ついに白鯨を地に落とした。
大多数のものは、この状況に至れば勝利できると想定するだろう。
その想定は正しい。飛行こそ霧の魔獣の最大の強みであるのは間違いない。
しかし、だからといって。50mを超える魔獣が、必死に、決死に足掻いている状況が容易いわけがない。体からはまだ消滅の霧を吹き出し、近づくものに覚悟を問う。
互いに殺し殺され得る領域。死域と呼ばれる場所まで引き摺り下ろすことはできた。しかし、そこからようやく始まるのだ。互いの生存をかけた純粋な力のぶつけ合いが。
その緊張感にはこの国を代表する新進気鋭の近衛騎士であっても震えを禁じ得ない。
しかしこの討伐に挑むものたち。特に歳を食った老兵たちにとっては、最上の舞台であった。
そしてその舞台には時間の制限もついている。分身の白鯨が、自らの本体に喰らいつき尾ひれのあたりを噛みちぎって逃がそうとしている。あれがなされるまでにやらねば。
「ヴィルヘルム殿、行きますか」
年嵩の元騎士が語りかける。
亜人戦争の折にも、いつかの魔獣の討伐任務の時にも共に戦った戦友。過去に幾度も似たような状況があったように思える。犠牲を覚悟し、相手を斬る。騎士であるなら当然のことだ。
「一番槍は俺がもらうぞ。いつものことだ」
剣鬼がかつてのように応え、駆け出す。
満身創痍の老兵たちが、我先にと白鯨へ殺到し始める。
それに引っ張られるように他の討伐隊も自然と前に進んでいく。ここで決める。奴を殺す。
誰もが自身の安全など省みる余裕はない。そんなことはどうでもいいのだと。
ようやく得られた対等な殺し合いの場に歓喜すら覚える。
誉ある戦いの魅力は恐怖を忘れさせるのだ。
「総員、聞けえええええええええええ!」
その狂奔に待ったをかけるものがいた。
クルシュ・カルステンは状況を正確に把握している。これから相応の血を流せばこの獣は討ち取れるであろうということもわかる。討伐隊にその意思があることも。わかりきっている。
けれど、違和感が拭えない。これでいいのかと何かが叫ぶ。そこで思い出すのはやはり。信を置く冷たい言葉。
『これしかないという道が見えた時それに飛びついてはいけない。本当にそれしかないかもしれない。けれど一度別の方法を考えられるなら、余地があるなら検討すべきだ。自己犠牲での解決というものは本人が一番楽になりたいだけだったりしますから』
この突撃は、真に勇敢な行いか?他の可能性に目を閉じて、楽になろうとしていないか?
もっと困難な、最善の道はないのか?
相談できる相手はいない。私が今それを思いつけなければ、彼らを失って勝利を得ることになる。
だが、この考えこそ我が儘ではないのか?そんな余裕などはなからないのでは?
