亜人:ゼロから始める異世界生活   作:ZAT23

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【FILE:71】色欲の盤面

「――――」

 

最初に耳に飛び込んできたのは、誰かの怒鳴り声だった。

ひどく甲高いそれを耳にして目を開ければ、視界に白い天井が浮かび上がる。同時に自分が固い床に、手足を投げ出して寝転がっていることに気付いた。

 

「――い、役立たず!」

 

意識が覚醒し、先ほどよりはっきりと罵声が形として捉えられる。

 

「一体何してたの!肝心な時にいないで、こんなこと…」

 

もみ合う気配と、収まらない憤激。

反響する声の感覚から、広い部屋だが同室の出来事だとうっすら感じ取る。そのまま手を伸ばし、左手が壁に触れるとそれを支えに体を起こそうと試みる。

 

――部屋の真ん中で組み合うのは、三人の男女。否、三人の男だった。

 

涙目のフェリスがラインハルトに掴みかかろうとするのを、ヴィルヘルムが制止している。

 

「すまない。僕の力不足だ…」

 

「言い訳してよ!何か理由があって、だから仕方なかったんだって、そう言って私を納得させてみてよ!謝ったって、謝られたって、何にもならない!」

 

「フェリックス、それは筋違いだ。ラインハルトも、悔やんでいる」

 

「悔やむ……!?悔やんで何になるの?役立たず!意気地なし!みんながみんな……どうしてなの……?なんで誰も、クルシュ様を……」

 

声を荒らげ、フェリスの視線がヴィルヘルムを、ラインハルトを突き刺し、すぐに矛先を見失ったようにその場に膝から崩れ落ちる。

 

涙声のフェリスの糾弾に、二人の男は何も言うことができない。そんな二人に見下ろされながら、フェリスはその白い手で床を掻き毟り、

 

「何が『青』……こんなときに、お役の一つにも立てないで何が……!役立たず……役立たず役立たず役立たず……っ」

 

床に涙をこぼし、フェリスの弾劾は呪うように続く。

だがそれが、怒りのぶつけ先として周りの誰かに向けられているならまだマシだった。それがどうしようもない、自分への怒りだと気付いてしまえば、誰も彼の悲嘆に言葉を差し挟めなくなるのも道理だった。

 

 

そんな悲嘆を意にも介さない。ただ一人をのぞいて。

 

『いいからこれからの話をするぞ。クルシュさんを救うためだ、こんな戦いはとっとと終わらせる』

 

その声はいつもと変わらない。それが一同に驚きを、そして一の騎士には壮絶な怒りを引き起こす。

 

「なに、それ。ていうか今どこにいるの?クルシュ様がこんな時にお前はまだ!いい加減に…っお前の作戦でいっつもクルシュ様は!」

 

『いい加減にするのはどっちだ?僕の役割はそこで一緒に嘆いてクルシュさんの手を握ることじゃない。そこは僕が最善を尽くせる環境じゃない。だから各区画にある刻限塔、その付近に拠点を作ってこうして情報を集めてるんだ。役に立ちたいのなら切り替えろよ』

 

「そんな風に切り替えられるわけっ!できるわけないの!普通は!納得できないって言ってるでしょ!どうして…」

 

『じゃあせめて黙っててくれ。それに納得したいなら教えてやる。クルシュさんは僕らの反対を押し切って参戦し、僕の助言を無視して敵に落とされた。つまりは全てクルシュさんの意思だ。結果は残念だが、彼女の意思を尊重すると決めたのは僕らだろ』

 

何かが決定的に壊れそうな気配がある。

 

「クルシュ様の自業自得?そう言いたいわけ?」

 

 

 

致命的な亀裂が入りかけたとき、別の声がした。

 

 

「よォ、大将。目ェ覚めッたのかよォ」

 

そんな光景を為す術なく見ていたスバルに、扉をなくした入口を抜けて顔を出したガーフィールが気付いた。そのガーフィールの声に皆が目覚めたスバルへと振り返り、安堵の表情を浮かべる。

 

「よかった。スバルも目覚めたようだね。フェリス」

 

