亜人:ゼロから始める異世界生活   作:ZAT23

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【FILE:138】吐き気

 

 

――考えろ。

 

考えて、考えて、考えて、考えて、考えなくてはならない。

 

「――――」

 

考え込むと、吐きそうになる。

殺意がぶり返して、今にも誰かを襲いたくなる。

 

その度にざらつく鱗の感触に全身で抱きついて心を落ち着かせつつ、ナツキ・スバルは思考する。

 

自分の身に起きている出来事、塔内でいったい何が起ころうとしているのか、自分を殺そうとする人間、自分以外の誰かを殺そうとする人間、そしてあの肉塊を作った何か。最後にスバルを撃ち抜いた誰か。敵と、味方の区別――。

 

「――ええと、心配かけて悪かった。ごめん、超謝るよ。なんか、寝惚けて女の子に抱き着くってのも俺のキャラじゃないし、これも照れ隠しってことで」

 

吐き気で硬くなった頬を柔らかくして、スバルは弛緩した笑みを浮かべてそう答える。

求められている『ナツキ・スバル』を演じなくては。

 

彼女たちと対話をこなし、どうにか切り抜けてようやく一息をついた。

 

スバルは首筋を撫で続けていたトカゲ――否、パトラッシュへと振り返り、

 

「……ホントに、お前だけは特別枠だよな、パトラッシュ」

 

「――――」

 

小さく喉を鳴らして目をつむる、黒い地竜の頭にスバルは額を合わせた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

一つ、振り返ってわかったことがある。

この前の地下の悪臭とそこで芽生えた殺意と激情。

 

あれは、ちょっとおかしかった。あそこまで感情的になるなんてあの臭いには気をつけるべきだろう。

 

それはそれとして、塔の中の怪しいものたちは全員殺すべきだし、そうするが。

 

今回、スバルは意図的に、前回までとは違った行動を取ることを心掛けている。

すなわち――自分が記憶喪失であることを、エミリアたちに打ち明けていないのだ。

 

「――――」

 

『ナツキ・スバル』をトレースしながら、何が起きるか逆に見極めるためにまずは潜む。

 

この塔で何が起きて、誰がスバルを殺し、誰が誰に殺されるのかを『ナツキ・スバル』を隠れ蓑にして見届けてやる。

 

スバルは初めて冷静に彼らを眺めた。

 

エミリアは恐ろしく整った外見に反して、異常に馴れ馴れしい。きっと誰からも優しくされ、愛されて育ったために人に壁を感じていないのだろう。

苦労知らずの箱入り娘――そんな印象を持てば、この距離感にも納得がいく。

辛い目に遭ったり、後悔の一つも背負ったことがなければ、他人の善心だけを信じて、綺麗な目をしたままでいられる。

 

とはいえエミリアは、正直かなり犯人の目は薄いと思う。

 

なぜなら彼女はあの中にいた。歪められたが、この瞳の色とその周りの特徴もスバルは見逃していない。

他にも探せばいたのかもしれない。けれど、アレには近づきたくなかった。

 

ベアトリスがあの人の塊を作ったなんてあり得ないが、スバルの曖昧な記憶の中では自分を押した手は小さなものだったと思う。

 

落としたものは女か子供ではないかと疑っている。

 

ゴドフリーやヴィルヘルムではないだろう。それくらいは確信できる。

 

 

『――次、当ててみよ、英雄』

 

知らない声が、最後にスバルにそう言ったのを覚えている。

激動の最中、混乱の渦の中、もう終わってしまいたいと絶望する中で、聞いた声。

しわがれた老人のような声が耳に残っている。

 

あれが、犯人に協力する第三者――それとも別の勢力か?