私では、合理的な確信を抱けない。
ふーっと。息を吐き、決断を終える。
最善の一手など後からしかわからない。確実にできる良いことは迷わず素早く、力を集中してことに当たることだ。
十分に注目が集まった。
風の太刀。それを今まさに本体に喰らい付こうとしている
「分身を討て!これは命令だ!全軍、我が風とともに突撃せよ!!!」
すでに覚悟を決めていた剣鬼の身がすくむ。剣を捧げてから今まで、何一つ命令に疑問を持ったことはない。ただクルシュの剣としてあり続けた男が、咄嗟に動けない。
主より借り受けた宝剣を手にしておいて迷う。迷ってしまう。
クルシュ様、どうか!どうか…
慈悲を乞うように、懇願するように。ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが立ちすくむ。その停滞は時間にすれば大したものではない。しかし、即応しないということ自体が異常を知らせている。
「約束通り!私は白鯨を落としてみせたぞ。お前は一体なんだ!? 答えろっ!!ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアっ!!」
その言葉を、叫びを聞いて剣鬼が思う。
ここまで未熟とは無様。
ここまで言葉にさせるとは、無粋の極み。
そして、ここまで連れて来てくれた主への万感の感謝と信頼。それを思い出す。
見渡せば皆、指揮権を無視してでも足を止めて、答えを待ってくれている。きっとこのまま進んでも、ついてきてくれるのだろう。それを嬉しく思うとともに強く強く、恥入る。
自分一人の力でここまで辿り着けていたならそれも良かっただろう。
果たして一人きりでいったいどれだけやれただろう。白鯨にまみえることすらできなかったのではないか。単身挑み、妄執に果てることは想像に難くない。クルシュ。フェリス。ケイ。スバル。討伐隊の面々が脳裏に並び、自身の無力を自覚する。
してはならない失敗を全て踏み抜いた。こんな恥知らずでも、ここで言葉で返すような無粋を重ねる気にはなれない。
抜剣し、ただ分身へ走り出す。
その姿に誰もが続く。鬨の声が大地を揺らす。不思議と、小山のような白鯨が小さく見える。
ヴィルヘルムは自身に才があるなどと思ったことも、言ったこともない。心からそう思う。しかし一つだけ、得意なことがあると自認する。
捨てることだ。
剣鬼はこれまで、あらゆるものを捨ててきた。
家族の言葉を捨て剣士に。
故郷を捨てて兵士に。
妻のために人を捨て剣の鬼に。
家族を捨てて復讐の鬼に。
捨てることで何かになれた。何かを為せた。
ならばこの唯一の取り柄を活かそう。
信頼する明晰な若人も背中を押してくれたではないか。
『捨てれば、進める』
では捨てよう。
ここまでの自分の全てを、心と身体を動かした原動力そのもの。
妻への愛を捨てる。
最低の、ひどい夫だ。許してくれないかもしれない。自分で自分を許せないかもしれない。
だが捨てる。いまはただ、クルシュ・カルステンの剣であることを決めた。
剣の復讐鬼は仇に背をむけ、ただ一振りの滅私忘我の剣となった。
ヴィルヘルムは誰よりも早く白い小山に到達し、一撃を見舞う。
その剣はこの14年、いやここ30年で最高の手応えだった。
もっと速く切らねば。
剣を振りかぶると、妻と出会った王都はずれの場所を思い出す。それを捨てる。
先ほどよりもよくなった。もっと巧く切る。
上段に構えると、花は好きかと問うあの顔が浮かぶ。それを捨てる。
よくなった。もっと鋭く。
袈裟切りを狙うように振ると、生まれたばかりの我が子を抱き愛おしく見つめる妻、母となったテレシアが笑う。それを捨てる。
よい。より重く。
下段から切り上げると、初めての任務に出る息子を案じる妻に添えた手の感触を。それを捨てる。
