バドハイム密林と呼ばれるこの鬱蒼とした森をケイは急ぎ進んでいた。
最後にやるべきことは二つある。
その一つ。初めにやるべきはレムとの対話であり、それはスバルのメンタルケアを目的にしている。
レムから冷たい対応をされるたびにスバルの視野は狭まり心は荒んでいく。
それは全体の効率が下がる非常に良くない影響だ。人命に直結する。
レムの状態について考える。
僕も記憶喪失を経験したこともあるし、クルシュは記憶を失いながらも、前を向いていた。
けれど、他にも同じような境遇の人々とこの一年はよく付き合ってきたからわかる。多くは失意に沈み、混乱する。人はそういうものである。
ゴドフリーくらいだろう。一度も憂鬱な態度を見せなかったのは。彼は周囲から忘れられていることを、周囲に忘れさせるくらい気にしていない。根が明るすぎる。
まぁ、他人と症状を比べることに意味はなく、誰かが気丈に振る舞っているのだからお前もというのは暴論である。
ケイは記憶を失った全員とそして陣営に入った全員に聞いていることがある。
それは何より重要な問いであって、今のレムにも必要だと思うものだった。
懸念がいくつかあった。
陣地を抜ける前、スバルが苦悶の表情で告白したのは、今のレムはルイに精神的な依存をしているという事実だ。
庇護者として存在をどうにか保つというのは、まぁ悪くはない。よくあるのではないだろうか。
しかし、相手が悪すぎる。相手は大罪司教である可能性が高く、そうなればか弱い子供などではない。
この可能性を無視することはあり得ない。
レムのことを思って言わないというのは悪手に過ぎる。だが、スバルは言いたくないらしい。
まだ試したこともない様子だった。
ならばケイが言ってやろう。
IBMがテントに近づき中に入ると、レムは飛び上がるように起きてルイを守る態勢になった。
「っ!あの時の人攫いですね。一体彼らをどこへ…」
その一言は、相手を見て途切れてしまう。
いや、相手を見れなくて絶句したのだ。
そこにいるはずの相手が見えない。何か存在は感じているが、見えないのだった。
『伝言だ。臭わない方の男からお前に伝えることを預かっている』
「一体、何を!?なぜあなたが…」
『私は彼らの協力者。ここにいたままでは状況は悪くなっていた。だから密林へと彼らを運んだだけ。彼らは無事だ』
「一体それをどう信じろと?どれだけ無理なことを言っているのかわからないんですか?あの時の抵抗は演技には見えませんでした。大きな声を出してもいいんですよ?」
『スバルは嘘がつけない。あいつには不意打ちでやったまでだ。というか無駄な質問だな。嘘であるという確証もないだろう。なら判断のためにお前ができるのは情報を増やすことだけだ。相手を遮って対話という機会を捨てるのは愚かだ』
「相手に偽りの情報を渡すのが目的だとしたら?そんな言葉は聞かない方が良いかもしれませんよ」
『それを判断するだけの知識も経験もお前にはない。だからまずは判断材料を増やすしかない。嫌ならとっとと叫べばいいだろう。レム。お前は何を迷ってる?』
「っ…!私のことを勝手にレムと呼ぶのをやめてくださいっ!」
『また話がズレている。ではお前と呼ぶが、そんなどうでもいい八つ当たりはスバルにでもしろ。私はお前のことはどうでもいい。誰にでも優しくされようとするな。協力者の重要人物というだけだ』
勘違いするなという一言にレムは激昂しかけるが、言葉の意味を咀嚼して何かを考えたようだった。
「あなた、あなたは…私のことが…どうでもいい?」
なぜか少し肩の力を抜いたようなレムは、その言葉を本心と受け取ったようだった。
「じゃあ、なぜ?」
そうだ。なぜここにいるのか。わざわざ対話をするのか。それは当然の疑問だった。
『個人的には興味はない。それでも知り合いの身内だしお前の姉も知っている。だから家族の元に帰る協力はしてやろうとは思っている。その程度だ。話を聞く様子だから手短に話すぞ』
知りうる限りのレムとスバルの情報を語り、魔女の香りについても教えた。
