この夜が明ける頃には、どうなっているだろうか。
カスター公爵は、麻痺した心でそう考えた。もはや心配などではない。淡々としたものである。
どこかで、何かが壊れたのだ。
心が受け止められる限界を超えた感覚がある。
それでも、多くの人間をこのような地獄まで付き合わせてしまった。その後始末をしなければならない。
その一心で、ずっと動き続けていた。
きっとこの敗戦処理が終われば、我々は必要なくなるだろう。
過ちには罰が必要だ。どれだけ正義を信じていたとしても真実は残酷ということだ。
傍系にでもいいのでカスター家を残せないか交渉をするつもりだが、実際のところは無理だろう。
あまりにも、贖うことすらできない罪を背負ってしまった。それを扇動した自分は何を望むこともできない。
そんな諦観の中で戦後処理に従事していると、とある情報が入ってきた。
王国軍が、攻めてくる?
いったいなぜ?誰もが混乱する中で、すでに気力を失ったカスター公爵はそれでも即座に理由がわかった。
ああ、きっと『色欲』だ。あれがまた何かをしたのだろう。
そうだな。例えばカルステン公爵の姿で軍を襲うとかだろうか。いや、それなら軍は逃げるかもしれない。
後方の街でも襲ったのだろう。
どちらにせよ。国軍はカルステン軍に敵対的に動いたらしい。
その事実の理解と実感がゆっくりと広がっていく。
これは、得難い機会だ。すでにカスター家の勢力に割かれている監視と抑止の戦力は把握している。
状況は完全に詰み。兵の心は折れ、こちらは心の底から従順の意思を示していたし、それを風読みの力で見抜かれている。
ほとんど我々を止める力は配置されていない。彼女たちは無駄を削る主義なのだろう。
状況が、変わった。
カスター公爵はその目に再び光を宿す。その光が明るいものではなかったとしても、光には違いない。
導きを失った彼らは、その言葉にすがるように聞き入っていた。
紫外線に導かれる夏の虫のように、彼らはフラフラとついていく。
彼らは救いを求めているのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
睡眠は偉大だ。
数時間の休息から目覚めたクルシュは、世界がまるで色づいて見えた。
起床すると、メイドが慣れた手つきで包帯を換えていく。
それこそ今のカルステン領のように、幾重にも防御線が敷かれており咄嗟のミスで呪いが進まないように特殊な巻き方をしている。
新陳代謝も通常とは異なるようで、あまり汚れはしないがある程度で交換する必要はある。
片腕が動かなくなってからまだ長くはないが、この生活にも慣れてきた。
「皆、すでに起きているのですね。私が最後ですか」
「はい。クルシュ様がお強いことはみなさま承知しておりますが、同時に最も働かれているとも知っております。これは決して遠慮や気遣いだけではないですよ」
この采配には理があるのだと柔らかく説明する彼女の名前はレイナ。
ニコリと微笑むメイド長は、ケイが来てから引き抜いてきた人材だった。
水門都市の折には『色欲』に捕縛されるも一切傷つけられもせず解放されており、思考の速さと仕事の正確さは指折りだった。
メイドや執事の中でも特に深刻な案件に関わることのできる一部の精鋭は、それぞれ貴族であったり特殊な出自の有能な人材を引き抜いているのだった。
中には護衛や戦闘をこなせるものすらいる。
魔女教と事を構えると決めた時点で、求められるのは命懸けの仕事である。
これまでと同じものたちを同じ待遇で戦争にまで転用するなど不可能なのだ。
「シュリ。用意できていますね?」
横にいつの間にか侍るのは、これまた新人のメイドであり、まさに先ほどの戦闘をこなせるメイドだ。
元はケイを狙ったヴォラキアの刺客。『忍』と呼ばれる暗殺集団の一人だった女である。
執事とメイドとして二人でカルステン陣営に潜伏し、そして暗殺に失敗した。
そもそも『風見の加護』の前に潜入は不可能であるからして、面接時に殺そうと計画していたらしいが下見の時点でケイに捕縛されたのである。
クルシュは捕獲された事すら最近まで知らなかった。ケイが示した何かを見て心変わりしたらしく、今は従順に従ってくれている。
ケイを見ると若干怯えるが、まぁそれも特に変わった反応でもない。ケイの可愛らしさまで触れ合える人間も、それを見つけられる人間も非常に少ないのだ。
正直、クルシュ以外であればローズくらいじゃなかろうか。彼女は母親目線ではあるので若干違うが。
まぁどれだけ贔屓目に見ても、ケイは仲間以外に容赦がない。きっとまたギリギリどころか余裕でアウトなことをしたのだろう。それを暴き立てることはもうしない。彼の判断を信じることにした。
