現れたハイエナの亜人は、腹部に重傷を負っていた。
そして、見るからに失血しており全体として生きているのが奇跡という傷病者だった。
「クソゴズの野郎。聞こえてるだろうに足を止めやがらねぇなクソが!ゲホっ。ぐぅ、クソっ!」
「グルービー・ガムレットだな?手短に説明する。お前もこちらの施術を受けるか決めろ」
相手のことは知っていた。予定ではガーフィールとロズワールが戦うはずだった一将だ。
「そりゃ『慈母の血衣』か?何でそれを持ってる。帝国から消えてクソ年月が経ってるクソ呪具だろーがそれは」
血液がケイの身体を覆い、滑らかにうねる布にも見える液体は、奇妙な均一性を帯びて固化している。
全身を包み込んだそれは、戦術的な機能性を誇る現代軍装を模したものへと変貌している。
マットブラックと赤の戦闘スーツ。皮膚にぴったりと張り付くようでいて、関節や筋肉の動きに一切干渉しない柔軟性を持つ。厚みや縫い目の存在しないその表面は、まるで赤黒い闇そのものを身に纏っているようだった。
「どんな設計思想だよその鎧は。機能性を感じるがクソほど想定がわからねぇ。お前は一体何と戦うどこのクソ野郎だ?」
肩と胸にはダミーの防弾プレートが浮かび、脚部にはポーチの輪郭すら再現されている。腰回りには存在しない予備弾倉や装備ポーチが幾つも配されており、背にはロープハーネスのような造形。
最も印象的なのは頭部を覆うヘルメットであった。表情を完全に隠す球状のバイザーマスク。表面は磨き上げられたように滑らかで、周囲の景色を曖昧に映している。見る者には人間らしさをまったく感じさせない。
「噂の皇弟だよ。ヴィンセントの支援をする。ヴォラキア皇族の救出を手伝えグルービー」
そう言ってバイザーをあげて顔とその髪を見せた。
グルービーは黒髪と顔立ち、そしてその不遜な視線を認め
「まじで閣下みたいな言い方、目付きじゃねえか!ク…黒髪が。いや、皇弟の噂はクソ欺瞞なのは間違いねぇ。だが状況的にはそれを閣下も利用してんのか?それこそクソじゃねぇか!」
「どっちでもいいだろ実際。協力でいいんだな?手伝えるならまずは動けるようにしてやる」
彼はこれから施される治療のその副作用を聞かされて明確に動揺する。
状況が状況だ。この場は、ヴォラキア帝国を滅亡の危機から救うのが最優先。
本当なら、この皇弟を自称する相手を調べたり、この状況を精査すべきだが本当に余裕がない。
全てに優先するべき理由が、グルービーの中には沸々と燃えていた。
「クソが」
短く吐かれた悪罵、それは消えることのない苛立ちからくるものだ。
――こうして屍人に支配された帝都を目にしたときから、グルービーはヴィンセントかチシャのどちらかが死んでいる可能性を想起していた。そして、どちらかが死んでいるとしたら、死んだのはチシャの方だろうとも。
ヴィンセントの歩みに、どこか淡々とした死の香りが付きまとっていた兆しはあった。だがあるとき、それがぷつりと立ち消えたかと思いきや、この事態だ。
「クソ白い面したクソ馬鹿野郎が」
淡々と感情を窺わせない男だったが、彼はついに臭いにさえも心中を隠し切った。
帝都決戦を目前に、グルービーを戦場から西方へ遠ざけ、そして戻したのはヴィンセントの指示だったが、あのヴィンセントがチシャだったのだろう。
その間、ヴィンセントがどうなっていたのかグルービーは知る由もないが、反乱を起こしたのは本人だったということだろう。
あまり合理的ではない直感が囁く。これは勘だがチシャの独り勝ちに見える。死んだにも拘らず、そう嗅ぎ取れるのだ。
だがその勝利も、帝国が負けてしまえばなかったことになる。
「クソが」
そんな、馬鹿げた話があってたまるものか。
グルービーは帝国に生まれ、帝国で育ち、帝国で生きている髭犬人だ。グルービーの働きには種族の地位向上がかかっており、勇ましく戦って死ぬのが務めと言われ続けた。
グルービーは自分が帝国史に名を刻む存在として生まれた自覚があったし、事実として皇帝に見出され、帝国一将となるべくとんとん拍子に出世した。
それに疑問はない。そうしたいと思っているし、事実帝国の一角を担うほどに成長しその自負は確固たるものになっている。
そのグルービー・ガムレットが、自分と対等かそれ以上と認めたのが『九神将』だ。
グルービーは帝国の戦士であり、『帝国人は精強たれ』という哲学を奉じる一人だ。
だからこそ、勝敗とは神聖なものだ。――勝者は、称えられなければならない。
「クソがクソがクソがクソクソクソクソが……ッ」
戦いの絶えないヴォラキアで、その不文律さえも歪められればこの世は地獄だ。
そして地獄とは、ヴォラキアの敵が味わうものであり、この世を地獄とするわけにはいかないのだ。
地獄の在処を、敵にわからせてやらなければならない。何を支払ってでもやってやる。
ゴズよりも明確に悩み、それでも彼は決心した。
「ああ!クソクソクソ!!クソッタレだがこのままじゃあまず間違いなく死ぬ。クソ死体どもと仲良く並ぶくらいなら、怪しいがそっちのクソに乗ってやる!!」
様々な葛藤があったのだろう。しかし10秒も待たされてはいない。合意を結び次の話を進めている。
