都市庁舎を守るために一部の者たちは出て行った。
虫から獣から影から人々から。あらゆる脅威から守らねばならない状況だった。
都市の騎士が、冒険者たちが、鉄の牙が、青蓮獅子団が命懸けで時間を作るその間に、スバルとアナスタシアとケイの三人によって方針が話し合われる。
色欲の大罪司教カペラによって追加された要求の整理だ。
まずは変わらずに『魔女の遺骨』と『クルシュ・カルステン公爵』。
そして『人工精霊』と『叡智の書』の引き渡し。
最後に『銀髪の花嫁との結婚式』その妨害を禁ずるというものが追加された。
『人工精霊』はベアトリスのことであると指摘すれば、スバルは簡単に頷いた。ベアトリスこそがそうであると。
しかし『叡智の書』はわからないという。
『恐らくですが、燃え残りでもあったのでは?この都市には世界最高の修復師がいます。彼に依頼すれば、ミーティアでも修復できるとか。そしてこれはこちらの情報なので真相は分かりませんが、スバルのところの内政官。彼はその修復師を訪れています。この情報を聞くまでは気にしていませんでしたが、今は確認が必要でしょうね』
なぜそんなことを知っているのか。そういえば、先の戦いにおいてもケイの持っている情報はあまりに多かった。まるでそっちが死に戻りしているようではないか。
いくつかの疑惑を軽く躱して、ケイは本題に踏み込む。
『ここからは予想が含まれるのですが、『叡智の書』も二つあったことだし『人工精霊』も2体いたっておかしくない。そうは思いませんか?』
そう言って、アナスタシアに問いかける。
それはかつて白鯨協力前に、スバルを死ぬほどに追い詰めた時の口調であり、白鯨討伐後には実際に殺された時の語り口だった。
つまりは、ケイは確信している。それを確認しているだけなのだ。
異世界という未知の中でもとびきりの未知。
亜人の中でもさらに別種という特異な存在に対して秘密を守りたいのなら、自室でも秘密を口にしてはいけない。
ましてやその秘密と楽しく談笑するなど聞き逃せるわけがないのだ。
アナスタシアは、否、『エキドナ』はため息をついて話し始めた。
人工精霊である自身のことを。オドの内側に潜んで応答しなくなったアナスタシアのことを。
ケイは考える。スバルにはまだ優先してやるべきことがある。
ラインハルトから相談された時は耳を疑ったが、まぁこのあたりは僕よりも他の人間に聞いた方が良い。
それが終われば、クルシュの元に呼んで話をしようとそう決めている。
「…それで、スバルとケイとの話し合いはいかがでしたか?」
「ちょこっと長引いたけど、建設的なお話ができたって感じやね。ナツキくんも、書記君もウチとおんなじで負けん気一杯みたいや。ユリウスさんの方は?」
「都市は、避難所は今どうなってるんだ?」
「いい話ができず心苦しいが、状況は非常に悪いと言わざるを得ない。都市は獣と虫が跋扈しており、住民たちは避難所に立てこもっている。その避難所では人探しや物探しが起きている。対立と争いも自ずと生まれる状況だ。人々は不安に俯いて身動きが取れない状態の場所はまだ良い方だ。魔女教の喧伝があまりに響いている。いや、不自然なほどであると私は思う」
「…負けを宣伝されたってことか。その印象操作が今は一番キツイってのに。その、不自然ってのは?」
だからこそ、それを的確に突いてくるのがカペラのいやらしい策略だ。都市の人々の牙は折られ、失意の底なし沼へ引きずり込まれていく悪循環。
「確かに不安であるだろうが、それでも我らはまだここにいる。そんな中で短慮を起こすのはもう少し先だと見ていた。しかし、そうはならなかった。最寄りの避難所でも、すでに刃傷沙汰が起きてしまった。そこに違和感を感じて、私が直接調べてみたが、一人明らかにおかしなものがいた」
