スバルとラインハルトの演説によって、都市の空気は一変した。
暴徒となったものたちは武器を置き、避難所へ戻る。
それを押し留めていた騎士や冒険者たち、青蓮獅子団はようやく一息をつけるのだった。
スバルの演説を讃えるように勝鬨を上げて、互いの無事を祝福し合う。
憤怒の権能の影響だろう。感情が一度傾くとなかなか天秤は動かない。
これからの作戦行動中に暴徒に脅かされることは無くなったと言える。これは快挙だ。
ここまでのことができるとは思っていなかった。ラインハルトの権威で上向かせ、そこから落ち着かせることを想定していたが、まさかスバルにこんな才能があったとは。
それとも何度も繰り返しているのだろうか。
ケイが同じ条件で挑戦しても似たような結果は出せないだろう。
スバルは周りに演説を褒められ謙遜している。
アナスタシアもスバルの成果に薄い胸を張り、襟巻きを手で撫でつけながら、
「むしろ、士気高揚しすぎて他の人らが無茶せんかの方が心配なくらいや。ここにいるウチらも、『憤怒』の影響なんか気合い入ったぐらいやもん」
「そこまで言われるとやっぱり嘘臭ぇな……本当なら、俺のプロデューサーもしくは先生適性はどんなもんなんだよ」
こうも持ち上げられるばかりだと、手応えがないことだけに受け入れ難い。
スバルは生暖かい視線の渦を振り払い、とっととミーティアの前からどくと、
「とにかく、効果がありそうな話ができたんなら何よりだ。これで暴動とかの抑制になりゃ万々歳……他に、できそうなことは浮かぶか?」
「都市の住民に関しては、これ以上は原因そのものの排除以外はないやろね。今のナツキくんの話で、魔女教連中にこっちの意図はばれたはずやけど……」
「それで向こうがどう動くかは、話し合った通り、奴らの非合理な在り方に期待するしかないでしょう。同時に、こちらも早期決着する必要がある」
スバルの演説の出来がどうあろうと、頭のおかしい奴らが都市を壊滅させる手段に手をかけている状況は変わらない。最大限に楽観視しても、日付の変わる時刻には大水門が解放され、都市は大水の底に沈められてしまうのだ。
そうなる前に、決着しなければならない。
「そのためには、四ヶ所同時攻略……か」
「大罪司教が四人に、わけわからん腕利きが二人。こっちの戦力と相談して、どう攻略するかは話し合わなあかんね」
スバルは考える。
都市庁舎のときのように、戦力の一挙集中はおそらくできない。その方法で制御搭を攻略した時点で、他の三ヶ所のいずれかが大水門を開放することが懸念される。
その博打を四度、繰り返して勝利する自信はない。
それを前提に魔女教打倒に向けての会議が始まってスバルから提案がなされる。
アルがエミリアからの伝言を共有し、戻ったオットーからも情報が集まって方針は固まっていく。
それはすでにケイが報告していた内容だが、裏付けがなされたことで作戦は全制御塔の同時攻略に決まりかける。
そこでケイが一人、異議を唱えた。
『今すぐにラインハルトで攻めるべきだ。最初に色欲へ。最後に強欲へ行けばいい。制御塔に突撃させよう』
当然の反論が行われる。
「いや、だからそうすれば水門が開けられちまうんだろ。だから同時にって話に…」
『あれはブラフだ。やるならとっくにやってる』
ケイはそう断言する。
『それにここを水没させたら、奴らの要求は全て叶わなくなる。むしろ目的を達成した後こそ枷はなくなる。今なら攻められる』
しかし、再度議論をしてもそのリスクは取れないというのが一同の出した答えだった。
『なら別にいい。さっきの作戦でいきましょう』
ケイは粛々とそれに従う。従っているフリをする。ここで無理に通そうとしても時間の無駄だから。
一番街が色欲。
二番街が暴食と暴食。
三番街が強欲。
四番街が憤怒。
暴食の所在が二人とも同じところかどうかは微妙なところだが、それでも現状の情報ではこの想定がスバルの精一杯であった。
それぞれに最適な人員を割り振って同時に戦い勝つ。というのが大まかな作戦だ。
主要な敵の7人に対して、こちらの戦力は充実しているとは言えない。
ラインハルトがすでにいるのは大きいが。
ユリウスは名前を奪われて、精霊の制御ができなくなってしまった。大きな弱体化である。
クルシュも当然戦うことはできない。
