クルシュ・カルステン公爵。その王都別邸の執務室。
夜も更けた部屋を魔石の灯りが照らす人影は手元以外は動かない。
カリカリと。ペンを走らせる音が続く。
本当に途切れずに書類を片付け続けている。すでに20時間以上も。
ケイはその執務室の本来の主に代わり、あらゆる書類仕事をこなしている。
常人を超える知性や頭脳を持っていてもここまで連続で働けば効率も落ちるというもの。しかし彼に失速は見えない。
すでに三度。リセットをして、淡々と事務作業を行なっていた。
クルシュ・カルステン公爵は死んだ。
その死について思うことはない。互いの目的達成のために大きな一歩を踏み出したと思った手前、残念だとは思う。
だが感傷に浸るほどではない。死んだなら仕方ない。
しかし、ケイはその作業の手を緩めることはしなかった。外から誰に指摘されても反論できるが、内心では自分に責任があることを一部認めている。
僕には介入する手段があった。けれど必要ないと考えてしなかった。介入したからと言って解決できたかは不明だが、何かをすることはできただろう。
だから、こんな事務仕事の処理というのは反省を踏まえた行動である。
とはいえ母にもよく指摘されていたが、僕はよく感情の合理化をしてしまうらしい。
ならこれは契約すら白紙になった惨状に対しての義理のようなものでもあるかもしれない。
ケイはこれを良い機会と捉えて、考え方を一段上げることにした。
全力を尽くす。真剣にやる。これはやっていたつもりではあるが、失敗を踏まえて振り返れば余地はある。
大罪司教の能力を予見するなど不可能なことには変わりないが、何かをする余地はあったのだった。
これからは、本当にやれることを全てやろう。
クルシュを失い気付いた命の定義に従って。ケイは粛々とまたリセットをして作業に没頭していく。
汚さぬように気をつけて、自身に刃を静かに入れる。
痛い。苦しい。しかし、こんなものは死ではない。そう痛感している。
その姿を誰も見ていない。けれどもしも見かけたのなら、こう思っただろう。
まるで親族を失った喪主が、葬式に際して忙殺されているようだと。
永井圭はクルシュ・カルステンのことが嫌いではなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ここにいらしたんですね」
静かに動きのない部屋で、停滞の時間を過ごすスバルに声がかけられた。
ゆっくりと、億劫な動きで背後を見れば、そこに立つのは長い髪をやわらかに揺らす女性だ。派手さのない、しかし高級感に溢れた濃紺のドレスをまとっており、こちらへ歩み寄る楚々とした仕草にすら気品が溢れている。
ただし、それらの行いにはかすかであるが戸惑いと躊躇が先立っており、持ち合わせた品位と合わせると不思議とちぐはぐな印象を覚える。スバルも同様に、彼女と接するにはその違和感を覚えずにはいられなかった。
「彼女は……」
「なにも変わってないですよ。レムになにができるってわけでもないのに、俺はここにいただけです。不甲斐なくて女々しい話ですけど」
呼びかけても、その白い頬に触れても彼女からの反応はない。
沈黙が部屋に降りる。それぞれ思うところがあり、その暗い考えを深めているのだろう。
このまま失望感の海に身を浸し続けるのはきっと楽で、鋭い痛みを伴わずに済むのだと思う。けれど、それはナツキ・スバルのするべきことではない。
レムが信じて、愛してくれた男のすることでは、決して。
「なんか、俺に用事があったんじゃないですか?」
「はい。一度、お話がしたいと。談話室の方に集まっていますので、できればその……」
話題を切り出して話を促すと、女性は救われた面持ちで頷いて言葉を続けた。その言葉が途中で詰まり、彼女の気まずそうな表情に眉を寄せて、遅れて気付く。
「ナツキ・スバル、ですよ」
「……ごめんなさい。ナツキ・スバル様、ですよね。ちゃんと覚えます。多大な恩のある方だと聞いているのに、失礼をして申し訳ありません」
「仕方ないですよ。今は覚えることが多すぎるとこでしょうから気にしません」
