【FILE:173】罠
永井圭を見送ってから、数日後。
カルステン領その中央に存在する領都カリッジにおいてクルシュ・カルステンは苦悩していた。
停戦と降伏に関しては理想的な推移をしている。
カスター公爵の降伏は非常にスムーズで。聖女が消え、右往左往する幼龍だけになった状態で戦闘を続けるような愚かさは一切持っていなかった。
戦後処理にしては史上類を見ないほどの速度で進んではいる。
ルグニカにおける戦後処理など、400年近く空いてから亜人戦争くらいしかなかったため比較に乏しいが、この世界の一般的な戦争と比べて非常に整理されていたと言える。
それでも、渦中の人間にとっては過労で倒れるかと思うほどの激務であった。
「うぅ…ケイ…早く帰ってきてくださいぃ…」
恋する乙女は、想い人のことを呼ぶがその内容はあまりに切実なものであって、そこには甘さも酸っぱさも存在しなかった。
「ケイきゅん…タスケテ…はやく…フェリちゃん壊れちゃう…」
あのフェリスが弱音を吐いて、宿敵であり怨敵のケイを待望するという異常が生まれていた。
カルステン陣営の首脳陣はそれはもう忙殺されている。
頭を使えるもの、体を動かせるものは全員が動員されている。
「ええ?今度はどんな問題が?あら、そうですか。ちょっと失礼」
窓に向かい深く息を吸い、淑女が余裕の表情を崩さずに狂笑をぶっ放す。
イーーーヒッヒッヒ!と、周囲の鳥たちが飛び立つほどの声量でひとしきり叫ぶ。どうにか冷静さを取り戻して無限に発生する問題にまた向き合い始めた。
「もうやだぁ。どうして私がこんなとこでこんなことさせられてるんですかぁ?もうお肌が荒れるとかじゃない。寝なきゃ死んじゃう…」
「チッ……。黙って手を動かしなさいツバキ。もう少しすれば交代で眠れます。2時間はぐっすりどうぞ。」
「え、エリノアちゃん、昨日から舌打ち隠せてないの怖いわよぉ?ごめんね?ごめんね?そういえば私より前から眠ってないものねぇ」
ツバキとエリノア。比較的新参の者であっても計算能力や思考力が一定以上あれば酷使されていた。エリノアはしばらく妹と会えない時には機嫌が良くないが今ほどあの蜘蛛娘が必要であると実感したことはない。ツバキは本気でエリーゼについてきて欲しかった。
本来はゆっくりと期間をかけて行うはずの戦後処理。それをここまで急ぎ行っているのには理由があった。
これもまた、永井圭の指示である。
『色欲』と『暴食』の空白は一時的なものかもしれず、不在の間に全てを終わらせる必要があると厳命されていた。
まずは戦争状態を完全に終わらせる必要がある。カルステン家の確実な勝利の形でだ。
王国が派遣しているであろう監視のための兵に介入させることすら望ましくない。カスター家の全てを握るのは今しかないとケイは強く断言していた。
それは全て上手くいっている。代償がこの死屍累々の作戦室の惨状というだけだ。
通常一ヶ月ほどかけるであろう手続きを数日でこなそうとしているのだ。
「正式な調印を行えば、皆で一度休めます。それまで、もう少しです。領民をいち早く土地へと戻すためにも、今が踏ん張りどころですよ」
クルシュは少し英雄性を取り戻し、虚な目でそう鼓舞した。
仮に『色欲』が戻ったところで、単純な戦闘しか起こせないくらいには状況の掌握は済んでいる。
そして戦闘になれば戦えるだけの戦力があるし、不利になればすたこらと逃げるだけ。時間がこちらを有利にするという盤面を構築しているのだ。
正直、ケイがいれば10倍は楽だった。本当に。
常人の数倍のパフォーマンスを3日間寝ずに維持し続けるあの男は内政における化け物だった。
カルステン陣営は、その処理能力に慣れてしまっていたのだ。
彼女たちの事務処理能力が低くなっていたわけではない。むしろ上がってすらいる。けれど目標設定の高さと妥協のなさという点でケイに毒されすぎていた。
後世で振り返った時、賞賛されるような仕事をしているのだが今の彼らの疲労とは全く関係がなかった。