「……わかってる」

 

ラインハルトの呼びかけに、乱暴に袖で顔を拭ったフェリスが立ち上がる。彼は今しがたの醜態を感じさせない素振りでスバルへ歩み寄り、戸惑うスバルの体にてきぱきと触れて、最後にじっと目と目を合わせると、

 

「ん、大丈夫そう。意識も平気、だよね。自分の名前と出身、言える?」

 

「名前は、ナツキ・スバル。出身は日本だ」

 

「聞いたこともない田舎だね。……私はクルシュ様のところにいるから」

 

スバルの返答につまらない冗談を聞いた顔をして、尻をはたきながらフェリスはとっととこの場を立ち去ってしまう。すげない言葉に応答することもできず、全員が無言でその背を見送る。

ただ、ヴィルヘルムだけがフェリスの後ろを追うように歩き出した。部屋を出る直前に、老人は目礼だけをスバルへ残してフェリスと一緒に去ってしまう。

 

そうして二人が出ていってしまうのを見届けると、ようやっと部屋の中からピリピリした空気が薄れていくのがわかった。

ただし、代わりに沈鬱な雰囲気の方の存在が増すのも痛いほど感じてしまう。

 

「体ァ無事でも、無理はすんなよ、大将」

 

「……お前の方こそ、顔色が最悪だぞ」

 

壁に背を預け、足を投げっ放しにしたスバルにガーフィールが声をかけた。その顔を見返し、憔悴した色の濃い少年にスバルは声の調子を落とす。

顔と金色の髪に渇いた血がこびり付き、衣服にも複数の裂け目がある。顔色の悪さは負傷したミミを連れて避難所へ現れたときと同じか、悪いぐらいだ。

そこまで考えて、ようやくスバルは遅れてきた思考に一つの帰結を得る。

 

「死んで、ねぇってことらしいな」

 

「あァ。俺様ッも大将も、きちっと生き残ってんぜ。たァだ、それで全部が大歓迎ってェわけにゃァいかねェよ。くそったれ」

 

掠れたスバルの呟きを肯定し、ガーフィールが忌々しげに牙を鳴らす。

それを横目にしながら、スバルは改めて自分の生存――つまり、『死に戻り』の不発と、都市庁舎奪還作戦の終端を見届けていないことを理解する。

当然、生き残ったからには誰かに救出されたはずだが――、

 

「都市庁舎は……どう、なった?俺はどうやって、ここに……」

 

「どうも何もない。君もいるこの場所が、その問題の都市庁舎だ。魔女教徒は建物を放棄し、私たちは目標の建物を奪還した。結果だけを見るのであれば、そう言うこともできるかもしれないな」

 

途切れ途切れのスバルの問いかけに、正面に膝を落とすユリウスが答えた。

近くで見れば、『最優の騎士』の有様もずいぶんなものだ。髪は乱れ、頬や首筋には打たれた痕も見える。騎士服の装いも血に汚れ、無事とは言い難い姿だ。

 

何よりその整った顔立ちに、らしからぬ悔恨と屈辱が色濃く刻まれている。

 

それ以上に彼は、なにかに打ちのめされているように見えた。こちらを恐れるような。全てに怯えているような。あまりにもらしくないユリウスの姿がそこにあった。

 

「状況がわからないと思うが、まずは把握が先だろう。自己紹介などは置いておこう。まず、君が目覚めて何よりだった。この上、君までどうにかなってしまえば、我々の士気は取り戻しようがなくなるところだったのでね」

 

「……ああ、悪かった。いらねぇ話は飛ばそう。何があったんだ。魔女教が建物を放棄とか、何が……いったい何が」

 

下を向く騎士は説明を続ける。

 

「言葉通りだよ。魔女教徒が建物を放棄し、都市庁舎は私たちの手に戻った。その姿を人ならざるものへ変えられた人質たちと、目的を達した魔女教徒の全員を取り逃がしたことを度外視すれば、喜ぶこともできたかもしれないな」

 

焦りに声が逸るスバルに対し、あくまでユリウスは淡々と事実を伝える。

しかし、その声音の固さと伏せた眼差し。何よりも、口にした事実の重々しさはユリウスをして義憤の色を声から隠し切れないほどだった。

 