 

 

 

「いや純粋に、あの最後に出てきた奴が犯人ってことなのか?」

 

あれが、スバルを殺したことは間違いない。

しかし、塔を呑み込んだ影や、皆を固めたのが全部あの声の犯行なのか。

そうだ。シャウラを切ったのは誰なのだ。

 

皆が、何かに襲われたのは疑いようがない、はずだが。

 

 

疑念が渦巻き、吐き気が増していく。

 

どれだけ気分が悪くとも、スバルは通常通りのはずで。それなら朝食は食べないといけない。

全く気が進まないが、死ぬよりマシだ。どうにか食べようと意気込む。

 

準備の最中。スバルとエミリアのなんともないやりとりを見てラムがなじる。

 

「いやらしい」

 

「なんでだよ!」

 

スバルを庇おうとしたエミリアに、ラムがひどく俗悪な印象で物を言った。それを払拭しようと突っかかると、余計に立場が悪くなる。まさしく悪循環。

 

「ハッ!」

 

そう鼻で笑い、ラムは配膳の方へと意識を戻した。その後ろ姿を眺めながら、スバルは自分の、今の態度が違和感を与えていないようだと密かに安堵する。

まだ、彼女たちの知る『ナツキ・スバル』から乖離した態度は取っていないらしい。それにホッとする反面、呆れもする。まさかこの暴言が普段からのコミュニケーションとでも言うのだろうか?

 

そうやって、少しでも意識を別の方向へ傾けておかないと――、

 

「うぷ」

 

一瞬、込み上げてきた嘔吐感を堪え、スバルは口に手を当てる。

 

「――――」

 

 

何一つ吐き出すこともなく、平和のうちに朝食は終わる。

 

ヴィルヘルムがじっとこちらを見ていたことは気がかりだが、それでも何も指摘されずに乗り切った。

 

誰かの秘密が暴露されたこともない。誰かが記憶を無くしたという事件もない。

これからどうやって二層を攻略するのか。それだけに集中しつつ歓談する平和な時間が過ぎる。

 

 

スバルはずっと笑顔で吐き気を抑え込んでいた。

そして、ずっと一同を見ていてわかったことがある。

 

エルザは常に、戦うような姿勢で警戒をしていた。

ヴィルヘルムは油断をしていない。

 

カルステン陣営の者たちだけは、スバルに優しい言葉も態度も取らなかった。一定の距離感がある。

 

そして、一番孤立しているのは…

 

食後、シャウラが一人になったところを見計らって声をかける。

 

「なぁ。シャウラ。お前は何ができるんだ?」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「それで、どんな用件かな?みんながいるところではできない話のようだけど」

 

「ああ、ちょっとな。例のバルコニーまで来てくれるか?」

 

「昨日の今日でまたあそこに誘うのかい?まぁいいさ。鳥について何か判明でもしたのかな」

 

「ああ、その辺りも。見てもらった方が早いし確かだよ」

 

「その誘い文句は、僕への当てつけかな?旅前に言った言葉を引き合いに出すとは、君らしからぬ皮肉な物言いじゃないか」

 

それはエキドナの中では十分に冗談めかした言い方だったが、現在のスバルにそんな余裕はない。

疑われたと少しでも感じると、汗が止まらなくなる。息が止まる。

 

だから、答える前にバルコニーに到達できて本当によかった。

彼女だけは、孤立していた。精神的にも、物理的にも。

 

ユリウスが気に掛けているようであったが、レイド攻略についてとなれば彼の意識はそちらに振り切る。

誰も、エキドナの心配をしていない。彼女は誰とも親しくない。

 

スバルよりも孤独な人物がいたのだと、どこかで安堵する。

 

「じゃあ。ごめんな」

 

そう言い切る前には、白光がエキドナの頭を吹き飛ばしていた。

 

後ろに仰け反り、グラリと傾いた体は、そのまま砂界へと落ちていった。

 

あの浮遊感と地面が近づく絶望を味わうことがないだけマシではないか。そんな言い訳を心中でしながら塔へと戻る。

 

 

「お師様!お師様!上手くやったッスよ〜褒めて伸ばして欲しいッス!」

 

 

そう言って抱きつくシャウラの表情に翳りはない。

 

スバルがやれと言ったのに、その殺人に一切の忌避感を感じていない様子に心のどこかが離れていく。

 

あんまりだろうと思うが、心はそれでも素直に恐れていたのだった。

 

それでも、こいつを労わなければ。彼女がスバルの盾であり矛。そして味方だ。

失うわけにはいかない。

 

容疑者を消していってどうなるか。これこそが本当の消去法である。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「――ん、あ?」

 

