一月ほど前、白鯨討伐に向けての方針転換がなされた頃ケイは戦闘計画を練っていた。
「過去の白鯨討伐記録はあるだけ読みました。そこから定石というものも見えてくる。初手で地に落としそして火力を集中させて倒し切る。それがこれまでの経験から導かれた最適解。そう読み取ることができますね」
「ええ、おっしゃる通りです。我々にとって最大の障壁にして、奴にとっての最大の武器。高さというものを埋めない限り、戦いにすらなり得ない。多大な犠牲のもとにこの順序が導き出されました」
「記録は膨大だけれど、非常に不正確です。あの権能による記憶の混乱が起こった結果、なかなか後世に情報が渡らない。その上で提案があります」
「接近するのをやめましょう。具体的には、接近するのはあなたのような戦力のみです」
「それは、一体なぜでしょう。先ほどの言とは真逆なのでは。この老骨は剣を振ることしか頭にありません。どうかご教授ください」
「まず気になったのは犠牲者と推定犠牲者の数の差です。霧によって消された存在は犠牲者にも含まれず、元々の規模から推定するしかなかった。だからこの数値に乖離はあるはずなんです。ですが、あまり大きくない。特に最新の資料。先の大征伐においては夥しい数の死者が出ていますが、消されたと推測できる数はそこまで多くない」
意図が読めずに相槌が打てないでいる。何が言いたいのだろうか。
「わかりませんか。悪辣な消滅の霧は確かに目立つ脅威です。しかし、実際に人を殺しているのは白鯨の尾ひれであり、口。そしてあの巨体そのものです」
「あの巨獣には他の魔獣と違って、ドクトリン、えーと目標達成に向けての基本原則のようなものを感じます。設計したという魔女はきっと考えたんでしょう。空を飛び、当たれば消える霧を撒けばダメ元でも突っ込むしかない。そこを一網打尽にするのがあの魔獣の定石ではないでしょうか」
「なんと、それは。…我々はすでに魔女の術中であったと?」
「そうですね。落とせばなんとかなると思わされている。白鯨には長期的な戦略的視点が組み込まれているんです。恐らくですが、接近すれば何かしらの方法で以て多くの命を消す手段を持っていると考えていいでしょう。鯨ですからね。しかもハクジラ系っぽいし音を使うと予想していますが、霧と合わせれば何が出るやら。視界を潰して反響定位で索敵くらいなら助かるけど」
「それに過去の戦果報告が嘘でなければ、尋常ではない回復能力があるでしょう。時に欠損までさせていますが、その後に完璧な姿で現れている。いや、それとも白鯨は複数いるのか?でも同時に別の場所へ出現した記録は…」
未知の相手の想定に十分というものはない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そして、時間はスバルと霧を纏う白鯨の目が合った瞬間に戻る。
「やっべぇ!レム!!」
「はい!スバルくん!」
弾けるように走り出す竜車。そしてそれを一瞬の静寂を破り、発狂したように追いかける白鯨。
霧を噴き出しながら、スバルを一心に追っている。ケイは全ての回避を任せ、笛で合図を送っている。霧が出たならやるべきことは事前に合わせており音で伝令をするというのもその一つだ。
ふと、立ち込めた霧の中に巨体が隠れる。
見事に姿が見えなくなるほどの濃霧。これは確かに脅威だ。
次の瞬間、横から強襲を受けた。
地竜に直接乗っているだけならまだしも、竜車を引いていては不意打ちを避けるほどの機動力は発揮できない。獣ながらにそれを知っていたのだろうか。
まぁ。不意打ちならば、だ。
レムは的確に霧中の鯨を補足していた。理由は単純。音である。
差し込んだ槍や矢には重り合うよう鎖や金属片を括ってある。まるで空き缶を引く車のように音で自らの位置を知らしめている。これならそうそう一方的に捕捉されたりはしない。
「よっしゃ!ナイスだレム!このまま離れてっ!?」
好調かと思えばすぐに問題が起きるものだ。
音は遠いかと思えば、質量を伴う轟音と共に、霧の塊が迫っている。
「これがマジもんの『霧』……ッ」
白鯨の恐ろしさについて、事前に討伐隊のブリーフィングで知らされた幾つかの内容。そのひとつが、この破壊を伴う『霧』の威力だ。