スバルは最悪の想像を加速させる。
「おい、それってまさか…」
「魔女教徒、または色欲から指示を受けた裏社会のもの。別の場所では家族を人質に取られたものが煽動をさせられていた。すでに一部の住民たちは武装し、暴徒と化している。一部では子供達が集団でいなくなっている」
そこで、ユリウスは先を続ける言葉を躊躇った。だが、それだけで十分に待ち受ける暗い結論の暗示になってしまっている。
「一度、はち切れたもんは収まらんよ。煽ってる誰かがいるなら尚更や。どこでも火の手が上がってる。死人も怪我人も出続けとる。それを言い淀むんは卑怯やって思わん?そないに甘くてほんまに大丈夫なん?」
「……アナスタシア様」
はっきりと、犠牲を直視させるアナスタシアの言葉が聞くものの心を突き刺した。そして続く言葉はユリウスの在り方を強く問い詰める。いまだに傷ついているユリウスを抉る。
「見んようにしたら、そこにあったもんがなくなるわけやない。いつだって、現実はウチらの周りに転がってるもんや」
「私は、決して…」
「こんな惨状や犠牲は出てる。これからも、出る。大きく救うて決めた以上、削れてくんは避けられん。手も足りん。だからせめて、目をつむったらあかんよ」
「———」
「少なくとも、今やったらナツキくんの方がちゃんと立ててる。犠牲を受け止めて、この先の覚悟もある。ユリウスさんは、どうなん?」
アナスタシアの問いかけに、ユリウスの黄色の双眸に迷いが生じる。否、それは生じたわけではない。ずっと、儚く頼りなく揺蕩っていたものだ。
その、ユリウスの瞳に生じた迷いを見て、ようやくスバルは気付く。
「憤怒」の権能の効果は、確かにこの都市庁舎にも影響していたのだと。
アナスタシアの言葉は正論だった。けれど、一つだけ間違っている。
「一つ、考え違いしてるぜ、アナスタシアさん」
ここで初めて、口を挟んだスバルに二人の視線が向けられる。二者、孕んだ感情に違いはあれど、互いに理知的な眼差しを受け、スバルは続けた。
「この都市を救うって誓いは、さっきアナスタシアさんと交わした通りだ。けどそれは、大きく救うために、小さい犠牲に目をつむるって意味じゃねぇ」
スバルの言葉を聞いて、アナスタシアが目を細める。
「ナツキくんまで、聞き分けのないこと言うん?それやったら、最初のお城でやったことと変わらんやん。曲がりなりにも、騎士になったはずやない」
「そうだ。俺も一端の騎士。で、騎士だから譲れねえ。譲っちゃいけねぇよ。ここでそれを譲っちまったら、騎士の看板が傷だらけになっちまう」
言いながら立ち位置を変え、スバルはユリウスの隣に立った。そして、凝然と目を見張るユリウスに肩をすくめ、胸を張る。
リンガを多く抱えれば、いつか持ち切れなくなるのは当然の話だ。
だが、スバルが騎士として、ユリウスも騎士として、その両手で抱え込んでいるのはリンガではない。もっと尊い、かけがえのないものだ。
落として諦めのつく、物言わぬリンガではない。泣きもすれば怒りもする、人命だ。
家族がいて、友人がいて、愛する人がいる。一人命なのだ。
「一個も手放す気はねぇよ。覚悟って言えばカッコいい。でも、それは諦めだ。そんなんじゃカッコ悪いよ」
「っ、また馬鹿なこと言い出して…。白鯨のときも、その後の魔女教との戦いでも犠牲は出たはずや。そのとき、ナツキくんは往生際の悪いこと言わんかったやろ」
「馬鹿にするなよ、アナスタシアさん」
白鯨との戦いを、ペテルギウスとの戦いを、それぞれ引き合いに出したアナスタシアにスバルは視線を鋭くする。
その指摘は、意見は、さすがに聞き逃せない。それはお門違いだ。
