「そこまでよ」
これまでで一番、冷たい声が出た。薄い氷のような音。それが私の喉から出ていることに驚いた。
相手に怒っているわけじゃない。
自分の国の人を傷つけるのは辛いことだろうし嫌だろうが…
いや、これも私の考えだ。彼は戦って相手を殺すことを楽しんでいるかもしれない。
だからと言って相手を大罪司教のように思うことはできない。
彼がこうしてしまった原因の何か。それを許さない気持ちがきっと正しい。エミリアにはまだ言葉にできない『それ』を決して許さないと決めた。
決意が滲ませたその声がカフマ・イルルクスを捉えた時、すでに攻撃は終わっていた。
雨霰と雹礫が広範囲に広がり回避をさせない。
茨で防ぐが、それも虫さんに協力してもらって出していると聞いた。
息が白く染まり、周囲の気温が急激に下がっていく。
カフマの全身が軋む。
彼の身の内に潜む蟲たちが、未知の寒さに対して悲鳴をあげている。
蟲籠族の英雄であり、一将に最も近いと任される彼は体内に共生している蟲たちと共に戦うのだ。
「むうっ…!」
けれど、このままではすぐに多くの蟲を使えなくなってしまう。
自身の体を見つめ、そして感触を確かめる。
吐く息が白く凍り、肌を刺す冷気が骨にまで達する。体内に巣くう蟲たちが、段々と沈黙していく。
「……なんだ、これは……ここまでの冷気をっ……!」
短期決戦だ。動かなくなる前に、相手を倒すしかない。
眼前の少女へと肉薄し、そして渾身で蟲たちを解放する。
まるで龍の咆哮のような光が胸中に生まれ、敵を滅ぼそうと魔蟲が蠢いた。
「――アブソリュート・ゼロ」
世界が、静止した。
エミリアは、自分でもビックリするぐらいのマナを保有しているが、その莫大なマナを一度に操れるかというとそういうわけではない。
どれだけマナを溜め込んでいたとしても、一度に出せる量はゲートの分だけ。
それでも並大抵の魔法使いの十倍以上の出力を誇るエミリアだが、精霊術師として長年過ごしてきたことの強みが、その可能性をさらに広げた。
魔法使いはゲートを通じて、自らの内に溜め込んだマナを使用し、世界に干渉する。
精霊術師は精霊の力を借り、大気中のマナを使用し、世界に干渉する。
ならば、その両方の素養を兼ね備えたエミリアにはできる。
蛇口から出る水の量は定量だが、その水を桶に溜めればもっと多くの水を使える。それをエミリアは、自分の肉体と世界とで実行する。
自らの内から溢れたマナを外界に留め、ゲートを無視した極大魔法の応用――、
『アブソリュート・ゼロ』
スバルがそう名付け、実現は難しいかもと話していた机上の空論。
できるかわからないとケイに言ったら、練習し続けろと言われてしまった。
ロズワールに協力してもらい、ザーレスティアにも意見をもらって。
一週間以上をかけてしっかりと自分のものにできたのだった。
神龍の咆哮すら止められるかもしれないこの魔法を、寒さが弱点の戦士が受けた場合にどうなるか。
1分前まで万全だった二将は膝をつき、寒さに震えながら喉元を押さえる。
そこに巣食う火を放つ蟲が、このような場合には体温を引き上げ、内部から冷気に抗う役目を担うはずだった。
だが、今はあまりに動きが鈍い。すでに凍結した左手のように沈黙している。
「まだだ……他の蟲で……」
腹部に意識を向ける。解毒、吸熱、排毒、修復、知覚――あらゆる役目を担う蟲たちが、命令を待って蠢くはずの彼らが応答しない。反応するべき気配がない。
極寒の空気が肺の奥まで届き、ただの吸気が内臓を切り裂くように痛い。掌を開けば、皮膚は白く凍てつき、指の関節が曲がらない。
「やむをっ得まい…」
唇が裂ける音と共に呟き、とっておきの一匹を奥歯で無理やり潰して飲み下す。
禁じ手。最も危険な、敵の命を燃やす蟲。
その力が自身に向いたとき、己に抗う最後の炎となるか、あるいは死を早める毒となるか――賭ける他はなかった。
短期決戦しかない。最初の結論に帰結する。
全てを燃やしてでも、極寒に抗いそして勝ってみせるという気概に一部の蟲たちも呼応する。
燃えるように熱い体温を盾に、蟲たちは攻撃を開始し死闘を覚悟する…
けれどエミリアは、敵と自分の間に氷山を生み出した。
透き通るような氷の絶壁は、互いの目線はしっかりと通る。
しかし、すでに声は聞こえない。
カフマが叫ぶ。戦えと叫んでいるのは一目瞭然だ。