実際問題、負けた側との交渉と内部の調整。避難民の問題対処など、これだけの人数で絞って処理できるというのが異常だった。少人数で行う理由としては、いくつかあるが元人肉であったものを食べていたという事実を可能な限り伝える相手を絞っているという理由が大きかった。
人肉食を告知する文章は相手の首脳陣にしか配っておらず、未だ一般兵たちには伝わっていない。もし漏れていたらと考えるとゾッとする。フェリスは自殺者の治療などごめんなのだ。
少人数で問題を解決すべきとなるとクルシュは当然として、エリノアとローズの存在はあまりにも大きかった。
風魔も動員しているが、彼らは書類仕事が特段得意ではない。ケイに仕込まれた結果かなりできるようになっているが、元は学のない兵士もいる。結構無理をさせていた。
つまりは、限界が近かった。もちろんゴールも近いのだが、まさにデッドヒートという様相である。
たった二徹でと思う人もいるかもしれないが、彼女たちは故郷を蹂躙される撤退戦をすでに二週間以上戦っていた状態からのこれである。
そんな、マジで倒れる五秒前のカルステン陣地に、一陣の風が舞い込んだ。
「皆様!お疲れ様でございます。ただいま到着いたしました。人を、連れて参りましたよ!」
リリシア・フローライン男爵。ローズの娘が、内政官と執事と侍女を集めるだけ集めて、増援として到着する。
見事な水色の長髪は、過去類を見ないほど乱れており長距離を最短で駆け付けたのだということが伝わる。
「リリシア!!あなた、さいっこうですわ!産んでよかった…!」
マジでハンパないってと涙を流しながらリリシアを抱きしめたローズ。「ぐえ」という淑女らしからぬ鳴き声が絞り出されるが、この部屋にいるものにとって、彼女はまさに救世の精霊か竜の化身にしか見えない。
エリノアは真っ白に燃え尽きて、その場で眠り始める。卒倒して眠りに入るものだからツバキが慌てて受け止めた。
生き残りで最低限の指示を出し、3時間だけまずは眠ることになった。
「いえ、クルシュ様はここで一度ゆっくりお休みください。きっと何をするにしてもクルシュ様に頼ることになりますので」
それが最善であるとも思えず、クルシュは抵抗しようとする。
みんなが頑張っているのに自分だけ眠るというのは…
そこまで考えると、咄嗟にケイの言葉を思い出した。
『いいですか。人間、眠っていないと確実にミスをします。性能がガクッと落ちるんですよ。できれば重要な判断をするときは眠ってからにしてください。寝不足は、酔っ払いと同じかそれ以上には当てにならない』
よし。ケイがそう言うならリリシアの助言を聞き入れよう。ちょうど人生で一番寝たいところでもあるしちょうどいい。これが最善ならそうしようはいおやすみ!!!
クルシュは風のようにベッドに溶け込んでいった。
他の者たちも音を追い越すような勢いで安眠へと飛びついていく。
訪れるのは至福の休息。脳へのご褒美だった。
一時間後、轟音と共に陣営の全てが叩き起こされるまでの、束の間の安息であった。
竜の咆哮が重なり、破壊音が続く。
全員が人生最悪の目覚めを経て、幽鬼のように立ち上がる。
警鐘の音色は『色欲』を示す音だった。
この警戒を掻い潜れるのは大罪司教くらいだから、納得だ。
「チッ……ツバキ、屋上へ。状況を確認してください。久々に…キレてしまいましたね…」
「ヒぃッ…!はいぃ。行ってきますぅ」
「許さない。フェリちゃんの夢を…返せ!!」
「たったの一時間? クソわよ!!!ぶっ殺されてえんならそう言えってんですわ!」
「ええ、この冒涜には絶対に報いを受けさせます」
女性陣は口々に呪詛を吐き捨てるが、その動きには無駄はない。
即座に行動できるよう事前に準備しておいた装備を拾い、身につけて外に出る。
破壊音はとある一角から聞こえておりそこに急行すると、軍が包囲し攻撃をしているところだった。ロブルが単騎で溶岩を浴びせ、斬撃を喰らわせている。
そこにいたのは、黒竜と破壊された竜車と。
対峙するのは…そこにいるのは。なんなのか、わからない。
あれは、一体なんだ?