そして、伝えられた内容にスバルが愕然となるのも隠せない。

 

「人、ならざる姿……ってのは」

 

「庁舎の最上階、君も見たはずだろう。あれは悪夢だが、夢で終わらない」

 

首を横に振り、ユリウスが残酷な現実を肯定する。

スバルの脳裏を鮮やかに、赤く光る複眼と助けを乞うような羽音の響きが蘇った。とっさに嘔吐感を堪えることができたのは、その悪夢の光景の真実が救いを求める人々が並んだ姿だったことに考えが思い至ったからだ。

心臓が締め付けられるように痛み、同情とも恐怖ともいえない感情が湧き上がる。

 

 

「事実として惜しくはあった。クルシュ様の奮闘を筆頭に勝ちの目はすぐそこにあった。しかし結果は無惨な敗北だ。その最後までを見届けられなかったのは私も負けたからに他ならない。私は、『暴食』のロイと名乗る少年と戦っていたところに、もう一人の『暴食』に奇襲を受けて負けたらしい。だからこれは、これまで聞いたことの伝聞を整理した内容ということになる」

 

 

 

スバルは息を呑む。

 

「なん…だよ。それは…」

 

『暴食』が二人いた?

 

そんなこと。いやそれよりも。それなら一体レムの仇はどっちだ?

様々な疑問が頭を埋める。しかし、わからない点がありすぎてまずは思いついたところから質問を進める。

 

「さっき言ってたもう一個、黒竜の尽力ってのはなんだ?」

 

「最上階の出来事だ。君以上にはわかりかねるが……『色欲』の権能で、姿を変えられた人物がいただろう。権能のおぞましさもさることながら、驚くべきはその再現性か。黒竜へと変化した人物は『色欲』へ息吹を浴びせて手を引かせた。君が命を拾ったのも、彼が高台に運んだおかげだろう」

 

「その黒竜の人は、今は……」

 

「死なせねェよ」

 

安否を案じるスバルに、ガーフィールがふいに静かな声で割り込んだ。

眉を上げるスバルにガーフィールは向き合わず、ただジッと天井を睨みながら、

 

「濁流と亜獣にあちこちやられっちまってた。でも死なせねェ。死なせるなんて絶対にダメだ。助けねェと……じゃァねェと」

 

「無事と言っていいものか軽はずみには判断しかねる。が、身柄は確保している。フェリスにも診てもらった後だ。期待は薄かったが……やはり、ね」

 

「フェリスに治せるような傷や病気の類じゃねぇってことか。……クソッ!」

 

思わず床に手を叩きつけて、スバルは己の肉体をなくした人々の心を思う。

いったい、どれほどの恐怖と喪失感が彼らを襲っていることだろうか。人でなくなることは、命を失うこととは別種の恐ろしさと残酷さがある。

 

命を失えば、そこまで生きてきた自分が終わってしまうことになる。

だが肉体の喪失は、自分が終わってしまったに等しいのに、終わっていないのだ。

 

癒せない呪いに苛まれる人々も、同じく都市庁舎の中に集められている。

頭上か階下か、いずれかに集められた人々の無念を思いながら、スバルはなおも確かめなくてはならないことの多さに思考を走らせるしかない。

生き残ったことがわかれば、次に疑問として浮かぶのは、

 

「お前もガーフィールも、怪我はないのか?」

 

「見ての通り、私とガーフィールに目立った傷はない。リカードも同じだ。相手の殺意は本物だったが、最後にはラインハルトが都市庁舎に近づいてきてくれた。剣聖の接近をどうやってか感知したかは知らないが、敵は一目散に逃げていったよ」

 

「――――」

 

「遅れて、すまない…」

 

都市庁舎に剣聖が降り立ったのはカペラが立ち去ってすぐだった。

 

その前にはすでに亜獣たちは一目散に逃げ出して、剣士たちも暴食も逃げ出したあとである。

 