「あのとき、戦って犠牲になった人たちには覚悟があったさ。死んだ人がいるのは悔しいし、死んだ人たちも死にたいと思ってたわけじゃねえけど、覚悟はあった。覚悟の有る無しは、全然違う。この都市の人たちに、その覚悟を問われる義務はないはずだ」
都合のいい意見なのはわかっているし、筋が通っていないかもしれない。
しかし、事実としてそれはあるのだ。
「ここを戦場にしたのは戦場にした奴らの勝手だ。その勝手に振り回されて、それで覚悟だなんだって普通の人たちに問うのは間違ってる」
「嫌がっても、その勝手は覚悟してない人らを傷付ける。そうなったら、その人らも覚悟を決めなあかん。そうやないの?」
「違うよ。覚悟完了してる奴らは、同じ覚悟完了してる奴らが迎え撃つべきなんだ。それを常日頃意識して、覚悟完了してるのが騎士ってもんだと俺は思う。俺は騎士ってやつにそう期待するし、村のガキ共にもそうカッコつけちまった」
騎士叙勲を受けて、ちょっとあちこちでちやほやされて、イメージでしかなかった騎士に実際なってみて、スバルは自然とその在り方を定めた。
「俺はエミリアの騎士だ。エミリアのために戦いたい。けど、それはエミリアだけが守れればいいって話じゃない。ユリウスはあんたの騎士だよ、アナスタシアさん。誰よりあんたのために戦いたいさ。命令だって、ちゃんと聞いてやりたい。ーでも、それだけじゃ満足できねぇんだ。騎士って生き物がカッコつけで、欲張りだから」
「ー」
「死ぬまで死線でカッコつけるさ、ユリウスも。なにせこいつは、最も優れた騎士なんだぜ。つまり、誰よりもカッコつけってことだ」
押し黙るアナスタシアの前で、スバルは親指でユリウスを指し示した。途端、黙って話を聞いていたユリウスが息を呑み、目を見張る。
呆気に取られる二人が小気味よくて、スバルは場違いな悪い笑みに頬を歪めた。
最初から捨てる選択肢を選ぶのと、結果的に拾えないのとでは話が違う。
そこに、どこまでも機械的なケイの声が挟まる。
この意見は怖い。スバルですら自身の論理に穴があるだろうことはわかるのだ。ケイが見落とすわけがない。
この都市の惨状を見れば、犠牲を出さないことが不可能であることはスバルにもわかっている。
アナスタシアも念願の援護だと、そう安心した表情で対話鏡に耳を傾けるがそこからの声は多くの想像を裏切るものだった。
『アナスタシア様。まずはスバルの考えを聞きましょう。判断はそれからでも遅くはない』
「驚いた。まさか書記君までそんなこと言い出すん?こんな状況になっても?」
『他の誰が言っても黙らせますけど、スバルなら別です。先ほど白鯨について触れてましたが、それだけでは卑怯ですよ。それなら怠惰のことにも触れないと公平とはいえない。大罪司教を犠牲者なしで殺したのは歴史上でもスバルだけ。この実績はあまりにも大きい』
そう言われてしまえば、アナスタシアは黙るしかない。
だが、別の声が異議を唱える。
「おいおいケイ君までそんなこと言ってんのか。他人に伝染るってんだから性質が悪いぜ。その自己満足ってやつはよ。そいつは、大勢をまとめて溺れさせる、英雄幻想ってもんだぜ」
「———」
甘い理想論を理想論で上書きするスバルに、その第三者の声が厳しく突き刺さった。
息を詰め、振り返る。届いたのは、微かにくぐもった聞き覚えのある声だ。
「そんな熱い眼差し向けられても、手土産の一つも持ってねぇよ。オレの笑顔で我慢してくれや。まぁ、こんなナリじゃ見えねぇんだけど」
「———アル」
どことなく張り詰める空気。
「色々言いたいことはあるけど、無事だったんだな。流されてねえか心配してたんだ」
