たんとおあがり!
動き続ける状況の中でたった一つだけ停滞している場所があった。
鎮痛の魔法をかけ続け、クルシュから離れないフェリスだ。
『今ここにできることはない。とっとと動け』
それでも動かぬフェリスは、どうにかその理由を挙げる。
「そんなこと言って、敵が来たら?今度こそ殺されるかもしれないでしょ!?来ないなんて保証できないくせに!」
『いいや、ここには誰も来ない。誰も知らないし向かってもいない。そして敵が来たとしてもお前にできることはない。早く動け。青としての責務を果たせ!いい加減にしろよ!』
「うるさい!!わかってる!わかってるのに、動かないの!離れると、真っ暗になって…震えてダメになるの…」
まるでかつての地下のような暗さになる。クルシュを見ていないと頭がおかしくなりそうだった。
ケイは歯噛みしつつも、この状態を不変のものと認識する。フェリスがどうこうできるものじゃない。
『お前は僕の言葉じゃ動けないんだろう。なら本人から言ってもらえ。スバルにかけた魔法をクルシュさんにもかけろ。副作用があろうが、彼女の苦痛を減らせるならやるべきだろ。これはさっき連絡をしてくれたクルシュさんからの命令だ』
ヴィルヘルム経由でクルシュの要望が飛んできた。だからこうして言っているのだが、いよいよフェリスはダメなのかもしれない。
フェリスが動けないでいると、追加の包帯が届けられる。猫人族ということは迷い森からの復帰者らしい。
その全てがフェリスにはどうでも良かった。
対話のために包帯がより多く巻かれ、夢遊病にかかったようなフェリスが痛覚を一時的に誤魔化す処置を行なった。
現実感が失われている。私はここで一体何をしているんだろう。治せないくせにこんな事をして何の意味が…
ようやくその目が開く。クルシュと目が合った。
「フェ…リス…」
「クルシュさま…クルシュさまぁ…」
壊れかけていた心が動き出す。やはり、世界にクルシュ様がいないなんて耐えられない。あり得ない。
「わたし、わたしは、負けたのですね。こんなに包帯を使わせてしまった。これも武器なのに…」
「そんなこと!そんなこと気にしなくていいんです。今は休んでください。ゆっくりと眠っていてくれればきっと…きっとフェリちゃんがどうにかしてみせます」
クルシュはそんなフェリスを見据えて、声を張って可能な限り力を込めた。
「包帯のないところが、まるで私じゃないみたいに動いてる。痛い。耐え難いほどに辛いのです。きっと私はあなたの魔法と包帯が切れれば私でいられなくなる。それほどの苦痛がこの体に入っている感覚があります」
辛いだろうに、それでもその視線には強い熱がこもっている。フェリスに心からの何かを伝えようとしている。
「それでも、今のうちは私として言葉を伝えます。この言葉を忘れないでください」
「フェリス。今あなたはすべきことをしなさい。主である私に、以前の私にも誇れるあなたでいてください。どうか…助けてくださいね」
フェリスは、声にならない苦痛にも似た呻き声を出すことしかできない。
ここまで無理させて、ここまで言わせるなんて。今の私は一体何?
「お任せ、ください。私はクルシュ様の騎士。騎士なんですから…!」
そう言って、泣き腫らした目を赤くしながら立ち上がった。
ようやく、クルシュの一の騎士が前を向き、そのまま部屋の外へ出る。
すでに状況は佳境である。情報網を放棄してでもフェリスを屍兵にぶつけないといけない。
ここで最後の駒であり、これまで躊躇っていた鬼札をここに切ることにした。
これが
今では最低12体、調子が良ければ20体は連続で出せるIBMの最後の一体だ。
フェリスが部屋を出るとすでに、怪しい誰かが待機している。
部屋の外には普通の包帯を巻いて外套を羽織った『タブス』がいた。
「すぐに向かう。の…乗りなよ」
背負われつつ、フェリスはその違和感に戦慄する。
これは人じゃない。けど、人にも思える。
人でないものが人のふりをしているような異物感。一体これはなんなんだ?
