報告会からいくつかの夜が明け、クルシュ邸はその後の処理に追われている。
あの日についてはあまり詳細を思い出せない。過度の緊張と動揺にクルシュの記憶は曖昧になっていた。
ここのところ、よく眠ることもできていない。
報告会では話せなかったが後日話したいと、多くの有力者から打診を受けている。
つまりこの時点で陣営を宣言するのは無理だが、お近づきにはなりたいという者たちだ。
また百戦錬磨の貴族たちと話し続けなくてはいけない。それを思えば朝から気が重く、どうにもベッドから起き上がるのが億劫だった。
身なりを整える前に、日課になったフェリスの治療を受ける。
「クルシュ様、お疲れですね。あまり無理なさらないでくださいね。フェリちゃんはいつだってクルシュ様の味方です。治療が終わったら、疲れを取るための治癒術もかけておきますね」
治療を受けて、どうかと聞かれるがやはり思い出せるものはない。少し落ち込むフェリスを励まして労う。
「…フェリス。ありがとう。心配をかけてしまってごめんなさい。でも今が正念場ですものね。私はやり切って見せます」
「はわわ…朝からクルシュ様が尊すぎて眩しすぎて…フェリちゃんどうにかなっちゃいそうです!」
騎士と主とは思えないほど親密なやりとり。フェリスとの対話は、こんな日々の中で数少ない潤いであった。
そんな一の騎士との対話で気力を少し戻し、一日に臨む。
訪れる貴族や商人たちを相手どり、その意を問うていく。『風見の加護』の手前、あまり突っ込みすぎた質問はしてはいけないとわかり自重している。
しかし、どうにもその匙加減が難しい。
そして多くの反応は、あまり芳しいものではない。多くは言葉を濁され、はぐらかされ、そしてそのままに帰っていく。
日に5人以上も面談を行い、一人でも陣営に忠誠を誓ってくれる人がいれば喜んだ。
成果のない日は、寝る前に不安に襲われた。
そしてそんな生活が続くと様々な噂が聞こえてくる。
王都でのもっぱらの噂。それは白鯨と怠惰討伐の栄光と、先の報告会におけるクルシュの失態についてだ。
クルシュを敵視しているものたちは、この失態がなければ先の栄光は口にしなかっただろう。
しかし、そんな耐え難い敵の戦功も最後に愉快なオチがつくとあっては皆進んで賞賛を送る。
クルシュカルステン公爵は偉大であったと。しかしながら私の言葉を忘れるなと豪語しておいて、まさか自分が真っ先に忘れるだなんて。
そんな陰からの悪意はどうしても滲むもの、直接は聞かずともクルシュはその空気をしっかりと感じ取っていた。
特殊な事例としてアストレア家の当主などは酒場で堂々と悪評を広げ続けているらしいが。
そんな雰囲気が蔓延すると、このような声の大きい者たちが宮中や市井にも出てくる。
「いやまさかクルシュ様がこのような状態になってしまうとは」
「ええ全くです。しかしそれでも成し遂げられるとは大したものです」
「まさしく。その功績は王国の歴史に名を残すほどのもの、ぜひクルシュ様にはどこか良家と婚姻を結び実務は任せて領内で静養してもらうのが良いでしょうな」
「コイル様はやはり慧眼でいらっしゃいますな!それがいい!」
かはは!と笑う彼らは気づいていなかった。この言葉を見過ごせないものが近くにいることを。
「お前ら!!クルシュ様に向かってなんてことを…っ撤回しろ!」
その剣幕に驚くも、相手の格好が特徴的すぎる。すぐに誰か判明し、落ち着きを取り戻す。
「何を仰るのですか。フェリックス様、クルシュ様の一の騎士といえどあのアーガイル家の生まれのものが伯爵であるコイル様に対しての口の聞き方ではない。謝罪するのはそちらでは?」
「そうですな。縁談の話が侮辱であるなどとは、穿った見方をしすぎると敵を作りますぞ」
「何を言ってる。ふざけないでっ!」
ニヤリと笑みが深まる。驚かされた腹いせにフェリスをからかうことにしたようだ。
「いいえみなさん。ここまでの反応なのです、もしやあの噂が本当なのでは?」
一同は疑問に染まる。
「クルシュ様と一の騎士は恋仲であるとか?そうであれば先の反応はこちらが無粋でありましたなぁ」
いや、もしや片思いですかな?とダメ押しをされた時にはすでに何も聞こえなくなっていた。
何かが切れるような音をフェリスは聞いた。
クルシュを失ってから蓄積し続けていたストレスが、彼の限度を容易に超えさせる。
その後自制を失ったフェリスは衛兵に抑えられることになる。
