距離を詰めるでもなく、逃げるでもなく、マデリンは静かに立っていた。
切りそろえられた空色の髪が無風の中にわずか揺れ、金の瞳が目の前の人物をまっすぐに射抜く。その瞳孔は縦に開いており、彼女が人間とは異なる種族であると示している。
「なんの用だ。ニンゲン。気安く竜に話しかけるな」
込められているのは敵意ではない。ただ、用心深く、こちらの出方を観察しようとする竜のものだった。
「どうかお許しください。あなたの目的のため、しばらくは不敬を我慢していただきたく。お声がけしても良いでしょうか?」
そう言って不動のまま敬意を示す姿勢を崩さずにじっとしていると、相手はどんどん苛ついてきたようで最後には容易に限界を超えたようだった。
「なんの用かと聞いてるっちゃ!話すことを話して早く消えろニンゲン!」
相対する男は叱責されても動じない。
端正な顔立ちに、真っ直ぐ整った淡い金髪。顔の左側にだけ流れる髪は長く、頬のラインを柔らかく隠しているが、その下にある赤みがかった茶色の瞳が鋭く光る。ルグニカの高貴な血筋を隠そうともしないその視線は、自信と誇りを隠さずにいる者のそれだった。
というよりは、地獄というものを知っている覚悟の目線だろうか。
「はい。それではお伝えさせていただきます。まず我々の目的と交渉についてです。詳細をここで詰めろと言われていますので整理させていただきますね」
アレクシス・カスターは、震えそうになる体を押さえつけて必死に職務に当たっていた。
竜人の放つ威圧は生物として屈したくなるほどのものだが、それでも決してそれは表に出したりはしない。
彼女は心を読めるわけではない。貴族たるもの動揺は決して悟らせない。
背筋は常にまっすぐで、歩みは無駄なく静かに。着ている軍装は格式に則った黒と銀の騎士服で、胸元に小さく家紋が刺繍されている。
今や風前の灯火となった家のため、全力を尽くさねばならない。
「あなたの目的は、元『九神将』バルロイ・テメグリフの記憶。可能であればそれの移植ですね。そしてそれらが不可能であるならば、皇帝への復讐を成し遂げたい。これで間違いありませんか?」
「そう言ってる!前に言ったことを繰り返すな!!」
「では我々の行動に協力していただきます。帝都を本来の皇帝に戻して、救援活動は終わります。復興にも手を貸しますが、それはあなたには関係がない。王国に入る手続きや準備は我々が時間をかけて行いますので、それはご承知ください」
「手伝うのはいい。けど、お前らの事情に付き合うなんて竜はしない。場所を教えられれば勝手に飛んでいく。空を行く竜とメゾレイアは誰にも止められない。あの大精霊は少しは認めてやるが、あれだけだ。ニンゲンにできることなどないっちゃ」
「いいえ。それは違います。二つの理由で否定をさせていただきます。まずは、単純な力量であなた方を圧倒し、空を自由に駆ける騎士が王国にはいます。ラインハルト・ヴァン・アストレアはご存知ですね?」
アレクの一言に、マデリンは眉根を寄せる。
何かを理解しようとする気配もない。代わりに彼女は小さく首を傾げ、心から「何を言っているのかわからん」とでも言いたげな仕草を見せた。
そこに含まれる戸惑いは、まるで未知の言語を聞いた幼子のようである。
実際にそのように答えた。嘘をつく意味がない。
「誰だそれは。ニンゲンの名前なんか。竜はいちいち覚えない」
アレクは流石に驚愕を隠せなかった。この世界の知的生命であれば、言葉さえ話せるならば。ラインハルトを知っているのが当たり前なのに。
そんな返答が、まさか帝国の一将から放たれるなんて。
「ええっ!?ええと。そうですね。どうしよう。彼のことを説明しないといけないのには慣れないな。ああ、そうだ!」
怪訝な表情のマデリンは、困り顔の下等なニンゲンを辛抱強く待っている。根本の価値観が人とずれているが、きっと悪い子じゃない。
「『九神将』の壱。セシルス・セグムントはご存知ですね」
次の瞬間、マデリンの表情に走ったのは拒絶反応だった。
鋭い痛みに眉をしかめ、口元から吐息のような低い呻きが漏れる。目が一瞬、焦点を失い、何かを見ていない空間を見つめる。その顔に浮かぶ苦々しさは、まるで記憶の底から何かが引きずり上げられたかのようだった。
苦々しい表情へと一気に変わり、その返答になっていた。
「あれは、あの変な男は。ニンゲンじゃないっちゃ。あんなのありえない」
言葉にするのも忌々しいといった様子で、マデリンは喉を詰まらせながら言葉を吐き出す。
唇を噛み、視線を伏せながら、心の奥底で燻っていた恐怖をようやく外へと解き放つようにようやく言った。
「そんな彼に勝ったことのある男が王国にはいます。誰よりも強く、なんでもできる男が守っています。『剣聖』と呼ばれる世界最強の存在です。一部の人間は龍よりも強い。それらの人間よりラインハルトが強い。それが事実です」
アレクの声は静かだったが、言葉が重みを持って落ちていく。
事実だけを並べるその口調には誇張も揶揄もなく、ただ強烈な実感が宿っていた。威圧を意図しないその口調が、結果的に威光を示していた。これは事実だとマデリンに確信させた。
「あ、あの青い変な男より、強い?ほんとに?」
マデリンの耳がピクリと動き、黄金の瞳が揺らめく。