「あんがとさん。それよりさっきの話だ兄弟。そんな無茶して背負い込んで、みんなして沈んだらどうすんだよ。兄弟だってこれまで色々取りこぼしてきてんだろ」
これまでの苦労を見てきたと言わんばかりに、その目はスバルを捉えて離さない。
これが、これがナツキ・スバルの歩く道なのかと問うている。
かつて、たった一人の少女に誓った、彼女だけの英雄であった少年の歩く道。
いずれは彼女だけの英雄ではいられなくなり、スバルが背負うべきはー、
「ー迷うなら、やめちまえよ、兄弟」
その、頬を硬くしていくスバルの鼓膜を打ったのは、そんな掠れた訴えだった。
顔を上げる。正面、熱い眼差しがスバルを見ている。
「なぁ。お前ら、揃いも揃っておかしいんじゃねーのか。ここにいる奴がそんな大層な男かよ。殴り合いすりゃ内政官の方が強い。知恵比べしたって、そこの嬢ちゃんにもケイ君にも勝てるわけがねえ」
「何もかも背負って、それでどうにかなるんなら大したもんだ。主役の器だぜ。けど、大多数の凡人はそんな役目なんて背負えねえんだよ。オレはもちろん、兄弟だってそうさ。この都市の惨状を見ろよ。窓から見える範囲で十分だろ。なのに、なんでそんなに背負わされなきゃならねぇ。……可哀想だろうが」
最後、付け加えるような一言。その想いは誰にも理解できない。
「なぁ、兄弟。兄弟にとって、一番大事なもんはあの嬢ちゃんじゃねえのかよ」
答えを聞く前から、アルの声には失望したような響きがある。すでに、答えのわかっている質問をしたような、まるで期待していない白けた響きが。
「オレは姫さんの……プリシラのために行動する。だから、他の奴らのことは全部後回しにするつもりだ。オレと姫さんと、あとはシュルトちゃんが助かりゃ御の字さ」
「アル……」
「兄弟もそうしろよ。嬢ちゃん……エミリアだけ助けて、尽くせばいい。どうせ魔女教の奴らなんざ、潰しても潰しても湧いて出てくる害虫だ。通り魔みたいなもんだよ。関わるだけ、損をするのさ」
そう言って、アルはどこか縋るように、頼りなく声を震わせた。
アルの考えは、また一つの答えではあった。
魔女教の奴らが害虫だというのは、スバルも全くの同感だ。関わり合いになっても何の得にもならない、それも否定しようのない事実である。
無論、エミリアが拐われているという差し迫った状況があるのは事実だ。ただ、仮にエミリアと無関係であったとしても、きっとスバルは逃げる選択肢は選ばない。
それはきっと
「赤信号の交差点に子どもが飛び出したら、理由を考える前に手を引いて連れ戻すよな…たぶん、そんな感じなんだよ」
「ーー」
スバルの答えにアルが息を呑む。アルだけが、息を呑めた。ケイは何も言わない。
他の三人には意味のわからない返答、それがやけにスバルの胸にはすんなり落ちた。
「小難しいことは考えてねぇよ。俺がここにいたから、できる限りのことをしたい。届かないことが多いのも、この都市で十分味わってる。だけど」
全部、届かなかったことにするのは卑怯なのではないかと思うのだ。
それはきっと、ナツキ・スバルがしてはならないことだと、そう思うのだ。
「もしもやるなら、兄弟。兄弟がこれから背負うのは、英雄幻想だ」
英雄幻想。
最初、この部屋に入ってくるなり、アルがスバルへと投げかけた聞き覚えのない言葉。
アルは最後まで、スバルから目を逸らさずに続ける。
「負けちゃいけねぇ。勝たなきゃならねぇ。希望を担い、期待を背負い、未来を示して戦うんだ。ここで決断したら、そうならなきゃいけねぇ」
「……負けちゃいけねぇのは、いつだってそうだろ」
「重みが違え。兄弟の負けは、兄弟の負けだけじゃ済まなくなる」
アルの、言葉の意味がよくわからない。
