猛吹雪の中なのか、ケイの脳内かはわからない。
聞こえるのは笑い声。
『あ は は は は ははははは』
歓喜に満ちた、そんな声が木霊するような錯覚。
ケイは一言も発することもできていなかった。
思考できたのは、やばい。ということだけ。
突発的な予想外の危機において、人は無防備である。
それは永井圭も例外ではない。
彼は崩れる断崖からさらに猛吹雪に煽られて落下を始めていた。
騎竜がケイに噛みつき、自らを顧みずに崖の方へケイを投げて離れていく。
ケイは呆然となされるがまま。
そこに勢いよく飛び込む巨体。
落ちていなかったはずのジャスティが崖壁を蹴って後方へ加速、空中のケイに追いつこうとその身を投げ捨てた。
加速はすぐに落下するケイに追い縋るが、今ひとつ届かない。
それをまるで見越したように手の鎖をケイに伸ばす。魔獣に動揺はなくその動きに淀みはない。
鎖から手繰り、ケイを思いっきり岸壁の方へ押し出した。
その間に思考できた言葉は二つ。
『すごい』と『ごめん』
それだけだった。
落下しつつ徐々に壁が近づいてくる。
混乱からようやく脱しつつ氷壁に激突するケイ。
衝突の際に凹凸を見極めて、そこに全力で右腕を差し込んだ。
肉が破ける音と、骨が複雑に折れる音が脳髄に響く。
重力によって加速されたその力を受けても、腕はちぎれはしなかった。
落下は止まり、その体はやっと宙吊りになることができた。
激痛によってようやく思考が開始する。
まずい。まずい。まずい。
安全の確保をしなくてはいけない。
こんな場面は初めてじゃない。だから一切の躊躇いもなく腹に左手の『指銃』を打ち込んで指を消失させた。
その指だった黒炭を氷壁に当てがい削る。そして腹部の出血による死を待った。
意外と死ぬまでに時間がかかる。
左手の指からの激痛で目がさめる。
復活すると、左手の指は氷壁にしっかりと埋まり右腕は自由になっていた。
IBMの使用を考えるが、それを止める。今気づいたが、ここは猛吹雪だ。IBMを命綱にするには非常に危うい場面である。
次は右の指を二本のみ焼失させつつこめかみを撃ち抜く。
復活時にその失った指をより高い壁にあてがうと、そこの壁があった場所に指が発生する。
復活の際に体以外のものが体内にあれば、分解されて亜人の肉体に再構成される。
これは亜人の復活の時の現象を利用した登攀方法だった。
以前に登った壁は垂直の5m。それでも10分弱かかり、6回ほどは自殺した。
指を噛み切る必要があり、自殺もガラス片で行っていたため今の方が時間はかからないが、今は垂直でもない壁と強風。
悪条件が重なって結果的には似たようなものだろう。
現在は大体300mほど落下しただろうか。
その単純な割り算がどれほどの苦痛を意味するのかケイは想像できてしまう。
そんなどうでもいいことを思考していることにすら怒りが湧く。
クソっ!!
騎竜とジャスティの方を向くことすらできなかった。どうなったかなどわかりきっている。
激情を無視して体を動かし続けた。
脳が考える最適を行い続ける。
死にたくない。死んでたまるか。
そう思いながら死に続けて、登り続ける。
ただひたすらに地獄のような苦しみだった。それでも眼下に広がる虚無よりよほどよかった。
都合230回以上の自殺と、膨大な自傷を繰り返しようやく崖を登り切る。すでに辺りは夜になっているようだった。
世界の縁から転がるように逃げる。
そして十分に安全を確保できたと思えた時に、ようやく恐怖が襲ってきた。
死ぬところだった。
本当に死ぬところだった。
あれはダメだ。どこかで復活できるかもしれないと思っていたが、実物を見ればそうでないとわかる。
大瀑布に呑まれれば終わりだ。
何もできない。いきなり本物の死に向かって落ちるだけの状況の恐ろしさ。
体が震えて、呼吸が乱れる。
今改めて脳裏を巡るのは生還の理由、それは他者の犠牲だった。
騎竜はすぐに僕を離して壁に寄せてくれた。
あの人懐っこく賢い地竜。二人の時だけは名前である『グラーニ』と呼びかけると嬉しそうに鼻を寄せてきた。
鱗のあの冷たい感触を思い出す。
魔獣のジャスティは教えられた通りに主の危険に飛び込んだ。
魔女の残り香に殺意を覚えていただろうに、これを成したことは驚愕だ。
教え込んだ鎖もすぐに扱えていた。それによって命を拾ってもらった。
命令に従う機械のような美しさ。カララギで思う存分木を倒している時の野生動物のような力強さ。
あの毛並みがまだ感触として残っている。
その二つの命を踏み台にして、今ここで無様に涙を流すことができている。
そしてその涙は失われた命に対してよりも、純粋な死への恐怖によってだった。
この情けない涙にも腹が立つ。
くそ。くそ!くっそ!!