しかし、当然無意味ではない。濁流によって都市庁舎の複数階が一時浸水するほどの被害を受けたのだ。

ハエにされた人々の救命活動も彼がいなければ難しかっただろう。フェリスの治療の邪魔になってはいけないと、離れて力を制限してなお万能であった。

 

 

そんな剣聖がなぜ連絡も取れずにここまで遅れたか。

 

単純に動けず、対話鏡も使わせてもらえなかったのが理由である。

 

他でもない実の父親によって。

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

ラインハルトは、フェルトを人質に取られていた。下手人はハインケル・アストレア。

一度目の色欲の演説を聞いて、蛮行に及んだ父親。それを説得しようと試みたが決してうまくいかない。

 

「動くな、お前はそこにいろ」

 

「お前の大切な主と、血の繋がった父親がここにいる。それを見捨てて、顔も知らない奴らを救いに走るのか」

 

そう言われて動けなくなってしまったのだ。

 

 

「おい。ポンコツ。お前何してんだ。こんなんは口だけの脅しだ。心配しなくても」

 

フェルトがそこまで言うと、剣が喉元に当てがわれラインハルトは息を呑んだ。

 

「試してみるか?難しいことじゃない。騎士の本分を全うしろってだけだ。アストレア家の家督について話したいだろう。今話そうじゃないか。なぁ?フェルト様よぉ」

 

その脅しにフェルトは一切動じていない。

 

「いけって。…行け!!」

 

「フェルト様…僕は…」

 

それでも、剣聖は動けなかった。

きっと朝にあんなことを言われていなければ、ここまで腹も立たなかったのだろう。だが、どうだ?

 

まるであの赤女の言う通りになっているではないか。

 

「おい、ラインハルト。お前、ここでアタシの言うこと聞けねーってんなら。本気で騎士やめさせるぞ。アタシがお前の主なんじゃねーのかよ?それとも本当に、アタシの意思は全部無視で、お前の薄っぺらい正しさなんてもんだけで適当やってくつもりかよ?」

 

その言葉に、今度こそラインハルトは硬直する。

いや、できない。そんな危険は冒せない。けれど、フェルトの本気も確信する。

 

動くことはできない。しかし騎士を辞めさせられることも避けなければ。

 

一体、いったいどうすれば…

 

「いいや、ダメだね。加護も使うなよ。動くんじゃねえ。こっちだって命懸けだ。なんでもやるさ」

 

その時に、友人の言葉が脳裏に蘇る。

 

『お前が敵に逃げられたり、何かを取りこぼすとすればそれはまず間違いなく人質を取られた時だ。それにこだわる限りお前は弱い。攻略も調略も可能だ。いいか、人質を取られて相手の要求をのむということは今後も人質を取られ続けることと同義だ。お前が人質を無視して戦う限りは、敵の剣はお前に向けられる。けれど、人質を優先するなら今後は誰もお前に剣は向けないで、お前の守るべき人に敵意が向けられ続けるぞ』

 

この一年で何度も会い。多くの知恵をくれた友人。いつの間にかお前などと気軽に呼んでくれるようになった。お祖父様との仲を取り持ってもくれた。

 

彼の言葉を思い出す。

 

『まぁそこまで言っても、お前やスバルは人質を無視できないんだろう。それは本当に人のためにならないけどね。それで動けなくなった時は、そうだな『平静の加護』を解除するか、他の何かしらの手段で連絡しろ。僕が近くにいるなら状況を変えてやる』

 

僕は、僕の正しさを曲げない。曲げることはできない。だけれど、これは誰の言うことにも触れない。

こんな穴をつくような思考は、どうやら友人の悪影響らしい。

 

ふっと笑みが浮かんだ。

 

「お、おい。おいおいおい。お前、そりゃあ一体なんだよ。おい。ふざけんなよ。何をしやがった!?」

 

「いえ、僕は何もしていません。副団長の脅迫に従って、加護を使うのを止めただけです」

 

「なん…だよ。それ、隠すのをやめて、これだってのかよ…お前本当に…」

 

続く言葉は、父親が息子に向けるべきでない言葉だったのだろう。

しかし、そんな言葉にも動じないラインハルトの微笑。

 