誰もがそれを見たことがある、けれど見たことがない。
既知の動物が、混ざっている。
地竜が、鳥が、竜が、様々の虫たちが、蠢いて定形をなしていない。
蛇の顔が、獅子が、竜を威嚇しているが本体とも言えるものは何かを漁っているようだった。
人がいた。その生物の坩堝の中心に小柄な女が見えた。
「ああ!!!なんだこれ!あいつの匂いなのに!!どこ!?どれ!?どれどれどれどれ!?」
『色欲』がケイの竜車を漁っている。匂いを嗅いで、何かを探している。
そこにはあらゆる執着が込められているとクルシュにはわかった。
「違う!これじゃない!こんなのじゃないのにいいいいい」
カペラは違う違うと言いながら、ケイの足を喰らっていた。
膨張した体は膨らみ、数メートルを超えていて巨人が子供を食べているような光景にも見える。
殺そうと思った時にはすでに魔法は発動していた。
無意識に風刃を飛ばし、カペラを削る。
「彼に、触るな!!」
クルシュ・カルステンにとって念願の、『色欲』との戦闘が始まった。
屋上へと登り、虫を使って状況を把握していたツバキが叫ぶ。
「子ども達も来てる!場所を教えて兵士が対応してるけど…」
情報収集をしていたツバキが報告しながら遅れて合流し、お母様の惨状を見て彼女は絶句した。
そして憤怒に振り切れたクルシュの剣幕にもびびる。
この化け物たちの戦いに巻き込まれてはいけない。
カペラはツバキを見た瞬間に殺しにかかってくるとそう思っていた。裏切りを糾弾しどうやって苦しませるかを宣言して迫ってくる姿を何度も夢に見た。
だけれど、現実はそうはならなかった。
カペラは、ツバキのことなど眼中になく、ただひたすらに何かを探していた。
泣き乱しながら。一心不乱に体を膨らませて攻撃を吸い取り、それを見つけた。
「あ゛っだああああ!!」
歓喜の声が響き、その手に持っていたのはケイの秘蔵のガラス瓶。
クルシュには絶対に触れるな調べるなと念押しされていたものの一つだ。
膨張した体は竜の黒炎によって燃やされて、クルシュの風が刻み続けている。
魔法隊の攻撃も投げ槍も矢も、その全部を受け止めている。
それでも本体まで届かない。カペラはそれらに一切注意を払わずに、いくつかあるガラス瓶の一つをガラスごと咀嚼した。
「ああああああああああああ〜〜〜ああああああ」
ガクガクと、体が震え。頭をグラグラと揺すっている。
身体中に眼球が生まれ、誰もがそれと目が合った。
加速した時の中で、カペラはその巨体を操って付近の邪魔な障害物を一掃した。
急激な変化。それに対応できたのはすでに空を舞っていたクルシュだけだった。
間一髪でよけ、そして風で刻む。
『色欲』の体が、花のように咲いた。花弁のように自分の体が発生する。
四つ出してようやく快楽に震えるだけじゃなく他のことができそうなものが出てきた。
自傷行為を繰り返しながら、ようやくその目に理性が宿る。
「これ、作らなきゃ。持って帰らないと…」
呟いたカペラは大事そうにガラス瓶を持っている。
少し離れた距離から、ローズの砲撃が届いた。まるで我が子を守るようにカペラはそれを砲撃から守った。
その火と氷を一身に受けて、それでも命より大事なものを守り切った。
それを見て、カルステン陣営の者たちは狙いを定める。
『色欲』の体から、翼が20ほど不規則に生えて不恰好に飛び始めた。
「クルシュ様!これを!すぐに戻って!」
フェリスがいくつかのガラスの短剣が括られた剣帯を掲げる。
急降下してそれを受け取り、クルシュはその不細工な飛行を追う。
あれなら即座に追いつける。
そう思ったが、全方位に向けて竜の口が、9つも開口し火を溜めていた。
火炎を吹きつけつつ、加速して逃げるのはカペラだ。
逃げと攻撃を一手で行うその必死さと合理的な行動は、『色欲』らしさを失った動きだった。
それも想定内である。クルシュはすでに練っていた魔法をすでに発動している。
体に負荷のかかる急上昇。風魔法を自分にぶつけるような常識外の機動だった。
体内の血液が追いつかないほどの急加速。それが生み出す結果は、ありえないほどの急上昇。
