帝都ルプガナからおよそ10kmほどの丘陵地帯。
小高い山を一つ隔てた小さな窪地を、反乱軍の陣地として設定した。
巨大な湖に隣接する場所であり。河川の流入も多い。
ここで準備を整えて、そして帝都へと進撃するのだ。
彼らはすでに10万に迫る大軍となっており、早々に雌雄を決しなければ自壊するほどの大きさになっていた。
帝国全土から集まった勇士と猛者たち。
それらがひしめく陣容は、まさに戦争目前といった様相であった。
ここに合流せず、独自に戦いを始めようとする氏族や勢力も非常に多い。
それらは合流はせずとも、自然と最も大きな群れの動きを待っていた。
その中心にいるのは、鬼面を被った統率者である。
彼がこの場を掌握していなければ、この巨体を誇る怪物のような大軍は自ら食い合いを始めていただろう。
しかし、全てを円滑に回し切った。
いよいよ明日に決戦を控え、戦士たちは血気をたぎらせている。
レムはどうにも、そんな血気盛んな戦場に身を置く場所を見出せず、かといって寝付けもしなかったので陣地から離れようと外へ出た。
「なんで、どうして戦いたがるのでしょう」
火が野営地を赤く照らす。
各氏族はそれぞれの焚火を囲み、猪や魚を炙りながら、戦場での再会を誓って大声で笑っていた。過去の栄光と未来の勝利が同じ重さで語られる。
誰もが明日の戦いに恐れを抱かず、むしろその到来を待ち望むかのように、その場の熱は夜の冷気すらも押し返していた。
レムはグァラルで治癒魔法を発動させてからずっと、傷病者を手当てしていた。
日常を過ごすだけでも怪我人は出る。軍で行動すれば尚更、帝国という土地柄も相まって救護所は常に人がいた。
一定の数が溜まると猫耳のフェリスという人がやってきて全員を治して帰っていく。
あの早さと何より同時並行で人を癒すという離れ技は何度見ても信じられない。
考えながら歩いていると、目立つ集団が不意に視界の隅に捉える。
そこでひときわ目を引くのは、黒い布をまとった一団が地を踏み鳴らす光景だ。
彼らは古く伝統のある氏族らしく、戦の前に祖霊へ己が命を預ける舞を舞う。
その動きは鋭く、音は鼓動のように連なり、やがて叫びとなって夜空へと突き抜ける。
見ている帝国民の心臓までが脈を打つような、激しくも神聖な祈りだった。
彼らを讃えて炎が焚かれ、そして叫びが重なっていく。
レムの心は動かない。
エミリアやガーフィール。仲間だったのだと語る彼らにも治癒魔法を教えてもらった。
ガーフィールという少年は自分に施す治癒魔法が隔絶していて、出力だけで言えばフェリスにも匹敵するほどだ。フェリス曰く、「めっちゃ雑」らしく。体を治しすぎて壊してるくらいだと言っていた。元の体が頑丈だから成立しているのだとか。
思考が別の刺激に中断される。妙な香りが流れていると思ったが、こちらから漂っていたのだろう。
この一角では、低く煙るような香が焚かれていた。
香炉を囲んだ一群は瞑目し、姿勢を崩さずに座している。
香の中には精神を研ぎ澄ませる成分が含まれており、ある種の麻薬でもある。彼らは無心に近い集中を得ている様子だった。
明日の戦場で一瞬の判断が生死を分けると、そう知る者たちの、静かな準備の形だ。
匂いを吸い込まないように、レムはそこをそそくさと抜ける。
帝国では一人も見なかったように、治癒魔法の使い手がここまで揃うというのは本当に珍しいようだった。
これほどの人数に膨れ上がっても、まともな帝国の治癒術師は一人もいない。
そもそもが少なく、才能があるものは帝都に召し上げられているらしい。
これも反乱軍が勝ちを確信している理由だ。帝国の歴史上、ここまで回復リソースがある軍というのは史上初めてである。それに自分が含まれていることがどこか嫌で、気分が沈む。
今騒いでいる人たちの中で、明日どれだけ人が死ぬのだろう。どれだけを助けられるのだろう。
不安だ。心の底から不安だ。
そうして歩いているとようやく、森を抜けて丘の上に出ることができた。
レムの足ならば多少の悪路はどうということはない。
帝都を囲む平野。それを一望できる高所に着くと、そこには先客がいた。
レムはその姿を見て息を呑む。
「ラム、さん?」
「ええ、あなたの姉様よ。どうやら同じ気持ちのようね。できることは違っても、感じることはここまで一緒。少し不気味だと思ってもいいくらいなのに、違和感がないのが不思議だわ」
月明かりを背景に、今にも消え入りそうな美しさ。
次の瞬間には消えてしまうのではないかと思うほどに、儚い美しさがそこにはあった。
「ラムさんでも。不安を感じているんですか?」
「ええそうよ。でなければあの集団を抜け出して、ここまで来ないでしょう。レムと同じだわ」