先の戦いに参加して無事なのはリカードとヴィルヘルムのみ。
あとはケイを当てにしているが…
『それでもいいが、そうなると都市に潜んでいる魔女教徒や暗殺者、ライゼルと虫の対応ができなくなる。全部を救うならそこは捨てられないんじゃないのか?』
更なる不安を指摘され、その通りであると認める。
「そうか。そっちの対応もしてくれてたか。いや、すまねぇ。助かる。でも、どうするかな」
『今、この都市には協力者がいる。そっちから戦力を借りた。もうすぐ庁舎に着くだろう』
「そりゃあ!めっちゃ助かるけど、強いの?」
『リカードさんくらいは戦えると思っていい。ただ殺すだけならそれ以上かもしれない』
そんな時、これまで見えなかった、聞こえなかった声が響く。
高い靴音を立てて、会議室に足を踏み入れたのは絢爛に輝く赤い女だ。彼女はその頭から爪先まで赤い姿のまま、血のような色合いの瞳で部屋の中を見渡し、
「役者は揃っておるようじゃな。凡俗共が、主演たる妾を座して待っておったのはよい心がけと言っておこう。その心がけ、今後も弁えるがよいぞ」
「今朝の宿でもそうやけど!…ホント、人を驚かすのが好きなお人なんやね?」
「貴様ら凡俗が、妾の類稀なる美貌と存在感に勝手に震え上がるだけであろうが。それで頭を垂れるなら慈悲も与えようが、貴様らは揃いも揃って可愛げがない。特に」
その圧力に喉を詰まらせ、スバルが「なんだよ」と聞き返すと、
「先の不細工な放送じゃが、あれは貴様の声であったな?」
「…だったらどうする?」
「ふん。そう気を張るな。結果に対して妾は公平よ。『ふえあ』というやつよな。今、都市の凡俗共の目は貴様に集まっておる。言葉の真偽は置いておくとしても、狂奔は一時預けられることとなった。褒めて遣わす」
挑発的に目を細め、それからプリシラは会議用の椅子の一つに堂々と腰を下ろした。その背もたれを軋ませ、豊満な胸を押し上げるように腕を組む。
「さあ、妾に現状を話すがいい。妾の手となり足となり、己が役割を存分に果たせ。褒美に妾も企てに加わってやる。ありがたく思うがよいぞ」
「待てよ、姫さん!合流できたんなら拘る必要はねぇだろ?とっとと、こんな危ない場所からはおさらばしちまった方が……」
「妾に逃げよと申すか、アル。だとしたら、考え違いも甚だしいぞ」
どっかりと席に座り、会議に参加する姿勢のプリシラをアルが咎める。が、プリシラは逆にそんなアルを睨み返し、鉄兜をすくませる。
「よいか?この都市に滞在を決めたのは妾である。そして、都市を発つのを決めるのも妾。断じて、他人の指図は受けん。ましてや気狂いの阿呆共に背を向けて、のこのこ逃げ出せ?貴様、妾を誰と心得る」
「…………」
「この世界は全て、妾に都合のよいようにできておる。なればこそ、胸の悪い理由を残してなど立ち去れるものか。妾の従僕を名乗るなら弁えよ、アル。妾が妾たるが天意であれば、妾の行いそのものが天意であると」
プリシラの意思は揺らがない。
「これ、妾の貴重な時間を浪費するではない。まだシュルトも見つかっておらぬゆえ、長居するつもりはない」
ケイは間髪入れずに報告を行う。
『シュルトの目撃情報はありました。四番街周辺の避難所付近です』
「ほう。ならば良い。迎えのついでにその『憤怒』なる愚物、妾が首をもいでやる。喜ぶがいい」
「おい、話聞いてたかよ。憤怒は首切るとみんなの首も切れるんだっての。それの対策も無しに…」
「当然聞いておる。対策はそこな歌女じゃ。その歌を先の魔法器で放送し都市の心を奪い続けよ」
急に振られたリリアナは、びっくり仰天し盛大に唾を飛ばす。
「わ、私をご指名ですか!?なんでまた急にそがいなことに!?」
「道中のこと、忘れていまい?貴様の歌がどれだけの凡俗共の心を揺らした。あれと同じことをすればよい。衆愚の感情など、ようは奪い合えばよい」
「不安そうにしてた方々を、ちょっと励ましただけのことですよ?いくらなんでも過大評価すぎると言いますか、私プレッシャーに弱い小娘でして……」
「ほう。なれば貴様は貴様が先祖から継いできた歌の敗北を認めるわけじゃな」
鼻を鳴らし、心底見下すようなプリシラの言葉にリリアナの表情が変わる。
愛想笑いを浮かべ、卑屈に受け流そうとしていた彼女の表情が真剣味を帯びた。