どこまで我を失っても相手を傷つけることはしてないが、詰め寄って胸ぐらを掴んだのはまずかった。
当然の如く近衛騎士団へ苦情が上がり、その結果として数日間の謹慎を申し渡される。
それはその期間におけるクルシュとの別離を意味していた。
初めて迎えた、一人での朝食。
あまりに静かな食卓には食器の音だけがかちゃかちゃと響く。
そして音を立てるたびに、教えられたマナーに違反していないかとハラハラしていた。
そんな心休まぬ朝を過ごしながら、クルシュはこれまでの日々を振り返っていた。
初陣は大変な失敗をしてしまった。多くの支援者を失い、浮動票はアナスタシアへと流れただろう。連日その噂を聞きつけて貴族や商人がやってきては落胆される毎日。
支えてくれる人もいる。けれどどうしても、悪い印象ばかりが脳裏を巡るのだ。悪意や敵意ならまだしも、失望は耐え難かった。
彼らも大人であり、当然ながらそれを口に出して伝えるものなどほとんどいなかった。けれどクルシュには『風見の加護』がある。
記憶を無くそうが体の動かし方を忘れぬように、加護の扱いについては知っていた。
前ほど習熟はできていないだろうがわかるのだ。その失望の風が。
あれは本当に恐ろしい。自分が不甲斐なさすぎて相手を直視できなくなる。
何をしているのかわからなくなってしまう。
あんなに美味しかったご飯もあまり味がしない。
だけれど時間は過ぎていくし、やるべき仕事は待ってくれない。落ち込みつつもやるべきことをこなしていく。
朝の仕事をしようかと思った矢先に、このところなかった朗報が舞い込んだ。
「クルシュ様!ケイ様がお戻りになったようです。お会いになりますか?」
それは何よりの朗報だった。自分と最初に心を交わしてくれた相手。その帰還である。
「本当ですか!無事でよかった。すぐに向かいますので、そうお伝えください」
ケイが帰ってきた!彼とは一度しっかり話しただけだったが、私にとって本当に大事なことを話してくれた。優しく頼りがいのある人物だとそう思う。
そこまで自覚はなかったが、帰還の報告がこんなに嬉しいものだとは。1週間程度の不在であったけれど、今の私にとっては大きな存在であったことを自覚する。
身だしなみを整えて、鏡を見る。するとこのところ意識的にしないと出てこなかった笑顔がそこにあった。
最後に髪留めを一つ選び、準備完了だ。
いざケイの元へと向かってみれば、そこにはケイと知らない女性が待っていた。
いや、もう一人いた。二人の後ろで待機しているのはケイと一緒に行ったローズという人だったはず。
「こちらの仕事は終わらせて戻ってきました。いくつか説明させてください」
そういって調査結果を話し始めるケイ。いやこちらが気になっているのは、そんなところじゃない。
「あの、ケイ?話を途中で遮ってごめんなさい。でも、そちらの方は?」
一向に紹介されないため、途中で待ったをかけてしまった。
その女性は長い黒髪を三つ編みにして横に流し、ドレスを着ているが非常に際どい布面積だ。
クルシュならとても着れないが、その女性は自信に満ち溢れた様子で着こなしている。
胸元もざっくりと開いており、そちらの方に目を向けることもできない。
他人の肌をあんなところまで見ること自体、初めてであった。
「ええ、ちょうどその話をするところでした。こちらはエルザ、傭兵のようなものです。見込みがあったので勧誘してきました。雇い主は僕という形で色々と仕事をさせようと思っています」
ケイの直属の部下ということだろうか。なぜこの人なのだろう。どんな人物なのだろうか。
「話の前にこちらを聞いてください。ああ、あれを読み上げろ」
ケイが促し、女性が紙を取り出した。その指示を出す態度は、どこか固さを感じない。ケイの素に近い気がする。
あまり高くない。響くような艶やかさを持った声が部屋に広がる。詩でも読み上げればとても似合うだろう。
しかし、その内容はあまりにも声に似つかわしくなかった。
「私は、あなたに対していかなる形でも害意を持っておらず、契約が守られる限り今後も害意を持つことはありません。これには想像力の及ぶ限り、あらゆる種類の害意が含まれます。私の意図と行動は、常にあなたの安全や幸福を損なわないものであることを保証します」
流し目でケイを睨みつつ、指示をこなしたエルザは流石に一言物申す。
「ふう。これで満足していただける?あまりに無粋すぎて少し笑ってしまったわ。生まれてから今まで口にした中で一番よ」