ただ切る。切る。
ヴィルヘルムは全盛期に迫るような感覚、いや初めて剣を握ってからの日々を思い出す。何をしても上達したあの頃。その思い出を、捨てる。
剣が冴え渡る。老いによって体が動かないのが口惜しい。当然総合すれば劣るだろうが、技の冴えだけであればあの日の自分を超えている。
気づくと、刻まれた白鯨だったものの上に立ち。目の前に巨獣の角がある。
『どうして、剣を振るの?』
『お前を守るために』
捨てても捨てても、溢れ続ける思いを。それでも捨てる。
捨てれば一瞬全てを忘れる。その隙に剣を振るう。無心で振るわれたその太刀筋の美しさに魂が震える。
ただ無造作に剣を振り、当たり前に角を両断する。
それは戦いとは呼べないほど一方的な切断だった。
ヴィルヘルムが角を斬るのと同時に、討伐隊の面々も分身の臓腑へ一撃を入れていた。
計画をしたケイに当初は非難や懐疑が向けられていたが、実際にやってみればなるほどこれは剣では不可能だ。
すぐ近くでその不可能をやり続けている者がいるが、あれは剣鬼である。人の扱いにはならない。
白鯨が地上に留まり、その上で主力以外が致命傷を与える場面で採用された方法はこれだ。精強な戦士や剣士の手にあるのはツルハシと鋭利なスコップである。
刃渡りを超えて深く斬るのは常人にはできない。ならば掘れとのお達しだった。
まさにその様は掘削であり、戦闘ですらなかった。分身たる白鯨は自己の保身はほとんどせずに、持てる力を本体の解放に注いでいる。多少の抵抗も全て角を狙う剣鬼に向けられていた。こちらも戦闘とは言い難い。永遠にも感じる数分を掘り進め、ようやく致命の臓器を抉る。
それは剣鬼が角を切り飛ばしたのと同時であった。
そして奇しくも分身が尾ひれを食いちぎるのとも同時であった。
白鯨が弱々しく、それでも空に舞い戻る。
ヒューーーと笛の音が聞こえる。これは再三、念を押された音。誰もが脇目もふらず、追撃もせずその場から即時撤退を行う厳命である。剣鬼ですら怨敵に一瞥もくれず後方へ駆け出す。
眼下の一目散に逃げる敵を見据え、白鯨は怒りに似たものを感じていた。絶対に逃さない。消して、潰して、食ってやらねばならない。そのためにはまず、絶対の有利である高さを稼ぐ。本能に近いその動きを実行する。
すると、ずっと大樹付近でコソコソとしていた群れから強烈なマナの高まりを感じた。
最初に喰らったものと同等かそれ以上。今これに当たれば死ぬ。獣ですらそう直感するほどの熱量。
「「「「「「アル・ゴーア!!!」」」」」」
小さな太陽が、平原に浮かんだ。
そして想像を超えた速度で、放物線を描き飛んでくる。すでに白鯨には素早く避けるような余力はなかった。
燃えるような死が飛んでくる。
生まれて初めて、本当の死を感じた時。恐ろしい速度で考えた。人の思考とは根本が違うがそれでも何かをしようとした。命の危機はあらゆる生物にとって変化の機会である。
その機会を得た白鯨は初めて、
地に引き摺られ、一瞬で高度が落ちる。その速度は今の白鯨が出せる理論上最速のものだった。その閃きによって直撃の軌道を避ける。
必死に再度発動を行う、ありったけのマナを注ぎ頭上の光輪は光り輝く。かつてない負荷に体とゲートが燃え上がるような、ひび割れるような痛みを感じる。悲鳴を上げるが生来の耐久力で全てを乗り切った。
地面スレスレで持ち直し、上昇を再開することができた。外れた極大魔法は倒れた大樹に直撃し炎上。余波ですら周囲に火をつけた。
燃える平原は夜払いすら必要としないほどの光が溢れる。
炎で照らされた視界で全員がそれを見た。白鯨が嘲笑うように口を開く。そして咆哮。達成感でも感じているのだろうか。スバルに向ける執着以外で初めてみせるその感情は、嘲笑であった。