「それは、どういう……?」
「考えずともそうじゃろう。後生大事に引き継いできた貴様の歌は、人心が救いを求めておるこのときに縮こまって無様をさらせと歌っておるのじゃろう?そのような負け犬の遠吠え、その全てが無為無駄の塊ではないか。犬の鳴き声の方が身勝手を謳わぬ分だけまだマシじゃ。それ、閃いてはどうじゃ?負け犬賛歌でも」
「あーあー!そこまで言いますか!言ってしまいますか!上等ですよ!やってやりますよ!わかりましたよ、いいじゃないですか!この私を!吟遊詩人リリアナを捕まえてその仕打ち!その言いよう!これで黙っちゃ女が廃る!死んだキリタカさんも無念で墓から這い出してくるってもんですよぅ!」
凄まじい煽り方をするプリシラに、凄まじい爆発をしてリリアナが乗せられる。彼女は顔を真っ赤にして、膝の上に乗せていた楽器を乱暴に掻き鳴らす。
すっかり興奮し、円卓の上で寝そべって演奏するリリアナをオットーが慌てて引き下ろす。
その後判明したが、彼女は『伝心の加護』を持っていた。人の心に気持ちを直接伝える力だ。それが認められて作戦も詰めに入る。
「スバル殿、少し宜しいですかな」
話が済んだ頃、ヴィルヘルムに呼ばれてクルシュのいる別室へ。
扉をノックして、向こう側に届くか怪しい声量で呼びかける。そのまましばしの沈黙があって、向こう側からゆっくりと扉が開かれた。
顔を見せたのはフェリスだ。ただ、すっかり様子が変わっている。
「スバルきゅん……」
泣き腫らした赤い瞳と、乱れてしまっている栗色の髪。体中は自分のものではない、誰かの血で赤黒く染まり、色白の肌に跳ねたそれを拭う余裕すらなかったのだろう。頬や首にもべったり、鮮血が付着していた。
その凄絶な様子に、思わず息が詰まる。
「ケイが、俺を呼んでるって聞いて。それで」
「……絶対に、余計なことだけはしないで」
声は固く、後半には憎悪すら滲んでいた。
だが、その憎悪はスバルに向けたものではない。いわば、全方位に向けたものだ。この世界全てを憎む、行き場のない怒りが今のフェリスを支配しているのだ。
深々と深呼吸してから、スバルは中に戻るフェリスの背中に続いた。
休憩室といっても、さほど広くない部屋だ。長机と椅子が二列になり、奥に敷居で区切られた小部屋がある。ベッドは、その中にあった。
そして、粗末なベッドの上に彼女がいた。
カペラの血を浴びて、呪いを帯びたクルシュは酷い状態だった。
首や手足など、見える範囲の肌には斑に黒い血管が浮かび上がっている。タオルケットと着衣の下の肌も、同じだけの被害を受けているのは想像に難くない。血を巡らせているわけでもない黒い血管はたびたび脈動し、細いクルシュの体をまるで蛇がのたうつように締め付けているのがわかった。
色白の、シミ一つなかった彼女の肌が醜悪に蹂躙されている。
当然、被害は首から下だけに留まらない。
凛々しく、細身の剣を思わせたクルシュの怜悧な美貌――その左側が、斑の浸食を受けている。何の皮肉か、顔の右側は彼女の美しさを保ったままなのだ。それがかえって左右の対比を明らかにし、高潔なものが汚される理不尽を訴えかける。
患部を覆うように全身へ包帯が巻かれているが、その下は想像すらはばかられた。
「これが……俺と同じ、龍の血の呪いだってのか?」
だとしたら、これほど残酷なことはない。
クルシュ・カルステンを知るスバルだからこそ、その心痛に限りはなかった。
自分の右足を見下ろす。クルシュの肌と同じように、斑に黒い血管が張り巡らされた右足。だが、スバルの足はそのおぞましい見た目を除けば影響はない。痛みも疼くような感覚も、何らスバルにもたらされていなかった。
しかし、クルシュは明らかに違う。苦しげに喘ぎ、斑が脈動するたびに吐息に痛みに耐える素振りが浮かぶ。
思わず手に触れると、異常が起こった。
「ふ、ぅ……?」
「ぐっ!?」
抜けるようなクルシュの吐息、同時にスバルの喉を苦痛が駆け上がった。
焼けた鉄を握ったような痛みが、掌を起点に全身に突き刺さる。とっさにスバルがクルシュの手を解き、痛みの走った自分の掌を見た。
その掌に、斑の浸食が発生していた。
スバルはなぜか、この呪いを吸い取ることができるらしい。しかしスバルがどれだけ背負えば彼女から呪いが抜けるのか見当もつかない。