スバルの戦いはいつだってそうだ。スバルが負けたとき、失われるものはスバルだけではない。スバルの守りたい全てが、スバルの敗北で失われる。
いつだってそうだ。そうでないときなんてない。
だって、負けて失わないで済むのなら、戦うことだってしたくない。それでもスバルが戦うのは、戦わなくては守れないものがあるからだ。
そしてそれは、今日このとき、とてつもなく大きく、多い。
「なんだ。じゃあ、いつもと変わらねえな」
「ー」
息を吐き、心を決めた。
英雄になるために、その甘い理想を実現するために体を動かす。
――避難所には、沈鬱な静寂が落ちていた。
金色の髪をした小柄な少女とその弟がそこで息を潜めている。
きっと、眠ったままでいられるのなら、今は眠ったままでいる方がずっといい。
安らかな弟の寝息を聞きながら、せめて夢の中だけでも安息であればいいと願う。夢の外の現実は、まだ幼い弟には過酷が過ぎるものだと思うから。
――魔女教。制御搭。大水門。要求。
聞くに堪えない暴言に紛れた不穏な単語の数々は、いずれも少女や大人たちの心を恐怖で絡め取るのに十分な効力を持っていた。
関われば争いが起きてしまう。自分のために、相手のために、小さくなって息を殺して、時が過ぎるのを深刻な顔で待ち続ける。
待っていれば何かが変わる、そんな儚い希望に身を委ねて。
「———ぁ」
ふと、掠れ声を上げて少女は顔を上げた。
少女と同じものに反応し、周りの人々の頭も数時間ぶりにわずかに動く。この都市の住人ならば誰もが感じたことのある、微かな空気の震え――放送の前兆だ。
その放送の前触れを感じ取れる身が、今はいっそ忌々しかった。
望んだ変化はあくまで好転だ。だが放送は、魔女教の悪意しか伝え聞かせない。
しかし、そんな少女の悲観的な予想は大きく外れた。
『僕の名前は、ラインハルト・ヴァン・アストレア。剣聖の家系の末席を汚す身であり、今は王選候補者であるフェルト様の騎士だ』
およそ想像しうる限り最高の人物がそこにいた。
響いた声の衝撃は凄まじいものだった。まるで都市そのものの気温が上がったのかと錯覚するほどの熱。
皆の期待や希望。安心や期待が、溢れかえる。
『すまない。期待させてしまったようだが、未だ魔女教の脅威は顕在だ。僕はこれから仲間たちとそれを打ち倒し、平和を取り戻そうとしている。どうか今しばらく待っていて欲しい』
それによって多少の安心は砕かれるも、期待と希望は止まらない。当代剣聖の逸話やことわざは日常に浸透しきっている。龍の加護が不在であってもルグニカがここまで平和なのはまさに剣聖の名声によるものである。
その威光は『剣聖の仮面』としてさらに浸透し、実物に似せた仮面は子どものおもちゃとしても飛ぶように売れている。
販売元はなぜかカルステン家であり、ラッセルが流通を担っているのだがそれは別の話だ。
『僕は決して負けない。嘘もつかない。約束しよう』
全国民の当たり前。剣聖なら任せられる。『憤怒』の権能によって高すぎるその共感は暴走していく。
薬も過ぎれば毒となるのだ。それは、危険な楽観を生むほどの声だった。
それは、人心を理解できていないと言われたラインハルトにとっては最悪の反作用だっただろう。
しかし、彼には友人からの助言があった。
人に頼れ。人に相談しろ。簡潔なその二つは、実践が難しいものだったが、ラインハルトはできる限りを尽くしていた。
だから、この危険性は事前に聞けていた。ケイから指摘され、アナスタシアが危険度を教えてくれる。
そこで危険な域までいけば、人々を落ち着かせるようなことを言う予定になっている。
剣聖は、そこでフッと笑うと。声の調子を、人々に聞かせるものから肩の力を抜いたものに切り替えた。