少しの沈黙が流れる。しかし、月夜に照らされる姉妹の雰囲気は柔らかなものだった。
「心配しなくても、バルスはどうせ帝都に来るわ。いえ、これはむしろ心配すべきね。おかしなことが立て続けに起こるのが決まっているようなもの」
「な!なんで、私は別にあの人のことはどうでも…」
「最高の姉かつ最強の女の勘よ。私たちはお互いに隠し事は難しいみたいね。動揺には気をつけなさい」
なんだか、プリシラ様といいラムさんといい。こうやってやり込められるのが多い気がする。
「それとレム。私のことは姉様と、そう呼んで。以前はそうだったと聞いているわ。別の名前で呼ばれるのは、この最高最強であっても堪えるもの。できれば姉様と呼んで」
真顔で言っているから、最初は冗談に聞こえなかった。
おかげで少し反応が遅れてしまったが、そうすると姉様の動揺が伝わってきた。
ああ、彼女もまた不安で動揺を内に秘めている。そう気づいた時に、ようやく彼女が姉妹だと頭でも理解できた。
自分は一人じゃないとわかるのはなんというか、気分が良かった。
「ふふ。はい。姉様。レムはきっとそう呼んでいたのだと、レムもそう思います」
引き裂かれた双子の姉妹は互いの傷跡をゆっくりと癒して再び関係を築き始める。
これを誰より熱望していた男がこれを見れないというのは残酷だが、きっと本人は結果だけ見て泣きながら満足するだろう。
遠くで雄叫びが聞こえた。それで思い出す。
こんな二人の和やかな雰囲気も、その実は暴力によって自分も保護され実現されているという事実にレムは気分が沈んでいく。
戦いは、嫌いだった。しかし、戦力は大事だ。
凶暴な魔獣であっても、この地の主が精霊であろうともこの陣容には手を出さない。
レムは知る由もないが、大罪司教であろうとも『強欲』であった男を除けばここへの襲撃は流石に二の足を踏むだろう。
まともな相手なら絶対に。まともでなくても手出しはしないのだ。
その時、雷鳴が響いた。
何かを割るような、強烈な炸裂音。
「雷…?」
「いえ、姉様。雲はありません、それに、音は下の方から…」
これはおかしい。遠雷というには近すぎるし、今は美しい月夜が照らしている通り晴れた夜空であるのだから。
レムとラムは最もそれが見えやすい位置でそれを見た。
雷光が駆け巡り、分厚い陣容を蹂躙する姿を特等席で眺めることになったのだった。
雷鳴が鳴り響く。
え?なんで?
そんな疑問が頭に上るのが大半の反応であり、そしてこの群れの統率者はそれに当たらなかった。
断続的に鳴り響く雷鳴が、近づいてくる。あまりに速い速度で、それが迫ってくる。
アベルは即座に行動をする。
陣幕を出た時にアベルが見たものは、それは筆舌に尽くし難い異常。
景色が変わる瞬間だった。
目の前の陣地と、背景にあった小規模な林が
バッガァンという強烈な音が、衝撃となって全身を打った。
「見渡す限りの
それはからりと笑って、素人目に見ても隙だらけのように立っている。
「強敵との戦いは当然ですが、有象無象を蹴散らすというのもまた魅せ場の一つと言えますね。嫌いじゃないです。むしろ好き」
ヴォラキア帝国が誇る最高戦力。『九神将』の壱。青き雷光。
我こそは世界の花形役者であると宣言して憚らない男。セシルス・セグムントが参戦した。
その参戦と同時に行われた暴虐は、縦に長い陣地をわざわざ縦に割ったような蛮行だった。
通りすがりに手当たり次第に斬って進む。興味のある方へフラッと進んでまた方向を直す。
それだけで地平を埋め尽くすような大群は割られ、稲妻が通った後のようなジグザグとした軌跡を生み出す。
ここにいるはずのない最強。
アベルは対応ができない。奴がいれば破綻するとチシャは誰よりもわかっていたはずだった。
逆ならばあれは封じる。だから、これは想定外の状況である。
「バカな。あり得ん…」
最善はもはや望めない。
『九神将』が駆けつけるためには、ほんの少し。
わずかな隙か、少しの時間が必要だった。
両方があれば確実だが、それは望むべくもない。
しかし、即応できるはずの衛兵は吹き飛ばされている。いたとして時間稼ぎは望めない。
帝国の剣狼たちですら、いや剣狼であればこそ唐突な最強の襲来と衝撃に身動きができない、
ヨルナは魔都の住民から離れないと宣言しているためここにはいない。
マデリンはエミリアやフェリスの付近にいるようにケイが指示していた。
警戒していたアラキアによる一掃は、プリシラがどこにいるかを隠すことで防げるはずだった。
青き雷光が、ここにいるはずがない。そんな予測を超越者は軽く笑うように世界を変える。
「何を考えていたのかわかりませんが。僕が目立つところに自然と立つのはこの世で唯一の自明の理では?」
