誰よりも速く空を翔けるには身軽さが重要だ。彼女は一人でいる時が最も自由で速い。
動かない左腕は、重心を揺らさぬように固定され飛行の邪魔にはならないようになっている。
風魔法を断続的に発動し、それに乗る。いや、むしろ風に押し出されるかのように加速する。
間に合え。間に合えと。
逸る気持ちを必死で宥めながら、どれだけ焦っても最適からは離れるのだと気にしていてもどうしても急いでしまう。
これまでの戦いを。辛かった忍耐をそれらを台無しにしようとする敵がそこにいるのだから。
加速した彼女の身体は、まるで風そのものになったかのように森の上空を駆け抜ける。
地上を覆う木々の緑が、一瞬ごとに塗り替えられる絵のように流れ去っていく。枝葉が乱れ、風圧に煽られた鳥たちが驚いて飛び立つが、少女はそれらすらも置き去りにした。
焦燥が背中を押している。風のマナがさらに強く輝き、さらに加速する。彼女の視線はただ一点――遥か彼方の目的地を射抜いていた。
そこにいた。
カスター公爵の軍勢がおよそ300。それらが王国軍に合流する手前と言った状態で森を進んでいる。
間一髪。本当に危ないところ。黒竜では間に合わなかっただろうから、これでよかった。
ケイが理論を組み立てて、そしてクルシュにしかできなかった風の魔法を発動する。
「アレクシス・カスター!そこで止まりなさい!」
その声は異常な大きさで森を揺らす。驚いた鳥たちが羽ばたいていく。心のどこかでごめんなさいと謝罪するも、この目は蛮行を働いた愚か者を見ていた。
音とはつまり空気の振動であるとケイが言った。
そして『風見の加護』というのは空気の流れである風を見る。認識によってはその音の波動を目視できるのではないか。
そんな理解不能の思いつきから生まれた魔法が『ラウド』である。
訓練に訓練を重ねると、だんだんと見えてくるのだから驚いた。
というか、練習よりも気体とそれに伝わる振動についての座学をした途端に見えるようになったのだ。
膨大な学習を経てクルシュは『風』というものを『気体という微小な物質の移動現象』として再定義した。
ただの風などというものはなく、その内訳は窒素と酸素が主に構成していてそれが気圧や熱など、様々な要因で動いている。コリオリなどまだ理解できないものも多いが、それでも以前とはまるで見える景色が違う。
これは比喩ではない。
そこまでをしっかりと理解した時、加護によって見えるものが変わった。
どんな種類の気体なのかが、液体を見るようなイメージでクルシュには見えている。気圧を表現するのは難しいが、空気の濃さとでも言えるだろうか。空を飛ぶと、少し薄まるのだ。
目に映る景色が変わった効能は非常に大きかった。
まずはあらゆる風魔法の精度が上がり、消費マナが減った。だって自然の中にある流れや性質を無視して押し通す必要がなくなったのだから。
大気の振動も、自らの声によって震えた波形をそのまま大きくするようにマナを行使する。
この感覚についてはケイは本当に役に立たなかった。ちょっと気にしている様子を隠しているようで、それもまた良い思い出だ。ああいうのが結構可愛い。
緩みかけた思考を現実の敵に戻す。
莫大な音を浴びせても、相手の行軍は止まらない。予想していたかのようにむしろ加速して王国軍を目指している。
決してそれは許さない、それだけは。
森を歩く軍勢と空を泳ぐ戦乙女では勝負にならない。
無理やり先頭へと躍り出て、圧を伴う風で砂塵を巻き上げ威圧する。
ようやく止まった。
「そこまでです。カスター公。今すぐにやめてもらいますよ」
「なぜ、なぜだ?君は、君はわかっているのか!?私が裏切っているとでも?」
カスター公爵の目は暗い決意に輝いている。
「いいえ。私はあなたの感情が見える。あなたは私に敵対などしていない。むしろ贖罪のために行動を起こしたのでしょう?」
ようやく、動揺が見て取れた。理解できないといった様子で言葉に迷っている。
「なぜ、なぜだ!?わかっているなら、なぜ止めた?我々が自ら王国軍の敵になることがあなた達にとっての最善だろう!?」
そう。それは正しい。クルシュもケイの真似をして考え込んで気づいたのだ。どちらが悪いのかわからないから、両成敗として確保し調査するというのが建前である。ならそれを崩してしまえばいい。
どちらかが敵として認定されれば、もう片方は味方として扱われる。厳密には当然そんなことはないのだが、王国軍の臨時指揮官はそう単純に判断するだろう。
こちらから働きかけずに、しかも独断でカスター公爵の責任でそんな行動をとってもらうというのはまさに理想的な打開方法でもあった。
最も効率的で楽な手法。ケイならカスター公爵を少し見直して喜んで乗ったと思う。真に利する行動をしてくれたらならば家も細々と残してやるとでも言うかもしれない。