全てをかけて全霊で戦え卑怯者と氷山を削る。その熱量の差はまさに雪山とそこで遭難した旅人のような関係だった。
エミリアは自分が酷いことをしているとわかっている。でも、これが何より有効であるとも理解できる。
『誰かの命を救いたいのなら、せめて正々堂々とかはやめませんか?』
エミリアの氷魔法は相手に直撃し、魔法や流法で対抗されなければ、徐々に相手を凍らせることができる。
しかも動きを止めた後に解凍すれば、相手も無事だ。
ならば奇襲でそれを当てて、あとは逃げるなり守るなりすればいいというのがケイの意見だった。
氷山を削る音が、だんだんと小さくなる。本人の心拍と呼応するように、それは少しずつ間延びして、そしてピタリと動きを止めた。
静かすぎる戦いの終わりに、エミリアですら寒気を感じる。
第五頂点には氷山が生まれ、そして氷の壮麗な階段が城壁を無かったことにした。
帝都を守る予備兵力はそちらへと向かい、戦場がつられて動き出す。
帝都の守りが第五頂点へと向いたと報告が入る。
しかし、最大規模の軍勢がまとまっているのはここ、第三頂点である。
各頂点に散らばった戦力が再び統合され、英雄を失った氏族たちも合流させた。
ドラクロイ上級伯の飛竜隊による報告は早いが、今回はルグニカの加護まで借りている。
ここまで戦場を情報で俯瞰できたことはない。これだけでも、革新的な出来事だった。
頭目であるアベルから行けと。ただそれだけの命令が発せられた。
細かな内容はこちらに任せてもらっている。だから、今からするこれは命令違反ではない。
そもそも、きっと彼は気づいている。
アレクシス・カスター公爵は聡明だった。彼は最も命の危険が高い場所へと自らを置いた。
アベルは志願であれば言うことは無いと受け入れたようだったが、それには異論がある。
ズィクルはその覚悟を受け取らない。
「君らはここへ。そこを守ることが何より肝要だ」
少しの抵抗をされたが、それでも指揮権を翳してアレクを遠ざける。
「最後に一つ。無礼を承知で友人として語らせていただこう。君は、何かを誤ったのだろう。それがどれほどの事で一体何を失ったのかはわからない。けれど、これからきっといつの日か。挽回の機会は必ず来る。命はその時にとっておくべきだ」
もはや彼は外国の公爵ではなく、共に戦った若き戦友である。
帝国民は精強たれとする帝国の在り方を、未来ある王国民に強いるのはあまりに酷だ。
「私自身、その在り方に従えているとは言い切れない」
剣を手にし、愛馬であるレイディの背に揺られながら、ズィクルは自嘲する。
こうして勇ましさを装っているが、ズィクルが『将』の座に収まっているのは、オスマン家の先代たちが積み上げてきた威光に相乗りした経緯が大きい。
もしも、ズィクルが軍人の家系でなく、他の兵たちと同じように兵卒からの叩き上げだったとしたら、剣才のない自分に身を立てることはできなかっただろう。
それを嘆くわけではない。無論、ズィクルとて帝国の男だ。
事によっては自ら前線で剣を振るい、そのひと振りで戦況を変えてしまう『九神将』の在り方に憧れる心はあった。
けれどそれは実現しない。決して人の枠を超えるような働きはできないのだ。
だから――、
「――私は帝国二将、『臆病者』のズィクル・オスマンだ!!」
そう、高らかに声を張り上げて、かつて恥じた自身の二つ名を叫び、凄まじい変容を遂げる戦場を愛馬と駆ける。
怯えや不安と一切無縁の勇ましい走りをする愛馬に、ズィクルはただただ惚れ直す。
そのレイディのあまりに見事な走りは、ズィクルの慣れない戦口上など無視して、多くの叛徒たちの心に火を付け、この疾走に続かせていた。
「右翼は光人!左翼は刃金人!人馬人は正面を駆けろ!翼人たちが戦っているうちに戦場を塗り替えよ!!各自、指示通りに動け!あとのものは、この私に続け!『鋼人』モグロ・ハガネを、我らが討つ!」
「おお――っ!!」
ズィクルの指令を聞いて、集まる戦力が咆哮と共にモグロへと突撃する。その頭上を飛び越していく巨大な投石は、ヨルナを慕った志願兵たちの援護投擲だ。
それがモグロの気を引いて、石塊の人形たちの統率に少しでも乱れが生じれば、何よりもズィクルたちのこの突撃が足下へ届けば、狙いは完遂される。
「射レ――!!」