フェルトはその剣聖の姿をじっと見ていた。

 

「なんか、考えがあんだな?」

 

「僕は動くことはできません。決して曲げることのできないものもある。けれど、フェルト様の騎士でありたい。そのために全力を尽くさせていただきます」

 

 

緊張感が高まり、ハインケルは喉を鳴らす。

 

しかし、何かが変わった様子はない。いや、目の前の圧力は人間のそれではない。化け物のようなその気配を除けばだが。

 

すると、奥で窓の割れる音がした。フェルトが年頃の女子らしく、少しビクッとしてしまい顔を赤める。

 

ガシャンという音に、三人がそれぞれに警戒をする。

 

奥から誰かが入ってくる気配。一体誰が…まさか魔女教か?

 

奥では何かが暴れ続けている音がする。一体何がと警戒を高めると、入り口のドアが開いた。

同時に起こる二つのことにハインケルは動揺する。

 

「おい!ラインハルト、奥を見てこい!」

 

「いえ、僕は何もするなと脅されていますので」

 

家の奥から破壊音が止まらない。そちらに気を取られた瞬間に、剣を持っていた腕が逆に曲がった。

 

「は?」

 

そして吹き飛ばされるハインケル。背中には裂傷が刻まれている。

倒れるハインケルに、なお迫る何か。

 

それをラインハルトが間に入って制止する。

 

「協力には感謝する。だが、()()()()()

 

そこには威風堂々たる剣聖がいた。

 

今すぐに、都市庁舎へ行け。候補者たちが危ない。今すぐにだ

 

「まさか君がケイの協力者とはね。君には深手を負わされたはず。他にも王都の事件は…」

 

無駄口を叩く間にも人が死ぬぞ。剣聖。いいのか?

 

 

「おいポンコツ騎士!つべこべ言わずに行ってこい!」

 

あと一歩で死にかけた父。その蛮行と主の言葉。そして探していた敵が味方になっている困惑。

その全てに足を止められそうになるが、今度は家族の言葉を思い出す。

 

『我々のような考え足らずの剣は、主の言葉に従う時が最も強い。下手に考えるな。体を動かせラインハルト』

 

剣聖は、家族の言葉を胸に水門都市の空を駆けた。

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「……すまない。任された役目も果たせず」

 

声に屈辱への噴気が入り交じり、ユリウスが固く唇を噛んだ。

彼の怒りのほどが伝わる様子と、相対していた相手を思い出してスバルにも同じだけの悔しさが込み上げた。

 

 

「それを言い出したら、俺の方だってキリがねぇよ。……放送は、されちまったんだろ?奴らが目的を達したってことは」

 

「その通りだ。声は同じ、『色欲』のものだった。ただ……いや、これは詮無いことだった。とにかく、要求は行われた。そのことでも話し合わなくてはならない」

 

その『色欲』が行った放送の要求、それが碌でもないものであったことはユリウスの表情からも窺い知れる。聞きたくない内容だが、耳を塞いで済まされるようなものでないこともわかりきっている。ただその前に、

 

「放送もだが……もう一つだ。クルシュさんは、どうなった?」

 

「――――」

 

「クルシュさんも俺と同じで……いや、俺よりももっと悪かったはずだ。『色欲』が何かして、それで苦しんでて……」

 

踏み躙られたクルシュの姿が思い浮かぶ。

それに、先のフェリスの叫びもある。まさかと、そう思いたいが――。

 

「フェリスが、縁起でもないこと言ってた気がして、俺は……」

 

「クルシュ様はご存命だ。それだけは間違いない」

 

「含みのある言い方、するんじゃねぇよ」

 

一瞬、希望が垣間見える言い方だったが、それもユリウスの目を見るまでだ。

 

「フェリスが、ずっと手を尽くしている。しかし、芳しくない」

 

「芳しくないって、どういうことだ。クルシュさんに何が……フェリスでもダメってそれじゃ、他の人たちと一緒みてぇじゃねぇか!」

 

「それぞれが負った傷は深い、しかしクルシュ様の傷は都市庁舎の人々とは違う。もちろん僕とも…」

 

