お気をつけください。
高く高く、遠く遠く、重なり合うように哄笑が響き渡る。
霧の蔓延する世界で、その巨体を揺らして遊泳する魚影が合わせて三つ。
全身に歪な無数の口を開き、そこから甲高い鳴き声を発し続ける異形の存在。数多の旅人を食らい、数え切れないほどの命を無に帰してきた悪意の産物。
ただの一匹ですら人々に絶望を与えるのに十分な脅威を持つそれは今、その影を三に増やして抗おうとする人間たちを嘲笑っていた。
頭上に浮かぶ白鯨の巨躯を見上げ、誰かが膝を突く音が小さく届く。次第にそれは連続し、高い音を立てて武器を取り落とす音も続いた。
見れば、討伐隊に参加していた騎士のひとりがぐったりと肩を落とし、下を向いて顔を覆いながら蹲っている。肩を震わせ、喉を嗚咽が駆け上がるのを誰にも止めることはできない。
その騎士の周囲にいた仲間たちもまた、誰ひとりかける言葉を持たなかった。
万全の準備の上、機先を制して火力を叩き込み、これでもかと攻勢をかけた上での———この理不尽な状況だ。
精神汚染による兵力の半減は深刻で、残った主戦力もまた新たに出現した白鯨の奇襲により粉砕されてしまった。
残る力を結集しても、それは最初のこちらの戦力の半分にも満たない。その上で相手にしなくてはならない魔獣の数は三倍———勝ち目など、あるはずがない。
誰もが一瞬でそれを悟り、自分たちの命が、目的が、ここで潰えるのだと思い知らされた。
魔獣の恐ろしさとおぞましさ。そしてその魔獣に奪われた大切な絆の重み。その絆に報いることのできない、自分たちの無力さに、どうしようもなく。
積み上げてきたものが崩れ落ち、支え続けてきた心が折られたとき、その場に膝を屈することを誰が責めることができるだろうか。
理不尽で、動かしようのない現実が迫るとき、誰に諦めを否定することができるだろうか。
「呑み込まれるな!!」
いや、ここにいる。
静寂が支配しようとした時、諦観という毒が回りきる前に風の太刀が敵を刻み、苦悶の叫びを上げさせる。
その叫びに、叱咤の声に一部が顔を上げる。
呼び掛ける人物の表情を、彼らは理解できなかった。しかし、絶望以外の疑問が生まれる。
なぜ、なぜあなたはそうも堂々と在ることができるのだと。
クルシュ・カルステンは、その絶望を一身に受け内心は揺れ動きつつもその一切を表に出さない。
凛々しく、堂々と。変わらずにそこに在りつづける。
そして彼女は、笛を力強く吹く。軍人とは、兵士とは不思議なもので決められた合図には体が動くものらしい。
最後の一斉射撃が行われる。ドン。ドドドド。と連続して聞こえるそれは、最初ほど綺麗に揃ってはいない。
しかし、相手に反撃をした味方がいる。最も高貴な方が、先頭で戦いを継続している。
そして見やれば、白鯨の鼻先をあのナツキ・スバルが駆け回っているではないか。
獅子奮迅の戦いを見せるメイド。フェリスの治療によって復帰するものもいる。他にもよく見れば、一心不乱に槍を投げるものや、必死で負傷者を回収するものたちもいる。
でも、やっぱり無理なんじゃ。そんな絶望の感情は、きっとこの霧の作用もあるのだろう。
心がだんだんと腐食して…
「特例対応の4。複数の白鯨出現の対応を実行せよ!!!」
その声に、小隊長たちがハッとする。
クルシュは知っている。強い気持ちで支えて進む強さを。しかしその心が折れた時、歩む力を失うことを。
けれど、クルシュは知った。絶望の中にも人が持ち得る、武器を教えてくれた者がいる。
『絶望なんて傲慢です。どう考えても負けるなんて。そんなに完璧に考えを巡らせることなんて、できっこない。どうせ自分達には見落とした勝機がある。そう仮定すべきだ。
彼らの気持ちが蘇るまで、理性にこそ訴えろ。人は気持ちを無視できない。けど、それだけで生きてるわけではない。
「今の攻撃で、敵は実体があることが判明した!そして見よ!全てに同じ傷はあるが、槍が刺さっているものは一体のみ!つまりはあれは、新たな白鯨ではない。身分け、分身の類だろう。蓄積は確実にある!」
一度絶望したのなら、下手な励ましは届かない。諦めるな。勝てる。漠然とした希望は響かない。事実を並べろ。一理あると思わせろ。脳で体を動かし続けろ!