そのまま高度を上げていく。これまで行ったどの攻めの有効範囲をも超える高度。いざ霧を落とそうか、そうして全身の口が開いたとき。これまで一切しなかったマナの反応に目を向ける。先ほどよりは弱いが強烈なマナだ。しかし、地にいる時ならまだしもこの距離なら問題ないと判断し捨ておく。
霧を落とし始めた時にそれは始まった。
「アル・ゴーラ!!」
炎の竜巻が、平原から伸びる。
白鯨は、それを見ても嘲笑をする。なぜなら、まるで届いていないのだ。こんなものは脅威ではない。
炎の渦は少しずつ、大きさを増していく。その勢いを増すごとに、周囲から強風が吹き込んでいく。
その火と熱量はすでに術者の手を離れているだろうに増大することをやめない。豪炎の渦に巻き込むように暴風が吹き荒れる。
白鯨は今、風に運ばれ渦の中心に飲み込まれないように必死だ。
すでに魔法という領域ではない。別の世界で
熱の暴威が天を燃やし、白鯨を焦がす。
ケイが記した戦闘計画。そこで一貫している姿勢はまさに合理的。最大火力を同時に、最短で与えるという方針。
それに唯一当てはまらない役割を、ユリウス・ユークリウスはずっとこなしていた。
それはユリウスとそれに従う準精霊たちもそうだ。戦闘の余波で生まれる大量のマナ、それらを束ねていつでも掌握できるように集中する。
精霊魔法と通常魔法の違いとは、威力もあるがそのマナの源泉が大きな違いである。精霊魔法は周囲にあるマナを利用する。このために一人の人間が扱えるマナを遥かに超える量を行使することができるのだ。そして今宵のリーファウス平原には、あまりに膨大なマナが充満している。精霊使いにとってここは燃料に満ちた火薬庫である。
謹慎処分としての街道の清掃。その命令に従事する騎士は、泰然と佇む。
膨大なマナを火の準精霊を中心に束ねる。
準備ができると、ユリウスは隣に待たせていた人物へ声をかけた。
「準備は抜かりなく。一時は自分は必要ないかと思い肝を冷やしましたが、出番ということですね」
ヴィルヘルムが駆け出すのと同時にここに向かい、今まさに間に合ったところであった。
「ああ、卿を『最優』と見込んでの最終の策だ。では、いつでも」
「はい。感覚が変わります、お気をつけください。ネス。頼むよ。『ネクト』」
ユリウスは六属性全ての準精霊を従える精霊騎士である。敵対する陣営の者から堂々と、使用可能な魔法一覧を提出することを義務付けられた時は面食らったが、必要なことだったと今なら確信を持てる。ケイが注目したのはこの魔法だ。
『ネクト』他者と他者の感覚を繋げる魔法。音を介しない相談や複数人での協議に使うことが一般的だが、ケイの発想で別の役割を得る。
「イア。アロ。これほどの大舞台は初めてだろう。さぁ踊っておいで」
『アル・ゴーラ』
風と火の高難度の魔法を合わせる離れ業。これまでユリウスは中級のウル・ゴーラまでしか発動に成功していなかった。
そこまでのマナの用意が困難であり、何よりコントロールが利かないのだ。
それを『ネクト』が解決する。クルシュが持つ『風見の加護』これは嘘を見抜く加護ではない。
その本質は目には見えない風を読むことができるようになるというもの。人が吹かせる臆病風から、実際の風まで。この世でクルシュだけには見えているのだ。
そして今、その視界を知るものは二人となった。ネクトによる視界の共有。それによって『風見の加護』の視界を得たユリウスは。一帯の風を掌握した。
火の準精霊のイアが中心となり、風の準精霊のアロがそこに風を束ねて運ぶ。最初こそユリウスもマナを使ったが、すぐに周囲の膨大なマナが取って代わる。マナの消費よりもコントロールに気を遣う。
そして火は炎へ、さらに業火へと成長していく。その成長はもはや魔法の域を超えて止まらない。ケイが事前に警告していた。自分たちの空気を確保するようにと。