本当にすまなさそうに頭を下げる女性。
そうして淑やかに、言ってしまえば女性らしく振舞われるたびに違和感が胸に突き刺さる。それを口にする野暮は、さすがのスバルもしなかったが。
「じゃ、またあとでな、レム」
「談話室でしたっけ。待たせすぎても悪いし、いきましょうか」
「はい。そうしましょう。ナツキ・スバル様」
小首を傾け、薄く微笑む儚げな女性。長い緑髪がその動きに流れて、ひどく彼女の女性らしさが際立たされていた。
それを認めるのが嫌で、スバルは顔を背けて本心を愛想笑いの裏に隠しながら、
「迎えにきてもらってすみませんでした———クルシュさん」
と、もはや別人のようになった彼女の名前を呼んだのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あ、スバルきゅんだ。さっすが、クルシュ様。気まぐれな猫を探すのはお手の物ってことですよネ」
談話室に向かいながら、廊下を歩く二人を見つけて声を上げる人物がひとり。
短いスカートを揺らし、騎士の装いから解放されたネコミミを揺らすフェリスだ。彼は弾む足取りでこちらへ歩み寄ると、立ち止まるクルシュの手をそっと取り、
「フェリスさ……」
「フェリス、ですよぅ。フェリちゃんとクルシュ様との長いにゃが~い付き合いで、今さらさん付けだにゃんて水臭いし、寂しいじゃにゃいですかぁ。もう、いけず」
手を取るのと反対の手でクルシュの肩をいじらしげに突くフェリス。その親近感に溢れる態度にクルシュはかすかに戸惑いを浮かばせながらも、基本的には受け入れ姿勢のようで「ごめんなさい」と頭を下げ、
「前みたいに、とは簡単にはいきませんけど、頑張りますね。フェリス……はい、フェリス」
「急がにゃくて大丈夫ですヨ。フェリちゃんはいつだってクルシュ様の味方ですし、いつまでだってお傍にいますから。それにこうしてしおらしいクルシュ様とご一緒できるのも、新たにゃ魅力発見って感じで幸せみたいにゃ?」
取った手を上下に振ってきゃいきゃいとはしゃぐフェリス。その姿を横目にしながら、スバルは内心に小さな苛つきを覚えるのを堪えられない。
これほど変わり果ててしまったクルシュに対し、接し方を変えない彼のあり方がスバルには理解できないのだ。その笑みの裏側にどんな葛藤があったのか、スバルから察することはできないが、それでも人間味のなさが際立って感じられた。
「スバルきゅん、談話室においで。エミリア様も、もうそこに集まってるからネ」
「……ああ」
不服の感情がそのまま声に乗るが、フェリスはそれを気にも留めない。彼は「さ、さ、クルシュ様」と彼女の手を引いて談話室の方へ足を向けた。
スバルとフェリスの間に流れた奇妙な雰囲気に、クルシュはその眉を困惑にひそめて二人を見たが、けっきょくはなにも言葉にできないままフェリスのあとに続く。
二人に続いて歩き出し、談話室へと遅れて入る。
視線が自分に集まる気配を感じながら、スバルは部屋の中をぐるりと見渡す。中にいるのはスバルを除いて3名———エミリア、それにスバルの先に入ったクルシュとフェリスだ。
「じゃあ、主立った顔ぶれも揃ったし、お話しようか」
手を叩き、全員の注目を集めるフェリスがその場を仕切る。
「え?ケイがいないだろ。ヴィルヘルムさんも。来るんじゃないのか?」
「ケイきゅんは今すごい忙しいって言ってたの。フェリちゃんにも色々任せるってすごい量の仕事振ってくるんだから。ヴィル爺は療養中。あんなに無理して、本当は動いちゃいけないんだから。フェリちゃんでも十分に進行はできるし、ご不満かにゃ?」
クルシュが現状、進行役を担当できず、ケイもいない以上はその立場を彼が引き継ぐしかない。クルシュは困惑に首を傾げているがそれは先ほどからの常でもある。
「反対もにゃいみたいだからさっそくだけど……状況の確認、しよっか?」
と、微笑みながら誰もが求めている議事を進行し始めたのだった。
———レムやクルシュたちが見舞われた状況は至ってシンプル、魔女教の大罪司教による同時襲撃、それも二人同時の出現という話だった。
