
「おほん」
一つ、咳払いを入れて仕切り直し、スバルは二人に向き直る。
「――改めまして自己紹介をば。俺の名前はナツキ・スバル!」
びしっと指を天井に突き付け、反対の手を腰に当てながらポージング。
「無知蒙昧にして、天魔不滅の風来坊!不束者ですが、どうぞよしなに!」
「――――」
名乗りの口上を高らかに述べると、それを聞く二人と一匹が呆気に取られる。
やがて、十数秒の沈黙を経て、美少女と美幼女は顔を見合わせると、
「ええっと……別に知ってる、わよね?」
「今さらすぎる自己紹介だったのよ」
「あれー!?」
そう、気合いを入れた自己紹介も肩透かしに、そんな感想をこぼしたのだった。
――事の重大さが本格的に明らかになったのは、それからだ。
つまりはスバルと面識があるという二人と、その記憶がないスバルの、お互いの認識のすれ違いである。
その1。相手はすでにスバルのことを知っていた。
その2。体がやけに逞しくなってる。ていうか腕がおかしい。なんか黒くて蠢いてる。ナニコレ?
その3。コンビニの買い物直後とあまりに自身の様相が違いすぎる。時間が飛んでるとしか思えない。
総合すると、こういう結論に帰結した。
――コンビニで異世界召喚されて、その後の時間を過ごし、記憶をなくした。
二人の雰囲気は、端的に言えば終わっていた。通夜というより、今まさに死体を目にしたときのような表情と言えるかもしれない。
死体なんぞ見たこともないし、死んだ人を見た人すら見たことはないが。
「まぁ切り替えてこうぜ!こういう一時的な健忘症ってのはポンと何かの拍子に戻ったりするもんだし、大げさに心配しなくて平気だって。漫画とかならあれだ!敢えて自分で頭撃ち抜いたりするやつもいるかもだぜ?いや、それじゃ死ぬか!ってはは…」
沈黙が場を支配する。まずい。適当言い過ぎた。頭撃ち抜くなんてそんな物騒な話、女の子たちの前でするなんてとんだ大ポカだ。
パーフェクトコミュニケーションには程遠い。セーブポイントはどこだ?やり直しさせてくれ!
そんな現実逃避をしていると、パンと音がする。
スバルのこめかみが撃ち抜かれたわけではない。当然下顎から撃たれてもいない。
「えいっ!」
「って、いきなり何を!?」
気合いの入った声と同時、美少女がわりと看過できない勢いで自分の頬を叩いた。
「よしっ、元気を入れたわ。あんなんじゃダメよね。スバルの方がずっと困ってるはずなのに、いつまでも私たちまで困った顔してちゃ」
「ほら、ベアトリスも!」
顔を赤くしたまま、なかなか威勢のいい発言をする美少女にスバルは驚く。
「驚いちゃったのも、悲しい気持ちもわかるけど……今、一番辛いのが誰なのか考えなくちゃ。私たちが、何とかしてあげなきゃダメでしょ?」
「べ、ベティーは……」
「――――」
口ごもり、何を言えばいいのかと逡巡する美幼女。
その幼い戸惑いに、しかし美少女は何も言わず、じっと見つめて返事を待った。
二人の間には、互いへの信頼。信じる心が見てとれる。
「スバルは……今、困ってるはず、かしら」
「あー、正直、そうだな。うん、助けてほしいと思ってる」
「――――」
素直に追い詰められた心境を伝えると、美幼女の瞳が驚きに見開かれる。薄く、青い瞳に浮かぶ奇妙な瞳孔――それが、スバルには何故か蝶の羽ばたきに見えて。
「……ああ、もう、まったく!スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」
契約者だとか、聞き捨てならない単語が頻発した気がしたが、沈んだ顔をしていた子が顔を上げたのだ。そこに突っ込む無粋はひとまず堪えた。
その後、ラムという桃色の髪のこれまた美少女にも嘘をつくなと責められ泣かれた。なんだよそれは。知らないのに、それでも罪悪感が募っていく。いや、これは慣れ親しんだ無力感だ。
他の同行者についても軽く紹介され、自分がどこで発見されたのかを知る。
「ともかく、その書庫ってのが怪しい。記憶の戻る手掛かりがそこにあるかもしれないってんなら、確かめにいくのも手だな」