グルービーのできることをある程度聞き出し、即座に作戦に組み込んだ。
「じゃあ、準備をしておけ。出て来る時はきっと派手なことになるからわかるはずだ。多分追っ手がかかるからそれの援護を頼む」
フェリスが作業を完了するまで、ケイは広大な宮殿とその地下空間の探索を進めている。
IBMはやはり潜入作戦で重宝する反則だ。
『スニーキングミッションだね。現地調達でこれだけ戦力も確保できたし、ダンボールもあるんじゃない?』
そんなものはない。しかし、『九神将』を二人も拾えたのは望外の展開ではる。
胸の奥で、ぬるりと冷たい違和感が膨らむ。何かが足りない。何かを見落としている。そう言われているような、不安を煮詰めたような感覚が喉元までせり上がってくる。
上手くいっている状況にどこか一抹の不安を抱えるのは、きっと経験則からだ。
作戦通り、想定通りに物事が進むことの方がこれまでは少なかったが、帝国へ飛ばされてからはかなり上手くいっていたように思う。
ザーレスティアとの出会いなど、それの最たるものだろう。
「何よ?こんな時に、あたしの美貌に見惚れてんの?」
どこまでも能天気で脳筋な彼女は、あり得ないほど都合の良い出会いだった。
こいつはバカだが、真っ直ぐだ。飲み込みも悪くない。何より凄まじく強い。それが重要だ。
適当に肯定しておくと、えっへんと胸を張り上機嫌になって鼻歌を歌い始める。
殺せの歌という名前らしいが、それは彼女の癖みたいなものだった。
ケイの中では、妹や蜘蛛娘のエリーゼ、メィリィとかその辺りと同じ枠である。
胸中の不安を自覚するが、だからと言って方針や行動に変える余地はない。
別に油断などしていないし、毎度最善を尽くしている。直感的な不安を自覚したとて直せる余地などない。
やれるだけを、やるだけだ。
「しばらくすれば、体も動かしやすくなるはず。馴染むまでは少し隠れておけ」
最後にグルービーと作戦をすり合わせ、宮殿の地下構造の情報をある程度聞き出した。
「いるとしたら地下監獄だな。そこなら拘束なり拷問なり、好きなだけクソみてえなことができるだろうよ」
そして、グルービーはハッとして気づいた。このままでは無駄になるかもしれないと懸念を話す。
「ていうかお前ら、
帝都の決戦はとある呪いが一時的に発動され、ゾンビたちが一気に優勢をとったようだった。
グルービーの負傷もその際にガーフィールから負わされたものらしく、悪態をついていた。
ガーフィールは非常に痛みに強い。というか誤魔化すことができている。体自体が強靭であるのと、水魔法の使用が大きな理由である。加護は一定の抵抗力を与えることがあるため、例の呪いも効きが薄かったのだろう。
「問題ない。対策済みだ。元々得意な分野でもある」
グルービーは見かけと態度とは異なり慎重派のようだった。呪具の扱いに長けた人物とはぜひ仲良くしておきたい。ここで出会えて良かった。
まだ動けないグルービーを隠しつつ指示を出しておく。目的地は遠くない先に進むことにしよう。
そして再び、フェリスとティアの三人となって敵地をへと潜り込む。
足音一つ立てるのも躊躇われるほど、あたりは異様な静けさに包まれていた。
辿り着いた帝都宮殿、その地下通路は重々しく、空間そのものが押し黙っているように思える。通路の壁に施された金属と石の細工は見事だが、燃える松明が歪んだ影を生み揺らしている。
「ほんっと不気味。やな感じ。帰りたいんですけど」
誰もいないはずなのに、誰かに見られているような錯覚。 目に見えない何かが、すぐ背後で息を潜めているような、冷たい圧迫感が肌にまとわりつく。
帝都の最も神聖であるべきその場所が、今や一切の生活感の不在によって不気味に感じられる。
明らかに人の気配がないのに、なおも染みついた誰かの気配がぬるりと残っている。まるで街の中心がすでに人間のものではないと訴えているかのようだった。
そうだ。きっとここには魔女がいる。そう思えばこの違和感には納得しかない。
この違和感、肌に突き刺すような不自然さを理由にしてもいい。きっと道としてはあっている。
これが、罠でない可能性は非常に低いが。それでも目的はこの先にいるはずだ。
一段また一段と、階を降るごとに湿度と緊張が上がっていく。
フェリスは汗ばみ、自身の緊張を自覚する。
地下へ進むごとに、足元からじわじわと上がってくるマナの流れが肌に触れた。温度はないのに、骨の内側をなぞるような感触。 フェリスが舌打ちしながら首筋を掻き、ティアはそっと眉間を押さえる。二人の表情に浮かぶのは明確な不快と警戒。
目には見えないが、ここでは何かがおかしい。そう思わせるマナの流れが、確かに彼らを包んでいた。
ケイの目には、道が見えている。どこをどう進み、どこに何があるのか、IBMを先行させ目的が最奥にいるであろうことはすでに掴んだ。
ここまでの情報を統合すれば、これは確実に罠であるともはや断言できる。
地上では蠢いていたゾンビたちが、地下には一人も配置されていない。これはあり得ない。
空になった地下牢獄を一行は降りていく。
相手の懐に飛び込むというのはバカのすることだ。けれど、ここにいる三人の足は止まらない。
常識は空に置いてきた。
ここにはそもそも、バカ以外はいないのだから。