きっとカスター公爵はその辺りの交渉を手紙にでもまとめていて、今頃拠点に届いているのだろう。交渉とも呼べない嘆願は、ケイが受け取っていればきっと通る。
けれど、クルシュはそうしたくない。そう正直に言えば、ケイもそれに合わせてくれるだろう。
「黙りなさい!そんなことは百も承知です。論理や合理が重要であるなどと、この身の傷が決して私に忘れさせない。そんなことはわかっています。その上で言います。馬鹿みたいな最短の解決を。楽な道を選ぶな!卑怯者!!」
敵は、この風だ。『諦観』そして何より強い風、それが『無関心』。
この先の未来に対しての『無関心』である。
「時には最短の合理が必要な時もあります。けれど、今ではない。ここにいるのは全て王国民です。この三者が潰し合う愚かな行動はどんな言葉でも合理化できはしない。私が許しません」
クルシュはその思考停止を許さない。唾棄すべきものであると確信している。その風に乗ることは決してしない。
まるで王の如き威風堂々たる宣言。ここにいるのは全員が私の臣民であるとの断言に、言葉を失う。
自然と膝をつく兵士が現れ始めた。
「自らを罰したい。有意義に死にたいというそれは知恵ではない。言い訳です!あなたは私に負けたのだから、変な配慮などせず指示に従いなさい!」
多くがひれ伏している。
「あなたは、あなたは。この状況を容易く打破できると?我々の助力も犠牲もいらないと。そう言うのですか?どんな方法があって…!」
「ありません。まだ解決方法はない。ただし、この方法は無しです。それだけは決めています。あなた達は私のもの。一緒に知恵を絞りなさい。これは命令です」
口の端から、握った拳から血が滲むほどの激情を抱え、カスター公爵は叫ぶ。
「我々は、許されざる行いをしました。我々が間違っていた。その贖罪は、するべきだ。貴族とはどう死ぬかも仕事のうちでしょう。私は死ぬべきだ。可能な限りの罪を背負って、できるだけの人を救って死ぬべきだ。貴族なら当たり前だろう!?」
贖罪をさせてくれ。命を使ってそれをさせてくれと懇願する。
彼らを率いているように見えたが、それは違った。勝手に着いてきているのだ。彼らもどうにか救えないかと一芝居打つ予定らしかった。
「そうなのでしょうね。だけれど私はそんなことを知りません。残念ですが、私が物心ついたのは一年前ほどで、貴族としての自覚が生まれて半年も経っていませんから。その上、家庭教師は常識知らずでいつも当たり前を壊すことばかりを教え込まれました。世間知らずに完敗したことを恨みなさい」
アレクシス・カスターのあんぐりと開いた口が塞がらない。
その姿を見て、ようやく溜飲が下がった。やってやったという感覚がある。
不意打ちを正面から成功させるというのはこんなに楽しいのだと、クルシュは初めて知った。
これならケイがああやって人を騙したり、意表をつくのが得意になったのも頷ける。
これは、楽しい。ちゃんと勝つのは楽しいのだ。
「私は二度もあなたに勝ちました。あなたは一体なんですか!? 答えろっ!!アレクシス・カスターっ!!」
アレクは愕然としたままに、自然と膝を折って誓いの姿勢をとった。
剣を捧げる、騎士の姿勢である。
自分でも何をしているのかわかっていないような表情でそこまでを行い、ハッとする。
そして、今度は自分の意思で継続した。
「私は、クルシュ・カルステン様の臣下です。王たるあなたの、愚かな臣民。それが、私です」
その目には暗い輝きはなかった。まっすぐなその視線はクルシュだけを見ている。
「よろしい。あなたは私のものです。勝手は許しません。せっかくここまで来たのですから、王国軍に話しに行きましょうか。それまでに打開策を考えますよ。休まないでついてきなさい」
ケイのようにはできない。けれど、私なりに全力を。最善を尽くそう。
永井圭の如く、全てを一度に解決などできない。後から振り返って実はあれが罠だった。これが伏線だったなんてことはできそうにない。
今を全力で良いものにする。できれば少し先まで考える。
それくらいを、できる範囲で。クルシュは命をかけてやっていくのだ。
しかし、実のところこの結末には非常に永井圭と同じ箇所があった。似ているというレベルではなく同じことをしていた。
それはこうだ。
一切その気がなかったにも拘らず、圧倒した相手に好意を向けられる。
クルシュはいつもそんな様子のケイを注意して頬を膨らませていたものだが、今度は自分の番だった。
アレクシス・カスター公爵は、クルシュ・カルステンに落とされていた。
陥落や墜落などの表現が似合うほどに、劇的に。
その目の光に、風の色に、戦乙女は気づかない。
彼女の想い人のように、相手の好意に気づけない。
さすがに、100年繰り返して振り返る必要はないだろうが。クルシュもまた、人から受ける好意には頓着できない性格だった。