「ふっざけんな!!っなんだよそれは!」
頭の一部はどこまでも冷静ではあった。これは確実にあの女の力だ。
別の場所に移動させるだけの仕掛け。それがここまで有効だとは。
時を止める力に、空間を無視する力。それがあるとわかっていた。しかし空間への干渉は最初の拉致以外で一切行っていなかった。
だからそれはできないのだと思い込んでいたらしい。
本当にバカじゃないのか。
あの女はスバルだけ。スバルだけが大事なのだ。これまでのケイによる魔女のペナルティの悪用は全てスバルの利になるものだった。
だからあいつは嫌々ながらも、協力していたのだろう。あれが協力だなんて信じ難いがきっとそうなのだ。
この甘すぎる認識の代償はあの健気な動物たちの命だった。
あまりの極寒に体の感覚を失っていた。
指をこめかみに当てて自身を撃つ。
切り替えろ。ここで何を叫んで何を反省したって意味がない。
バカならせめて目の前にあるすべきことをしろ。動き続けろ。
冷静になって状況を分析すれば、現在地は大体当たりはついてる。
この世界での銀世界は北方のグステコ。その一帯のはずだ。しかしながらグステコ国境の大半は大瀑布と面していなかったとも聞く。
だからここは、グステコよりも北方の未開の雪山である可能性が高い。確認せねば。
現在位置の特定だけで5日間もかかるとは思わなかった。
猛吹雪の中を2日をかけて山を登って3日吹雪が収まるのを待つ。そしてようやく見えた光景に息をのむ。
夜の山頂は、静寂と冷気がすべてを支配していた。月は雲一つない空に孤高の光を放ち、白銀の雪山を幻想的に浮かび上がらせている。
月明かりに照らされた峰々は、遠く手の届かない場所で輝き、こちらを拒むかのように冷たく見える。
遠くの連峰は月光を浴びて荘厳にそびえ立つが、その輪郭は鋭く、あたかも牙をむいた獣のようだった。
その中に一際目立つ山がある。
グステコが誇る霊峰パルドキア。彼の国にとって最重要の大精霊。オドグラスがいるというグステコ最奥にある霊峰は、絵画にもよく描かれる。
その特徴的な形と周囲の連峰は見間違えることもない。
見えるのは、記憶と逆位置の連峰だった。
つまり、絵画に描かれた山々。それを描いた絵描きと反対の方向にいることを示している。
そしてその四大国で最高峰たるパルドキアは、あまりに遠く小さい突起として視界に映る。
ここから帰ることはできるだろう。どれほどの悪路で命を落とそうとこの足を止めることはできない。
しかし遭難は確実だ。絶対に迷う。それでもいつかは帰りつくだろうが、時間がかかり過ぎるのだ。半年、いや一年はかかるのではないだろうか。
ふざけやがって。
怒りを爆発させてケイは深くため息をつく。肺のそこまで凍りつくような空気が入ってくるがそんなもの知ったことか。
すでにジャスティと騎竜。彼らに積載していた魔造具やミーティア。装備品は永遠にこの世から失われた。
だが失ったものは仕方ない。復活による転送をするしかない。
そうすれば、カララギにおいてある竜車に戻ることはできる。
時間にして5日のロス。
では何も問題はないのか?いいや、大アリだ。
なぜなら、転送は肉体だけ。
今身につけている装備。奪った呪刀『屍山血河』。酒気を増幅させるミーティア。他にも武器や新たに買った呪具や魔法具。高純度の魔石や退魔石。大罪司教対策に作った魔造具。風に特化した属性防御を揃えた一点もの。
そして異世界から持ち込んだスマホなどの道具類。全てではないが大半は身につけていた。
それらを全てここに捨てることになる。
ザーレスティア攻略に向けた全てと、この一年でかき集めた多くがここにあるのだ。
それにかかったコスト。これらを使った戦術や戦略が脳裏に駆け巡る。
よし。わかった。もういい。もう諦めた。
程よい高さの断崖を見つけて、自殺用の氷魔法を仕込んだ魔石を取り出した。
この世界にきて最悪のリセットを、自ら行う。
魔石の起動に躊躇いが生まれている。
「ちくしょう…」
それでも実行はする。
一気に変わるのは空気の温度。暖かいその空気に触れて帰還を実感した。
第一都市に停めてある竜車から這い出てヴィルヘルムを探す。
最悪な目覚め、痛恨の喪失。何よりあの女の笑い声が、吹雪に木霊するあの感覚が脳裏から離れない。
永井圭は本物の『死』が心の底から怖かった。
「喑慟(あんどう)」は存在しない言葉である。
成果や積み重ねが消えて泣きたくなるほど心が痛い様を指す。
「喑」とは、泣くなどの意味をもつ漢字。
「慟」とは、おどす/いたむ/心がいたむなどの意味をもつ漢字。
「Undo」 とは、努力や成果をなかったことにする意味の英単語。