ここからは信頼する主人に相談しもらった案だった。それが知恵者たちの答えよりも気に入ってしまった。
でもそれは関係ない。
そうだ。気に入ったのだ。正しいと、そう確信したわけではない。だからこれは間違えるかも知れない選択だった。
でも、なぜかそんな気は微塵もしないのだ。
『だから、これから話すことを最後まで聞いてほしい。それが大事だと僕は確信しているからだ』
主はその姿を見ないままで確信する。たまに見せる人間らしい素の感情。それが声色から察することができた。
「んだよ。あいつ。いい顔で笑っていやがって。いつもそうしろってーの」
続く言葉に、この都市においてフェルトだけは驚かず大いに笑った。
『ここから先は僕じゃなく、頼れる友人に話してもらおうと思う。さぁこっちに、出番だよ』
『…はぁ!?ちょっと!待てって、マイク向けんなよ!え、これもう入ってんの。えぇ…ちょっと待ってくれまじで』
深呼吸の音がする。それは覚悟の音だった。
そして都市に広がるのは困惑だ。彼は一体誰だ?剣聖が信頼するものとは一体?男の声であるなら竜の巫女でもない。
『いきなりで、ごめん。もう自分でも何言ってるのかわかんねぇんだけど、それでも正直に言おうと思う。魔女教の奴らの脅威はまだ消えてない。都市庁舎は奪い返せたけど、制御搭に奴らはこもったまんまだ。都市が水に沈む危険も、そのための奴らの要求もまだ生きてる。そのことも、わかっていてくれ』
最高潮に高まった希望はあっさりと、他でもない放送の少年自身に砕かれる。
その少年の語り口はまるで、避難所にいる人々の心を読んだかのようだった。芽生えた希望を即座に摘むなど、無情にも程がある行いではないか。
期待を瞳に宿し、思わず立ち上がりかけた誰かの腰が落ちる。
不安から解放される兆しが誤りだったと告げられて、脱力する誰かを責めることは誰にもできない。むしろ怒りの矛先は、この放送の少年にこそ向けられる。
『ごめんな』
だが少年は、そんな八つ当たりめいた群衆の感情すら先読みした。
『今、みんなはこの放送をどこで聞いてる?避難所にいる人たちや、ひょっとすると避難所に逃げ込めてない人たちもいると思う。みんな不安でいっぱいなはずだ。怖いって膝を抱えたくなる気持ちもわかる。だってのに、わざわざ変にみんな混乱させるような真似して、俺を何様だって思ってる人もいるはずだ』
「ーーー」
『俺は、何様でも何者でもないよ。みんなと同じ、状況に振り回されて、理不尽に押し潰されそうで、ビビッて足が震えてる。そんな奴だ。本当ならもっと、こうしてみんなに話しかけるのに相応しい人は他にいるんだ。それこそラインハルトなんかが適任だと思って最初は話してもらったんだぜ』
不安と恐怖に溺れる住民の心を、わかったように代弁する少年の声は震えていた。
続けて語られるのは、自分自身の価値を疑う少年の弱気な本音だった。
少女を含めて、聴衆の態度はひたすらに疑念でしかない。
今、誰もが希望を欲している。偽りでも、仮初でも、頼れる言葉が欲しいのだ。
『だけど今、こうして俺が話してる。俺なんかよりよっぽどすごいやつが、俺がやるべきだって、そう言ってくれてる。…俺の声、震えてないか?人前に立つのなんて俺のキャラじゃないんだよ。立派なことも言えないし。弱くて、どうしようもなくて、こんな大一番、今だって逃げたくてしょうがなくて……』
弱々しく掠れた声に、不安に苛まれる胸が軋み、胃が締め付けられるようだ。
少年の、声は続いていた。
『何ができるかなんてわからなくて、耳を塞いで頭を抱えて、自分が蹲ってる間に全部解決してくれればなんて他力本願を本気で願って・・・・・・』
「ーや、あ」
ぎゅっと目をつむり、少女は失望と悲嘆を拒むように嫌々と頭を振る。