「はい。もちろんですっ!戦闘は一番じゃなかったですけど、内職なら一番でしたので。お任せくださいよ〜!」
狐の獣人である彼女は、短く切りそろえたオレンジの髪と耳を躍らせて仕事の完了を報告する。
というか、彼女こそ働き通しだったはずなのに一切疲れを見せないのは異常な忍の訓練によるものだろう。
明るく笑う彼女が暗殺者には見えない。けれどそんな印象というのは先述の通り役に立たない。
演技を習得した後のエルザの練習兼イタズラにはほとんどのものがやられたものだ。クルシュも騙された。悔しさよりも驚きが勝ったが。
女忍びのシュリはそんなエルザの成長にも大いに貢献してくれた。
あのヴィルヘルムすら騙したエルザは、かなりの腕前になっている。ラインハルトからの贈り物という剣鬼の目を曇らせる煙幕の貼り方が上手かったのだ。
女らしい武器の使い方や、人の騙し方。仕込みの忍術をいくつも彼女に教えていた。
結果的に今のエルザは四大国の美味しいどころどりの稀有な存在になっている。
グステコで得た暗殺術と再生の祝福。
ルグニカで得た魔法装備と合理的な考え方。
カララギで得た呪具と変装術。
最後に、ヴォラキアから盗んだ忍術が来て完成である。
そろそろ、陣営の非正規戦闘部隊の規模と戦力が大きくなりすぎて内部で問題視するレベルになってきている。
この上、ケイは絶対にクルシュに明かしてない戦力を抱えているに決まっているのだ。
後ろ暗い暴力が多すぎる。それがクルシュの最近の懸念だった。
その懸念について、今回の王国軍の侵攻および調査は見事にハマってしまう。
調べられれば良くないものが絶対に出るのだ。これは間違いない。
元々敵だった味方が多すぎるというのも考えものである。
「お考えのところ失礼します。とはいえ、すぐに時間になります。これからいかがいたしますか?」
「まずは、私が出向いて話をしてきます。時間を稼ぎつつ、情報を拾います。ええ。まずは真っ直ぐ、最短で向き合いますよ」
頭はスッキリしていて、思考は澱みない。
着替えて部屋を出る時には、所作の全てに意識を行き渡らせている。
王たる振る舞いを。英雄としての眼差しを。臣民に寄り添うものとしての足取りを。
水門都市を経てから、クルシュへの評価は大きく上がった。
腕を失って得たものとしては最上だろう。そのぶら下げた腕ですら彼女の英雄性を証明する演出の一つになっている。
首脳陣の建物から出て、兵たちに見えるように堂々と歩く。
彼らの目にはすでに不安はない。ここまで最小の被害で戦いを支配し続け、そして勝利したクルシュを疑うものなど一人もいない。
今回の戦いでケイの人望は少し傷付いているが、まぁそれも作戦だったから仕方ない。
彼を理解できるのは、自分だけで十分だ。
最も人目に付くところで、飛び立った。
空にはすでに大きな黒い影が飛んでいる。
誰もが喝采を上げて、手を振って、拳を振り上げる。英雄と自分たちが一体となるような高揚に包まれていた
空中で黒竜のギャレクと先に乗っていたフェリスに合流し、王国軍へと向かっていく。
はっきり言って、戦力差という事であればこの時点で勝てるだろう。
飛び抜けた英雄は、今の王国軍にはあまりいない。多くが王選に駆り出されているしこの三人と戦いができるのは、もはや騎士団長くらいだろう。
そのマーコスですら、空中にいるこの不沈の竜は落とせない。彼を倒すことはできないが、軍は蹂躙できる。
そんな余裕の中で行われた竜の接近に、王国軍はひどく動揺した。
「指揮官は誰か!!あなた達は我らの領地を許可なく踏んでいる。その理由を述べろ!!」
その声は、思わず従いたくなるような圧力を耳に届け、英雄の如き眼差しに串刺しにされる。
彼女と相対すれば、こちらが悪役になる。そう確信してしまうようなオーラがあった。
「わ、私が本軍の指揮官です。いや、指揮官である!クルシュ・カルステン公爵には国家反逆の疑いがかけられている。大人しく出頭し、王都にて審問を受けるように警告する!!カスター公爵も共に王都へと送り、賢人会の裁定を受けてもらう!!」
「私は今まさにカスター公爵の侵攻を破り、勝者としての責務を全うしようとしている。仲裁をするならばあまりに遅い。なぜ今なのだ?何があった!?」
「あ、あなたが!本来の指揮官を、兄貴を殺したんだろうがっ!!いや、やったのは『色欲』なのかもしれない。だが、あなたが『色欲』でないとどうやって証明できる!?黒竜を従え、空を自由に飛ぶあなたは一体何者なのだ!王国としては、容疑者を剣聖の近くに置く以外に安心はない!!」
口から泡を飛ばして叫ぶ中年の指揮官は、最後の最後に本音を言ったように見える。
「はぁ!!?んにゃにそれ!信じらんない!クルシュ様!正直ここで抵抗しても、賢人会は説得できますよ。こんな横暴、許せるわけない!」