見渡せば少しずつ武器を拾うものたちがいる。彼らの顔はいまだに絶望に囚われているが、それでも武器を握って走り出す。
砲撃を嫌がり、レムの猛攻に怯む白鯨。復帰した戦力に時間を稼いでもらい、スバルと小隊長たちがクルシュの元に集まる。
「主力は回収した。フェリスが復帰させるだろう。しかしそれまでに士気の回復と奴の底を暴かねば」
「なにか、カラクリがあるはずだ」
はっきりと断言し、クルシュはその凛々しい面差しをスバルへ向け、周囲に回す。
自然、その強い眼差しに射抜かれて、スバルは背筋を伸ばし、
「それを、見つけろってことか」
「皆で考える。時間稼ぎは卿の逃げ足と、それを援護する形で我々が行う。いずれにせよ、そう長くはもたない。なんとかするぞ———撤退など、もはや選択肢にない。呑まれる前に呑み込むしかない」
その言葉に、半ば反射でスバルは口を滑らせてしまう。
「そうだ、クルシュさん!すまねぇ!ケイが、ケイが飲まれちまった!」
叫ぶようなスバルの報告は、この場において最悪のタイミングに思えた。
しまった。ここでいうべきじゃなかった。
カルステン陣営の頭脳。この綿密な行動計画のほとんど全てを仕上げた男が、死んだというのか。
濃密な霧が纏うマナ。戦地の緊張感。その全てが感情を。絶望と希望の振り幅を強めている。
すがるようにクルシュを見ると、一同は驚愕に染まった。
「はは、あははははは!!」
クルシュ・カルステンの大笑いなど、見たことも聞いたこともない。
ついに限界が訪れてしまったのだろうかと不安が押し返すが、しかし彼女はそのままの勢いで宣言する。
「この戦い、勝てるぞ!敵はあと二体だ!!」
「奴は猛毒を喰らった!!とびきりの毒だ!あの大馬鹿者め!本当にやるとは!」
困惑は拭えない。本当に大丈夫なのかと近づこうとした時、それは起こった。
腹にくる衝撃。大気が一気に震える音。爆発音が唐突に響く。
空を泳ぐ白鯨の一体が内より爆ぜる。
内側からの圧力に耐えかねるようにその大口から土石流のように血と肉を吹き出し、頂点からは血が噴火する。全身の口からは噴煙が上がり、一瞬のうちで落ちていく。
その落下の衝撃は凄まじい。大地が揺れ、大樹から葉や枝が天地を逆にしたように降りしきる。
願ったはずの光景はどこか現実離れしていて、思考が止まってしまう。
けれど、なぜ?確かに喰われたら爆発でダメージを与えるとは言っていた。しかし喰われてから時間が経ちすぎている。
不発に終わったと思ったそれが、時間差で敵味方に関係なく衝撃を与えている。
「ケイの心配は不要だ。この戦い、勝つぞ」
言い切り、クルシュの地竜が方向を変えてスバルから離れていく。
彼女は大きく迂回し、睥睨する白鯨を回り込みながら、次々と散り散りになっていた討伐隊の各隊の下へとめぐり、声を上げる。
それに遅れないように、スバルもレムの元へ駆け出した。
「立て! 顔を上げろ! 敵を見ろ! 卿らはなんのためにここまできた!」
「——————」
絶望と悲嘆に暮れて、顔を俯けていた男たちは先ほどの爆発で視線を上げている。
その視線に先までの絶望はすでにない。燻っている火が見える。
あとは風を送ってやるだけで、大火となる。
彼らの前でクルシュは堂々と、抜き放った宝剣を天にかざしながら、
「あの男を見ろ! あれは武器もなく、非力で、吹けば飛ぶような弱者だ。打ち倒されるところを、私もこの目で見た無力な男だ!」
剣で走る背中———地竜にまたがるスバルを示し、クルシュは声をさらに高く上げる。
他の誰よりも、あの男が一番弱い。
戦う力がない。生き残るだけの能力もない。何度も何度も挫かれて、そのたびに打ちひしがれてきた敗北だらけの男だ。
そんな一番弱い男が、まだやれると誰よりも早く吠えている。
この場の誰よりも無力な男が、まだ戦えると歯を食い縛り、痛みに耐えて、涙を堪えて、血反吐を吐きながら、それでもまだ抗おうと上を見ている。
「それでどうして、我らが下を向いていられようか」
「——————」
「我々の力に不足はない、すでに一体を落としたぞ!奴は手負だ。勝機を逃すな!最も弱い男が最も前を走り続けている、そんな状況を皆は許せるか?」
「お、おお……」
理性で動けたものは良い。それでも動けないものたちもいる。