少年の言葉は、避難所にいる人々の、この都市で魔女教の脅威に生えている全ての人々の、その心を見透かした代弁に他ならない。
だから、その太刀打ちできない現実を直視させる少年の声が、少女には耐え難い。
耐え難くて、恐ろしくて、だからー、
『ーそれでも逃げられないから、戦う。俺は、それだけの奴だ』
そう言い切った少年の声が震えたままであることが、少女には信じられなかった。
「一え」
聞き間違いだろうかと、少女は塞いでいた目を見開いて、頭上を仰ぐ。そこに声の主の姿はない。ただ、周りも同じように呆気に取られた顔をしていた。
一拍、言葉を選び、声を整える時間があった。
そして、
『もう一度、聞かせてくれ。この声を聞いてる人は、今どこにいる?避難所に逃げ込めてるか?誰かと一緒にいられてるか?一緒にいるのは大切な人か?この数時間で見知った顔ぐらいにはなったか?』
『勝手な話だし、難しいかもしれないけど、お願いだから一人にならないでくれ。一人でいると、つまらない考えばっかり浮かんでくるんだ。経験則だ。誰かと一緒にいてくれ。そしてー』
息を吸い、微かに声は躊躇いを舌に乗せながら
『そしてできるなら、一緒にいる誰かの顔を見てくれ』
「ー」
言葉に導かれるように、少女はゆるゆると視線を腕の中に落とした。
弟が自分を見つめていた。頼りなく揺れる、翠の瞳と目が合った。
『今、誰の顔を見た?大切な人か、それともこの数時間を一緒に過ごした知らない相手か。友達って可能性もあるな。……たぶん、ひでえ顔してるだろ。泣き顔だったり、笑ってる顔はないと思う。いや、ひょっとしたら心配させないように、健気に作り笑いしてる人はいたかもしれない。いるんなら、それはすごい人だ。大切な誰かがもしそうやって笑ってたら、誇りに思っていい。そう思った上で、知ってる笑顔と見比べてくれたらいい』
弟の顔は、泣き顔だ。
くしゃくしゃの、また今にも泣き始めてしまいそうな顔だ。
その弟の瞳に映る自分は、表情をなくしてしまったように虚ろな顔だった。
『それが、許せるかよ?』
「……やだ、よ」
小さく、か細い声が少女の口から転び出た。
弱々しく揃れた、自分自身にすらはっきりと聞こえないような声質だ。
「お、ねえちゃん……」
『負けっ放しじゃいられねぇ。投げ出しっ放しじゃカッコがつかねぇ。やられっ放しでいいわけがねぇ。間違ってるのはあいつらだ。間違ってる奴らに負けるのなんて我慢ならねえ。あんな奴らに負けを認めるなんてこと、俺はしたくない』
「フレド……」
弱々しく自分を呼ぶ弟を、そっと抱き寄せて額を合わせる。
伝わる熱がある。熱い熱い、生きている熱が、ある。
先程までの、全てを剣聖様に任せるような軽い熱ではない。
そこにあるのは、確かな重さのある熱だった。
『逃げたい、けど逃げられない。泣きたい、けど泣いてられない。敵がヤバい、けど負けたくない。だから、戦う。弱いのも、頭が悪いのも、全部わかってるけど戦ってやる。俺は戦う。みんなにも、抗ってほしい。何も棒で殴りかかれって話じゃない。むしろ、そんな無謀は避けてくれ。徒党を組んで、魔女教相手に血眼になって戦ってほしいって話じゃないんだ。俺がみんなに望むことは、下を向かないでほしいってことなんだ』
「下を、向かない…」
視線を上げる。自分の膝小僧でも、弟の金髪でもなく、避難所が見える。
その避難所の光景の中、少女と同じく、絶望に打ちひしがれていた人々と目が合った。
皆が無意識に、少年の声に従って、少女と同じように顔を上げていたからだ。
少年の声は続く。