ふと、スバルは奇妙な意識の閉塞感から解放され、自分の首を押さえた。

息苦しさ、いがらっぽさのようなものが喉にあって、咳き込む。

 

「げほっ、げほっ……」

 

喉に触れながら、スバルは渇きに痛むような感覚を味わいつつ、何度も咳をした。

そうして、不意に気付く。

 

「あれ、俺は……」

 

――何をしていたのだったか。

 

確か、そうだ。エキドナを殺すことに成功したんだ。それでシャウラを労って、他のやつも殺してやろうと――、

 

「いてっ……」

 

考えながら、自分の腕をさすったスバルは鋭い痛みに舌を鳴らした。

見れば、スバルの手――それも両手だ。右手と左手の両方、手首の上あたりに引っかき傷のようなものが刻まれ、痛々しい血が滲んでいるのがわかった。

 

「づっ、なんだこれ……!」

 

傷は結構に深く、しかし、傷口自体は歪な印象だ。

 

「――ぁ?」

 

痛みに顔をしかめながら、何か宛がえるものがないか、スバルは周囲を見回した。そして、自分が四層に多数ある、似たような石造りの一室にいることに気付いて、それから、それに気付いてしまった。

 

「――――」

 

床に、白い足が投げ出されている。

足は動かず、だらりと力が抜けた状態だ。視線を、その露わになった足先からゆっくりと上へ向けていくと、すぐにホットパンツがあり、あまりに布面積の少ない上半身が見えて、それから。

それから――、

 

「――は?」

 

それから、そこに、ぴくりとも動かなくなった女が、倒れていた。

 

 

――シャウラが息絶えた状態で、スバルの眼前に倒れていた。

 

 

 

 

石造りの部屋の中、スバルはだらりと四肢を投げ出した女性を目の前に、呆然と自分の両手を見つめていた。

 

 

瞬間的に意識を取り戻し、我に返る。

 

「――っ、ま、まだ。まだ間に合うかも…」

 

呼気を乱しながら、スバルは頭を振り、仰向けに倒れる女の下へ駆け寄った。

一歩、踏み出すことに足が重く、靴裏が床に張り付いているかのように行動は鈍い。どうにか靴を床から引き剥がし、女の――シャウラの傍らに屈み込んだ。

 

「――――」

 

シャウラは微笑んでいるような表情で、白く細い手足を投げ出してぴくりとも動かない。

その目尻からは涙が流れていて、穏やかな表情とミスマッチな違和感を生んでいる。

 

まるで、泣きながらも死を笑顔で受け入れているような。そんな顔。

 

「シャウラ……おい、シャウラ!」

 

呼びかける。反応はない。

 

声でダメならばと、スバルはシャウラの肩を揺すり、掌で頬を軽く叩く。

やはり反応はない。開かれた瞼は瞬きすらしない。

 

「し……」

 

呼びかけを中断し、スバルは息を詰めると、記憶にある限りの蘇生処置を試みる。

 

「はっ……はっ……!シャウラ!おい、シャウラ!」

 

「――――」

 

「クソ!」

 

返事はない。青白い顔で、女の体が力なく揺れる。

その様子に悪態をついて、スバルは彼女の首を傾け、気道を確保すると人工呼吸を試みた。

 

何回やればいいんだ?これで合ってるのか?これで、生き返るものなのか?

 

「あとなんだ。あと何がある。何がある何がある、クソ、クソクソ、クソ!」

 

必死に記憶を手繰り寄せ、スバルは他にできることがないか懸命に足掻く。

だが、所詮はテレビで中途半端に得た知識か、聞きかじりの生兵法でしかない。必死になればなるほど、霞の中に腕を入れるような徒労感がスバルを苦しめる。

 

幾度繰り返しただろうか。無駄だと、唐突に感じてしまった。

これは、死んでいる。

 

死体に触れているという自覚が芽生えると、それ以上はもう続けることはできなかった。

体力の限界でもあったと思う。そう、願う。

 

「――ちく、しょう」

 

額に汗を浮かべ、荒く呼吸を乱しながら、スバルは地べたに背中から倒れ込んだ。

 

「はぁ、はぁ……クソ、クソぉ……!」

 