白鯨戦後、白鯨の角だけを切り出して王都へ帰還する途中、負傷者共々凱旋中だったレムたちは大罪司教による襲撃を受けた。
その襲撃で帰還中だった討伐隊の5分の1は死亡。同行していた獣人傭兵団は計画に従い即時撤退し、一部を除いて難を逃れたとの話だった。
「話によると、王都の騎士団を連れて街道に戻ったときには、もう大罪司教のどっちも残ってにゃかったってお話。残ってたのはうちの騎士の死体と……」
「私たちと同じような境遇の方々だけ、ですね」
「あと忘れちゃダメなのは、あのプリシラ・バーリエルですネ。なぜかあそこに駆けつけていて、偶然かも知れないけどそれを見て『暴食』は引いたらしいの。あっちにも感謝をしなくちゃ」
クルシュが唇を噛んで眉根を寄せる。その表情に浮かぶ苦悶は、自身の不甲斐なさに起因しているものだろう。
なにせ彼女は、今の話をまるで他人事のようにしか思えていないのだろうから。
なぜなら———、
「自分の記憶が消されてる……か。これも、大罪司教の仕業だと思うか?レムの体は調べてくれたんだろ?」
「はっきり言って、異常なし。その結果が異常なのにね。何をしても起きてくれないのに、体は寝てるだけとおんなじ。完全に『眠り姫』の症状だよ。王都でも症例はいくつかあって、原因不明ってことになってたけど……」
「『暴食』の大罪司教———その権能でこうなったってことか」
その時、外で何かが落ちるような音が聞こえた気がしたが気のせいだっただろうか。
「『怠惰』の大罪司教を片付けたと思ったら、すぐに『暴食』と『強欲』だにゃんてお話ににゃらないよネ。働き者にもほどがあるって話じゃにゃい。まーあ、魔女教徒がこれだけ一斉に動き出すにゃんて珍しいことも、こうしてエミリア様が台頭してくるような珍事あってのことのはずだけどネ」
「やっぱり、私のせいなのかな」
ふいに名前を出されて、エミリアが微かに目を伏せる。そのエミリアの掠れた呟きを、フェリスは「そうですネ」と躊躇いなく肯定した。
「ハーフエルフであるエミリア様の存在を、魔女教の奴らが見逃すはずにゃいじゃにゃいですかぁ。いつもは不気味なぐらい静かに隠れてる奴らにゃのに、あいつらが大騒ぎするときは決まってそれ絡みにゃんですから」
「半魔を嫌って、傷つけようとする人たち…よね?」
「嫌ってるなんて認識が甘々です。奴らはエミリア様を、ハーフエルフを根絶やしにしようって執着してる」
「っ。馬鹿馬鹿しい。フェリス、言い方を考えろ。エミリアが悪いみたいな言い方してんじゃねえ。悪いのは徹頭徹尾あのクズ共だろうが。責める相手を間違うんじゃねえよ。筋違いで味方を傷付けても世話ねぇだろ」
「ふーん。スバルきゅんが言うと説得力が違うネ。経験の差ってヤツ?」
その皮肉には明確なスバルへの悪意があった。だからスバルは憤慨して立ち上がりかける。だが、
「フェリス。今の発言は聞き捨てなりません。謝罪しなさい」
膝に力を入れかけたスバルより先に、そうしてフェリスをたしなめる声の方が早い。その声を発したのは誰であろう、状況の推移を見守って沈黙を守っていたクルシュだ。
ドレス姿の彼女は先ほどまでの弱々しい顔つきを一転、以前の彼女のように凛々しく鋭いものにして、自身の騎士をその眼差しで射抜き、
「ナツキ・スバル様の仰る通り、責を問われるべき相手は明確です。そして正しい意見を述べた方を嘲る資格もあなたにはない。わかりますね」
「……はい、クルシュ様」
苛烈な言い方の後、最後の部分に柔らかさが宿るのが今のクルシュだ。その言動の端々に、これまでの彼女らしさの片鱗が垣間見えてスバルは驚く。フェリスもまた、その驚きを隠しきれない瞳のまま、
「エミリア様、失礼を謝罪いたします。スバルきゅんも、ごめーんね」
「お前な……いや、もういい。続けよう」
なぜこんなにもフェリスが刺々しいのだろうか。彼も心中は荒れているだろうが少し違和感がある。
「じゃあ、お言葉に甘えて、今後のお話をまずしちゃおうか」
なんだかやけに話がはやい。やっぱり、ケイの影響だろうか。
「今後……?」
フェリスが話を切り替えよう、と手を叩くのに合わせて顔を上げると、彼はひどく晴れやかな顔でスバルに頷きかけ、その笑顔のままで、