「なんでてめぇはそんな落ち着いてられんだよ!惨敗もいいところなんだぞ!?あんな奴らにいいようにされて、腹が立たねぇってのか!」

 

「なぜそんなことを?君も、私のことを知りもしないだろう。ここで義憤に駆られるのが私らしいとでも、そう言いたいのかな。王国騎士ならそうであれと?」

 

とっさに腕を伸ばして掴みかかろうとするスバルを、ユリウスの腕が振り払った。あまりに底冷えするようなユリウスの、その絶望に頭まで浸かったような寒々しい瞳を見てスバルは声を失う。

 

しかし、すぐに再燃するのは怒りだった。

 

「何言ってんだよ…お前…それ本気で言いやがってんのか?」

 

「ああ、そうだとも、確かに私は敗北したが何も知らない。だが何も覚えていない君に…そんな言葉を…」

 

「おい、いい加減にしろよ。確かに気を失っちゃいたが、そこまで全部忘れちゃいねーぞ。お前こそ本当におかしいぞ。騎士らしくはもうおやすみか?今までの言葉は嘘だったのかよ?」

 

そう言って胸ぐらに掴み掛かる。もはや殴ろうとすら思っていた。

また反撃されても知ったことか。そんな風にバカを言う奴は殴ってやらないと気がすまない。

 

しかし、そこから返ってくるのは予想外の反応だった。

 

 

「なっ…スバル!?君は…君は何を。お、覚えているのか…?」

 

そこで、ラインハルトを含む全員が驚いてスバルを見ていることに気づいた。

 

「はぁ!?この非常時に何言ってんだよ。お前のバカみたいな見栄もなくなりゃ大事だってわかるもんだ。どういうつもりか、さっきの続きを聞かせろ!」

 

その一言を聞いてユリウスは何やら顔を歪ませて、辛うじてだが微笑んだ。

 

微笑むことができたのだった。

 

「失言を、撤回し謝罪をしよう。この私が騎士として捧げた剣も体現すべき姿の全てが消えたと思い、自暴自棄になっていたようだ。しかし、君が私の騎士たる姿について覚えているならば話は別だ」

 

 

スバルは理解できていない。それも伝わったのだろう。ユリウスは今度こそ端的に伝えた。

 

「私は、『暴食』に負けてしまった。その結果。他者の記憶からの喪失者になった。あの青蓮獅子団の彼らと同じさ。ラインハルトすら私のことは覚えていない。つまりこの世界の誰もが私を忘れたのだと。そう確信していたのだが。どうやら君にはこの世界の当たり前は通用しないようだね」

 

「な…ぁ…!?嘘だろ…」

 

 

そう言って見やるのは、周囲の人々。

 

ヴィルヘルムは目を閉じて首を振り、そして彼の主であるアナスタシアはといえば。

 

街を駆け回る謎の獣人の影について情報共有をしていたところだった。

過去に倒した因縁のある相手だったらしい。ライゼルという狸人の獣人だ。おそらくミーティアである手法も一緒であるが、それにしても数が多いらしい。

 

「ウチかて騎士様のことはさっき聞かされたばっかなんやから、そないな目でこっち見んといてよナツキくん。堪忍や」

 

どこまでも他人行儀。そうだ。暴食の被害はこうなる。

たとえ魂を分けた双子同士であっても完全に空白になってしまうのだ。

 

その様子に、もし自分がエミリアに忘れられてしまったら。そんな他人行儀に話しかけられたと思い、かつてのトラウマが蘇る。

あれはまだ、王都に着いた当日。死に戻りという存在に気づかぬままにエミリアに話しかけ、なかったことにされた瞬間がよぎった。

 

あの時も絶望したものだが、今までの積み重ねを今奪われたりしたら、それこそ立ち直れないかもしれない。

 

「ウチらのとこにも襲撃があってな。『憤怒』が襲ってきてん。ウチの隠し球とみんなの尽力。何よりキリタカさんの献身で退避できたんよ」

 

「ご無事で何よりでした。しかし、魔法をお使いになるとは。驚きました。本当に…」

 

