『人は見たいものを、見たいように見る』
とある戦争の天才が言った言葉とされる。
人は嫌なことから目を逸らしがちであるという教訓めいて語られることが多いが、実際はそうでもない。
これは人の本質であり、生存に利する性質でもある。真実を真実として受け取り続ければ多くの人はその重荷に耐えられない。
辛く厳しい現実を生き抜く上で、自分の都合の良いように解釈するというのは、一種の合理性が宿っている。
それを認めた上で、永井圭はその見方を自分自身は採用しない。
緊急時の医療の現場においても、それは当てはまる。
「で?だからって傷ついてる患者にそのまま言うわけ?お前はもう助からないから諦めろって?そんなことしたら助かる人も諦めちゃう。それってどうなの?」
「状況によっては仕方ない。その方が多くを救えるならそうするべきだ。僕は、そのまま事実を見る。悪い状況でこそ。むしろ見たくないものを見るべきだ。トリアージは医療従事者が直面する悪夢だが、人を救う上では避けられない」
フェリスはその言葉ほど強く異論はないようだった。彼自身もその体験があるし、その必要性は理解できる。それを選ぶことが嫌いなのとケイのことが嫌いなだけだ。
「それってサ。なんか疲れちゃわにゃい?」
「……まぁ、そうだな。人によると思う」
「おい。今なんかすんごく失礼なこと考えたでしょ?ケイきゅんがそういうヘッタクソな誤魔化しする時ってわかりやすいんだよ?言ってみ。これ以上は怒らないから」
ため息をついて。最初の感想を話した。
「スバルと似たようなことを言うなと思っただけだ」
シャッー!!と猫の如くパンチを繰り出すその動作を予測し、触れないように打ち払った。
「ほんっと生意気。最初みたいな無防備さも、親近感を得る良い演出なんじゃない?最近のケイきゅんったら可愛らしさとか皆無じゃんね。そこんとこどうなの?」
「誰がそんなもの必要としてんだ。いらないだろ。それより話を戻すぞ。戦場での治療においてまず重要なのは何よりも搬送システムの確立。本来は治療や物資確保が重要だが、お前がいるならそれはいい。マナが尽きるまでは膨大な人を癒せる。本当に反則だよ」
最前線の傷病者手当の拠点。フェリスは今思えば穏やかだった対話を思い出していた。
次々と運び込まれる患者たちをまずは用意していた医官たちが診断し、危篤だが助かるものたちからベッドへと運んでいく。似た傷を癒すのは同時の方が効率がいい。
『青』のフェリスの戦場は、いつも通りに。いつも以上に地獄であった。
どこまでも現実的な血と臓物で彩られた死。それが延々と咲いている。
最前線の医療拠点は、華やかさとは無縁だ。
ここにいるのは敗残者たちだけであり、彼は急に現実と向き合わされている。
泥に塗れたテント、かろうじて支えられた帆布の隙間から、血と薬草の臭いが絶え間なく漏れていた。
担架に乗せられた兵たちが次々に運び込まれる。
片腕を失った者。顔半分を焼かれた者。声も出せずに痙攣する者。
命を繋ぐ手立ては限られ、運ばれた数だけ、命の灯も消えていく。
担架から横向きに遠ざかる戦場を眺める目にはいまだに憧憬が浮かんでいるが、それもテントに入るまでの話だ。
中には、どこまでも血生臭い現実しかない。
医師の役割を負った者たちは言葉少なに動き回った。
叫び声に耳を貸さず、懇願にも応えず、ただ機械のように傷を縫い、手足を切断し、血を止める。
助けられる者だけを助け、間に合わない者は陣幕から無慈悲に出していく。
戦場の英雄譚とは違う。聞いていた話と違う。
ここには、名も知られぬ兵士たちの、生と死だけが無造作に積み上がっていく。
「なんなの。本当に。信じられない」
なんでこんな風に命を投げ捨てることができるのかとフェリスは思わず悪態をついた。同時に四人の止血をしながら。
そんな言葉にも意味はない。
次々と人が運び込まれる。
治療を施す間もなく、息を引き取る者が後を絶たない。
ここに辿り着けた時点で、まだ幸運な部類――その事実さえ、この場では慰めにならなかった。
担架に乗せられた兵士は、両脚を失っていた。
太ももの付け根から下が存在せず、傷口には急ごしらえの止血帯が乱雑に巻かれている。
剥き出しになった骨片が、赤黒く乾きかけた肉の中から覗いていた。
意識はあった。震える手が空を掴もうとするたび、彼は何かを取り戻そうとするかのように呻いた。
彼はもう、助からないはずだった。ここにフェリスがいなければ。
