城郭都市グァラルの陥落。その結果は誰も想像できなかったほどに平穏であった。血気盛んなものたちは統率され、平時よりも落ち着いているかもしれない。
帝国兵の指揮官であるズィクル・オスマンの手腕と、シュドラク族長の座を妹へ譲り渡しても影響力の薄れないミゼルダの統率力が結果を出した。
ただし、町人の不満という物は上から押さえつけて消えるものではない。
その上で、それもすぐに掻き消えた。
他でもない王たる風格の大人物が、この街にいるからだ。
プリシラ・バーリエルはグァラルに残り、アベルとスバルの結果を待っている。
その結果如何によっては味方してやると条件をつけたのだ。それまではここを離れるつもりもなかった。
一時とはいえ居城となるのだ。下々の者どもの不安によってプリシラの平穏が乱されるなどあってはならない。一番大きな屋敷の接収も、その他民衆の不安の払拭もプリシラは片手間に片付けることができる。
だからそうしたというだけだ。
物書き率いる援軍との合流からすでに一週間が経とうとしている。
過酷な工事による兵たちの悲鳴は聞こえるが、これは健全な悲鳴なのでプリシラ的には『おーるおーけー』。
兵たちに暇など与えない方が良い。存分に働くべきである。
ここを妾の『きゃんぷ』地とする!という一方的な宣言で奪い取った私室では現在の主であるプリシラと、一旦はその預かりとなったレムがいた。
「相当に難儀していると見える。眉間に刻まれたシワが、そのよい証拠よ」
「それは……事実です。あまりに全部が突然で、その」
「なんじゃ?姉との付き合い方がわからぬと?妾に聞くでない。稀有なことではあるが、この妾であっても助言できぬ事柄というものもある」
レムはきょとんとした顔で、髪を梳く一瞬手を止めてしまった。
「それは、意外です。全てをわかってそうな。そんな雰囲気がありましたから。また難しいことを言われるかと思ってました」
「全知であるなどと、そのような退屈は耐え難い。とはいえ、言えることはある。聞きたいか?レムよ」
そこで、ずっと我慢していたのだろう。痺れを切らした男が声を上げた。
「ええい、クソ、付き合ってられるか。何を見せられてんだ俺は。プリシラ嬢!さっさと要件を言ってくれ。用がないなら、俺は酒場にでも……」
「またも無粋な声で妾を遮るとは、いくら痛めつけても学ばぬ男よ。しかしまぁ、貴様を追い払うのも良いか。この者はどうやら、周囲に人がいるほどに頑なになるようであるしな」
くつくつと笑うプリシラに、レムとハインケルが同時に抗議をしようとする。
しかし、それは次なる鋭い一言によって封殺された。
「状況が動くとすれば、今じゃ。気を引き締めておけ」
「「っ!」」
肘掛けに頬杖をついて、そう言い放ったプリシラに空気の水気が変わった。
プリシラの警告に深刻な顔をしたハインケルは、動き出した。
「プリシラ嬢、話がそれだけなら俺はいくぞ」
「好きにせよ。酒気に溺れるも、怠惰に過ごすも貴様の自由である」
「酒なんて飲んだくれてる気分じゃねえ。都市庁舎の、あのもじゃもじゃ頭の指揮官と話してくるさ。あの書記のやつは…まぁ、いるだろうから話すことになるか…」
真剣な顔でそう言い返して、そして苦手な相手を思い出して苦々しい顔をする。忙しく表情を変えたハインケルが大股で部屋の外へと出ていく。
それを小気味よいと笑うプリシラは笑顔である。
「続きじゃ。貴様ら姉妹のことであるが、妾にできることはない。唯一あるとするならば…」
言葉の続きを待つレムの眼差しに、プリシラはその切れ長の瞳を細め、
「――湯浴みじゃな。花弁を浮かべ、香を焚くがいい」
「……えっ」
「なんじゃ、二度言わせるな。湯浴みとする。早々に湯殿を用意せよ。シュルト。ラムはわかるな?あれが湯浴みの道具を用意しているはずじゃ。取りに行け」
ひらひらと手を振り、レムと控えていたシュルトの二人を急かす。
もちろん、レムは「え、え」と混乱を隠せないが、シュルトの方はビシッと敬礼し、