空気を邪魔に感じるほどの速度で肉薄する。
回避と攻撃を同時にする。
肉薄し『色欲』と目が合った。
腕や足などの変異は同時に風で切っている。他に小細工ができる暇は…
ニヤリと笑い、金髪の幼い女の顔がクルシュが心から求めるものに変化する。
ケイの顔がそこにあった。
その顔はまるで無敵の防御を得たかのように勝ち誇っている。
クルシュの本能は、その顔を見てしまう。愛おしいと思ってしまう。
だから、ガラスの短剣をその顔面に突き入れた。
「あの人は、そんな風に笑わない」
ガラスの短剣は差し込んだ瞬間に砕けて、中身を溢れさせた。
そう。彼はそんな風に決して慢心したりしない。いつも何かを考えて、それで懸念を思いついては眉を顰めているのだ。
考えを止めて満足そうにするなんて、別人すぎる。似ても似つかない。
突き刺されて驚愕している体に追加の何本かを突き立てた。
そこまでをこなしクルシュは落下速度を味方につけて。何よりも速く離脱した。
一瞬の交差の後には、背負った大量の風刃が殺到しカペラを細かく刻んで墜落させていく。
きっとあれでも、死なないのだろう。
けれどそろそろ、限界だ。
クルシュはそれを傍目に捉えて、陣地の方へと飛んでいく。
クルシュは一時的にマナや反射速度を活性化させる薬を飲んでいる。
寝不足で疲労困憊の中、空中戦をこなすならこんな小細工が必要だった。
副作用は
これまでのフェリスなら、毒薬一歩手前の薬など絶対に渡さなかっただろうが今は違う。
フェリスも自我を押し殺し、全力を尽くしていた。
服用後、可能な限り早く解毒することを条件にこの薬の使用を自ら提案したのだった。
フェリスの元へ戻る。大丈夫。まだ余裕はある。というか寝不足がまずい。
陣地へと戻る途中。おかしなものが遠目に見えた。
軍が、こちらに向かっているのだ。
方角とタイミングから言って、隣接する領地付近で監視のために待機されていた王国軍だろう。
戦争が終わったと判断して、こちらに援護に来てくれたということだろうか。
いや、それにしてはなぜ夜に行軍を?あの速度で?
嫌な予感が溢れてくる。
すでにこちらの警戒網にはかかっているはず。陣地に戻って把握しないと。
クルシュが舞い戻り、フェリスの治療を受けていると報告がなされた。
風魔の伝令が、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「王国軍が、向かってきます。奴ら!クルシュ様の確保が目的です。朝には防衛陣地まで到達するでしょう。彼らは襲撃を受けたんです。クルシュ様が『色欲』で王国軍を襲ったと!そんな話が向こうから…」
陣営に衝撃が走った。
「数も質も、そこまでじゃあないわぁ。カスター公爵の軍の方が強いくらい。私たちなら倒せる。たぶん余裕で…」
違う。これは戦力の話ではない。王国に剣を向ければ大義は失われる。
そもそも、殺戮がありなら撤退戦など必要なかったのだ。最初から蹴散らして終わりである。
戦争とは政治の一形態であるとケイは言った。
理外の権能に踊らされた王国軍がクルシュ・カルステンを確保しようと動いている。
この状況をどうするべきか。皆がクルシュへと目を向けた。
クルシュは一切迷わなかった。
「まず、寝ます。すべてはそれからです」
眠っていない時に重大な判断をしてはならない。
「ええ!?」と大きな声で疑問を発してしまったのはリリシアだ。彼女はカルステン陣営の当たり前に慣れておらず、それなりに疲労しているらしい。
いや、これはこちらがおかしい。昼夜問わずに駆けつけて、『大罪司教』の襲撃があったのだ。
平静でいられる方が、だいぶ異常である。
「幸い仕事をしていた分の用意があります。カスター家に従う者たちも協力的。我々が少し休む時間はあるでしょう」
寝るぞ!おー!とみんなで拳を上げて、そしてベッドへ直行した。
人は誰しも寝食を忘れて動くことはできないのだ。ごく一部の例外以外は。
いとしい人を食らうカペラちゃんの絵画
神絵師ゴヤさんのタッチで描かれるイメージです。我が子を喰らう例のやつ。