作戦会議の間も、スバルは努めて明るく振る舞った。ちょっと口が回り過ぎたかもしれないが、誰もが暗い顔をしているよりはマシだろう。
「もう、そんな変な言い方して。ホントに、スバルなんだから」
「そのスバルなんだからって言い方、たぶん褒め言葉じゃないよね!?」
その甲斐あってか、場の空気がほんのわずかだけ弛緩する。
方針が定まり、本当の意味で少しは前向きになれたような感触があった。
ただ、一人だけ。ずっと何も言わずにこちらを見るだけの者がいた。
イケメンのナイスシルバーなおじいちゃんだけは、鋭い視線でスバルを見続けていてどうにも居心地の悪さを感じるのだった。
その後、エミリアたちは塔の調査と攻略に別れて行動を開始する。
スバルの不調も、この塔にあるはずのあらゆる知識を手に入れれば解決するかもしれないという意見が出たのだ。
何かしら門番的な存在が立ちはだかっているここはダンジョンみたいなものらしい。
報酬はなんでも知れる図書館だとか。本当にあるのか?そんなものが。
ところで、スバルは現在一人である。
「無理言ってベアトリスに一人にしてもらったのに、これじゃ先が思いやられる」
スバルを一人にすることに、最後まで渋い顔をしていた幼女の顔が思い出される。
「スバルを一人にすると、記憶を落っことしてきたり碌なことがないのよ!ベティーは離れないかしら!」
「その気持ちは嬉しいし、ありがたいんだけど、これから人に見せられないことするから!」
「スバルとベティーの間に、そんな水臭い気遣いはいらないのよ!」
「いや、裸になったりするかもだから。ムーンライトメイクアップするから。魔法少女になるとこ見られたら魂ジェム真っ黒にまっしぐらだから!3分もたずにジェム点滅しちゃうって」
などと、力押しで訴えかけ、とにかく熱意でへし折った形だ。
最終的にベアトリスには、余計なことはしないで必ず合流することと、強い強い厳命を受けることでどうにか話はまとまった。
彼らはすでにスバルの異常に構って時間を半日以上浪費していた。
そもそも記憶を落とした上でスヤスヤと半日も寝ていたらしく、その点を最初に心配されたのだった。
すでに夕方になりつつある中、夜まで進展なしというのは避けたいとレイド攻略を再挑戦する事になっている。
「契約者って言われてもピンとこないけど、あの分だとベアトリスとはうまくやってたみたいだな。俺らしくもねぇ。……てか本当に俺だったのかよ」
持っていた道具も体が使い方を覚えていることなどなく、ただのお荷物。ムチは飾りと化した。
一人になり、軽口を叩く必要がなくなると素の思考が出てくる。
それは黒くてドロドロしていて、後ろ向きで、そして事実だ。
本当に、何と無様なモノだけがここに残ったのか。
記憶を失い、一緒にいたはずの人たちに心配をかけ、積み上げてきたものもなくして役立たずになった挙句、体に刻まれた歴史だけは残して、ガワだけ整えてある。
まるで、ハリボテではないか。
化けの皮を剥いだら、その中身には何もない。
「は」
軽く息を吐いて、スバルは立ち上がった。
内心、自分の脳内に浮かんだ四文字の言葉が、馬鹿笑いしたくなるぐらいくだらない。
ハリボテなどと、今さら何を。
――ナツキ・スバルがハリボテでなかったことなど、いつあったのだ。
余計なことを考えていたせいだろう。一本、道を折れ間違えて、スバルは別のフロアに出ていた。
異常なほど巨大な螺旋階段のフロアだ。
六層からなるとされる塔において、六層から四層まで上がってくるのには、おそらくは百数十メートルもの高さを階段で上がってくる必要がある。
「そう考えると、この塔も妙な造り……ファンタジーだしなんでもありか…」
「――お?」
ふと、感慨を振り切るように首を振ったスバルは、息を抜くような声を漏らした。
それは本当に、何気ない吐息だった。
ただ、それぐらいささやかな衝撃に、背を押されて。
「――――」
――天地がひっくり返る。
「ぁ?」
足が、地面を離れていた。――否、離れたのは足だけではない。体だ。