ああ、これはダメだ。彼は家族を失い。『色欲』によって疑心暗鬼になっている。
そして何より、彼らはクルシュ・カルステンとその陣営の力を恐れている。恐怖が怒りに転化して、ここまで軍を進めることができたのだろう。
とはいえ、彼らも心の底ではこちらが『色欲』であるとは思っていまい。そうであれば殺されているのだから。
これは、つまり。そういうことか。
クルシュは、表情を微笑に変えて相手を見通した。
「彼ら王国軍は、私たちと一緒にいたい。しかも職務を放棄せずに、実績を上げつつ私という戦力を横に置きたいということですね。保身に使われてやる気はありませんが、このままでは王国軍の調査を許すことになる。それは防がないといけませんね」
あまりに冷静な口調にフェリスはギョッとした。フェリスは知っている。
これは、まずい。
「く、クルシュ様?さっきはあんな事言っちゃいましたけど、やっぱフェリちゃん的にはやり過ぎは良くないかもって思ったり?」
クルシュは怒り心頭だった。
ふざけるなと。そう思う。
ずっと指を咥えて見ているだけの傍観者が、自分たちに被害が及んだ途端に及び腰になる。まぁそこまではいい。
厚顔無恥にも保護を言い出してくるのならそれでもまぁ、良い。
だがしかし、何一つとして失いたくない。むしろ功績も欲しいなどと宣うのは全く筋違いだ。
全部を欲しがる強欲の所業は看過できない。
「昨晩、私は『色欲』の襲撃を防ぎ追撃すらした!多くの兵が私と『色欲』が戦う姿を見ているぞ。貴公らに大義はない。その要求は受け入れない。それ以上進むなら、我々は領軍として当然の行動をとらざるをえない。いいか!死にたくなければとっとと王都に戻って賢人会に指示を仰いで来い。この地から出ていけ!!」
最後は、黒竜が大きく羽ばたき、クルシュはそこに風を乗せた。殺傷力を持たせていない風のマナだ。
圧力が、実際の風となって軍を同時に押した。
地竜は風のマナが自らに当たるのを必死で避けようとするが、叶わない。
誰もがみな恐慌をきたして風に当たり、それが攻撃でないことに気づいて愕然としている。
臨時の指揮官は地竜に振り落とされている。
さて、これではきっと彼らは下がらないだろう。
領主としてここまで舐められてしまったら、戦いをしなくてはいけないかもしれない。
「必要な情報は確保できました。一旦、戻って作戦を練りますよ。彼らも今日は、これ以上は進めないでしょう」
この国の人間は竜からの威圧には非常に弱い。相当に腰を抜かしただろう。
ブチギレつつも冷静なクルシュは帰投する。
遠くない未来に、また怒りを募らせることになるとは知らないで。
そこから丸一日と半日が穏やかに過ぎた。
潜んでいるはずの『色欲』も、進んでいるはずの王国軍も動きはない。
そのどちらでもないところから、事態が動いた。
「クルシュ様!緊急事態です。お聞きくださいっ!」
レイナが慌てている。冷静な彼女の非常に珍しいその姿に、事態の異常を感じ取る。
「何がありましたか?まさかまた…」
『色欲』の襲撃があったのだろうか。
そこからの報告は、クルシュの予想外だった。
「カスター公爵と南方同盟軍が、我らの指示を振り切って動き出しました。復興作業を捨てて、軍として動いているようです」
「なんですって?」
「武装は取り上げたままですが、農具や工具を手に集まって森へと消えました。空から探していただく必要がありそうです」
「そんなバカな。ありえない…」
彼らの精神状態は自分でも確認したし、ケイも太鼓判を押していた。何よりも今更この状況で反旗を翻す意味がない。
意気消沈はしているが、無気力でも自暴自棄にもなってはいなかったと思う。
カスター公爵は賢い。大罪司教には騙されたが、それは彼の無能を意味しない。
無駄なことを彼がするとは思えなかった。
「いったい何を…」
しかし、人というのは移ろうものだ。王国軍に光明を見出して、そして合流してどうにかしようと?
頭はあらゆる可能性を検証していく。ケイがいればどんな捻くれた見方をするだろうかと、さまざまな視点を使って考える。
自分が恐れていることをこそ。考えろ。それを避けてはいけない。一番の恐怖は、嫌悪はなんだ?
「まさか…っ!」
とある可能性に行き当たり、血の気が引いた。
そして同時に、血液が沸騰するような怒りを感じて血が上がってくる。
「ギャレク!フェリス!可能な限りの戦力を乗せて、先ほどの王国軍のところまで来なさい。私は先行します!!」
天翼の戦乙女が、最大の速度で空を翔ける。他の全てを置き去りにして、怒りを燃やして加速した。
緑の髪は風にたなびき、一筋の線となって空を貫いている。
「絶対に、許しませんよ」
似合わない、恨みがましさすら滲むつぶやきは空に溶けていくのだった。