シャウラの細い首には、痛々しい青黒い痣が残されていた。

 

「――――」

 

無言で息を整えながら、悔恨を抱くスバルは自分の掌へと目を向ける。

直前まで、シャウラの命を救おうと懸命に足掻いていた両腕

 

「――――」

 

体を起こしたスバルは、シャウラの姿を整えてやる。

ほとんど半裸に近いがそれでも乱れた服を直し、両手を胸の上で組ませ、ぼんやりと開いた瞼を閉じてやる。

 

そうして形だけでも死者に敬意を払うと、気づいたことがある。

 

それを自然確かめる。確かめてしまった。そっとその、細い首に手をやった。

嫌な怖気を覚えながら、シャウラの首に残る青黒い痣に指を這わせる。

 

「……ぴったり、だ」

 

力なく、意外性もない、渇いた呟きが事実だけを音にする。

 

シャウラは、首を絞めて殺害された。

そして、その犯人は他でもない――、

 

「――ぅ、げぉ」

 

その動かし難い事実に気付いた途端、嘔吐感がスバルの喉を駆け上がる。とっさに顔を背け、スバルは横へ転がるようにして、シャウラの亡骸を汚すことは避けた。

溢れ出るのは、ほんの少し前に胃に入れたばかりの朝食だ。それを盛大に床にぶちまけて、スバルは胃の中が空っぽになるまで嘔吐すると、

 

「……意味が、わからねぇ」

 

その事実を真正面から受け止めたスバルは、己への無理解を言葉に出す。

 

「死んだ。それも、俺が首を絞めて……?なんで俺が、そんな……」

 

両手を見下ろせば、記憶にはないのに生々しい感触が掌に蘇る気がした。

 

その左手には血が垂れてきている。

 

じくじくと、痛む自分の腕を見下ろし、スバルは嫌な予感と確かな違和感に唇を震わせる。

 

そして、結構な量の出血がある自分の左腕を見て、呑み込んだ息を吐き出した。

 

「――――」

 

そこには想像した通り、自分の右手で刻んだと思しき引っ掻き傷があった。肘の内側から二の腕にかけて刻まれた痛々しい傷は、しかしただの傷跡として完結しない。

 

文字だ。

それは、爪で肉体に刻み込まれた、歪な文字だった。

そこには、こう刻まれている。

 

――『ナツキ・スバル参上』、と。

 

吐き気がずっと胸の内で暴れている。

 

腹の底から出てこようとしてくる。

 

吐き出したい。全てを吐いてしまいたい。

 

 

酸っぱくて喉が焼けるような嘔吐感を飲み下して抑え込み。スバルは疑念に押し潰されそうになっていく。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

殺害現場の隠蔽、それもシンプルなものだった。

というよりも死体を落とせば終わりなのだから。

 

アナスタシアが落ちたはずの遠い地上、そこに砂漠から黒い点が集まっているような気がして、それから目を逸らした。

まるで角砂糖に群がる蟻を見るような気になって、吐き気が襲ってくる。

 

逃げるようにスバルは部屋を出る。

それから通路の左右を窺って、ゆっくりと現場を離れようと――、

 

「――あ、スバル!よかった、ここにいたのね」

 

「――っ!?」

 

不意の呼びかけに肩を跳ねさせ、振り返るスバルの下にやってくるのはエミリアだ。

 

「ごめんね、驚かせちゃった?」

 

「――。お、どろいた。驚いたけど、それは、まぁ、なんだ、あれだ。いきなりだったからってだけで、全然平気。エミリアちゃんは、どしたの?」

 

平然と対応するが、できているのだろうか。もはや自信など存在しない。

スバルの体調と調子を心配し、その手で触れて熱の有無を確かめる彼女の健気さは、先ほど人を殺したスバルには眩しすぎた。

 

「――そういえば、シャウラのことなんだけど」

 

「――っ」

 

ひゅっ、と喉が鳴り、スバルの目が見開かれる。バレている?全ては罠だったのか?