ナツキ・スバルの存在が、落ちてゆく――。
「ま、ぇ?」
落ちて、落ちて、落ちて、落ちていく中で、意識が現実に追いつく。
落ちて、いる。
「ま、て、待て待て、待て――」
終わりが来るまでの数秒感が永遠にも感じながら、吐いて、暴れて、叫んで、そして
かたい、しょうげk…
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――スバル!大丈夫なの?」
目覚めて、最初に聞こえたのは銀鈴の声音だった。
「エミリアちゃん……?」
「スバル?ずっと起きなかったのよ。心配したんだから!」
スバルはぐるりと周りを見た。
見慣れたとは言わないが、先ほど散々見た緑の部屋。そして、すでに見届けたはずのやり取りを行う彼女たち。
「え?なに、夢?」
「――?」
その後の会話も、どこかがおかしい。
スバルがタイゲタの書庫で倒れていたという。2回もそこで?と驚いたら彼女たちは初めてだと言うのだ。
時間をかけてようやく気づく。察するにこの状況は――、
「同じ状況を見てる。――つまり、予知夢?」
目を覚ました瞬間の状況を鑑みると、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
そう思えば、意識の途絶――覚醒というべきか。その瞬間の記憶が曖昧なことにも納得がいく。夢とは何故か、繋ぎ止めようとしても指の隙間から零れ落ちていくものだ。
これこそがスバルに与えられたチート能力なのだろう――、
「すげぇ使いどころが難しい、ピーキーな能力だな……」
ただ、使いこなせれば強力な力であることは間違いない。
真剣な二人と向き合い、スバルは微かな躊躇いを挟んで、言った。
「信じてもらえるかわからないんだが、どうも、俺は記憶をなくしたらしいんだ」
スバルが打ち明けた事実を二人が消化し切るのには、それこそ予知夢で見たときと同じだけの時間と、切っ掛けが必要だった。
エミリアは自分の白い頬を両手で叩く。
ベアトリスは不安と困惑の殻を突き破り、瞳に浮かんだ蝶の紋様の如く、停滞の蛹を突き破って羽ばたいた。
そのことに安堵しながら、スバルは同時に強い自己嫌悪も抱く。
なぜならスバルは、予知夢を見たことを、二人に打ち明けていない。
だっておかしいだろう。前回誰もスバルにそんな能力があるなんて言ってくれなかった。あれほど親身な人たちなのに、隠し事をするなんて考えづらい。
ということは、スバルはこの能力をみんなに言っていないのだ。
「……何を考えてたんだ、ナツキ・スバル」
『スバル』への不信感が、沸々とスバルの中で芽生えていく。
その後の展開も、やはりおおよそ、予知夢の通りに事が運んだ。
ラムに、スバルの状況が悪ふざけなのではないかと疑われ――、
記憶をなくしたスバルの言動を、シャウラがあっけらかんとした態度でいつものことと受け入れてくれて――、
スバルが記憶をなくした事実に動転するユリウスを気遣い、エキドナがわずかな休息の時間を設けようと提案しーー。
そして凛とした姿勢の良い老人がスバルをじっと見ていた。
その視線から逃げるように、ラムの誘いに乗って、スバルは水を汲みに部屋を離れる。
二人きりになって、ラムはスバルの胸倉を掴んで壁に押し付け――、
「……お願いだから、全部、話して」
気高さは失っていない。しかし、決して芯が揺れていないわけではない。
そんなラムの静かな慟哭を聞かされて、スバルは確信と共に、皆の下へ戻った。
――予知夢は、正確だ。憎らしいほどに的確で、状況を完全にトレースしている。
スバルは演技が得意ではない。いや、できないこともないが今はそんな状況じゃない。そんな余裕は一切ない。
それこそ、本気で戸惑っていた人間の真似をするのは難しいという話か。
だから、これ以上のボロを出す前に――、
「とにかく、お互いの状況はひとまず把握した。混乱があるのはわかるが、力を合わせて乗り切ろうぜ。そのためにも、そろそろ状況を動かそう」
手を叩いて、スバルは無理やりに空気の入れ替えを試みる。