「わかりましたであります!ラム様から受け取って、お湯を張ってくるであります~!」
プリシラは頬杖をついたまま、改めて本の続きに取り掛かろうとしていて。
「貴様は行かぬのか?シュルト一人に全てを任せれば、ラムは見つからず、物は置き忘れ、栓はされずに大量の湯水を無駄にしようよ」
「シュルトさんのお手伝いはします。ただ、何を考えているんですか」
「貴様の疑り深さは、その先入観の強さの表れでもあるな。貴様、妾があらゆる事象を自由自在に操る、世界の観覧者とでも思っておるのか?」
そこまでは思っていなかったが、近いことは考えていたかもしれない。言われて気づく図星だった。
「この世の全ては妾にとって、都合の良いようにできておる。じゃが、それは全てを妾の意のままに従えるという意味ではない。言ったであろう。そのような退屈、望むはずもない」
万感の思いをその目に秘めて、その美しい女性は断言した。
「世界はただ、在るがままに美しい」
静かなプリシラの呟きには、彼女の掛け値なしの本心が込められて思えた。
でも、そんなの。だって、それが掛け値なしの本音だとしたら、あまりにも規模が大きすぎる。
プリシラがあまりに大きなモノを愛し、慈しんでいることになる。そんなのは…
「大切に慈しむなんて、プリシラさんの印象と真逆のことですし……」
「であればその印象を拾った目こそが節穴なのであろう。妾は変わらぬ。全てが妾に合わせて変わるのだ」
「それは…そうかもしれません。でも、私なりにしか世界は見れないのでそれなりにやっていきます」
力強くプリシラを見据えるレム、その胸中のもやもやはわずかに薄くなっていた。
プリシラと目が合い、その白い顎をしゃくって「行け」と命じられる。
「私は、プリシラさんの自由にはなりませんよ」
「だが、シュルトの悲鳴を無視もできまい。ラムとも会話をすることになる。そら、妾の勝ちじゃ」
せめてものレムの抵抗は儚く散る。
それ以上の抗弁をするには時間がない、何もレムを待ってはくれない。
状況は勝手に変わっていくのだから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
思惑通りに双子の姉妹は最終的にプリシラの入浴を手伝う事態に陥っていた。
認めたくないが、何かをしながらだと正面から向き合うよりずっと話しやすかった。
やられっぱなしではいられないと思うが、それでも勝てる気がしない。
そんな内心忙しいレムが髪を洗っているというのに、プリシラはゆっくりと立ち上がり、その足で浴室の窓の方へと向かった。
「プリシラさん、まだ洗っている最中で……あ!」
「プリシラ様。どうしましたか?レムの洗髪という贅沢から抜け出すなんて信じられない。一体何を?死ぬほどの体調不良か何かでしょうか?」
姉は平静ではなかった。実のところラムは別に、対応力が高いわけでも柔軟性が売りというわけでもない。
レムが起きてからは特に、理想の姉像を構築中であり隙だらけである。
「気にせずとも良い。妹を思う姉。姉と距離感のわからない妹というのは、湯浴みの余興としてはそこそこである。よって無礼の責は問わず、半端者に告げるだけにしてやろう。気にするでない」
ラムの目が険しくなるが、プリシラはそちらに目も向けない。
何をするつもりなのかと、そう呼びかけるレムとラムに耳を貸さず、プリシラがその美しい裸身を惜しげもなく晒したまま、浴室の窓を開け放った。
彼女は開けた窓から身を乗り出し、そのまま湯殿の外の露台へ出てしまったのだ。
「な、何をしているんですか!他の人に見られてしまいますよ!いくら、ここが一番上の階だからって……」
プリシラは視線を外へ向けたまま、
「ラム、レムよ。――疾く、下のものらに準備をさせよ。群れにもアレにも、遊びはないぞ」
プリシラの警告が如実に色濃くなったのを、姉妹の肌が、魂が感じ取り共鳴した。