準精霊に守られる地面の二人は比較的安全だ。危険なのは上空である。
なぜなら熱は、上に向かう。
白鯨は困惑していた。必死に風に抗い続けるが一向に攻撃が終わらない。熱はどんどん増している。熱が傷を焦がす。最初こそマナを散らしてダメージを抑えていたが、現在自らを炙る火はマナ由来のものではない。自慢の魔法耐性も関係なしに焼かれていくがその異常なまでの生命力を振り絞って耐える。まだ炎の直撃に巻き込まれたわけではない。耐えられる。
やがて3分も経っただろうか。この極大魔法を超える災害を起こしたにしてはあり得ないほどの長時間をユリウスは維持し切った。むしろ限界は、ネクトによるつながりにあり、魔法自体はまだ続けることもできただろう。
しかしそれは必要ないと判断する。
「イア、アロ。あとは、頼んだ」
極度の集中から解き放たれて膝をつく。クルシュも倒れ、あとは趨勢を見守るばかりである。
白鯨は術者が倒れたことを感知した。しかしこの煉獄は終わらない。精霊魔法は術者を離れても継続する。
離れているはずなのに、向こうから意思があるように寄ってくる有様だ。その中心に、居座るものと。周囲をクルクルと回るもの。憎たらしいマナの塊。準精霊を見つける。
見つけるが、どうしようもない。霧でどうにかなど不可能だ。
そしてついに、自らの分身の血肉と油。鯨油が火炎に注がれ引火する。
ここに最大の火柱が生まれた。
その熱は刺さった鉄を伝い、体内を蹂躙する。
自らを薪に燃える業炎。その皮肉な火柱は遠い王都からも見えたという。
白鯨はまるで干魃に耐える小魚のように、終わりを願い耐え続ける。
討伐隊はその命の終わりを願い続ける。
いよいよ火が消えた。火を導き、風を選んで運び続けた準精霊も主の元へ帰還する。
討伐隊は、天を仰いでただその光景を見ていた。
巻き上げられた火が、雪のように降り注ぐ幻想的な光景はひどく現実味を失っている。
しかしそこには、認めたくない現実が浮かんでいた。
白鯨は、まだ浮いている。もはや白い部分の方が少なく血と炭で黒くなったその有り様は無惨だが、それでも生きている。
耐久力。どれだけ削れても再生し続けるその在り方。白鯨の本質はその一点における化け物であった。これまではその悪辣な霧で本質を隠し、その恩恵を限界まで活用した。
リーファウス街道 大樹から少し離れた丘にて
豪華な竜車の上にこれまた豪奢な椅子を置き、大樹があった方向を優雅に眺める者がいた。
炎のような少女は視線の先の大炎を瞳に映し一人ごちる。
「ここまでとは。全くもって望外の遊興よ。我が故郷であってもここまで血風吹き荒び、大炎が舞う演目はなかった。ケイと言ったかあの書記、業腹じゃが認めてやろう。あやつは大した物書きである。しかし、ここまでか?」
炎に包まれ、炙られてもなお。高度が落ちない魔獣を眺めてそう呟く。その声色には失望の色はなくただただ期待が込められていた。扇に隠された口元は喜色に染まり歪んでいる。
「妾を差し置いて、ここまで激しい陽炎を作りおったのだ。終わりではなかろう?」
さぁ続きを見せてみろと、目を見開き思わずそう期待していた。
クルシュは目をふせる。そこに絶望などはない。持てる最大をぶつけた。一切の後悔もない。全てを出し切ってぶつけたのだ。
それでも、届かなかった。
ちぎり取られた尾ひれがあった場所。そこから真っ赤な血が溢れるがそんなものを気にするものは、ケイ以外にいなかった。いつの間にかクルシュの近くへ戻ってきていたケイは。その赤い鮮やかな血を見て叫ぶ。
「よぉしっ!!!勝ったぁっ!!!」
大きく腕を振り上げて感情を、喜色を爆発させるケイ。そんな姿は想像もできなかったが存外違和感はない。
クルシュは白鯨を見る。ケイの喜びとは異なり、やつは勝利の風を吹かせてそこにいる。
感情が追いつかない。本当に勝ったのか?