前回、こうして話し合いが停滞したあと、自分たちが何をしたか。それを思い出させるように、あるいは予知夢に従うように、ベアトリスが頷く。
「問題の、『タイゲタ』の書庫でのことを確かめるかしら」
一同は書庫を調べた。しかし、捜査は踊るも前に進まず。
書庫の捜索は徒労に終わり、あえなく撤退となる。
失ってばかり。後退してばかりの状況に自然一行の雰囲気が明るくなるはずもない。
そんな彼らから逃げるように、スバルは一人で行動していた。
夜になれば流石にスバルも落ち着いたと判断されたようだ。
ベアトリスだけは離れたがらなかったが、一人にしてくれと真っ直ぐに頼み込み。最後には彼女は折れた。
スバルが本当に泣きそうだったから、優しさに付け込んでスバルが相手を折ったのだ。
最低な方法でワガママを通しても、とにかく一人になりたかった。彼女たちの目を見たくなかった。
失った記憶と。曖昧な記憶。
直近の曖昧な記憶に導かれ、そして人を避けていると。
再びここにやってきた。
「螺旋、階段……」
全身の血が冷たくなり、耳鳴りがやけに大きく感じる。自然と心臓の鼓動が早くなり、息遣いが荒くなって、何故か膝が震え出した。
「何だ…?何か…忘れてる?」
カチカチと、合わない歯の根が音を立て始め、スバルは異常を自覚する。
「――ぁ」
とん、と軽い衝撃があって、スバルは一歩、前に踏み出していた。
まるで子供にちょいと押されたような軽い感触。
自然と、前に一歩、足が出た。
そして、その足は、宙を掻いた。
だから、
「 あ 」
落ちる、落ちる、落ちている。
自分の体が浮遊感に呑まれ、天地が大きくひっくり返り、ようやくスバルは理解した。
転落している。
違う、軽い衝撃があった。ただ、落ちたわけではない。
自分は突き落と「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」
おなじ、同じだ。こうやって落ちて、硬い衝撃を自覚する前に粉々に…
瞬間、蘇った記憶とは違う衝撃がスバルの右半身を粉々に砕く。
「くか」
空気を引き裂く破裂音とともに、雷鳴のような激震が右半身を貫く。言葉を失った次の瞬間、怒涛のごとき激痛が遅れて襲いかかってきた。
「ぎ、ぃぃぃぃぃああああああ!!」
視界の端に映るのは、無惨に折れ曲がった右腕。肘から逆方向へ折れ、突き出た白い骨が血まみれの肉を押し広げている。破れた上着の隙間からは、むき出しの筋肉と骨が露わになっていた。
激突――それはまさしく、恐ろしい高さから落下した勢いそのままに、スバルの体が螺旋階段に叩きつけられたのだ。ぶつかり、弾かれ、回転しながら転げ落ちる衝撃が身体を無慈悲に砕いていく。しかし、それはまだ終わりではなかった。
「がっ……! ごぼっ……げぅっ……!」
飛び散る血の雫とともに、スバルの体はさらに下の段差に激突する。
そして――最悪のタイミングで次にぶつかったのは、頭だった。
額がぱっくりと裂ける感覚。骨の奥から何かが溢れ出るような感触が走り、意識が一瞬にして遠のいていく。しかし、意識を手放す暇すらない。さらに次の段差に打ち付けられ、砕けた右腕がさらなる悲鳴を絞り出すほどに形を失っていく。
「ああああ!!! ぎあぁぁぁぁっっ!!」
痛い。痛い、痛い、痛い、痛い――。
灼熱のような苦痛と、喉を焼く嘔吐感が、スバルの存在を粉々にしていく。
喉を引き裂くような絶叫が、血の塊とともに吐き出される。
叫び続ける声すら枯れ、スバルの体はただ地上へと向かいながら、壊れていく。
――終わる。
夢が覚めることはない。ナツキ・スバルは、しくじった。
失敗した者に、やり直す機会などない。
ゆっくりと、ゆっくりと、世界が沈んでいく。
光は消え、深い闇がすべてを包み込んでいく。
――オマエハ、ダレダ。
痛みと鮮血の果てに、ナツキ・スバルという存在は、砕け散った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