レートがおかしい。彼女の呪い1に対してスバルに移るのは10といった具合だ。これ以上受け取れば、どうなるのかわからない。
そのタイミングで部屋に置いてあった、ミーティアが光を放つ。
ここに呼んだのはケイだった。
『この包帯は特別製だ。巻いた対象の時間を遅らせることができる。だから重症の左手を押さえるように巻いて。首と頭にもその措置をしている。この包帯が持つ限りは、クルシュさんが苦痛に追い詰められることはない』
「え、でも…」
スバルはその言葉に違和感を覚える。苦痛を感じないのなら、なぜこんなにも辛そうなのか。
『全身を包まなければ包帯は完璧じゃない。それにこの血は呪いであってもだんだん侵食するらしい、在庫を考えても持ってあと二日ってところだ』
スバルは絶句する。まるで、あと命の期限が二日しかないと、そう言っているようで。
ケイは正しくその疑問に答える。何も聞かれていないが心の中を見透かしたように。
『もう外傷はフェリスが治した。でも包帯を巻くまでに、彼女は奥歯を自分で噛み砕いて、暴れて自傷、いや自殺を試みた。魔法が使えていれば死んでいただろう。クルシュさんが狂乱するほどの苦痛だ。これが切れれば延命をしようとは僕は思えない』
スバルは言葉を続けられない。理解した。してしまった。
ケイが演説の前にクルシュの容体を知らせなかったこと。
先程の作戦に一時反対したこと。
スバルはまだ決定的な取りこぼしをしていないと、どこかで思っていたのかもしれない。
いや、そうに違いなかった。クルシュが生きていると聞いてよかったと安堵していたのだから。自分と同じように体が変色しても、苦痛はないのだと思い込んでいた。
これほどの惨状とは想像できていなかったのだ。
これは、死よりも恐ろしいものの一つだ。色欲は死よりも悪辣なものを人に擦り付けるのが得意である。その姿を見ていたはずなのに…
『スバル。僕はお前に任せきりにはしない。僕なりの方法で最善を尽くす。この戦いが終わったら、クルシュさんを助けるために協力してくれるか?』
ケイはスバルの演説の効果を認めている。
しかし、それとこれとは別である。スバルの作戦に全てを預けることはできない。
なぜならスバルはクルシュを取りこぼしている。
今まさに都市のどこかで死んでいる住民がいる。
全てを救うと言いながら、その最中にも手のひらからこぼれ落としている。
それでも、彼の能力を無視することもすべきではない。
試すべき治療法は多い。しかしどれもが確実性を欠いている。
落ち着いた状況で、スバルの協力なしにはそのどれも試すつもりはなかった。
ここで彼と関係を悪化させるのもまたできない。
先の約束は破られた。しかし、また約束を結ぼうとする。
これが最善であると信じて。
事前に情報があるのは憤怒のみ。その他の大罪司教に対しての打開策も持っていない。
やはりほとんどロードをしていないように見える。怠惰の時のようにいきなり情報を話し出すまではスバルを当てにできない。
「当たり…前だ。けど、どうして!怒んねえんだよ!そうだ。そうだよ。俺は、俺は約束を守れなかった!任せろってお前にそう言ったのに、こんな目に遭わせて…」
『そういうのはフェリスの役目だ。そしてそんなフェリスでもお前に当たるほどは落ちぶれちゃいない。まぁそこまで言うなら聞かせてもらうが…』
スバルは罰を受けたかった。してしまったことに対する断罪を受けたかった。裁いてほしかった。
『仕方なかったんだよな?お前も全力でやれることをやってるんだろ?なら、仕方ない。これからもお互いに最善を尽くすしかない』
スバルはその言葉を聞いて、息が、心臓が止まるような衝撃を受ける。
それは過去に対する断罪ではなかった。今のスバルのあり方に対しての弾劾。いや、責められていると勝手に思っているのは自分だ。
ケイは、スバルの能力の大枠を把握している。そしてその力に代償があるであろうことも想像しているのだろう。気軽にその力に頼るようなことはあり得ず、それを当てにされることも怠惰以降は一切なかった。
けれど、そうだ。自分が逆なら?きっと問い詰めている。なぜ救わなかったかと。今からでも全部試せと。
「俺は、やれることを全部…ぜんぶ…」
やっていいのか?やるべきなのか?