しかしそれを表には出さない。
「ようやく会えたネ。いつもクルシュ様のためにありがと。感謝は…したいと思ってた」
「必要ない。クルシュのためではない。私は魔女教を殺すた…め…
その妄言とも言える言葉に抗議しようと思ったら、急激に動き始める。
「にゃ」
舌を噛んだフェリスを一切気にせずに水門都市を駆け抜ける。
「いっくよ〜」
跳躍し、屋根を走って壁を無理やりに超えていく。
このIBMはケイの
「最終ウェーブで…また会おう…永井君」
その姿と声を聞いて、フェリスは何か怖気を感じた。これはケイとは別物だと、そう確信できるほどの違和感。
先の放送や今までの印象からケイの能力か何かかと思っていたが、これは絶対に違う。
主の言いつけを忠実に守って『タブス』は人を運ぶ。主が操る時よりも機敏な動きで最短を行く。
言いつけにない、誰かの言葉を吐き続けながら。
残った部屋では、最後の対話が進んでいく。
「フェリスは、もう行きました…か…?」
『ええ、ようやく動いてくれました。あなたの言葉がなければ動けなかった、さすがですね』
この対話は、クルシュの要請を受けてのものだった。
先の処置の前に、死に物狂いでクルシュが頼んできたのだ。この状況を作ってくれと。
クルシュの様子は、先ほどよりもずっと悪く見える。
先ほどの威勢は、虚勢であったのだ。そうは見えなかったのはクルシュの天稟なのだろう。
「いよいよ…戦いも佳境なの…ですね。皆は…大丈夫ですか」
こんな時にも人の心配だ。本当にこの人は…自分とは違う。
『やれることはやっています。僕もそろそろ行きますよ』
苦痛に呻きながら、話を続けるクルシュ。その目はどこまでも冷たく、澄み切っているようだった。
「この苦しみは、誰も経験しては…ダメ…。人が受けていいものじゃ、ない。こんなことになるまで、やっぱり…私はわかっていなかった。たった一度、数秒だけ理性を手放した。その応報にしてはひどいと…思いませんか?」
自嘲気味に自身のミスを語り、認める。
「ケ…イ。一つお願いを聞いてください…」
契約は有効だ。ケイはクルシュの望みを叶えるためにいる。
「私を、殺してください…」
衝撃だった。
その本音を聞けば全てが確信に至る。先のやりとりはこれを言うためだったのだろう。
フェリスがいたら、絶対に認められないことを通すため。
この状況を作り、死を願うためだけに、虚勢を貼り付けて先の言葉を凛と発したのだ。
その姿は、合理的で、理にかなっていて、あまりにも…見ていて辛い。
クルシュはここに来て、先の弱点を克服したようだった。感情に流されず、体を抑制して目的のために動かし続ける。
それを成長と言っていいのかわからない。目的がこれ以外だったなら誉めていただろう。
「だめ。耐えられないん…です。こんなの。無理です。もう、終わりに…してください。包帯は、足りないでしょう。あっても本当に辛いんです。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」
すすり泣き。死を懇願する。何かに謝り続ける言葉をこれ以上、聞きたくない。
思わず拳に力が入る。そんなことは絶対に嫌だ。無力感で頭がおかしくなりそうだ。
だが、それが感情的な自己満足であることもわかっている。
それでも、最善を尽くす。
クルシュも、最善を尽くそうと死力を振り絞っているのだ。ケイが手を抜いていられない。
『ええ、わかりました。苦痛の緩和ができないと判断すれば僕がやります。あと2日はもつはずです。僕の試したい治療をするまでは待っていて、あと2日ほど耐えてください』
クルシュの目は、恐怖と希望に彩られている。
「わかり、ました。終わりがあるなら、耐えられる。最後はケイに…いえ、わがままで…ごめんなさい…」
クルシュはまさに死の間際にいる。そこから引き戻すためなら、なんでもしよう。
『僕が…苦痛を無くしてみせます。任せておいてください』
できるかもわからないことを、宣誓した。まるでどこかの自称英雄のように。