そこまで聞いて、思い至る。もしスバルがこの世界の異物だからと影響を受けないなら他にも候補はいる。

 

「っクソ!ケイ、ケイはどうだ!?」

 

『悪いが、その騎士に心当たりはない。状況証拠的にはアナスタシア様の騎士だろう。記録や計画に意図しない空白が生まれているから誰かが欠けたことはわかっていたが、僕も影響を受けている』

 

「そんな…嘘だろ…」

 

「私のことで感情を荒らげてもらうのは光栄だが、私などは軽傷であると言わざるを得ない状況だ。その対応をしなくてはいけない」

 

違う。さっきのユリウスはおかしかった。軽傷なんて言えるレベルじゃなかったはずだ。それをこいつは、騎士の一言でどうにか取り繕っただけ。だが、その見栄こそが騎士であると、その姿は語っている。そこをほじくり返すような無粋はできないし、そんな時間はない。

 

「悪かった。それで、さっきの続きだ。クルシュさんは?」

 

「……『色欲』に何かをされたのだろう。体の中に溶け込んだ異物が、その身の内側で暴れ回っている。フェリスの取り乱しようは、見ていられないほどだ」

 

声の調子を落とすユリウスに、クルシュの深刻な様子がはっきりと目に浮かぶ。

体の内側に潜む魔の気配に、血肉も骨も、魂も削られるような苦痛の限りだ。あんなもの、人間が味わうべき苦難では決してない。

 

それをどうにもできないことが、先ほどのフェリスの態度に繋がるのだろう。

目覚めの前後、フェリスはヴィルヘルムを責めていたように思えた。あれはきっと戦場に同行し、主人を守ることができなかった老剣士への叱責だ。

きっと、やり場のない癇癪に過ぎないことを、責めたフェリスも責められたヴィルヘルムもどちらも理解していた。

 

先に部屋を出た二人のことと、今も苦しんでいるだろうその主人。

彼女ら三人のことを考えると、ますます敗北感が胸を突くのがわかった。

ただ、そんな感慨に胸を痛めるスバルにユリウスが、

 

「――スバル、確かめたいことがある」

 

「なんだ?」

 

ユリウスが指差したそこには、黒く蠢く醜い肉の継ぎ目と、その蠢きに浸食されつつある右足が存在していて。

 

それはスバルの足だった。

 

「繋げたのはフェリスじゃない。治癒魔法ですらない。君の足は、千切れかけた足を自ら繋ぎ合わせて、その状態になっている。痛みも、見たところないようだ」

 

「――――」

 

ユリウスの言う通りだ。

醜いこの右足は、痛みも違和感もない。繋がっていないのかと思えば、スバルの意図した通りに膝が曲がり、指を動かすこともできる。

ただ千切れた部位を繋いだ傷口部分がどす黒く変色し、斑の血管が伸びるように足の上下に浸食を伸ばしているのだ。

 

「スバル、改めて確かめたい」

 

「…………」

 

自分の足の壮絶な変化に、スバルは声も出すことができない。

ユリウスの問いかけに、スバルはゆるゆると顔を上げて、そして、

 

「君は、本当に大丈夫なのか?」

 

 

衝撃に倒れ込みそうになる。失った現実感を取り戻すためにも、周囲を見渡す。

 

そうだ。街はどうなって…

 

 

スバルはよろよろと立ち上がり、窓の外を見た。

 

空にはところどころ黒雲のようなモヤがかかり、それがまるで意思をもっているかのように移動している。

しばらく経つまでそれが大量の虫。拳大ほどの怪虫であることに気付けなかった。

 

少し目線を下げれば、都市の屋根上を走る謎の黒い影も多数目に入る。

さらに下、都市の通路を跋扈するのは、異形の獣。それらが群れをなして我が物顔で水路の脇を歩いている。

 

各地で火の手が上がり、どこからか悲鳴が聞こえる。

武器を持った市民たちの双眸は狂気で溶けきっており、何かを一心不乱に探しているようだった。

手に持った農具や包丁や棒には何かの血が付着している。

 