勇ましい掛け声が遠くから聞こえ、放たれる矢の雨が正面に立ちはだかる石人形たちを貫き、大地に縫い付けていく。
仕掛けたのは遠方、ズィクルの指示で距離を開き、その弓術による圧倒的な攻撃力を発揮する『シュドラクの民』と、弓を得意とする叛徒たち。
麗しく、気高い彼女らの援護を受けて突き進む。彼女らの無理なく下がった陣形も含めて、出来過ぎだと思われるほどで、ズィクルは奥歯を噛んだ。
「ズィクル二将!お下がりください!ここは我らが十分に!!」
「馬鹿を言うな!退路はない!下がる余地もない!私も往くぞ!!」
「――ッ」
疾風馬に跨り、並走した兵の訴えに首を振り、ズィクルは役目を手放さない。
一瞬、部下は何事か言いかけたが、それ以上、ズィクルの決意を邪魔しなかった。その心遣いに感謝しながら、手綱を強く、強く握る。
「はっ!『女好き』のズィクル・オスマン二将が、前線へ出張っていらすとは!」
と、並走する部下と反対側を、疾走する疾風馬と同等の速度で走る人影が追いつく。見ればそれは、片目を眼帯で覆った双剣の兵――ジャマル・オーレリーだ。
偶然とは言え気絶した永井圭を捕縛した経歴は、ルグニカに伝われば凄まじい伝説になるのだが、本人は全くそれに気づいていない。
アラキアとトッドを逃すため城郭都市陥落の際に捕虜になり、その後、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下への強い忠誠心から、ズィクルが旗下に引き入れた叩き上げの剣士。
「ジャマル上等兵、手応えは?」
「上々!右見ても左見ても、正面見ても敵だらけ!楽しくなってきやがりました!」
「ああ、実に素晴らしいな。帝国兵の誉れだ。私はこれから、モグロ一将に『捌』の座からどいてもらうつもりだが、ついてくるかね!」
「命令とあらば!何なら、道を作っておこうじゃねえですか!」
野性味のある笑みを浮かべ、そう言ったジャマルが加速し、レイディの速度を軽々と追い越して、正面の石人形の一団へと突っ込んでいく。
それに釣られるように、各氏族もそこへと続く。
彼らはズィクルが選び抜いた先鋒たちであり、その数は1万を超えている。
その背を追いかけながら、ズィクルは様々なことを思う。――だが、その躊躇にも似た逡巡は即座に切り捨てられた。
必要な場面で、必要な役割を果たす。
それが求められ、それに応えることを他ならぬズィクル自身が望んだのだから。
あとは――、
「――閣下、どうぞご随意に」
そう、ズィクルが祈りを捧げたのと、ほとんど同時だった。
――帝都ルプガナの水晶宮、その頂上にある魔水晶が瞬いたのは。
――この帝都決戦において、アベルの描いた絵を塗り替えたものがいくつかある。
一つは、ヨルナ・ミシグレが向かった第一頂点、そこに参戦したプリシラの存在。
アラキアを気にかけているのは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。単眼族は虐殺されただろうが、ヨルナとプリシラがいるのなら有利に推移するだろう。
一つは、自らの加護を用い、戦況の詳細な情報を拾い集める能を示したオットー。
それぞれの将の位置を割り出すのが急務だったが、それを解決したのが彼の加護だ。
『言霊の加護』によって周囲の生き物から情報を集めるその手腕は、商人にするには惜しい。
一つは、カフマ・イルルクスを圧倒し、あまりに早く撃破を成し遂げたエミリア。
ナツキ・スバルの仲間と名乗り、そして無垢な素振りをしていたが仕事はしっかりとこなすようだった。カフマはいまだ精神的には一将に及ばないが、戦力としては申し分のない水準だ。それを一瞬で制圧するというのは常軌を逸している。
一つは、ルグニカのものたちを説得し、理にかなった動きをさせたケイ。
グルービーの呪具部隊を空爆するかは悩まされたが、今帝国軍を削ることを躊躇っている余裕はない。理を認めて、王国最強の魔法使いの悪知恵に乗った。しかし、彼らは戦争向きでは無かった。それを変えたのがケイという男である。どうせ関わるならこうしろとあれこれ指図して、うまく誘導していた。
とはいえ、それらの出来事はアベルの構想した戦局の構図に多少の陰影を加えることはあっても、絵そのものの完成図を根本から塗り替えるものではなかった。