痛み、痛み、痛み、痛み、痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。
痛みだけがあった。痛みだけだった。世界は痛みで満たされていた。
その、終わるはずのない痛みが、唐突に存在を手放して――、
「――うああああああああああああああああッッッ!!」
絶叫を上げ、覚醒する。
「あああああああああ!!うああああああ!!」
叫びながら、手足を振り回し、砕かれる自分の体を守ろうとする。
そのまま堪え切れず、嘔吐する。何も腹に入っていない。黄色い胃液が、渇き切った口腔を酸っぱい臭いと一緒に通り抜け、ぶちまけられる。
「う、ぼぇっ!げぇっ!げほっ!がほっ!」
咳き込み、少量の胃液を必死に吐き散らしながら、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
「――ぁ」
さらに遅れて気付くことがあった。
背中を、蹲る自分の背中を、誰かが優しく、掌で撫で付けているのだ。
「スバル!どうしたの!?落ち着いた?」
振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった視界に、背中を撫でる相手の顔が映り込む。
それはぼやけた視界の中でも鮮明な、美しい銀髪と紫紺の瞳を持つ少女――心配げに眉を顰め、背中を撫でてくれている彼女の姿に、ひゅっと喉が鳴った。
「スバ……」
「うああああああああああ――ッ!!」
大きく身をひねり、背中に触れている白い手を、乱暴に振り払った。
背中、だ。
背中に、触られたのだ。
自分は背中に触られて、次の瞬間、あの苦痛が――。
気づいた時には走っていた。
走り、逃げた。とにかく逃げた。
『死』が追ってくる。殺される。殺される。このままでは殺される。
「――ッ」
正面、自分がどこを走っているのかを見失いそうになるぐらい、代わり映えのしない石造りの通路が続いている。
わかるのは、後ろへ戻ってはいけないこと。かといって、何の頼りもなく逃げ続けたとしても、いずれはジリ貧になって道を失う。
まるで、溺れている気分だ。
溺れ、溺れて、溺れるものが足掻くように、水面を目指すように、ジタバタ、ジタバタ、ジタバタと、足掻いて足掻いて足掻いて、逃げて。やがて――、
「――オメエ、こンな朝っぱらから何しにきやがったンだ、オイ」
「――――」
スバルは、ただ必死に、逃げ続けただけだ。
石造りの通路を懸命に駆け抜け、見覚えのある場所から遠ざかろうとする。結果、見知らぬ部屋で、上へ向かう階段を見つけ、それに縋り付いた。
そして、辿り着いた先で、最も恐ろしい獣に、睨みつけられて、
気付けば、息がかかるほど目の前に相手の顔があった。
「――ッ!」
「おうコラ、無視ぶっこいてンじゃねえぞ、オメエ」
「は、ぁ、え?」
――獰猛な、血を求める鮫のような形相で、男が木の棒を胸へねじ込んできた。
「ぎ、が、ぁぁあああああ!?」
瞬間、肋骨の隙間に枝の先端が滑り込み、骨に守られるはずの繊細な臓器を、それこそ嬲るように優しく、労わるように生々しく、つつき、くすぐるのがわかる。
それだけで、文字通りに血を吐くような苦痛が全身を貫いた。
「何、逃げてきてンだ、オメエ。おまけに、逃げた先がオレのとこってのは何のつもりだ、オメエ。死にてえのか。殺してほしいンならそう言えオイ」
「ぎ!がっ!あぎっ!ぐぎゃぁっ!」
「失せろ、稚魚」
「が」
そこから、転落し落下が止まるまでの記憶は曖昧だった。気づけば階段の途中でうずくまって震えている。
「俺を……」
続く言葉は、言葉にならなかった。
頭を抱える。落ちたくないと無様にかけた爪は剥がれて、血が流れている。涙も、階下へと流れていく小水も、何もかもが、自分から抜け出ていくようだった。
――いっそ、殺してくれ。
その言葉は、声にならない。
階段を、靴音と心配げな声が駆け上がってくるまで。
汚水と失望感に塗れたまま、ただ、愚かな子どものように泣き続けた。