「ぶっちゃけ、この同盟の話……なかったことにしにゃい?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
———談話室の空気が凍り、代わりにスバルの中の熱は高まっていく。
告げられた言葉の内容を受け取り、吟味して、それから唇を舌で湿らせると静かな声でスバルは聞き返す。
「今、なんてった?同盟取り消しって言ったか?どういう意図だ」
「そのまんまの意味だってば。だって現状、もうお互いに同盟を組み続ける利益ってものがほとんど感じられにゃい気がするんだよネ」
「採掘権はどうなる?確かに白鯨の協力は魔女教のことで、貸し借りはなしって話になるかもしれねぇけど…」
「これはね。利益の話じゃにゃいの。損害が大きすぎって話。このまま、魔女教に狙われ続けるエミリア様と協力しろっていうの?それで、クルシュ様がこれ以上傷付かないって、スバルきゅんに約束できる?」
「それは……」
フェリスの言い分に、スバルは顔をしかめてクルシュを横目にする。
その変わり果てた姿を見れば、真っ向から彼の発言を否定してかかるのはスバルには躊躇われた。同じだけの傷を、スバルもまた負っているのだから。
「できるわけにゃいよね。そんなの誰にだってできない。だからこの同盟は無かったことにしたいの。わかってくれる?」
スバルが感じている違和感。それに近づいている気がした。
「でも、そうだ。ずっとお前が話してばっかで肝心のクルシュさんの意見がない。陣営の代表じゃなくてお前の意見で全部を通すなんて筋違いじゃねぇのか」
「そうかにゃ?今クルシュ様はそれどころじゃない。あらゆる記憶を無くして、判断の材料なんてないの。そんな精いっぱいな人に全てを背負わせるなんてそれこそ無責任っていうもの。フェリちゃんはクルシュ様の一の騎士として、ここに同盟の解消を…」
スバルが何かを言うより早く、スバルが上げようとしていた反論の声より大きく。ドアが音を立てて開かれた。
ガダン!と音を立てて駆け込んできたのは、ケイだった。
「やってくれたな。フェリス」
状況が飲み込めない。フェリスと睨み合うケイ以外は、誰一人この状況を理解できていない。
スバルが遅れて状況を呟く。
「まさか、ケイに言ってなかったのか?」
「どうだったかにゃー?忙しいフェリちゃんだからつい忘れちゃうこともあるかも?でもヴィル爺みたいに忠誠を誓ったわけでもない一介の雇われ書記がいないくらい、問題なくない?」
今度はケイに向けて悪意を向ける。やっぱりおかしい。
「スバル。今、同盟の解消をこちらから提案したように聞こえたが、間違いないか?」
フェリスの挑発を、ケイは受け取らなかった。スバルへと問いを放つ。
「あ、ああ。フェリスが代表して今、魔女教の脅威は確かにあるしそれを今から話し合って…」
「聞いての通り、それは陣営の総意じゃない。こいつが先走っただけの妄言だ。気にしないでくれ」
そして、エミリアへ向かい、ルグニカ王国の正式な謝罪の礼をしながら言葉を続ける。
「エミリア様、大変申し訳ございません。魔女教から受けた被害に起因してこちらの内部も今は混乱しております。困惑させるような失礼な物言いを、当家を代表して謝罪いたします」
「ちょっと!なんでそっちが代表面できるわけ?そんな権限も、覚悟も、気持ちもないくせに勝手なことしないで!」
「エミリア様、スバル。大変お見苦しい当家の内輪揉めをお見せしてしまい、重ねて謝罪いたします。ほんの少しだけお待ちを」
ここで初めてケイはフェリスに対峙する。
「覚悟や気持ちなんていらないが、権限はある。一介の騎士は黙ってろ」
「!?何を言って…」
ケイは机にとある紙を出した。
「白鯨討伐の折、クルシュ様に何かあれば一時的に陣営の全権代理を担うとの命令文書だ。重要なものは全て文書化してある」
それを読むが、まだ折れずにフェリスは挑む。何をそんなに意固地になっているのだろうか。
「白鯨の戦闘なんて、もう終わったでしょ。これは無効」