『周り見渡してみたら、きっと誰かと目が合う。それは同じ不安とか、同じ逃げたいって気持ちを抱えてる誰かだけど…同じ、負けたくないって気持ちを抱えた誰かでもある。一緒にいる大切な誰かと、そうして今、目が合った誰か。そこに自分も入れて、それだけで三人。場所によっちゃもっとたくさんの人がいるはずだ』
少年の言葉通り、顔の見える多くの人たちと視線が交わった。
その瞳に宿る感情は複雑で、きっとそれは少女自身も同じに違いない。だけれどいつの間にか、ただ恐怖に震えているだけのそれではないようにも思えて。
少年の声は続く。
『一人じゃないってことが、それで実感できてくれると嬉しい。一人じゃないって、それだけでわりと力になるもんだろ?大事な誰かの、悲しい顔が見たくない。目が合った誰かに、格好悪いとこ見られたくない。そんな薄っぺらで弱っちい意地っ張りが、まさか俺だけってことはないよな?』
訴えかける声は、呼びかけてくる声は、人々の勇気を奮い立たせようとしている。
なのに少女には、少年自身が助けを、縋るものを求めているように聞こえた。
そうして、今さらのように気付く。
少年の心の在り様は、この放送が始まった瞬間から一度だって変わっていない。
弱い自分を、足りない自分を、悔やみ恨めしく思いながら、諦めていない。
それだけが武器なのだと己を語り、それだけは一緒のはずだと皆に語りかける。
少年の、声は続く。
『弱くてどうしようもない俺が、まだ諦められねぇんだ。諦めの悪い弱虫が俺だけじゃないって…そう信じさせてくれよ』
『それとも、俺だけなのか?』
声が自信を失う。違う。最初から、少年の声に自信などなかった。
焦燥感が込み上げる。引き止めろ。なんと叫べばいいのかわからなくても。
「……ちが、う」
蚊の鳴くような、形にならない弱々しい声が喉からこぼれた。
胸の奥が熱い。歯の根が震えて、怒りとは違う感情に沸き立っている。
その感情を抱くのは、少女だけではない。
周りのみんなの心を包み込んで、一つの炎となって燃え上がる激情だ。
先程まで、不安で一体となっていたみんなの心が、それとは異なるもっと熱い感情によって一つとなる。
『傍にいるのが大切な人なら、その手を握って信じてくれ。隣り合うのが知らない誰かなら、一緒に頑張ろうって頷きかけてくれ。自分も、その人も、負けも折れもしないで戦えるんだって。みんなが折れずにいてくれるなら、俺も諦めないで戦う。戦ってー戦って、勝ってみせる』
「─」
少年の声が、少女や都市の人々が絶望に負けないと信じてくれているように。
少女たちもまた、この声の少年が一番危険な戦いに勝ってくれると信じるのだ。
『俺の名前はナツキ・スバル。魔女教大罪司教、『怠惰』を倒した精霊使いだ』
ここまで秘されていた少年の素性、明かされたその名にどよめきが生まれる。
剣聖の時ほどの速度ではない。しかし、じっくりとゆっくりとだが確実に広がっていく確かな希望だ。
『都市の魔女教は俺と仲間たちがどうにかする!だから、みんなは信じて戦ってくれ。大切な人の手を握って、負けそうになる弱い心をぶっ飛ばしてくれ。そしたら』
『あとのことは全部、この俺に任せておけ!』
わ、と声が広がり、一つの希望は無数の希望に、それが一挙に拡大する。
少女は腕の中の弟を見下ろし、弟の翠の瞳に確かに宿った希望を見出した。
それを確かめて、また強く弟の体を抱きしめる。おずおずと弟の手が少女の体を抱き返し、抱擁の熱を感じながら少女は天井を見上げて祈った。
どこにでもいる声の少年。彼のために祈った。
スバルがもたらす希望は、この街の戦況にとって必要なものだった。
彼の明るい声がなければ暴徒が止まらない、ケイはそう判断してここまで遅らせた。
スバルがすでに取りこぼしてしまったもの。英雄の抱く『幻想』と相反する『現実』と向き合う時が近づいている。