白鯨の口腔より放出される霧は二種類あり、ひとつは純粋に視界を覆い、自身の行動範囲を拡大させるための拡散型の霧。そしてもうひとつが、たった今、目の前でごっそりと大地を消失させた消滅型の霧だ。
すんでのところで回避を続ける。ケイも身を乗り出して、竜車にしがみつく。
かなりの綱渡りをしているが、囮は成功している。状況は決して悪くない。
そろそろ霧払いのために退魔石が打ち上げられるはずだ。
「霧が、晴れる!!」
砕け散った結晶石から迸る輝きが、視界を覆い尽くした霧を一気に掻き消す。もっとも、平原の四方を覆い尽くした霧全てを払うことができたわけではない。
全体を薄れさせ、視界確保すら難儀にした状態を解消したに過ぎない。が、それだけでも十分な効果といえる。
白鯨の放つ『霧』は、白鯨の持つマナが変異したものであるらしい。
要するに指向性を与えられ、可視化されたマナの散布が『霧』に当たるのだ。
退魔石の本来の効果は、周囲のマナを強制的に無色のマナに還元、無効化する類の魔石である。
その結晶石を複数、一斉に砕くことで今回のような効果を発揮する。大気中に霧が満ちていなければ、こちらの魔法攻撃の威力すら減衰させる危険な賭けだが。
「いけます!」
レムが答え、魔法が通るということがわかる。そして見ればわかるが、全ての霧を払うには不足だったらしい。
また攻撃再開だ。そう合図を送る時にそれは起きた。
霧の薄まったリーファウス街道に、高い高い咆哮が響き渡る。
変化は劇的だった。
最初に異変が生じたのは、隣に並走していた随伴の小隊だった。
隣を走る地竜から、バタバタと騎乗者が振り落とされている。
スバルの叫びを聞き、異変に気付いたレムが地竜をUターンさせてそちらへ。騎手を失い、右往左往する地竜の中を抜けて、スバルは転落した男たちのところへ。
「大丈夫か!? 落ちるとただのケガじゃ済まねぇって……」
その負傷の度合いを憂慮して声をかけ、スバルは言葉を思わず途切れさせる。
落ちた彼らの状態が、負傷の深度をうかがうといった次元になかったからだ。
泡を吹き、白目を剥いて痙攣している男がいる。呻き声を上げて涎を垂らし、必死に自分の腕を掻き毟って血を流す男がいる。痛みに耐えるように歯が砕けるまで食い縛り、頭を地面に打ち付ける男がいる。
症状は一貫していないが、はっきりとわかることがある。
「これは……」
「精神に、直接……マナ酔いに似ていますけど、もっと悪質な……!」
額に手をやり、苦しげにレムが答える。
彼女のその様子にスバルは「マナ酔い……」と小さく口にして、それからハッと顔を上げると周囲を――霧を見やり、
「まさか、この霧の効果か……!?」
視界を埋め尽くすほどの霧で敵勢を取り囲み、回避不能の状態から全体への状態異常魔法。――その威力と結果はご覧の通りだ。
被害を受けたのがスバルたちの近くの小隊だけであるとは思えない。事実、視界に届く限りを見渡せば、あちこちの一団も同じように足を止めており、
「耐性のある奴とない奴がいるのか……。俺はなにも感じねぇが」
「レムは過剰なマナの密度で少し……今、落ち着きます」
見れば綺麗に半分くらいは脱落している。これは本当にまずい。
深呼吸をし始めるレムをしばし置き、スバルは地竜から降りようとする。霧の影響下にある彼らの下へ。せめて、自傷行為だけでも止めさせようと思うが、それを止めたのはケイだった。
「スバル。戻れ!想定内だ!対応はしている!お前はもう一度引きつけろ!」
「んなこと言ってる場合かよ!こいつら見てもそう…!!」
スバルは動揺している。それは先ほどまで
自分にやれることをやれ。決戦前夜に言われたことを思い出す。
「隊の半分には霧が出たら耳栓をさせてる!事前に説明しただろ!勝手に立て直すから僕たちは囮だ!」
「そうだよな、わかってんだ。だけど、くそ!レム!行けるか?」
「はい。ーーーどこまででも」
「やってやる!無事なやつは耳栓してるし、聞こえてるやつは正気じゃないってんなら遠慮しねぇぞ!」
レムはその大声を心地よさげに聞き、それから両耳を塞ぐ。
「俺は、『死に戻r……」
ケイは、ちょうど治療にフェリスが動いたという音色の笛の音を拾って思考を加速していた。