「あれで、本当に?」
ようやく疑問が口をつく。
すると、白鯨に異変が訪れる。
体表の口がパクパクと開閉するが、霧が出てこない。むしろ、何かを吐くというより。吸おうとしているように見える。
苦しそうに、全身の口が苦悶に歪む。
「終わりです。奴はもう、空気を吸っても酸素を体内に取り込むことはできていない。それを補っていただろうマナも尽きた。放っておいてもあのまま死ぬ」
クルシュは酸素というものを知らない。それに気づかないほど、ケイは確信に浮かれている。
徹頭徹尾、ケイの狙いは一貫して白鯨の血であった。
毒で汚染し、塩で汚す。血を流させて量を減らし、最後は炎で包み込む。火傷は血液から水分を奪い、機能を奪う。それがもたらす結果は、シンプル。
酸素欠乏である。脳に酸素が渡らなければ、あらゆる機能を失っていく。
ケイは見抜いていた。白鯨は霧の化け物ではない。耐久力と生命力の化け物である。
そう看破した上で、あらゆる前例に倣わず、あの白鯨に持久戦を挑んだのだった。
「たった400年だろうが!それっぽっちで人類に勝てるわけあるか!」
そう。持久戦とは有史以前よりあらゆる獣を人類が狩ってきた最高の戦法である。400年の成功など、600万年間生き残り続けた狩猟採集民族の厚みに比べれば無に等しい。
いやゼロは言いすぎた、ほんの15000分の1程度だ。
そんなケイが吹かせる確信の風を見て、ようやく実感が湧き始めた。
「我々は、勝ったのか…」
白鯨が身を捩って苦しみ出す。
誰もが初めて見る光景だが同じ感想を抱く。その不可思議な光景を見て誰かがこう呟いた。
全身の口が開閉し必死で空気を取り込もうともがくが、一向に苦しみが消えない。霧を出すどころではない。混乱、焦燥。そして苦悶。残ったヒレを振り回して足掻くが、ついに高度が下がりそして落下を始めた。
頭上で煌々と光っていた光輪は色を失い、消失。巨体が地面に向かって真っ直ぐに加速していく。
高く高く自らを安全地帯にと持ち上げたのが仇となった。絶対の味方がそのまま凶器となって襲いかかる。
大地という名の鉄槌が白鯨の頭をひしゃぎ潰した。
堕ちた白鯨はすでに一切の身動きも取れない。それでも生きている生命力と耐久力は異常という他ない。
その鼻先に、一人の男が歩み寄る。
一振りの剣となった男が近づいていく。
この生死を賭けた激闘と、十四年にわたる執念と、四百年にも及ぶ人と白鯨の争いの歴史に、幕を下ろす———そのために。
体が軽い。若かりし頃に幾度も経験したあの感覚。殻を破った時の高揚感が体を駆け巡っている。
この魔獣の命を妻に捧げようと思っていた。
しかし、今やそれは叶わない。
妻を、テレシアを捨てた男がどの口で妻への愛を語れるのだろうか。
その思いを捨て、剣を走らせる。
剣に血すら残らない絶技が幾度も走り、白鯨を刻んでいく。
振るうたびに思い出す。捨てるたびに研がれていく。
妻との思い出を捨てるたびに心が砕けるように痛い。
まるで自身を切り、削っているようだ。
その感傷も捨てていく。
だが今、気づいた。いつまでも捨てるものが無くならない状況に。
ずっとこの思いを手放すのが怖かった。一瞬でも忘れるのが恐ろしかった。
この恐れこそが剣を鈍らせていたのだと。
捨ててみて初めてわかった。
鋭く美しい剣筋を見るとどうしても思い出す。
一振りするたびに捨てたはずの想いが新たに溢れる。
今、胸にあるのは、熱い想いだけ。
どうやら、捨てきれないものもあるらしい。
たった一つの得意なことすら満足にできないかと自嘲し、最後のトドメを刺し入れる。
最後だけは不恰好でも全てを乗せた。何一つ捨てていない、年相応の一撃を。
霧の魔獣はここに討たれた。
【白鯨の死因について】
最大の原因は上空からの落下による衝撃。トドメは斬撃による失血性ショックと思われるが、すでに火災から発生する有毒ガスを吸い続けて酸欠状態にあったため仮に落下と斬撃がなくとも死んでいた。
上空に流れた酸欠空気を主として、風の精霊が悪い風を集めて白鯨に送り続けた。一酸化炭素、二酸化炭素、窒素酸化物、揮発性有機化合物などが呼吸器系および血液の酸素運搬能力に致命的な損傷を与えたと推測される。鮮やかな血色はヘモグロビンと一酸化炭素が結合した時の症状。その結合は非常に強く、酸素とは結合しなくなる。治療には輸血が必要である。
また、ケイがかき集めさせた毒物のうちにボツリヌス毒素が入っていた場合それによる死も考えうるが、死因の同定は困難を極める。