「クルシュさん。今の言葉に嘘はありませんでしたか?」
そうか。今のは宣誓だったのだ。加護を利用して二心がないかとの確認。
このために私と話したのだろうか。
「え、ええ。嘘はないと、そう思います」
ちなみに現在のクルシュに向けての言葉であるから問題なかったが、少し前の戦えるクルシュであれば余裕で引っかかっていた。
「それにあたって多少なり給金を出さなくてはいけません。これまでの仕事は衣食住の代わりとして対価をいただいてませんでしたが、これを機に僕にも給金をください」
「…ええ、もちろん構いませんが…」
何か引っ掛かる。納得しきれない何かが自分の言葉を重くする。
「そうだ…そうです。当家が直接雇えばそれで変わりないのではありませんか?」
「いえ、色々なことをさせるつもりなので、カルステン家とは一定の距離をおいておくべきと考えています。あまり詳細は聞かないでください。陣営に悪影響があるようなことはしないと約束します」
「そんなこと!そんな、心配などしていません」
「では、金額についてなのですが…」
そこから詳しい話はよく覚えていない。最後には体調が優れないことを申し出て、退出。気づけば自室に戻ってベッドに倒れ込んでいた。
ケイはまだ話すことがあると言っていたが、なんだか疲れてしまった。
会えて嬉しかったのに、一緒にご飯を食べたいと今も思っているのに、体がなぜか動かない。
自分で自分がわからない。
何もわからない…
部屋に残されたのはケイとエルザ。そして対するはメイドと執事である。中立を主張するように、両者の間に控えるローズは素知らぬ顔。
家令たちのその目は非常に厳しいものだった。
無視して退室しようとするも、阻まれたので流石に聞くことにする。
「何か問題がありますか?」
「いえ何もございません。ただクルシュ様に労いの一つでもあって良いのではと思いまして」
「そこら辺はフェリスに任せていますが、そのフェリスはどこに?」
謹慎の話を聞いて深くため息をつく。
「何やってんだあのバカは」
フェリスに対しての尊敬を自覚した途端にこれである。クルシュが絡むとあいつは本当にスバルだな。
「差し出がましいようですが、そちらの女性を部下にということであればもう少しお召し物はご勘案ください。あらぬ誤解を受けることになるかと思います」
まさにその誤解を家令やメイドの視線から感じるが、ケイは特に対応しない。
どうせ最初の顔合わせだけだ、こいつを見せるのは。
それに服装は当然変えさせる。露出はどうでもいいがこのままでは『腸狩り』であると宣言しているようなものだ。暗殺者が毎回違う服装をしないなど心の底から理解できない。
「あら、そんな仕事を期待されているのかしら。先に言ってくれないと困るのだけれど」
「黙ってろ」
その上下関係すら周囲からの評価を下げる要因になっているのだが、ケイは気づかないし気にしない。
「クルシュさんには体調が良くなったら、話がしたいと伝えておいてください」
そう言って退出するケイ。エルザは黙ってそこについていく。
この伝言が実行されるのは、三日後になった。
クルシュはこの時より、ずっと自室から出ることができなかった。
体調不良、とだけ言い残して。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
燦々と輝く太陽は、王都の街並みを輝かせ。
その暖かな陽光の中を歩くものたちの背中を押しているようだ。
子供が走って笑いあい、それを大人が見守っている平和な光景。
その中に腑抜けた表情で、ぼやっと歩く男がいる。
永井圭は、休日を楽しんでいた。
翌日クルシュから声がかからぬと見るや、まずラッセルに会いに行き情報交換を行った。
その際におすすめの王都の食事処や喫茶店、酒場などを教えてもらいそれに向かって歩みを進める最中だ。
ともに歩くのは少し白髪が混じり始めた初老の淑女ローズ・フローライン。元男爵夫人にして、『氷炎華』の発案者である彼女は衰えというものを一切感じさせない。その年齢よりもはるかにしっかりとした足取りと芯の通った姿勢であり、貴族女性としても魔法使いとしても隙はない。
とある確認のためにローズに同行を依頼していた。
その内容はクルシュの状態と、ケイの目算が間違っていないかである。
カルステン家においては少し話しづらい内容であるため、王都を散策し良い場所でそれを話すこととなった。
ラッセルが推薦したカフェにつけば、ローズであっても唸るほど良いお茶が出てきたようだった。