スバルは大切な仲間の取り返しのつかない死以外での死に戻りを自らに禁じている。
死に頼る道に進めばきっと全てが壊れてしまう。聖域でそう気づかされて。誓ったのだ。
それは命を顧みないケイの生き様と死に様を見て、確信に変わった。
自分はそうは在れないと。
けれどスバルは、間違いをここで認める。
これは、
この一年を通して築いた絆は根深い。あらゆる感覚が彼女が身内であると叫んでいる。
蓋をしていた疑心が暴れ始めた。
エミリアはまだ取り返せると思っていた。けれどそれは本当か?そんな保証はないじゃないか。
街の状況は悲惨なものだった。確実に死人が出ている。それを見ないふりをしてないか。
今安否が確認できないものは、暴食に食われているかも。色欲に変えられてしまっているかも。
そんな想像から逃げていた。
何が『英雄』だ。何一つ拾えていないではないか。
これじゃあアルの言うとおりだ。あれだけの大言を吐いて、放送して。その次の瞬間にはこれだ。
じゃあ、やめるか?
いや、それもできない。スバルの在り方は一人で勝手に決めたものでもない。
騎士として認めてくれた想い人が。憧れてくれる弟分が。スバルなんかを英雄であると信じてくれるあの少女が。
ついさっき声をかけた都市のみんなが。
彼らによってナツキ・スバルはここにいる。さっき言ったことをこれからも諦め続けるなんて、できっこない。
だから、やるべきことをしなくては。
だからこそ、スバルは
死ぬほどのリスクをとって、情報を増やさねばならない。
それに気づけば体が震える。一体いつに戻るのだろう。怖い。スバルが死んだらその世界はどうなる。無駄死にはダメだ。
それでも、ケイにこんな表情と、そんな目を向けられるのは耐えられない。
クルシュさんをこのままにしていいわけがない。
ケイに配慮されて、気を遣われることほど許せないことはない。
「…ケイ。これから先、俺がどうなるかはわからない。もし俺が変なことをし始めたり、暴れたりしたら殺してでも止めてくれ」
スバルはその目に覚悟を灯して、先程の言葉を実行する。
決して諦めない。全部を拾う。クルシュさんも助けてみせる。
不可能だとしても、挑むことはやめたりしない。
『わかった…何をするつもりだ?』
「やれることを全部だよ。今更だけど…」
そういって、クルシュの手を取った。
流れ込んでくるのは黒い何か。
脈うって、暴れて、侵食して、食い潰される。
何かが抗う。一瞬だけ拮抗して、そして濁流の如き黒い何かに押しつぶされる。
そしてその壁がなくなった後は、スバルそのものを蹂躙し始める。
この世のものとは思えぬ苦痛。過去最悪の違和感はそのまま脳に手を突っ込んで掻きむしりたくなるほどだった。
死にたい。あまりにも辛い。終わらせてくれ。もう嫌だ。絶対に無理だ。
そして一線を越える。これはダメだ。ああ、これは戻ってこれないなという感覚があった。
どれだけの時間が経ったのかわからない。
体から何かが溢れ出す。形が変わる。自分でなくなっていく。
それでも、スバルは手を離さなかった。
同時に、胸から黒い手が突き破ってスバルの心臓を抉ってくれた。ありがとうと言いたい。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
この苦しみを終わらせてくれた存在に、心からの感謝を。
最後に見たクルシュの横顔や体からは、黒斑が消えていたように見える。
よかった… 俺は…
スバルはそこでようやく地獄のような生から解放され。待望の死に身を委ねた。
意識が覚醒する。
『仕方なかったんだよな?お前も全力でやれることをやってるんだろ?なら、仕方ない。これからもお互いに最善を尽くすしかない』
スバルはその言葉を聞いて、息が、心臓が止まるような衝撃を受ける。
その衝撃は先ほどとは違うものだ。
先の苦痛を脳が思い出そうとして体から力が抜ける。吐き気すら覚えない。