「クルシュさん。ぜひその偏見のない視点でお答えください。こちらの期限指定のない文書を踏まえて自分か、都合の悪い者をわざと外したフェリス。どちらに理があると思われますか?」
急に話を振られたクルシュは、話についていけているか不安でいっぱいになりながら、それでも答えを出す。
「ついていけているか不安なのですが、以前の私がこれを書いていると言うのなら、ケイ、様?に全権があるのではないでしょうか。的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが…」
風向きが悪いと知ればフェリスは即座にアプローチを変える。
「クルシュ様!お願いです!聞いてください」
「魔女教と関わり続ければ、今回みたいなことがきっとまた起こる。そのとき、今のクルシュ様にはご自分のことも守れない。私だって…なんの力にもなってあげられない」
「フェリス…」
白く細い自分の指に、フェリスが憎悪に近い感情を向けているのがわかる。その怒りの片鱗に触れて、スバルは彼の抱く悔悟の念をやっと理解した。
フェリスを苛むのは、スバルが抱くのと同じ無力感だ。クルシュを大事に思いながら、彼女を守る力のない自分を彼は憎悪している。極めたはずの治癒魔法も今は役に立たない。
「クルシュ様だってお辛いはずです。何もわからなくて、覚えてなくて…なら、戦おうなんて思わないでしょう?ですよね。ねぇ?」
「記憶のことなら、きっと私がなんとかします。今は届かなくても、きっと私の魔法で解決してみせます。ですから危ないことは…」
「フェリス。心配してくれてありがとう」
本心のままに訴えるフェリスにクルシュは優しく微笑みかけた。
しかし、その微笑みの裏にあるのは強固な意志と覚悟だ。
「今はまだ、私にはわからないことばかりです。何一つ、以前の自分を思い出すことができません。皆様にとっても私と接することは戸惑いばかりだと思います。それでも、今の私を想ってくださる皆様にまずは感謝を」
「クルシュさまぁ…」
「フェリスが私を本心から心配して、私の手を引いてくれていることはわかっています。あなたの言葉に従って、安全な道を歩くのも良いかもしれない。…でも」
「何も知らず、わからないまま流されるのは嫌なんです。何かを選ぶなら、誰かの言いなりではなく、自分の意思で選びたい。そのための努力は、続けるつもりです」
記憶を無くしてなお、人間の意志は気高く尊い。
泣き崩れるフェリス。それを抱きしめながらクルシュはケイに語りかける。
「ケイ様。聞いての通り、私は自分で選びたいと思います。とはいえフェリスの指摘通り、私は詳しいことを何も知りません。この場の判断はあなたにお任せしてもよろしいでしょうか?」
現在のクルシュもケイの全権代理を認めたことで、場の停滞は解消された。
フェリスは腕に抱かれながら、力を抜いて諦めたようだった。
「あーあ。ケイきゅんがいたら絶対こうなると思って準備したのに、クルシュ様お一人でも変わらなかったみたい」
ケイはエミリアを見据えて佇まいを直し、再び腰を折る。
「フェリスの処遇については後ほど決定してエミリア様にも報告いたします。深くお詫び申し上げます」
「そして同盟についてですが、互いに傷を負ったからこそ深めるべきと思っております。今回のお詫びとして、辺境伯の別邸まで帰られる際の護衛をこちらで手配させてください」
「いや、ケイ。気持ちはわかった。言葉に思うことはあったけどフェリスの状態も、ちょっとはわかる。流石にそこまでしてもらわなくても」
「いや、これは必要なことだ。村周辺にある魔女教の拠点をあのままにしておくべきじゃない。誰かが調査と処分しなきゃだが、そっちは今動かせる人がいないだろ。ついでと思って受けてくれ」
謝罪分を超えれば辺境伯にはちゃんと経費は請求するとのこと。抜け目のない語りはケイらしい。
そうだ。村周りの片付けは少しだけしたが、森の中には今も魔女教の死体が転がり放題である。魔獣の群生地にあるものは処理されるだろうが、そうでないものはどうにかしなくては。