それを遮るようにそれがまた訪れた。
時が止まる。
あれが、現れた。
『愛してる』
スバルを覆うように後ろから寄り添い。愛を囁く。
あまりにも強い感情に、当てられて吐き気を覚える。
その瘴気、あれは今ならマナであるとわかる。息さえ難しい汚れたマナでスバルを包み込む様子を見て理解した。
自分は本当についでだとわかった。スバルはきっと目の前は何も見えないほど、あの女に深く抱かれている。
あいつは僕に近づきたくはないんだろう。寄ってくる虫を払うように殺され続けていることに気づけた。
逢瀬を垣間見た罰のつもりだろうか。離れる際に、ついでとばかりにケイは指先一つで心臓を掻き回される。
復活した。
あのストーカー。いい加減にしろよ。扱いが違いすぎる
立て続けに虫の如く殺され、怒りが上ってくる。
「レム、どうだ。俺から魔女の臭いは…」
「はい!臭いです!」
「狙い通りだけど、言い方悪くねぇ!?」
走り出す竜車。金属音は確実に後ろから追ってきている。脇目も振らず一直線だ。
「おい兄ちゃん!手ぇ貸すで!」
鉄の牙の団長。リカードが並走し、白鯨へ痛打を与える。
主力の遊撃部隊はここぞとばかりに躍動する。
「ほんまにこっち見いひんな!やりたい放題か。ええな!」
白鯨はなおもスバルを追い続ける。
「りぁぁぁぁぁ――ッ!!」
その隙をついて真横から、跳躍して背に飛び乗ったヴィルヘルムの斬撃が縦に割った。
白鯨の背中の真ん中に着地したヴィルヘルムの刃が深々と肉を穿ち、開いた傷口から噴き出す鮮血が暗い血霧を生む。
そして、その血に濡れる白鯨の背の上を目指す3頭のライガー。その背に乗るのは見た目そっくりな愛らしい子猫の獣人――。
「お姉ちゃん、合わせて!」
「いっくぞぉー、ヘータロー!!」
「やれやれです」
左右から交差するように背に上がったライガー、その背からミミとヘータローの二人が飛び下り、互いに手を取るとヴィルヘルムが作った傷口の上へ。そして、二人は顔を見合わせて同時に口を開くと、
「わ――!」
「「は――!!」」
直後、白鯨が全身の傷という傷から再度出血し、その巨体を激しく震わせて高度を落とし、地面に黒い血溜まりを作る。
苦しげに悶え、痛みに堪えるような声を上げ、かろうじて墜落を逃れる白鯨。その背からライガーにまたがる三つ子が飛び下り、息を切らしながら、
「切り札しゅーりょー!」
「団長、お願いします!!」
「僕は後方に下がります」
「おうおう、任せぃ! チビ共が頑張ったんなら、ワイもやらなあかんわなぁ!!」
降りる二人と交代し、大型のライガーが尾の方から白鯨の体によじ登る。
途上の岩肌を大ナタでめくって傷を生みながら、風のように走るリカードのライガーに霧が迫る。
体の上に乗るヴィルヘルムとリカードを狙うのは、白鯨の体に無数に開く口から吐き出される濃霧だ。一段と色の濃いそれこそが、触れたものを存在から抹消する『消失の霧』と考えていい。
速度自体はかわせないほど速くはないが、なにより口の数だけ弾幕が開かれる。苦心するようにリカードのライガーが身をよじり、ヴィルヘルムも素早い身のこなしで霧を避け、大ナタの一撃と剣の斬撃が白鯨の背の上で踊り続ける。
歪な哄笑を上げる口を縦の斬撃が切り潰し、大ナタが口腔の中を蹂躙して機能を叩き潰す。ライガーの爪も微力ながら攻撃を牽制しており、なにより追いついてきた獣人傭兵団の砲筒が、全身に再び魔鉱石による爆撃の攻勢をかけ始めた。
途上にある口も次々と刃で文字通りに黙らせ、ライガーを縦横無尽に走らせて暴れ回るリカードと合流。犬の顔の獣人は血に酔うような顔つきで楽しげに笑い、
「楽しなってきたわ! 思ったより頑丈やけど、大したことないわ!」
「いや……少々、手応えがなさすぎる」
快哉を上げるリカードに低く応じ、軽いステップを踏みながら背を刻み続けるヴィルヘルムが唇を噛む。
振り上げた大ナタで白鯨の背の突起を剥がし、その内側に平たい先端を突き込んで抉るリカードは片目をつむり、
「なんぞ、不安でもありよるんですか」
「この程度の魔獣に妻が……剣聖が遅れを取ったとは考え難い。あらゆる面で機先を制せたことや、分断されなかったこと、策が的確に決まっていることを考慮しても……」