ほとんど記憶が抜けている。最悪の出来事が起きたことだけしか確信ができない。
今、地獄のような苦しみが体にないことにひたすら安堵する。
異常なスバルの状態を見て、ケイは何も言わずにスバルの言葉を待っている。
その目は、先ほどとは違った。相手を見定める目。
スバルはゆっくりと、それでも彼にとって最速で立ち上がる。
「今やれることは、やった。…それでこの様だ。すまねえ。クルシュさんは、俺には…」
無理だ。あれを受け止めきることはできない。自分が自分でなくなってしまうほどの苦痛。
死のうとしたクルシュの気持ちが死ぬほどにわかる。
『わかった。なら、さっきの作戦はどうする?采配に変更は?』
「いや、ない。新しい情報も…悪い。これが俺の全力みたいだ。ほんとにすまねぇ」
『ならいい。無理するな。僕は避難所の対処をすればいいんだな?』
今ならば、はっきりと気づける。
このケイの態度は、違う。
「ケイ。それはやめてくれ。思ったことを言ってくれていい。その方が、いやそうじゃなきゃ嫌だ」
また気配りは失敗か。本当に下手だな。僕は。
はぁ。とため息をついてから正直に話す。ロードをしたであろうスバルに隠し事など無意味なのだから。
『僕は先の作戦に反対だ。あまりに勝率が低い。やはり水門を無視して攻めるべきだろう。甘いどころの話じゃない、人命がかかっているのにふざけているとすら思うね』
「水門が…水門が開けばみんな死ぬんだぞ!?それを試すことなんて…」
『やってみるべきだと僕は言っている。お前じゃなくて僕が言っているんだぞ。試してみるべきだと』
それは言外の肯定だった。この世界を捨てるかもしれないスバルへの肯定。それをスバルに言うのは自棄になったロズワールくらいで、それ以外にはいないと思っていたのに。
「それは、できねえ。俺の、全力の尽くし方は、そうじゃないんだ。曲げられねぇものがある…」
『わかった。それは止めない。でも、頼むから僕を縛らないでくれ。魔女教は守りながら普通に戦える相手じゃない。命を顧みない選択が一番命を救える。これは揺るがない事実だ』
「俺は、俺はそれでも…」
『人にはできる事の上限と下限がある。お前とラインハルトは上限が見えない。だから勝手に期待した。お前が悪いわけじゃない。でも、今のお前に全てを預けるのは怖いんだよ。それはわかってくれ。だから僕も全力を尽くす。任されたことはこなす。その上で自由にさせてもらう。お互いに魔女教だけを敵として動こう。それだけは約束だ』
「ああ、でも。なぁ…ケイ、俺は…!」
かつて言われた言葉を返す。
『人には、向き不向きがある。
スバルは人の心に訴えて動かせる。心のままに人を救う。
ケイにはそれはできない。だから、別のことをする。
スバルはそれに何も返せなくなる。
喜べるはずの自己への肯定は、決して心地の良いものではなかった。
そうして対話鏡の光は消える。
これは永遠の決別ではない。しかし、二人が全く同じ道を歩むことも決してない。
この街、この状況における二人のやり方、考え方の違いは根本的なものだった。それは互いに譲歩できるものでもないしすべきとも思わない。
最後の一言は言わないでいられた。『なぜできない約束などするのか』なんて、惨めな八つ当たりはしない。
スバルだって彼なりの全力を尽くしているのだから。
アナスタシアとスバルの対話を思い出す。
スバルの覚悟についての話はケイは同意できなかった。決して否定もしないが、共感することはない。
覚悟をしたものが、していないものを守るべきか。
いいや違う。覚悟は誰もがすべきものだ。してないものには事前に覚悟をさせるべきなのだ。
クルシュは覚悟をしていた。しかし、足りなかった。
だから死んでもいいなどとは言わないが、足りないなりに全力は尽くしたと言える。
魔獣に襲われない保証がないなら。
この世に魔女教がいると知っているなら。
水面より下で住むなら。
大罪司教と戦うなら。
生きたいと願うなら。誰もが全力で考え続けるしかない。