『スバルからその臭いがするのは、あいつが魔女に呪われているからだ。邪悪に感じるからといって相手が本当に悪であるのかどうかは別の問題だろう』
「それは!それは確かに大きな理由ですがそうじゃない!あの人はルイちゃんを。彼女を蔑ろに…」
スバルを打ちのめしたその論理は、ケイには通用しない。だってレムを傷つけたくないという気持ちがないから。
真実で壊され得るものは、早めに壊れるべきなのだ。心からそう思う。
『それにも理由があると考えないのか?これがそのまま無害な子供であるというのはお前の願望だ。そいつは悪臭の元凶。魔女側の大量殺人鬼であって、お前の記憶を奪った力の持ち主でもある。いいか、そいつはお前自身の仇なんだよ』
衝撃の告白は、一切の遠慮もなく叩きつけられた。殴りつけられるよりも遥かに深刻な痛打を食らい、レムは一歩下がってしまう。
「そんな…そんなはず…」
根拠のない反論にケイは付き合わない。
『人の記憶と名前を奪って世界から忘れさせる力だ。僕の…大切な人も、やられてる。それは世界中から恨みを集め続ける最悪の罪人だ。でなきゃあれだけ人に甘いスバルが辛く当たる理由がない。私だけなら即座に殺してたぞ』
真実で壊された自身の認め難い感情を、ケイは認めた。人にやるのなら自分も実践しなくてはいけないのだから。
クルシュは自分にとって大事な人間だ。それを認める。
そして、ケイは『暴食』を隙あらば殺したいとも考えていた。なぜならクルシュが大切だから。
彼女の記憶が戻ることは今のケイにとってのリスクだった。そんな危険は排除しておくに限る。水門都市の時には他にも理屈をつけていたが、今ならわかる。
単純に今のクルシュが消える可能性をこの世界から潰したいだけだったのだ。自分は。
自分で考えておいて、その合理性のなさにため息が出る。
『暴食』の魔女因子がどこに行くのかも不安だし、解決策や対抗策を模索せずに抹殺というのは気持ちが悪い。
けれど、それでもケイは決めていた。『暴食』は即座に殺す。
「信じられません。そんなこと。あなたたちはきっと、この子と敵対していて…」
『ではなぜスバルがそんなに警戒をしていたと思う?あれが人に甘いのは見ててわかるだろ。恨みがあるんだよ。ルイも記憶を失っているか、そのふりをしているようだが。というか私は殺そうと思えばいつでも殺せた。スバルが止めていなければな。ルイを守っていたのはあいつだよ。お前じゃない』
レムは反論を探すが、見当たらない。それでも、この言葉にだって…
『とはいえこの言葉も真実かどうかはお前には判断がつかないだろう。相手が嘘をつけないように縛る魔法も存在するが、それもお前は知らない。だから見ただけを信じればいい。スバルはこれからもお前を守ろうとする。ルイを恨んでいるが、お前のために害を加えないようにしている』
『そのうちスバルとその協力者がここに助けに来るだろう。何が起こるか想像できるか?』
「まさか、話にあった『シュドラク』ですか?彼らはもともと仲間?あれは…」
あの襲撃もマッチポンプだったなんて、自分でも信じていない言説は言葉に出なかったらしい。
『いや、ついさっき仲間にしたばかりだ。またあいつは命をかけたぞ。ほとんど一人で魔獣に立ち向かった。お前のためにな』
「知らない。知りませんよ!そんなの!勝手に命をかけて守られて、感謝しろと?そんなのは意味がわかりません!私は関係ない。ないじゃないですか!」
『それはどうでもいい。それよりこれからの想像をしてみろ』
レムは血管がキレそうになるが、その怒りを受け止めることは一切しないと全身全霊で主張をされていたようだった。自分の怒りもまた勝手なものだと気づくと、途端に意気消沈する。
「わかり…ません。どうしてそんなことがわかるんですか。交渉をすると言っていましたし、仲介でもして話し合いをするんじゃないんですか」
『殺し合いに決まってるだろう。なぜ交渉のためにここまでの軍備がいるんだ。あれだけの燃料を森を焼く以外に何に使う?』
「そんなのっ!許せません。今すぐに誰かに知らせて…」
『自由にしてくれていい。そうすれば奇襲に対して奇襲を返されるだけ。つまりは『シュドラク』側が殺戮されるだけだが』