別の担架では、片腕を失った兵士が痛みに呻いていた。
だが、彼が訴える痛みは失った腕そのものではなかった。
もうないはずの指先が、火で炙られるように痛むのだと叫んでいた。
失ったものをなお感じ続ける、残酷な痛みの残響だけがそこにある。
空を掻きむしる彼の指先には、血も泥も付かなかった。
その隣にいた兵士は、両目と鼻を失っていた。
顔の中心部がごっそりと抉られ、皮膚が焦げ、白骨が覗く。
呼吸は絶え絶えで、言葉にならない呻きだけが喉から漏れている。
いや、聞こえた。意味のあるようでない言葉が。
「帝…国万歳。剣狼の、強さを…」
彼の世界は既に暗闇だったが、それでも信仰への執着だけは濃く残っていた。
その指先が、虚空に何かを掴もうと蠢いていた。
その言葉と動作を冷ややかに見つめながら、フェリスは治癒を施していく。
それぞれに適切な処置をして命を救う。その光景は帝国の医療者にとっては奇跡の光景である。
それも、同時に複数人を癒すのだからありえない光景だ。
所定の位置に寝かせてフェリスの血液が染み込んだ蜘蛛糸が垂らされている。
これはまさに希望の蜘蛛の糸である。
そこから奇跡のような淡い『青』の光が注ぎ込まれれば、帝国の常識では確実に死んでいたものすらも生き返るのだ。
単純な止血や画一的な治癒であれば、一気に済ますこともできる。
傷跡が残ったりすぐには動かせなかったりと不完全な治癒になるが、それがこの場においては最善である。
「いいか、治しきるな。相手の体力は失ったままにしろ。足の負傷は重症でなければそのままでいい。内臓や脳を中心に応急手当てをできれば十分だ」
「何言ってんの?そんな中途半端なこと、する意味がわかんないんだけど?そこまでマナの使用量には違いもないし、そんな意地悪しないよ?」
「まぁ、任せる。正直どっちでも僕はいい。でも予想では…」
本当に悔しいが、ケイの言う通りだった。
なぜなら、完全に回復してしまえばこの馬鹿どもはまた戦場へと走り出すからだ。
故郷を取り返すでも、仇を討つでもなく。ただただ夢のために死ににいく。
そんなことをフェリスは決して許さない。
命を繋げるように中途半端に治す。最初ケイから言われた時には反射的に反発したが、それを正しいと認めてしまった。
この血飛沫と内臓が舞う戦場を、笑顔で戦い続ける帝国兵には一体何が見えているのだろうか。
四人一人は、まるで痛みを忘れたかのように恍惚としていて。足さえ無事なら今にも走り出していただろうものがいる。
「フェリスさん!私では間に合いそうにない重傷です。こっちに!」
レムの呼び声を受け、フェリスは躊躇なく駆け寄り、患者の状態をひと目見た。その呼吸は細く、四肢は痙攣し、胸部は押し潰されたように凹んでいる。鼓動は、皮膚の下でかすかに跳ねるだけのものだった。
一拍。二拍。
声は柔らかい。だが、確定している。
すぐさま向きを変えると、まだ意識を保ち助かる見込みのある青年へと手を伸ばす。
これはもうダメだ。
「もう大丈夫。すぐ良くなるから」
そう言って、頭をひと撫ですると患者は意識を失う。そうだ。絶望を告知する必要はない。
帝国の医官たちによって彼は運び出される。
そしてそのベッドを空けさせる。次に助かるかもしれないものをそこにのせるためだ。
フェリスは苦渋の選択を毎秒迫られる。命がこぼれ落ちていく。
間髪入れずにまた新しい危機が運ばれてくる。その全てを救うことは絶対にできない。
なら選ぶしかない。戦場における医療とは何を切り捨てるのかという取捨選択の作業である。
レムがその光景を震えながら見守っている。
口の端から無意識に血が流れる。それほど強く噛み締めていたようで、自分で気づいていないようだった。
フェリスがその頬に手を当てて口内の傷を即座に癒すと、そこで気づいたようだった。
「頑張ってると思うけど体力を使っちゃダメ。すぐに次を救うよ。いちいち何か考えるのも、議論するのも全部あと。わかった?」
レムは一瞬、言葉を失い、顔をしかめる。
「っっ!……はい…」
しかし次の瞬間にはうなずき、次の患者に向かっていった。
フェリス以外の医療者の水準が低く、その人数が少ないのも大きな問題だった。
レムはよくやっている。マナも多いし、飲み込みも早い。それでも経験が足りない。
レムだけではない。足りているものなど一つもない。
王国からの兵の中には多少は治癒術を使えるものが含まれているが、彼らは自分たちのために力を使っている。当たり前である。