「らしく…ないですよ…確証のない約束など…いいのですか?」
関係ない。自分らしさなどどうでもいい。少しでも耐えるための糧になるならなんだってやってやる。
『いいえ、絶対です。任せておけと、そう言いましたよ』
クルシュは無理やりに微笑んで。そして少しだけ安心したように眠りについた。
これはダメだ。認めない。
これを変えるためならなんでも曲げよう。
自分の矜持などなんの役にも立たない。
彼女のような善人がここまでの苦痛を与えられるのは正しくない。
この世界に正しさなんてどこにもない。良い事をすれば良い結果を得られるなんて人間のただの願望だ。そんな事は知っている。そんなことはどうでもいい。
論理的に考えてもこれでいいんだ。
この世界においては、壮絶な祈りが現実を変える事があるのだから。
やれる事があるならやる。それで上手くいくならいくらでも祈ってやる。
リリアナの歌が終わったと同時にケイは椅子から腰を上げた。どうしようもない激情を噛み締めて。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
フェリスが出発した頃、剣鬼はさらに自身の剣を研ぎ澄ませていた。
刃同士が打ち合ぬ呆気ない幕切れの裏では、壮絶な剣戟が繰り広げられていた。
剣鬼と元剣聖の対決。
剣鬼恋歌にあるようなその一幕は以前とは異なる様相を呈している。
体は全盛期であるように見えるテレシアはしかし、剣聖の加護を失っている。さらにその情動すらも凍っており剣に冷利な光が宿ってはいるがどうにも軽い。それでも死神の加護が宿った剣はどんなに小さな傷でも致命傷たりうる。
一方でヴィルヘルムの身体は衰えている。しかし心技においてかつてを超えている彼は、先も今も確かな優位を築いていた。
剣鬼が少しずつ有利を重ねて、そして剣がその身に届く。
しかし相手はやはり屍兵である。そのような傷はすぐに塞がり支障はない。
剣においては優位を取るが、総合的に見れば剣鬼の旗色が悪い。
かつて付けられた古傷。肩の傷から出血する。フェリスによって一部の血管は止めてもらっているが、それでも滲む赤はまるで捨てても滲み出す愛情のようでもある。
千日手にすら至らぬか。忸怩たる思いが駆け巡る。
事前の命令通り、まだ起動しているはずの対話鏡にてケイに伝える。
「優位ですが決め手に欠ける、いずれ押されます。この合間に」
妻とは一人で踊り切りたかった。しかしそんな感傷によって剣が鈍ることはない。
歌姫の絶唱も剣となった男には届かない。必要ない。
カルステン家の剣である己は、ただ最短を切り拓く。主のためにもいち早く状況を終えなければいけない。
揺るがない。
未知からの脅迫と各所の爆発も。変わったのは虫たちが一斉に水門へと飛んでいくことくらいだ。
その後に都市のどこかで放たれた閃光と爆音も。
今のヴィルヘルムはこれ如きでは揺るがない。
この二人の決闘であれば、このまま終わっただろう。
しかし、この場を作ったのは色欲の大罪司教である。人を嗤う悪意によって用意された舞台。
それが正々堂々の剣士同士の決闘などを許すはずがなかった。
その人影は、フラフラと剣鬼の視界に映った。
そこには赤髪の女性。テレシア・ヴァン・アストレアがいる。
これはおかしい。なぜなら、テレシアの亡骸とは剣を切り結んでいるのだから。
ならばこれも偽物である。その一切に構わずに捨てる。
すると、一人二人と増えていく。手には弓矢や長槍。中には魔法を唱えているものもいる。
くだらぬ小細工ですな。
恐らくは色欲子飼いの暗殺者や武芸者たち。それを妻の姿に変えたのだろう。
この程度の嫌がらせは、ケイ殿がすでに想定し仮想訓練は行っていた。
こんな状況であればどうするのか?そう問われて行動を答える問答は、あらゆる想定をしている。
一度に複数というのは想定になかったが、テレシアの姿をした誰かが近づいてくるというのは初歩であった。
怒りはある。許せない行いでもある。この冒涜に言わなくてはいけないことがある。
では何をすべきか?