 

そんなスバルの様子に気づかず、エミリアは微かな躊躇いを覗かせたあと、

 

「シャウラのこと。もしかしたらヴィルヘルムさんたちが攻撃しちゃうかもしれないの。エルザが、レイドの攻略法を思いついたみたいでね。それはすごーくありがたいんだけど、やり方が乱暴になっちゃうみたい。きっとシャウラのルールを破ることになるだろうって。このまま普通に攻略ができなかったらそういう選択肢もあるって、そう言うの」

 

憂いを帯びた表情は、スバルへの疑念などはどこにもなく。

 

「でもね。私は、シャウラと戦いたくないの。だって400年もここで一人でずっと誰かを待っていたんでしょう。スバルがお師匠様じゃないかもしれないけど。あの子の終わり方が、こんな方法なんて嫌。間違ってるって。そう思うのよ」

 

まっすぐな瞳が希望を語る。美しく、優しく、気高い思いやりがそこにはあった。

今のスバルにはあまりに眩しく、直視できない。

 

 

笑える。

 

本当に笑える。

 

なぜだろう。この無垢で無知な、高潔なものを汚してやりたい衝動に駆られている。

きっとスバルは、あの地下でおかしくなったのだ。そういうことにしてしまおう。

 

聞いてやりたい。――エミリアがこれだけ熱を込めて語り、思い悩んでいるシャウラはこの手が殺したけれど、それでも君は、俺にそんな笑顔を向けるのかと。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

「え?」

 

「くだらねぇって、そう言ったんだよ。自分でもわかってたはずだろ。こんな状況で、誰かのことなんて心配してる場合かよ。それもこの前あっただけの他人だろそんな奴をなんで…」

 

「――――」

 

感情的に罵って、スバルはすぐに自分の発言に唇を噛んだ。

くだらないことを言ったのはどっちだ?言っても仕方のないことを、ただ怪しまれるだけの発言を、その場の勢いと感情に任せてエミリアに叩きつけた。

 

それを――、

 

「スバル!」

 

「ぶ」

 

「急にどうしたの。機嫌が悪くても、そんな言い方したらダメじゃない」

 

「――――」

 

驚き、愕然として、そのまま傷付く感情のままに俯くと、涙を流して嗚咽する。

そんな反応を予期したスバルを蹴散らすように、エミリアはスバルの頬を勢いよく両手で挟み込むと、真っ直ぐな目でこちらの黒瞳を覗き込んできた。

 

「――ぁ」

 

「不貞腐れて、辛い気持ちならちゃんと話すの!私でも、ベアトリスでもいいわ。スバルが困ってるなら、私だって一緒に困ってあげる。でも、一人で抱え込んで、一人でむしゃくしゃして、一人で終わりにしちゃうのはやめて。そんなの、悪かった頃のロズワールみたいじゃない。真似しちゃダメよ」

 

呆気に取られるスバルの顔から手を離すと、ぐいっと頭を引き寄せた。

そして、自分の胸の中にスバルの頭を抱き入れ、優しく撫でる。

 

「わかってくれる?私の心臓、全然怒ってないから。幻滅もしないから、話して」

 

「――――」

 

押し付けられた柔らかな感触、温かなその向こう側に、命を刻むリズムを感じる。

それが、まるで赤子に聞かせる子守歌のように優しくて、スバルは息を詰めた。瞬間、スバルの心に湧き上がったのは、強烈な恥の感情だった。

 

ここまでしてもらって、あれだけ酷いことを言って、それでもなお、優しくて。

そんな彼女を、疑って、闇雲に憎んで傷付けて、何の意味がある。

 

この、塔の中に、悪い人なんか誰もいなくて。

 

一番、心が汚くて、醜くて、危険なのは、ナツキ・スバルと『ナツキ・スバル』、本来ならいなかったはずの異分子だけなんじゃないのか。

 

「エミリア、俺は……」

 

「――うん」

 

「俺は……」

 

何から伝えればいいのかわからない。

ただ、伝えてしまおうと、打ち明けてしまおうと、さらけ出してしまおうと思った。

 

「――エミリア様!バルス!」

 

ぐしゃぐしゃの頭の中身を、何とか絞り出そうとした瞬間だった。

相手を確認したエミリアが「ラム」と呟くのが聞こえて、

 

「どうしたの?今、スバルとすごーく大事な話をしてて……」

 