剣を受け、忠誠を受けようとする。
どんな貴族であっても最大に集中し、全霊をかける瞬間。
貴族としては未熟なクルシュは、集中などしていなかった。
別のことを見るのに忙しい。
その時に、全方位の森から多彩な魔法と、目にも止まらぬ矢が放たれた。
透明化された必至の一矢。音すら置き去りにする高速の魔法。
ミーティアによって生み出されるその暴力は、絶対に避けられないもののはずだった。
それをクルシュは、天翼の先を地面に突き刺し体を捩って、常人には理解不能な機動で全てを避けた。
だって、そこに敵がいることはわかっていたから。誘っただけだ。予想よりも速くて多くて見えづらくて焦ったが。
「んなぁ!!?」
「嘘だろ!」
あり得ないはずの機動。未来を見るかのような回避。
暗殺者達は矜持も忘れて声を出す。
奇襲を失敗した彼らは、その事実を飲み込めない。
だって、今のは無理だろう。絶対に避けられるはずがない。
『剣聖』が持つ『初見の加護』などそれ用の加護でもなければ、説明がつかない。
まさか複数持ちなのか?そんな恐ろしい想像が広がる。
クルシュが避けられた理由は実際のところ加護であった。
しかし、有用な加護が後から生えてきたりはしない。だから元々の加護を使っている。
『風』の認識がアップデートされて得られたもう一つの多大な恩恵。
それは、音波を視覚で捉えられるということだ。
音速と光速の違いなど誰も気にしていなかったが、その差はあまりに大きい。大きすぎてクルシュでは表現できないほどである。
クルシュには音が届く前に、その音が空気を押す風景と色。『音色』が見えるのだ。
これは不可視の存在や魔法。視覚外の奇襲などによる攻撃を全て白日の元に晒す。
音波は波である。後ろから撃たれても、前の風景の色が若干変わるのだ。
クルシュはこの感覚を得ることで、ようやく空中による高速戦闘をものにした。
人類には不可能な、超常の視界を得て全周囲を見渡す彼女は、猛禽よりも視野が広い。
ケイの出す透明人間も、クルシュには一切誤魔化しが利かなくなったのだった。
それを指摘した時の表情は傑作だった。絵画で欲しい。
それはそれとして、この宣誓の場は戦場へと切り替わる。
隠れ潜むものを空中から狩り出すのは得意だ。奇襲で当たらなかった攻撃が正面から当たるはずもない。
「お、お願いこれを!『色欲』に無理やり植え付けられたの!」
二人一組だった狙撃手の片方を殺すと、残った方は態度を豹変させた。
横にいた女は、必死な形相で自身の胸を強調し、そこに埋め込まれた魔石のような何かを見せてくる。
「指を見せなさい。3秒以内です」
3秒後に到達する風の刃を事前に放つ。
3… 2…
おや、左手薬指がある。風を解けさせる。
「指を動かしながら復唱なさい『カペラは誰からも愛されない』。さん、はい」
ヒッという音で、その女が萎縮する。
即座に、その理由が女の隣から起き上がってきた。
「このアバズレがぁああああ!!」
横の死体だったものが、妙な生き物達に姿を変えて登ってくる。
クルシュを捉えようと足をおろしていた木に殺到する。
「おや、お薬の時間のようですね。もう使い切ったのですか?」
「っ!!あれを作らせます!絶対に。方法がわかったら仲良く薬漬けにして一生飼ってやりますよ。夢の結婚生活ってやつじゃあないですか。よかったですねぇ?仲人のアタクシ様に泣いて感謝しろってんですよぉ!」
「確かに。ある意味ではあなたの存在は大きかった。それは事実ですが、あなたに感謝するのは全てが解決して、あなたのことを誰もが忘れてからになりそうです。あと10年くらいでしょうか。覚えていれば、感謝を捧げましょう」
言葉にならない罵詈雑言を吐き散らしながら、カペラが飛んだ。
クルシュは笑いながら、相手の平静を奪いながら風の鉄槌を叩き込む。
この存在は許せない。忘れることなど不可能だ。怒りが込み上げるのは当然だが、それを糧に相手は生きている。
相手が喜ぶような反応などしてやるものか。
可能な限り鮮烈に死んでもらいたいが、それは誰にも覚えられないようにするしそう伝える。
愛も憎しみもカペラにはもったいない。彼女にはありったけの『無関心』を注いであげよう。
事前にフェリスと相談して決めた通りに、カペラと戦い話していく。
「逆に私があなたを捕獲して、変異した人々を戻させます。お薬が欲しいのならきっと協力してくれそうですね。いいですか。これからあなたが殺す人数につき一日。薬の禁断症状を放置します。10人直せば一回投与をしてあげましょう」
吐き気の催す邪悪な言葉を、それでも口に出す。
ケイはこの作戦に私を関わらせるつもりはなかったのだろうが、そうはいかない。
これでいい。自分の矜持など被害者を救うことに何の役にも立たないのだから。
自分を曲げてでも人を助ける。そんな男の姿にこそクルシュは惚れ込んだのだから。