戦いが、始まった。
「母よ。塞いでおくれ」
『暴食』がつぶやくと、意外なほどにカペラが従う。宝石頭が、いや輝石頭の詠唱が光を生み出す。
輝く二つの流星が、まるで螺旋を描くようにゆっくりと進行する。
空間を埋めていくように、魔法にしてはゆっくりとしたそれを複数解き放ち、後方の逃げ場がなくなる。
ならば前方はどうか。
色欲が対話をやめて、こちらを殺すためにその身を整える。
下半身がまるでタコのように広がり、枝分かれ、そして通路を塞いだ。
後ろの魔獣たちはきっとその触腕で対処しているのだろう。
この盤石な盤面は、やはりこれまでの大罪司教たちには見られない類の堅実さだ。
勝つのが当たり前。適当に楽しもうという姿勢が。
負けないように、最善を尽くす。まるでまともな人間のような動きに変わる。
『賢者』はやはり『色欲』に何かしているようだ。
まずい。非常にまずい。
この塔の材質がなんなのかわからないが、ケイの火力では破壊はできない。
おそらく、輝石頭の普通の魔法でも壊れないだろう。
先ほどの『創星雨』は部屋を削っていたが、あれは規格外だった。
最後の賭けだ。
スバルを抱えて、IBMを盾と矛にして『暴食』の方へ。後ろへと突破する。
追加の詠唱はどうにかケイの『叫び』で止める。
こいつらが人間かどうか非常に怪しいと思う。
それでも効いてくれよという。もはや祈りに近い状況で、行動をしなくてはいけない。
本当に嫌だ。でも、やるしかない。
あの時の賭けよりはマシだ。
そう思って、体に力を入れようとした時。それは聞こえた。
「オイ。邪魔してんじゃあねえぞオメエ。誰の道塞いでンだオメエ」
声と共に、世界が斬られた。
そう錯覚するほどの斬撃が、空間を塗りつぶす。
通路を塞いだカペラの体が千々に刻まれ、残った胴体に強烈な蹴りが叩き込まれる。
ケイとスバルを飛び越して後方へと吹き飛んだカペラは、対空していた螺旋の流星を全てその身で受ける。
切り刻まれ、蹴りで胴体はひしゃげた上に、魔法を食らったボロ切れのような状態で、プスプスと煙を上げるカペラのことを誰も見ていなかった。
そこにいたのは、まるで赤い炎。
見知ったそれと似た熱量だが、それでも全く根本が違う。
ラインハルトの熱は、赤熱した刀剣のような熱さだった。
これは違う。荒々しさが、丁寧さが、人である気もしない。
触れるものを炎上させる。爆ぜる溶岩のような男がそこにいた。
手にもつのは箸のみ。
剣呑な目を滾らせて、進行方向にいる邪魔なものを切るように眺めた。
また、状況が変わった。より最悪を更新する。
魔獣たちを惨殺し、そして魔獣が一歩引くほどの剣気を迸らせるのは間違いなくレイド・アストレアなのだろう。
後方には『暴食』と『色欲』。前方には『初代剣聖』さらに後ろに魔獣の群れ。
どうにか、する。剣聖を使って事態を突破する他ない。言葉を慎重に選べ。
全力で考えろ。そして迷うな!
「僕たちはk…」
「オメエ。調子のンなよオイ。一体誰使おうとしてンだオメエ。身の程弁えろオメエ」
ケイの言葉は途上で途切れた。いや、切られた。
首を落とされ、意識が消える。
次の瞬間には、復活した。
「オメエそりゃなンだ?わけわかンねえ事してくれてンじゃねえぞオイ」
即座に殺されはしたが、まだ交渉の余地はある。
触れられれば1発アウトの後ろの連中よりだいぶマシだ。
いくら殺されようと、諦めなければ…
「こっちは今機嫌が悪いンだよ。見てわかンねえのか?わかンだろ。察しろよオメエ」
箸を、まるで剣のように構えて、宣言する。
レイドが、構えた。
スバルも初めて見るそれは、これまでの怖気を軽く上回るほどの威圧感が迸る。
その姿を見るだけで生き物としての本能的な警鐘が鳴り続ける。
「次は、斬ってやンよ」
その宣言と殺意を受けて、全身から血の気が消える。体が震え、汗が止まらない。
ケイだけではない。この場の全てが。レイド以外の全てがその恐怖に体を止められている。
魔獣ですら、身動きが取れていない。
これは、まるで…
フラッシュバックする。
奈落へと落ちる浮遊感。自分のために奈落に消えた二頭の戦友。
そう。まるであの大瀑布のような、この世の全てを無に帰すあの終焉。
あれと同じような威圧感が人間から出ている。
冷や汗が服の中でも滴り落ちる感覚がした。
ダメだ。絶対にダメ。これは試せない。
新たな制約が追加される。
『本気のレイドに切られてはいけない。』
無理だろ。これ…
物理的な距離は関係ないらしく、先ほどは5m以上は先から切られている。
つまり、こちらに干渉するような行動をすれば殺すという宣告だ。おそらくそれは達成されるだろう。
考えろ。考えろ。考え…
再び、魔法が飛んでくる。
IBMを盾にして、どうにか防ぐ。
威力が弱い。
暴食を見れば、カペラに姿を戻してもらっていた。
少年の姿となって体を確かめ、恍惚に浸る『暴食』は魔法による嫌がらせに終始する。
レイドはなぜかこちらを眺めているようだった。用がないならとっとと過ぎ去って欲しいのに。誰も思う通りには動いてくれない。