帝都を防衛する星型の城郭、その五つの頂点のうち一つでも突破できれば、たとえ他の拠点が拮抗状態に陥っていようとも、勝利へと至る筋道は描ける。
そうした布陣を思い描く中で、アベルがいかなる局面においても軽んじることがなかった鍵――それこそが、モグロ・ハガネ……
いや、ヴォラキア帝国の心臓たる水晶宮を預かる者、『ミーティア』であった。
世界でも類を見ない美を持つ水晶宮。その構造の中核を成す水晶部分は、希少かつ高純度な魔水晶によって築かれており、建造物でありながら極めて高性能な兵器としての顔を持つ。
宮内部に蓄積された莫大なマナは、各所に配された魔水晶を通じて増幅され、水晶宮の頂に鎮座する『魔晶砲』から撃ち出される。その一撃の破壊力は、大規模な都市をまるごと消し去るとされ、歴史上、実際に稼働したのは数百年前、かの『大災』との戦いにおいてであったと語られている。
この魔晶砲が存在する限り、帝都を巡る戦の流れは一瞬で塗り替えられかねない。
だからこそ――魔晶砲を撃たせる必要があった。
それも戦局を転覆させる秘策としてではなく、あらかじめ織り込まれた犠牲のひとつとして。
その目的のために――、
「――離脱はせなんだか、ズィクル・オスマン」
疾風馬に跨り、戦場である第三頂点へ向かったズィクルに、アベルはそうこぼす。
それがどんな理由による決心であろうと、アベルは挫こうとはしない。
ズィクルの生死もまた、アベルの描いた絵に最終的な影響を与えない立場だ。
大がかりなことを言えば、その絵には究極、アベルの生死すらも――。
「――物見より伝令!水晶宮の魔晶砲に、兆しあり!」
「――――」
「照準、第三頂点!!」
本陣に響き渡る激しい号令は、アベルの目論見が的中したことを明らかにした。
今、魔晶砲が解き放たれようとしている。その一撃は第三頂点――すなわち、城壁そのものと化したモグロの戦線を一掃し、そこに集結した叛徒たちを一瞬にして塵へと変えるはずだ。
だがたとえ砲撃で戦場を焼き尽くそうとも、モグロ・ハガネの本体たる水晶宮が損なわれぬ限り、『鋼人』を倒すことも、第三の防衛線を突破することも成し得ない。
それでも――帝都が誇る、あらゆる戦局をひっくり返す切り札たる魔晶砲。その砲撃能力を一度きりで消費させる、それこそが目的だった。
すべては、そうなるように計算し尽くされて、描かれた絵図なのだ。
そんな策謀など何も知らず、一万の将兵が黒い津波のように帝都へと押し寄せる。
叫び声が混ざり合い、地を叩く無数の足音が大地を震わせる中、彼らの視界の奥――帝都の中心、水晶の宮殿が不気味に輝いた。
その刹那、天の裂け目が開いたかのように、魔晶砲の砲口が閃光を孕む。
砲身から吐き出された光が――この日起きた発光のどれよりも強い絶光が、戦場を真っ直ぐに穿った。
音は遅れてきた。だが、目に映るものはあまりに早かった。
真っ先に突撃していた二千あまりの兵士が、まるで砂の像のように、風もなく砕けて散った。次いで、隊の半ばにいた千五百の兵たちも、光に包まれた瞬間、叫ぶ暇もなく光と化した。
絶光はそこで終わらなかった。刹那の照射ではあったが、まるで円を描くように帝都に死円を描くのだった。
地が割れた。人が吹き飛んだ。装備ごと蒸発した兵士の影が地に焼き付き、砂埃も、血の霧も、何もかもがただ溶けて消えた。
それは、砲撃という言葉ではあまりに軽い。圧倒的な力の誇示だった。
風が止まり、叫びが途絶え、煙すら光の熱で弾かれた戦場に、ただ一つの現実が残される。
――戦場は、たった一撃でまっさらな地平に戻された。
皇帝が温存した本隊。その突撃には最も信頼されているズィクルが先頭に立っている。
その姿を見ればここが最も重要で危険で旨みがあると、様々なものたちがそこに集まった。
日和見していたものたち。謀略で玉座をさらに荒らそうとするものたち。命令を無視したものたち。
何より、心の底から戦争のことを愛している。信奉している狂信者たちがそこにいた。
星の導きよりも少し早く実現してしまった戦場。
そこに真の英雄はおらず、あるのはただただ現実的な戦果と惨禍のみ。
状況を変え得る力を持ったものの判断だけが、それぞれの絵筆で現実を描いていく。
ヴィンセント・ヴォラキアが思い描いた通りに、第三頂点の戦いは白紙となった。
とはいえそれも白紙に転がった8139もの赤黒とした点、その死を無視すればの話だが。