美味しいが、それほどの違いはわからない。
「このような素敵なお店が隠れていたとは、一生の不覚です。さて、お誘いは嬉しいのですがどうせなら娘を誘っていただきたいものですわね」
冗談から話が始まる。いや、ローズとしては本気なのだが。
「クルシュさんの様子について、予想していることがあります。その見立てが正しいのかあなたの所見をお伝えください」
そしてケイは自らの所感をまず並べる。
「家令、特にメイドたちはやけにクルシュさんからの好意を受け止めろと騒ぎ立てますが、あれは恋愛感情ではないですよね?そもそも彼女は生まれてまだ2週間も経っていないような状態だ。混乱しているだけでは?」
仮にそんな感情を持たれているとすれば、やりづらいことこの上ない。見立てに自信はあったが、専門外の事柄は一応確認が必要である。
「そうですわね。残念ですが、ケイ様と同じような意見です。クルシュ様は今、何もわからない不安な状態。そこに頼れるものがいるなら、縋ってしまうのは人として当然の反応ですわ」
「頼れる男性が別の女を連れ込んできたら寝込んでしまった。この状況を見た年頃のメイドなら恋慕を想像するでしょうが、三児を育て上げ孫を二人見ているわたくしから言わせていただくと見解は異なります。そうですわね、下の子に母を取られたと思っている長子のような状態とでも言いましょうか」
幼子にも嫉妬心はある。この世界において嫉妬心を表に出すことは禁忌とされているためそういった話は表に出づらいが、人の本質は変わらない。
「ただ、混乱しているだけというのは少し甘いかもしれませんわね。不安な時に寄り添ってもらうのが一番という人もいれば、叱咤激励にこそ心動かされる人もいます。クルシュ様は後者であったご様子。ケイ様の言葉は彼女の中で非常に大きいでしょう。まだ未成熟かつ混乱しているとはいえ女性としての好意が欠片も含まれていないとは思えません。そこまで情というものを切り離して考える方が現実的ではありませんから」
一般的にはそうなのですよと。わかった顔で諭してくる。やめてくれ。
「それで、どうするおつもりですの?」
「特に何も。見立てが間違っていないのなら修正の必要もない。僕は必要なことをするだけです」
「当家としては好都合なので何も言いませんが、あまりにクルシュ様の容体が悪化するようであれば大人として一言は言わせてもらいますわ。幼子はしっかりと大人に育てられるべきなのですから」
その後も何点か確認事項を済ませてローズが退席し、ケイは一人でお茶を飲みつつ王都を眺める。
特に感慨もないが、この空白の時間は嫌いではない。
思えば最近は忙しくしすぎていた。白鯨の前など睡眠も復活で無視して活動を続けていたものだ。この世界の誰よりも働いていた自信がある。
ちなみにリセットによる睡眠のスキップは活動を続けることが可能だが、一つ弊害が生まれる。
それは記憶力の低下だ。一度見てもはっきりと覚えられない。思い出すのに時間がかかってしまう。そんな普通の人にとっては当たり前の状態になってしまう。
昔から一度見たものは大抵覚えることのできるケイにとって、何かをよく思い出せないという状態はかなり不快な感覚である。
余裕があるならしっかり睡眠をとって記憶の定着作業を脳に許してやらねばならない。
だから、これを飲んだら横になって寝ようかな。
このカフェは個室であり、防音もしっかりしている貴族向けの店だ。金さえ払えば誰も見ていないしうるさく注意もしてこない。
完璧な昼寝の論理を組み立ててからケイは目を閉じて横になり、昇った太陽が夕焼けになるまで今とるべき休息を満喫していった。
【子どもの嫉妬について】
一定まで育った子どもが乳幼児期に戻ってしまったかのような行動を取ることを赤ちゃん返りと呼ぶ。
不安からの愛情確認が理由とされており、アタッチメントの確認とも言う。これは親に対する精神的な絆のことで、強く太く結ばれていると、その子の心の安定がもたらされる。
変化があれば、絆の強さを確認しようと様々な行動を取り始める。子どもにとって、親が見てくれること、お世話してくれること、かまってくれることなどは、すべて“自分は愛されている”という認識につながるため、問題を起こしてでも自分に注意が向くような行動を取ってしまう。悪意はなく自覚もないことが多い。
この状態がそのまま今のクルシュに当てはまるわけではないが、ローズは非常に近いものを感じているようだ。