ヴィルヘルムが刃を振りながら考察する最中、ふいに白鯨が大きく動く。
それまで背に取りつくヴィルヘルムたちを引き剥がそうと、身悶えしていた動きが突如として変化。白鯨はその頭を上へ向けると、一気に高度を上げて空へ向かう。
急激に傾く足場の中、リカードはライガーに指示して器用に岩肌を駆け下り、危険な高度に達する前にどうにか離脱。そして、ヴィルヘルムは、
「降りる前に、もうひとつ貰う――!」
身を回し、軽快な動きで老剣士が巨体の上を跳躍する。
上へ昇る白鯨の体を、下へ飛び込むヴィルヘルムが逆さまに登っていくのだ。体重移動と、刃を突き立てる強引な姿勢制御。長年の経験の蓄積による体さばきで白鯨の体を駆け下り、ヴィルヘルムの斬撃が到達点で大きく縦に振られ――白鯨の背びれのひとつが、いくつもの口を表面に浮かべたそれが根元から吹き飛ぶ。
「――――ッ!!」
白鯨の絶叫を聞きながら、ヴィルヘルムが岩肌を蹴って地に向かう。
超高高度からの落下は普通に考えれば落命必死の場面だが、地面に落ちる寸前で懐からなにかを抜いたヴィルヘルムが真下へそれを投擲――魔鉱石の小規模な爆風が真下から風を生み、ゆるやかな遅滞を得たヴィルヘルムを横から地竜がさらう。
白鯨は傷つけられても再び空へ上がり、特大の霧を落とす。
それだけで多くが死ぬ。
超範囲攻撃に晒されて、一部は明らかに逃げ遅れた。
かなりの数がやられた。でも、状況は悪くない。本当にこれだけなのか?何かあるに決まっている。
落とされた霧の余波で周囲の霧も濃くなってしまい、状況がわからなくなる。
しかし、討伐隊にはまだ余裕があった。音さえ聞けばまだ白鯨は上空にいるとわかる。不意打ちさえなければ噛み付かれることはない。
そして、音もなく白鯨が横から現れた。
先の安心を嘲笑うかのように開かれた大口が真横から襲ってきた。
明らかに避けられない。
「っごめんなさい!」
レムは打ち合わせの通りに、竜車の固定を一瞬で外しケイを囮にして地竜を走らせる。
スバルもそれは承知していた。ケイを犠牲に自分たちだけ生き残るなど到底許せないが、こうすれば白鯨は当然スバルに食いついてくるだろうから。
しかし、なぜか白鯨は竜車に喰らいつく。一飲みにしながら目端でスバルを見ているため、無視はされていないはずだ。
なん、で。なんでだ!?
すると、逆方向から横なぎに尾ひれが迫ってきた。
続いたその不意打ちに、鉄の牙と剣鬼をもろとも打ち付ける。
リカードが乗るライガーが音もなく吹き飛び、剣鬼も霧に消えた。
主力を庇おうと小隊が攻撃を仕掛けるが巨体に押し潰されて幾人も散っていく。
「ケイ!リカードさん!みんなが!くそ!ヴィルヘルムさん!」
スバルは今ダメージを喰らった仲間たちのところへ行こうとしている。
地竜がその意を汲んで鼻を向けるが、レムは必死に手綱を操ってそれを抑える。
「ケイ様と約束しました。自分は死なないからいざという時、囮にしろと!」
「そうだ、けど…」
確かに言ってはいた。消滅の霧以外なら問題ないと。でも食われて無事なんてあるはずがない。
誰が無事なんだ。ケイは死んだ?ヴィルヘルムさんは?
色々な疑問が脳に浮かんだが、それよりも無視できない事実がスバルに訴えかける。
目の前を泳ぐ、リカードたちを尾で薙ぎ払った白鯨。そして、
「嘘、だろ……」
振り返り、ケイを竜車ごと。否、地面ごと呑み込んだ白鯨が飲み込んだのが見える。
目の前と、背後――見上げた上空にはいまだ、空を陰らせる魚影があり、
三体の白鯨がその全身の口を震わせ、哄笑を上げて絶望を掻き立てる。
じわじわ、じわじわと、絶望という名の毒が心に沁みてくる音をスバルは感じていた。
【鯨の放つ音について】
反響定位とは、動物が音や超音波を発し、その反響によって物体の距離・方向・大きさなどを知ること。たとえばコウモリ、またイルカ・マッコウクジラ、小型哺乳類など1000種以上の動物が活用している。
マッコウクジラなどは頭部にメロンという脂肪組織のかたまりをもち、これが鼻腔で発した音波を屈折し収束させるレンズとして機能し、指向性の高い音波の発信にかかわるといわれる。イカなど小魚を気絶させるほどの音量を出すこともあるという。