考えの浅さを指摘され、言い淀む。思考がまとまらない。
「どうにかして!話し合いに、どうして…すぐに殺すなんてことになるんですか」
『そういう生き物だからだよ。私たちはな。お前だってスバルの指を折っただろ。罠も非殺傷性とはいえ殺す可能性はあった。頑丈なお前は知らないかもしれないが、宙吊りってのはそれだけで致命になるんだぞ。スバルがナイフをたまたま貰っててよかったな。自分を棚に上げて駄々をこねるな。お前も十分に攻撃的だ』
揚げ足とも言えない。事実を突きつけられて、いよいよ感情の乱高下が止まらない。
「何しに。来たんですか。そんなことをわざわざ説教をしに来たと?どうでもいいなら、放っておいてください!なんなんですかあなたは!」
『そうだよ。説教に来たんだ。腹が立ったからな。そうやって言ってることとやってることが一致しないやつってのは、見てて不愉快なんだよ
力を抜いて、その場にへたり込んでしまう。涙が溢れそうになり、それを必死で堪える姿は本当にただの子供に見えた。
ようやく虚勢が剥がれ、剥き出しの本人と話せそうな感じがした。
『まぁスバルにも問題はあったんだろう。だから、私が代わりに聞いてやる』
『お前は、
沈黙。相手が、何を言っているのか理解できないという間が、空間と時間を支配した。
「え?そんなの…そんなことは…」
『記憶を失って知らない場所にいる。大変だったんだろう。経験があるからわかる。ちなみにスバルも直近まで記憶を失ってたらしいぞ。だが、そんな不幸は現実にとって全く関係ない。状況は進むし環境は変わり続ける。情報が少なかろうが、不安だろうが誰も気にしない。お前は一体何がしたいんだ?』
再度、重ねられるその問いはかつてクルシュにも突きつけたものだった。
記憶がないなら、ないなりに判断しなくてはいけない。だからそれを早くしろ。
スバルはこういう問いかけをしない。自分の気持ちをぶつけるだけで、聞こうとしないのが彼の人を惹きつける特性であり、同時に悪癖だとケイですら気づいていた。
「ルイちゃんを、守りたいと思ってます。人が傷つくのは嫌です」
問いに真摯な響きを感じたのか、レムも本気で答えたようだった。だが、甘い。
『では、ルイが人を傷つけていたら?これからしたらどうする?人を守るためにルイを暴力で制圧するか?ルイを守るために人が傷つくのを許容するか?』
「両方、どうにかできるように、してみせます」
『実力もない奴が優先順位がつけられなければ、両方を失うことになる。ルイを守りたいなら、この陣地から逃げるべきだろう。だが、この陣地の兵士たちは傷つくことになる。どっちを取るんだお前は』
「どうにか。どうにか、して…」
『唐突に別の能力に目覚めない限り、お前には無理だ。でも実現はできるぞ。お前自身にはその力はないが、スバルにはある。あいつは少し変だからな』
「言っている意味が、わかりません。あの人にはなんの力も…」
『無力な理想主義者に私は協力なんてしない。これからの奇襲にはスバルは関われないから人は死ぬだろうが、まぁその先は願ってみればいい。お前が一人で悩むよりはよっぽどマシな結末になるだろう。お前は使えるものを全て使う覚悟をすべきだ』
レムはその選択に大いに抵抗を感じているようだった。
『人は傷ついてほしくない。ルイは守りたい。スバルは頼りたくない。さて、お前の願いはわかったが、優先順位はつけておけよ。私はどうなろうと構わないからな。ただ一つだけ助言をするとしたら、自分の願いのために純粋に動くべきだ。あとスバルの必死な指示は聞いた方がいい』
悔しそうに表情が歪む。なんだ、できそうじゃないか。まぁこれなら大事にはならないだろう。
『じゃあそろそろ、自分で立てよ。子供を守ってるふりして支えにするな。そいつはお前の杖じゃない。そんなのはどこにもいない。自分で立って、判断して、考えろ。願いを叶えたいならな』
また、殴られるような衝撃があった。心のどこかが震える。
立って戦えと。どこかで聞いた気がした。
「あなたは、あなたはどうするんですか?」