咄嗟に出た言葉は、彼女自身も気づかぬうちに声へと漏れた。
竜としての誇りや虚勢はその一瞬だけ霧散し、かつて自らが恐怖した存在と、さらなる脅威との比較に呑まれた。
そこから語られるのは『剣聖』の異常性。それが十分に伝わったと思うタイミングでもう一つの理由を話すことにした。
「彼は王国全土に即座に駆けつけることができますが、少し時間はかかるかもしれない。その上で不法侵入が不可能だと言っているのは、塔には『神龍』がいるからですよ。『雲龍』様も凄まじい存在であるとは思いますが、同じ龍を即座に打倒できるとは思えない」
アレクは『神龍』が勝つと思っているが、それは口に出さなかった。
マデリンは自分の論理を完全に説き伏せられて、そして事実上の降参した。
「もう、もうわかったから!もう出てけっ!!消えろ!消えろっちゃあ!!」
薄闇の中、一人座り込んだマデリンは膝を抱え、その小さな身体をさらに小さく縮めていた。
肩にかかった淡い空色の髪が頬に張り付き、金色の瞳は翳りに沈む。
普段の威圧も誇りも今はどこにもなく、ただ不安に揺れる少女の輪郭がそこにあった。
世界があまりに広すぎて、一人ではあまりに心細い。
親は消え、群れは消え。良人も消えた。
唇が震え、か細い声が微かに零れる。
「バルロイ……」
誰にも届かない、すでにいないその人の名を、頬を湿らせ呟いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
エミリアと別れ歩いていると、またも珍しい相手に行き当たる。
「随分と不細工な状況であるな。妾好みではあるが、貴様のそれとは違うであろう。それがここまで美しい晴れ模様の空というのは皮肉ではないか。これは貴様の筋書き通りか?」
不満があるようにも、責めているようにも見えない。事実そうなのだろう。
「さぁ。なんとでも言えますが、もう少し被害は抑える予定でした」
「妾の湯殿を吹き飛ばした不敬は、想定通りか。相も変わらず命知らずなことよ。貴様らが持ち込んだ王国の陣幕を妾に使わせるが良い。帝国のものはもはや肌に合わぬ。要件はそれだけであったが、もう一つ聞いておこう」
息を吸い、そして吐く。
「貴様、狙いはなんじゃ?」
時間をかけた後に刃物でも向けられたかと錯覚するような切れ味で問いが飛ぶ。
「妾の考えでは、貴様はここにいるはずもない。他国への介入など、どれほど報酬を載せられたとて貴様は避けるであろうと思ったがな」
正解だ。彼女が持つ僕のプロファイルは正しい。
「これは災害への支援ですよ。軍事介入という名目じゃない。竜巻からの災害復興が実際に始まってますし、装備もそれ用にしてある。ルグニカ側の装備は完全な戦争のための装備じゃないでしょう」
理路整然と話をするが、プリシラには通用しない。それもわかっているが、別にいい。騙すつもりは最初からない。
「ふん。必要以上に賢しい男が二人も集まれば、よからぬ企みをするのも道理か。あの凡夫や妾の道化でも混ぜたほうが、よほど話としては観れるだろうがな。貴様らはどうにも最短を走りすぎる。情緒に欠けるというものじゃ」
「必要であれば考慮しますよ。最短最善に必要ならば、必死に人の気持ちも考えます」
「二度は問わぬぞ。努努忘れるな。あまねく照らす陽光からは、何も隠すことはできぬ」
その目はまるで太陽のようにこちらを見ている。
彼女は僕のやろうとしていることが何となくわかっているのかもしれない。
でも止めないということも知っていた。やはり二人は兄妹なのだなと感じ、自分とは全く似ていない慧理子のことを思い出すのだった。
思えば妹との対話というのは、ほとんどなかった。嫌われていたし、避けられていたから。
それ自体気にしたことはなかったが、今ならもう少しやりようがあったと自分でも思う。
妹を治すと決めたのは自分で、それも当然だと思ったから全力でやっていただけだ。
勝手にそう決めただけであって、慧理子にとっては自分を言い訳にして勉強ばかりの兄は理解できなかっただろう。昔は仲が良かったが、成長するにつれて慧理子が喧嘩腰になっていった。
それで別に良いと思っていたが、この異世界生活を通して考えが変わった。
生きていて記憶があり、話をしたいと思える家族がいるなら、対話はしておくだけ得だと思う。
母さんにもいくつか聞きたいことが出てきた。
父さんにも、できれば話しに行こうかなんて思えている。
自分にとっての優先順位をつけるためなのか、ただ話したいのかはわからない。両方かもしれない。
自分も随分と変わったらしい。その回想は見張りの報告で中断される。
『九神将』を訪ねた皇帝が、グァラルに戻ったようだ。
意識を未来から今へと切り替える。今を踏み外せば未来はない。
未来で何かをしたいと願うなら、面倒だが今をやれるだけ頑張るしかないのだ。
プリシラとの間に生まれた絶妙な緊張感を無視して、ケイは用事を済ませることにした。
「あ、忘れるところだった。すみません。もういらないので、陽剣の炎を陽剣の炎で焼き尽くしてください。前髪がずっと燃えるのは困るので」
雰囲気をぶち壊す提案に、プリシラは青筋を浮かべながらケイの頭から上を吹き飛ばし、そしてちゃんと陽炎を焼き払ってくれた。