格好の悪いところを見られた、あるいはタイミングが最悪だと、膨らむ感情のままにラムにぶつけてやりたくなる。

それを反省したばかりなのに、すぐに立て直せない自分が本気で恨めしい。

 

しかし、ラムの様子は、抱き合う二人をからかったり、それを見られて感情の行き場に窮したスバルを慮ったり、そんなことをする余裕はなかった。

 

「ラム、どうしたの?」

 

「……死者の書が。見つかりました。アナスタシア・ホーシン様のお名前が書いてあるものが。すぐに三層の、書庫へお越しください」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

スバルは必死に頭を回転させていた。

いかにしてこの状況を離脱し、真実を自分のものだけに留めるかそれを為さなければならない。

 

エミリアたちにアナスタシアの記憶を見られてはならない。発見したベアトリスが見ていなかったのは僥倖だが、それも時間の問題だ。

そして何より、

 

――スバルも、本の内容には強い関心がある。

 

というか、これが目的だった。

ゆっくりと本を一人で探すつもりがとんでもない状況になったが、なんとしてもこの本はスバルが読まなくてはいけない。

 

だって、そうしないと。無駄になる。

 

人を殺したのだ。やり直せるとはいえ、殺した。

死者の書を読むことができれば、その死は必要な死だったということになるのではないか。

 

そしてスバルが犯した罪を隠すためでもある。

 

もう一つ。スバルは『ナツキ・スバル』について知りたかった。だからこれをスバルが読みたい。

心からそう願っている。

 

 

落ち着け。

そのためにも、この場でエミリアたちに本を読ませず、スバルだけがこの本の内容に触れる方法を――、

 

 

カルステン陣営の者たちもゾロゾロとやってきた。

 

ユリウスは到着してその本を認めると、すぐに塔の捜索へと走り出した。

こちらの制止も聞かずに書庫から走り去る様は、まるで逃げ出すように見えて、親近感を感じてしまう。

 

 

スバルがどうにも場を動かせずにいると、それぞれから意見が上がってくる。

途中で気づいた。何も、自分から誘導などしなくても、こうして膠着していれば…

 

メィリィがあまり興味もなさそうにそう言った。

 

 

「ねえ。その本を読んだらいいんじゃないのお?なんでそんなことで言い争ってるのよお。それ見ればわかるなら、すぐやればいいのにい」

 

出てきた意見はどれも一長一短。決定打はない。となると当然、こう言ったことを言い出すものがいる。

 

「死因の特定は重要ね。私も賛成させていただくわ。誰が読むかは少し議論が必要かもしれないけれど」

 

エルザがそこに合わせて話を進めていく。

 

「あの様子では、ユリウス殿には重荷でしょうな。とはいえ、我々は陣営を違えるものたち。スバル殿は、どう思われますか?」

 

鋭い視線がまるで切るかのように、スバルを見た。

 

「え〜。だってお姉さんが死んじゃってるならもう対立候補とか関係なくなあい?」

 

直後のメィリィの失言がなければ、スバルはその視線を不自然に切っていたかもしれなかった。

 

「メィリィ!そんな言い方は!」

 

そう反射的に言って、自分で自分が信じられなくなる。

そんな言い方は。なんだ?俺が何を?誰に説教垂れようとしてるんだ?

 

はは。だめだ。笑える。

 

スバルがそれきり話さなくなると、議論はまた舞い戻る。

 

「一度死者の書を体験した者がもう一度読む。それが最も安全ではなくて?」

 

エルザの提案に、誰もが有効な反論ができない。

 

そして何より。スバルがそれを望んだ。

 

議論はされるが、それが最善である可能性が高いと結論づけられた。

仮に何かおかしくなったとしても、スバルならば実力的に抑えることが容易だというのが大きな理由だった。

誰も、『死に戻り』を知らないのだ。そうなるのもまた流れとして自然だった。

 

そして、スバルは本を手に取る。

敵を知るために。味方を知るために。自分を知るために。

 

「――いく」

 

自らに言い聞かせるように、呟くスバルが本を開いて――意識が、暗転する。

 

はじめの一歩を踏み出すような心地で、アナスタシアの記憶の中に飛び込んだ。

 

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