そこからの動きは早い。ラムは即座に浴室を後にする。
「このまま湯浴みを続けても良いが、それも戦いが始まるまでのこと。レム、手を貸せ。妾も出るぞ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――同刻、高い壁に囲まれる都市を眼下に眺め、金色の瞳が細められる。
青い空を全身に纏わりつかせ、雄大な空間を我が物顔で行くのは、白い雲と肩を並べて風を切る存在――この世界で最も偉大な生き物、翼持つ竜の群れだ。
「――城郭都市、グァラル」
標的となる都市の名前を舌に乗せ、燃え滾る戦意が全身の血を熱くしていく。
その高まっていく戦意に呼応し、周りを飛んでいる仲間たちの意気も熱を増す。空を打つ羽ばたきに嘶きが混ざり、目前に迫る狩りの時間への期待が膨れ上がる。
肩口で揃えた空色の髪に、爛々と輝く金色の瞳。その華奢に見える体を包んでいる華やかな装いは、その存在の獰猛さと凶暴さを微塵も表せていない。
一見すれば、それを愛らしいと形容してしまうものもいよう。だが、それもその人影の頭部、そこに存在する二本の黒い角を目にするまでのこと。
有角人種の少なくないヴォラキア帝国にあっても、その『黒角』を目にする機会など滅多に――否、絶対にありえない。
それはすでに、存在しないはずの存在の証明に他ならないからだ。
「みんな、準備はいい?」
太陽を背負い、青い空を渡り、雲霞の如く押し寄せる破滅の具現。
舞い降りれば、怒号と悲鳴が響き渡り、あらゆる命が潰え、掻き消える災厄。
奇しくも、遠く離れた地で『大災』が都市を滅ぼしかけているのと同刻に、それとは異なる形の厄災が城郭に守られる都市へと迫る。
『九神将』の『玖』にして、都市の壊滅を命じられた『飛竜将』マデリン・エッシャルトが宣告する。
「恐れ慄き、逃げ惑え。お前たちに逃げ場はない。――竜がきた」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
空を覆い尽くす飛竜の大群が、都市の上空へと押し寄せる。羽ばたきの連なりは空気を震わせ、群れの影が昼を奪う。
永井圭は建物の一室、その窓から蒼穹を覆う飛竜の光景をぼけっと見ていた。
別に思考をしていないわけではない。
ケイは静かに数を測ろうとしていた。視線を細め、飛竜の密度と編隊の間隔を見極めながら、指を折って概算を始める。おおよその隊列と飛来時間を照合し、フェルミ推定によって頭の中でその数を弾き出していた。
観察は冷静そのもので、当たり前のように異常な光景すら理解の枠に収めようとしている。
異世界に来てからというもの、対応幅がかなり増えていた。
手元の対話鏡が光り、そして声がする。
『それで、私はまた待機なのですね?帝国に入ってからというもの、ほとんど仕事をしていないのですが。これでいいのですか?』
「帝国に同行する際の約束でしょう。僕の指示は絶対に聞いてもらいます。ここは全く無理するような場面じゃない」
「そーんにゃこと言って、ケイきゅんはどうせ死にまくりながら頑張るでしょ?クルシュ様はそのことを言ってんの!」
「もう準備で十分死んだ。今から死ぬ必要はそこまでないだろうと予想はしてる。こう見えても忙しんだよ。その分お前が働けばいいだろ、頑張れよ」
シャーっ!と威嚇されつつもケイは視線を外さない。
上級伯の領地にいる間からずっと、今も続けているのはフェリスにとって謎の作業である。
『ケイ。無事にまた会いましょう。信じていますよ。フェリス。よろしくお願いしますね』
ここ数日ケイはまた訳のわからない器具を並べて、いろいろな科学実験とやらをしているようだった。薬を作っている時と似ているが違う様子だが、フェリスは何をしているのかわからない。
「ええ、クルシュも。また後で」
重要だと主張するそれをケイは片づけ、ようやく部屋から出た。
永井圭と『青』のフェリスが城塞都市グァラルで、竜の群れを迎え撃つ。