『私は帰るよ。最後に仕事をしてから帰るさ。やりたいことも帰りたいところもあるからな』
言いたい放題言ってから、透明な何かは出て行った。
レムは今の嵐のような問答を反芻していた。
苛ついていて、攻撃的な相手だった。しかし、それでも話を聞いてくれた。
初めてだったかもしれない。意思を問われたのは。
レムは初めて考え始めた。
私は一体何を願うのか。そのために、何を犠牲にしていいと思うのか。
今の声は大嫌いだったが、だけれど正しかった。
これだけ話をしていても一向に起きないルイの手を握り、考える。
レムは、必死で考え始めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
雑なカウンセリングという名のロジハラを手早く終えたケイは、最後の仕事に精を出す。
まず最初に行うことは、投石だった。
大量に保管されている可燃物の箱。それを保管しているテントの見張りを無力化し、足を折っておく。
これだけの燃料が持ち込まれていたのだ。当初から密林を焼く計画はあったのだろう。そうでもなければ、乾燥した山林でもない密林を焼き尽くすなどできはしない。
手にしたのは油の樽や石炭の入った箱。軽く100kgはあるだろうそれらを持ち上げて、全力でぶん投げた。次々と。
『目指すはパーフェクトゲームだね』
狙うのは、あのトッドとかいう男の天幕だ。
非常に分厚い警戒を敷いたそのテントは異様だった。彼が自然に配置した兵たちや妨害は、幾重にも重なっていてこの軍の指揮官のテントよりも厳重な守りになっていたのだ。
あいつは、危険だ。比較的まともな思考力を持っていそうという意味で。
だからできれば殺しておく。ここで生まれる死傷者は後ほど奇襲した『シュドラク』のせいになる。やり得である。
放物線というよりは直線を描いてかっ飛んでいく大きな箱が、テントを吹き飛ばし、そして引火した。
帝国兵が殺到するまで、投擲を繰り返す。主要なテントにはあらかた油を投げ込めたと思う。
どんどんと燃え広がっていく。
騒然となる陣地は夜とは思えないほどの光量と喧騒になっている。
次は、竜車だ。車輪のついているものを自身の手で破壊していく。
先ほどの投擲で地竜に被害が出ていたら嫌な気分にはなるが、仕方ない。可能な限り竜車だけを壊す。
すでにこの軍は作戦行動を遂行できない。超人でもいれば別だが、軍隊としては壊滅である。
この異常に対して、伏せさせていたシュドラクたちが襲いかかっていく。
これは事前にアベルとも話をつけていた。合図を送るから奇襲しろと。
多分死んでいるだろうがケイは自分が人を殺したことを観測してはいない。スバルに詰められるのは皇帝のみだ。
せいぜい上手く付き合ってみてほしい。一見して力のない理想主義者が絶大な力を持っている、という厄介さを賢王はどう切り抜けるのだろうか。
殺到する帝国兵を吹き飛ばしつつ、何かが背後からIBMの頭を砕いたらしかった。
意識をIBMから切断し、自身に戻した。
ケイがいるのは森にほど近い草原だ。
森の高い高い木に登り、自殺用魔石を起動。ついこの前にやったように、月を背景に死へと向かう。
違いは、見送ってくれる人の有無だ。その感傷はもはや無視できなかった。
クソっ。やはりスバルの一言は反則だ。
スバルの一言は、永井圭の価値観を見直すきっかけになった。
佐藤の罠にも気づかされ、やはり凄まじい威力だと再認識した。
ともあれ早く戻らなければ。
大木の上から、凍りついて落下した。その後魔石の爆発音とともに。ケイは無事に木っ端微塵になった。
今回も無事死亡し、目を覚ます。
おかしい。また、おかしなことが起きている。
そこはアウグリア砂丘前の村。
これは予定になかった。次の復活はカルステン領のはず。
向こうの肉片に何かがあったのか?
早まる鼓動を自覚しつつ、仲間と合流するべく最善を尽くす。
仲間たちと合流すべく。夜の空に可能な限りの光線を打ち上げた。
『剣狼の国:序』はここまで。
次回からは『ルグニカ王国内乱 後編』です。ようやっと戻るぜ!