そんな混沌とした状況にあっても、それぞれの災厄はなぜか互いを攻撃しない。

この狂気を誰かが支配している。この歪すぎる秩序から何かの意思が伺えた。

 

この絶望の光景こそが、油断を忘れた色欲の整えた盤面であった。

 

「これが、全部敵なのか?」

 

スバルは思わず言葉をこぼした。

 

 

 

 

同じ時に、ケイはこう考えた。

 

「これが、敵の全部なのか?」と。

 

ユリウスとスバルのやりとりを聞き、都市を見ていた。

都市の四方に虫と獣と影が集まって、何かを探して動いているようだ。

 

色欲の手段と駒はある程度は出し切ったのだろうか。

大罪司教の能力は未だ底が見えないが、コマの数は出切ったか?

 

その思考はこれまでで最も怜悧で速く、そして悲観的だった。

 

恐ろしい想像が頭から離れない。クルシュを遠ざけることに失敗して次善策に切り替えた。

避けられぬ戦場において比較的安全な場所にクルシュを配置できていたと思っていた。

 

しかし、現実はそうならなかった。命がある限り可能性はあるが、それでもこの負けは覆ったりしない。

 

最悪の想定。スバルがロードをした瞬間は何度か見たことがある。

けれど、セーブはこちらから見てわかるはずがない。

 

セーブとはつまり、分岐点を作る行為だ。

そうなれば、上手くいく世界もあれば失敗する世界もあるだろう。

自分ならば、より上手くやるためにいくらでも世界をやり直す。

 

 

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ならばこの状況にも納得がいく。憤怒については少し話していたところからも少しはロードをしていることはわかる。

けれど、それ以外の情報がなさすぎる。

 

この世界は、スバルの情報収集のために捨てられているのでは?

 

スバルの性格上、それはしないと思っていた。

だからそれを前提に作戦を立てていた。

 

 

やはりダメだ。自分で最善を尽くさねばいけないのだろう。

人に頼って、当てにして。それでこれ以上、何を失い続けるというのだろうか。

 

あの二つの命。健気な犠牲で学べているならまだ救いようもあったが、やはり僕はどうしようもなく愚かだった。

ラインハルトに期待し、スバルを前提に動いていた。そのツケが今の状況である。

 

 

僕は、僕のやるべきことをやる。この戦いにおいてスバルは頼らないし、期待はしない。

 

『こんな決意をしてもまた失敗するんじゃないの?だって僕らは人間だからね。そういうものでしょ?』

 

認める。佐藤の言葉を認める。

可能な限り安全を考慮してもこうなる可能性はあった。どこまでいっても、いつも一手が足りない。

 

『ならせめて楽しもうよ。失敗も楽しめるくらいにさ!』

 

 

それでも、自分なりの最善を模索することをやめる理由にはならない。

お前のようにはならない。全てを投げ捨てたくなんかない。

 

 

クルシュのことを考えて、歯噛みする。

 

失敗した彼女を馬鹿にすることなど、少なくとも僕には不可能だ。

 

最初に佐藤に抵抗した時。

逃げる事ができたのに助けに戻った時。

 

あそこで捕まっていてもおかしくなかった。そうなれば一生ドラム缶に詰められていたかもしれない。

 

政府の人間と共闘など、いつ裏切られるのかもわからない。また実験動物にされるかもしれないのに共に行動するなんて馬鹿げていた。

 

佐藤が飽きて逃げようとしたのを追いかけたのだってそうだ。

 

断頭されるかも、眠らされて政府に回収されるかも。

全てのリスクを無視して、激情のままに佐藤を打倒するために走り続けた僕には、彼女に言うことはない。

 

負けはした。けれどまだ、彼女に声をかける以外にやれることがある。

 

 

ここからは負けの押し付け合い。不毛だ。早く終わらせて本当の戦いに挑まなくてはいけない。

 

ケイが今から始めるのは、大切な人や人々を守るための戦いではない。

 

 

この一年の間考え続けていた、()()()()()()()()()という作業を実行するだけだ。

 

クルシュを救う。

 

それに集中するために色欲の盤面をひっくり返さなくてはいけない。

 

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