ハリボテを剥がされたナツキ・スバルの残骸は、泣き続けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二層の階段下で発見されたスバル。
満身創痍のその姿を見てエミリアは悲鳴をあげたが、深刻なのは外傷ではない。
心の傷こそが、記憶の喪失こそが。最大の傷だった。
ナツキ・スバルは記憶を失っている。
錯乱し何もわからず二層へと進んでしまい、レイドに叩きのめされて階段から落とされた。
それぞれが記憶を失ったスバルへと反応する。
憂いを帯びた銀髪の少女。
その隣にいるのは現実を受け止めきれない幼い可憐な少女。
相槌を打つ余裕もなくしているのは、優麗な面持ちの騎士。
汚物を片付け毒づく少女に言葉ほどの敵意はなく、あるのは縋り付くような心細い色だけ。
老人は静かにスバルを睨んでいる。
どの反応も、大きく分ければ、スバルがすでに見過ごした反応だ。
「へ」
笑えてくる。
自分が、同じ状況を――否、同じ時間を、三度繰り返している事実が。
一度見た光景を二度見た。そして、三度目が訪れるに至り、スバルはようやく、自分が置かれた状況を正しく把握していた。
――自分は、二度死んだのだ。
ようやくわかった。スバルの力は『予知夢』なんかじゃない。
死んで、舞い戻る。――『死に戻り』だ。
「へ」
周囲の声に耳も傾けず、二度目の笑みが漏れた。
笑う以外にできることがない。涙は、正直、涸れ果てた気がする。
…
……
……!!…!
スバルを信じようとか。信じられないだとか。
赤の他人たちが意見のぶつけ合いをしている。頼むからいないところでやってほしい。
どうあれ、自分には選択肢はない。率先して、この状況を果敢に乗り越えようとする気力など、今のスバルには持ちようがなかった。
「……レムが、可哀想だわ」
瓜二つの、眠り続ける少女を背負い、部屋を出る前に彼女はスバルにそう言った。
その言葉の真意がわからない。わかりたいとも、思えない。
そんな目で睨みつけられる謂れはない。
「一人きりで、蹲ってなんかさせないのよ」
部屋を出る前に、幼い少女が優しくそう語りかけてくれる。
「……ぁ」
そんな彼女が伸ばした指を、スバルは反射的に避けようとした。
その身じろぎを見て、特徴的な紋様のある少女の瞳が痛ましく揺れる。
「――――」
他人だった。
彼女たちはどこまでいっても、他人なのだ。
しかし、それはスバルにとって、彼女たちが他人なのではない。
彼女たちにとって、ここにいるスバルが他人なのだ。
「俺は、御免だ……」
信頼も殺意も期待も敵意も、何もかもが理不尽だ。そんなものは知らない。俺の知ったことじゃない。
一人になって数時間、スバルは壁に背中を押し付け、じりじりと立ち上がる。
「――ッ」
もの寂しげな黒いトカゲの鳴き声がかかる、けれど無視した。爬虫類に感情などあるものか。
砂漠を越えるには準備がいる。水と、食料の場所は覚えていた。その物資を前に少し迷う。
ここにいる奴らの誰も信用なんてできない。全員が敵かもしれない。だったら、食料も水も全部持って行ってもいいはずだ。
けれど、スバルにはできなかった。
自暴自棄になっても不自由な半端者。ハリボテのメッキが剥がれてもまだ取り繕ろうとしている。
もう、なんでもいい。
優しくされたかもしれないが、偽りかもしれないのだ。
心配してくれたかもしれないが、その裏では殺意の刃を研いでいるかもしれないのだ。
間違っている。こんな場所にはいたくない。こんな場所にはいられない。
ここは自分のいるべき場所じゃない。誰が背中を押してくるのだ。ならとっとと逃げてしまおう。
そしてスバルはまた失敗し続ける。
なに一つ上手くいかないまま、落ちていく。
深く深く、深い、サラサラとした闇へと落ちていく。
ひゅうん、うん、うん。いつになったら落ちきるのかな。
「これまでのところで、どれくらい落ちたのかしら。」と声に出してみる。
「地球のまんなかあたりには来てるはずね。ええと、6400キロの深さだったかしら――」
『不思議の国のアリス』より