一人に対してここまで時間を使えないことは、白鯨戦以来の惨状だ。
いや、あの時は医療体制を万全に整え、やり切れた。医療崩壊は初めての体験である。
白鯨の時には事前に傷を予測し、それ用の救護所を建てていた。
そもそも治癒術師の数を揃えてもいて今とは比べ物にならないレベルの体制が整っていたのだった。
帝国の医療事情は、あまりにお粗末なものであって話を聞くたびに愕然とする。
医官として派遣されたものたちがなぜ斧を持っているのかをフェリスは最初理解できなかった。
『慈悲の刃』と呼ばれるそれは帝国医官の証だった。
無理そうなら、本人が望めば、その場で苦痛を与えずに即座に解放するため斧を彼らは振るうのだ。
斧は最も上手い一人を除いて全て捨てさせた。全力で助けようと思っても拾えない命があるのだ。最初から諦めが選択肢に入るのは違う。そもそも彼らの助けられないという範囲とフェリスのそれには凄まじい開きがある。
斧を使うべきか迷う暇があるなら、その手で止血でもしていろという話である。
彼らにとっては絶望的でも、フェリスならば片手間で直せる傷が実際に多いのだ。
だから、フェリスの指示がなければ絶対に人を斬るなと最初に宣言を行った。
また一人を斧を持ったものの場所へと送り、フェリスはその感傷を捨てた。
「次、火傷です。ほとんど即死でしたが、一部はアラキア一将の戦場からも逃げられたようで、他にも呪具による爆発を喰らったものが、」
次の瞬間に、縦に飛び上がるような衝撃が一帯を襲った。
魔晶砲が使われたか、龍の咆哮が着弾した音だろう。おそらく、タイミングからして魔晶砲。
自動的に、決めていた対応を行う。即座にレムへと合図を送りレムは立ち上がり思いっきり地面を踏みつけた。
ダン!と大砲でも着弾したかのような音が上がり。起き始めていた恐慌の出鼻が挫かれる。
「これは想定内の衝撃です。いいですか。ここは龍や巨人。一帯を燃やし尽くすような魔法使いのいる戦場ですよ。これからもあんな地鳴りはあるでしょう。私たちはただ治すだけです。それが仕事でしょう」
恐慌に陥りかける救護所は、レムの地面を割るかのような震脚で落ち着きを取り戻した。
それはその声に、あまりに悲痛な叫びが含まれていたからだ。
熱に浮かされた帝国兵すらも、落ち着いてしまうほどの悲嘆。それでも前を向くという宣言がその言葉には含まれていた。
「これから、爆発と火傷あたりが一気に来るよ。今のうちに水分補給と食べ物を詰めといて。吐くのは許さないし食べないのもダメ。ぜったい詰め込んで、おかゆにしてあるから」
従事しているものたちは、顔面を蒼白にしながらもその指示に従う。
すでに数時間を休みなく極限の集中を行なっているものたちである。一度この辺りで一息入れないと1日持たない。
治すものたちが、脱水症状やハンガーノックになるなど絶対に許さないとケイが事前に補給に関しても明確に定めている。
「要手術の患者をまとめました!レムさん!フェリス様!こちらに!」
個別の対応が必要なところには二人の存在が不可欠だった。
フェリスはこの戦場を恨む。
これまでの帝国の戦いを恨む。
だってそうだろう。
唐突に理解してしまった。ケイはこれをわかっていたのだと思う。
この戦争の背後にある歴史を彼は理解していたのだ。
戦場の栄華はここにはない。あるのは呻きと、叫びと、黙して耐える音だけ。
けれどこの悲惨な状態は、慈悲の刃という欺瞞によってかき消され後世に伝わらない。
描かれるのは華々しい戦勝の光景を切り取った絵画だけ。
親を亡くした子供たちも、勇敢に戦ったのだとだけ聞かされる。
来た。見た。勝った。とそんな風に五体満足で故郷へ戻った勝者は語るのだろう。
その姿はきっと眩しく、子供たちは憧れ眺めるのだ。それこそが新たな戦争を生んでいく。
最も湿った、一番に汚れた、最悪に柔らかい部分を見なければ、いくらでも戦いが望まれる。
フェリスはケイとこれについて完璧に合意していた。
可能な限り、多くの敗残者を家に帰すと。そうしてようやく愚かな戦争の傷跡が白日の元にさらされる。
それがない限り、この地獄は未来永劫に続いていくのだから。
戦場をフェリスは睨みつける。その最悪の眺めを消してやりたい。
大いなる敵をそこに見出し、『青』は戦場を眺めていた。
「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」