笑顔で切り掛かる青き雷光。その姿は見えず対応などできない。だからこそ全霊で相手の切る場所を予測し、アベルは咄嗟に陽剣を抜いてそこに置く。
たった一合だった。
ギィイン!という音と共に、陽剣が手から離れ空へと消える。
陽剣さえあれば戦いの素人であっても一流の武芸者に並べるのだが、その程度では帝国最強の超越者と切り結ぶことなどできない。
少しばかりの隙や時間など生み出せない。
肉薄され、そして鬼面をずらして顔を掴まれた。
「『賢帝』の面。確かにいただきましたなぁ」
その声は、帝国最強の声ではない。しかし、最強の顔から放たれたものだった。
その強烈な違和感と同時に意味を理解し、アベルが激情に駆られ声が出かかるがそれでも圧倒的な力に抗うには足りない。
誰もがそれを見ているだけの瞬間にただ一人。
最強へと斬りかかるものがいた。
それは、この絶望を理解できる帝国の剣狼ではなかった。
その太刀筋は、セシルスから見ても大したものだと評するものだったが、片手間の手刀で撃ち落とせる程度のもの。
「『混色』っ!!」
その裂孔の気合いを伴う詠唱は、振りかぶった騎士剣に風と火を纏わせる。
帝国では珍しい魔法剣に、思わず刀剣マニアのセシルスはそれを見て笑ってしまった。
嫌いじゃない。むしろ好き。
立派な剣戟に飽き足らず、色まで足されるとはしかし、以前のセシルスならまだしもアラキアとの戦闘を日常的にこなしている今は魔法攻撃にも相当の経験を積んでいる。
少し強めに打ち払ってあげなくては。そんな風に思った時に、振りかぶった彼の胸元から光が炸裂した。
本来は投げつけて指向性を持たせて発動するはずだったものが解き放たれた。
そのあまりの威力に術者の胸を深く抉りながらも、魔法大国の粋を集めた極大精緻の魔法が敵へと向かう。
『混色』とは、魔石に封じた魔法の解放合図であった。
ロズワールの『アル・ウォーラ』と『アル・ゴーラ』と『アル・ジワルド』。
エミリアの『アル・ヒューマ』。
ガーフィールの『アル・ドーナ』。
ザーレスティアの『めっちゃ殺す風』。
それらが正しい順序で敵へと殺到する。
土魔法が、アベルを持ち上げて敵を下に落とし距離を稼ぐ。
次に風と火と光が穴に殺到し殺しにかかる。
特大の水が、逃げ場もないほどの質量で敵を包む。
彼が本来の力を振るっていても、愛刀がなければ全ては避けられないであろう猛攻。
ダメージはないが水で着物が少し濡れる。濡らした相手に空間ごと襲うのは帝国ではあり得ない寒波である。
身に纏った水分が氷刃となってその身を覆い、襲いかかる。
それらを受けた『最強』は心の底から楽しそうに笑った。笑っていた。
最初の魔法の到達から彼は何をしたのか。
単純だった。剣を振るって魔法を切った。
両手で初めて刀を持ち、そして全身を駆動させて世界を断つ。
本来であれば、そこらの適当な刀でもしっかりと切り仰ただろう。
けれど、そうはならなかった。
全力に耐えかねて、魔法を相殺した刀は砕かれた。
「いや〜!素晴らしい!なんと言っても自らの胸を深く抉るほどのその覚悟!誠に天晴れです!当然僕には及びませんが、主役の着物を濡らしたことは誇ってくれて良いですよ」
まるで試合を終えたかのように、朗らかに笑いかけた。
そうだ。彼は世界の頂点の一つ。
相手の言う通り、彼らのようなものたちが主役であって。自分のようなものは端役なのだろう。
勘違いをして最悪の間違いを犯した自分はそれを知っている。
力がなければ。知恵がなければ。世界を動かすことなどできはしない。
アレクシス・カスター如きでは。
自分なんかでは、命を使い潰してもこれが精一杯なのだ。
でも、それでも。やるべきことは、やれただろうか。
まだまだ、やることは山のようにあるが…
ここで終わるのもまた、誓いに殉じることになるだろうか。
どくどくと大事なものが外に出ていく。止められない。ああ、ダメだ。まだ僕は…
その寸前に見えた光景は、『青き雷光』に飛びかかる『極彩色』と『飛竜将』。
空中から降り注ぐ魔法の雨。
でも、やれることは、やれたんじゃないだろうか。
やっと僕は…
喪失感を上回る安堵の気持ちが湧き上がり、自然と表情は柔らかくなる。
消えかかる意識に声がかけられる。
「よく頑張ったネ。でも、死なせないよ。ケイきゅんもいないし、まだまだ働いてもらわなくっちゃ。このところの頑張りは、認めたげる」
彼は救うだけだ。理屈は後でいい。命が終わることを、ただただ許さない。それが今の『青』だった。
絶望的なまでの優しさがアレクを包み、安堵の毛布が引き剥がされる。
人を治す奇跡の光が灯る。
『青』の声がして、アレクの意識は途切れていった。