「悪い。そこまで気が回ってなかった。陣営としちゃそっちの方が大慌てだろ。本当にいいのか?正直、来てもらえるのは助かるけど」
「ああ、こっちの用意もある。出発は明後日の朝で頼みたい。あと相談をお願いしていいか?」
スバルは驚きつつもそれらを快諾し、エミリアと退室する。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
応接室に残るのは味方であるのに意見を違えたケイとフェリス、そしてクルシュだ。
本来は同盟とはいえ外部の人間と話す前にするべきだった、重要な話し合いをする必要がある。
悲願であった白鯨討伐を成した後とは思えない、その空気はどうしても重苦しいものになっていた。
「少し間を空けましょう。ヴィルヘルムさんにも夜に話そうと伝えてきますね」
邸内を歩きつつ、ケイは考える。
今回のフェリスの動きを見て、彼についての認識を改めることにした。
フェリックス・アーガイルと、ナツキ・スバルは少し似ている。主のこととなると同じくらい暴走をするようだ。
ちなみにこのスバルというのは王城でやらかした方のスバルであり、ロードを十分にし切ったスバルを指さない。
フェリスについては白鯨から怠惰討伐までの間、完璧に人を治し続けた手並みを見てその仕事には信頼をおいていたが、ことクルシュのことになると彼の行動は読めなくなるとはっきりわかった。
しかし、実のところ今回の独断についてケイはそこまで悪い印象を持っていなかった。阻止はできたし今後は予測もできるようになったので問題はない。
ケイは無意識だったが、かけた声は「やってくれたな、フェリス」であって「やってくれたなバカ」ではなかった。
自身の視点で、目的のために最善を尽くす。
それを彼もやったし、ケイもやっただけだ。
フェリスはメイドたちに「ケイきゅんを驚かせたいから時間稼いでおいてネ」の一言でメイドたちの親切心を巧みに煽り、こちらの足止めに変えた手並みは見事だった。
反対しそうな二人を排除し、スバルを挑発してそのまま同盟解消へ。
魔女教と離れられて安全を確保というのは、クルシュ個人を思うならそこまで悪手じゃない。
やれることをやるという姿勢は以前になかったものであり。その変化は好ましい。
一応IBMで周辺を探らせていなかったらと危惧するが、きっとクルシュは僕がいなくても止めていただろう。
「やってくれたな」と言った裏には、正直どうやって今後のスバルに同行しようか考えていたということもある。
自然な流れを作ってくれたなという意味も含まれていた。
まぁ仕方ない。
自分とフェリスの大きな違いは、ナツキ・スバルの能力を想像できているか否か。
彼と距離を取ることも、敵対することも絶対にしてはいけないと、こちらは知っているが彼は知らない。
申し出た同行も自分が行く。あらゆる面においてナツキ・スバルとその周辺を知らなくてはいけない。
能力を、その条件を、性格を、行動を。その予測こそが依然としてこの世界における最重要な情報だ。
その結論は怠惰を倒した時から変わらないが、ここにきて無視できない要素が増えた。
レムと呼ばれていたあの少女が非常に気がかりである。
あのスバルの憔悴した様子を見れば、明らかに不本意な結果であるとわかる。
クルシュの記憶も心からショックを受けていたし、どうにかできるならしていそうなものだ。
やはりオートセーブであるのだろう。ロードもランダムか?
ナツキ・スバルをもっと知らなくてはいけない。
その必要性や緊急度は、以前よりも高まった。
彼の力は桁外れに強力だが万能じゃない。それを再認識すると、佐藤の嬉しそうな笑顔を幻視する。
『プレイボール』と、聞こえた気がした。
【死の定義について】
永井圭は、白鯨と暴食の権能の威力を痛感し死の定義を更新した。
記憶の連続性とその自覚。
この世界においてはこれだけが自身の継続という意味での生である。
自身を殺し得る存在と敵対している危機的状況において、手段を選ばず異世界生活を送ることに決めた。
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