このままじゃ、ジリ貧だ。どうにか後方を突破しようと思った時に、再び状況が変わる。
ドン。という地響きのような、直下型地震のような一撃が、床から伝わる。
その瞬間には、『暴食』も思わず詠唱を止めていた。それほどの怖気が、世界に満ちる。
瞬間。床が割れて、下から黒い何かが伸びる。
あの大瀑布に持って行かれた時と同じあの手。
再びのトラウマが迫り来る。
腕はゆっくりと蠢きながら、何かを探すように空をかく。
その動きには迷いがなかった。明確な意思があった。
それはナツキ・スバルを求めている。
そして―― もう一本、さらに もう一本。
次々と影の手が床を突き破り、闇の奥から何かが這い出ようとしているようで。
待ち人の帰還を歓迎するような手つきでもある。
絶望が、まるで影の手に掴まれたように一同の心に絡みついて離さなかった。
その手が無数に次から次へと増えてく。下から上へと登りきり。
一拍おいたのち、向きを変えてこちらに迫る。
恐怖を噛み殺し、動かぬ体を受け入れて。
どうにかIBMでスバルと自分を投擲させて範囲からはなんとか逃げた。
「邪魔すンなっつったろが。意味不明なもンばっか来てんじゃねえぞオイ」
そう言って男が箸を振れば、なぜか白光が生まれて、黒い手が薙ぎ払われる。
余波で通路にいた他の四人が転がされるが、それはもう一切気にしていないようだ。
ちなみに今のでスバルを庇ってケイは一度死んでいる。IBMの盾も無に等しかった。
「なんで、なんでおれを守ってんだよ。お前は、敵の親玉で。意味わかんねえよ。なんだよ。この状況…」
思考停止がようやく解けたのか、スバルが混乱から少し復帰した。
「こっちのセリフだ!なんだよ。これはっ…」
なんだ?この状況は。意味がわからない。
もう限界だと思っていた制約が嘲笑うかのように追加される。
『あの女の手に決して捕まるな』
もう嫌だ。
内心の動揺は限界だ。トラウマが刺激され、息があがる。体が恐怖に震える。
魔獣が跋扈して。
知的な『暴食』がいて。
冷静な『色欲』がいて。
機嫌次第でなんでも斬る『剣聖』がいて。
津波のように手を伸ばす『嫉妬の魔女』がいて。
不死の自分をしてこれでもかと致命的な要素が並べられた上で。
そして守らなきゃいけない、狂ったように意気消沈した『
これの全部を、『
バチン
そんな音が、聞こえた気がした。
きっとこの言葉を生み出したものも同じ音を聞いたのだろう。
今ならその表現に共感できる。
そんな器官がケイにあるのだとしたら、足の腱が切れるような。
きっとさっきみたいな猛烈な音を響かせただろうから。
つまりは、こうだ。
永井圭の、堪忍袋の緒が切れた。
混乱がこれ以上なく上乗せされてもはや悪態をつく気力も奪われた。
もう、これしかない。
これしかないという状況に、あまりに救いのない状況に思わず笑えた。
これから行う、頭の悪すぎる賭けの連続を思えば、自嘲気味の笑みがどうしても浮かぶ。
愚行の極地と言える。だけど、もういい。
これ以上は流石にない。どんな要素が追加されても、ここより悪くはならない。
だから、なんでもいい。
最悪の盤面をどうにか混沌へ。
そのためのトリガーを引くため、こめかみに指を当てる。
スバルはそれを見て思った。まるで指で作った銃のようだなと。
もういい。もう限界だ。「
声が重なった気がした。
ケイにだけ聞こえる幻聴。その待ちに待ったという待望の、切望の声が重なった。
世界に、現実に。目の前の光景に悪態をついて自殺する。
もう知らないと。子供じみた癇癪が、光となって頭を撃ち抜く。
その唐突な自殺は、周囲に思考の空白を生んだ。
あのレイドさえも怪訝な表情で眉をひそめている。
何してんだ?こいつと。皆がそう思っていた。
一瞬の空白。誰もがそれを見守る静寂が生まれ、そして。体が倒れて、死体に変わる。
次の瞬間。風が吹く。
ケイを中心に、風が起きる。何かが、彼の中から溢れている。
いや、次の瞬間には吹き荒れて、突風が起きた。
膨大な何かが、奔流となってこの空間を満たし始めている。
見えない。誰もが風しか感じない。
しかし、そこに黒い何かが現れる。
その見た目は異形の人型。頭部は丸くなく、三角に尖っていて体格は大きめでがっしりとしてる。
大きく開く口には牙のようなものが見えていて、人にしては大きすぎる手にはかぎ爪のような鋭利な指先が揃っている異形。
一人二人ではない。
それがまるで、波のように溢れかえる。
ケイを中心に、どころではない。
その風が通り過ぎた空間から生まれ落ちるようで、前後左右。縦横無尽に発生していく。
塔が、黒い幽霊で満ちていく。
その場の全員が聞いた歓喜の産声。
ついにこれが実現した。してしまった。
脳内の幻影ではなく。
魔女の領域という夢のような非現実空間でもなく。
ただ呟きを模倣するだけでもない。
なんの縛りも抑えもなく、あの
最悪で固まった盤面を台無しにするために、百体以上の『佐藤』が降り注ぐ地獄絵図。
その方がマシという、あまりに終わりすぎている状況に投じられた異物。
IBMという体を借りて、無数の『佐藤』が異世界にやってきた。
さぁ。ブチかまそう。