そしてこの光景は、そんな彼らの絶望を砕くには十分すぎた。
先ほどまで士気を折られていたとは微塵も感じさせない顔で、震える膝を鼓舞して立ち上がる。
取り落とした武器を手に持ち、主の騎乗を待つ地竜がその傍らに寄り添った。
雄叫びが上がる。自らの心を奮い立たせるように、己の魂を誇るために。敵を威圧するために。
戦う弱い少年の後ろに控える愚かしさを、吠えて猛って追い払う。
その感情を『恥』という。『恥』が恐れを、諦めを、負感情を切り開き、騎士たちに顔を上げさせ、前へ踏み出す力を与える。
「行くぞ!行動を、再開せよ!!」
「「「「おおお———!!!」」」」
作戦が、再開された。
崩れつつも陣形を直し、二体の白鯨との混戦が展開される。地竜やライガーも全力疾走を続けて最高速度が出せなくなってきた。
しかしそれは相手も同じこと。動きは少しずつ緩慢に。さらに得意の丸呑みをするのは危険であると学んだのか、攻撃の手段が限られている。
未だに角も庇うような動きを見せ、実際の負傷よりも刻んだ恐怖によって動きに縛りが生まれている。
少しして復帰したリカードにクルシュは指示を出す。ケイが爆発で外に出れていれば良いが、内に閉じ込められていては身動きが取れないだろう。自慢の嗅覚と聴覚で探し当てることはできるだろうか。
戦いも佳境だ、互いに決め手がないままではあるが相応に削りあっている。進路を誤った小隊が再び目の前で散っていく。
スバルがクルシュに合流し、考えたことを共有する。
「分身は、もとより弱いと思う。主力が抜けて、みんな消耗してるし相手は二体だ。なのに十分戦えてる」
「その推測には同意する。刃も深く入る。最初に比べ柔らかい。してその先はどうする。一体を落とし、手負で弱体化してるとはいえ数は脅威だ。二体の白鯨を落とす。口で言うのは容易いが、高い壁だ」
「二匹も三匹も殺す必要は、実際ないと思う。一匹でいいはずだ」
「やはり、最初の個体は特別、か」
「ああそうだ。自分の分身にだけ接近戦させて、まばらに霧を吐くだけで高みの見物決め込んでるあの野郎は、一体何をしてやがるんだと思う?」
「加勢もそぞろに、傷を癒している…?」
「あいつを、叩こう。これまでの戦いをみてもただの魔獣って感じの知能じゃない。ていうかそもそも鯨は割と賢いはずだ。リスクってもんを分かってやがる。あいつは安全にこっちを狩ろうとしてるんだ」
「あれが降りてこない理由と、倒し方はつながりました。でも、それでどうするんです?あそこまで高いところを飛ばれると、攻撃手段がありません」
静観していた三つ子の頭脳担当、へータローがリアリストらしい質問を飛ばしてくる。
「ちっとばかし、賭けの要素が強すぎる作戦があるけど…乗るか?」
片目をつむり、スバルは次善策を披露する前に彼女たちの覚悟を問う。
だが、それはそれこそ無粋な問いかけだったと言えるだろう。
この場に馳せ参じた時点で、彼女らが賭け事に躊躇するはずなどなく。
そんな大馬鹿者であることを、スバルは知っていたのだから。
内容を伝えれば返ってくるのは、感心と呆れのハーフアンドハーフといった様相。
「そんな目で見られても照れるぜ。ちな俺はハンドトス派だから。これだけは譲れない」
けれども反対意見は出てこない。レムは猛反対していたが、これはスバルの身を案じてのものなのでノーカウント。
「うし、じゃあやるか!」
スバルは己を奮い立たせるように見得を切る。
そういえば先日もそうだった。自分が気合を入れるとこの声に邪魔される。
「ちょっと待て、バカ」
でも今回は、スバルも待ち望んでいた声だった。
【ミーティアについて】
魔法器と呼ばれる道具で数百年前に作られたものが各地から遺物として出土している。
数が少ないことと魔法を扱えないものであっても魔法が使用できる万能性から希少価値が高い。
一つしか確認されていない希少なものもあれば、同じものが複数出土するものもある。衛兵の詰め所などには対話鏡と呼ばれるミーティアが設置されており、遠隔で人と対話をすることができる。
数百年前と比べ多くの基本技術が進歩しているが、ロストテクノロジーやロストマジックと呼ばれる失われたものも多い。白鯨などの魔獣もその一端である。