それら
人質を取られたなら『
敵が複数なら『
それだけで仮想の問答を突破し続けようとした剣鬼に、ケイは頭を抱えたものだった。
しかしそれこそが自身の最適解であると知っている。
下手なことを考えず、眼前の敵をただ切り捨てる。それさえできるならどんな相手にも一歩も引かない。
笑う色欲の用意した悪意は、見目麗しい元剣聖に変えられた殺し屋たちは、一人また一人と意味も果たさず散っていく。
最も本物に近い偽物も、そろそろやらねば。
腰の『怨剣』に手がかかる。その身はいくらでも再生するのだろう。しかし全てを込めて振り抜けば、きっと彼女の武器すら断てる。
高まる剣気によってその場の緊張が高まっていく。
しかし、剣鬼を嘲笑うものはまだ他にいた。かつて自身の寵児を奪われ、その応報を果たしたもの。
そんなものがいるのか誰も知らないが、剣を極めたものだけがその一端に触れうる存在。
『剣神』の底意地の悪い計らいが剣鬼を後ろから切りつけた。
「親父…?」
まさに今、三人目のテレシアを切り捨てて別の偽物を切り捨てようとした時に声が聞こえた。
聞こえてしまった。
距離がある。
疑問の囁きはヴィルヘルムに届くような距離ではなかった。
それなのに声は、まるで耳元で発されたかのようによく聞こえた。
こちらを見ている、青い瞳の赤髪の男。
ハインケル・アストレアがこの命懸けの瞬間を見ていた。
父親であるヴィルヘルムが、母親であるテレシアを切り捨てる瞬間をただ呆然と。
かつての自分であれば、渾身の一撃も鈍っただろう。
息子への後悔は未だ晴れていない。しかし、それを一時捨てる術を手に入れている。
それを意識し、それでも捨てる。
加速する剣は偽物をまた切り倒し、より本物に近い偽物と切り結ぶ。
集中は途切れない。
「何してんだよぉ…親父ぃ…」
どんな言葉をかけられようと、最短を進む剣は横に逸れない。
しかし悪意とは、常に弱いものを狙うのだ。
さらに路地から現れたテレシアは、ハインケルの背後に迫りその背に短剣を突き立てようとしている。
泣いているハインケルは気づくのが遅れる。それでも彼の実力ならまだそれを弾けるはずであった。
けれどハインケルは剣を構えるどころではなく、膝から力が抜けたようにそこで膝をついてしまう。
「…っ!!」
これは捨てることができなかった。
後で話すことすらできなくなる。テレシアの容姿によってハインケルが刺されれば、きっと彼の心と体は耐えられない。
剣を振り、そのまま投げる。
この邪道の極みのような運用もケイに習得させられたものだった。
長剣が鋭く回転して飛び、短剣を持ったテレシアの首を刎ね飛ばす。
その大きすぎる隙を、偽物とはいえテレシア・ヴァン・アストレアが逃すはずがない。
捨てられなかった代償が支払いを要求している。
それに応えるように敵の長剣の切先が、ヴィルヘルムの右足を貫く。
惚れ惚れするほど美しい剣だった。
刃は老剣士の右足の付け根を貫通し、その刃先を血で最低限しか汚していない。
不必要な破壊をせず、筋繊維と神経の隙間を通し、ただ足の機能だけを奪い取る卓越した剣技の妙。
水に刃を立てるような無抵抗感。
それを自身の右足で実演されて、ヴィルヘルムの背中に身震いが走った。
その感覚が憧れと、口惜しさと、愛おしさと、いずれに該当するものだったのかは当人にもわからない。
わかることは、ただ突きつけられる敗北という現実のみ。
「ぐ、ぅ……っ」
右足に埋もれたままの刃が滑り、膝が縦に割られる。
長剣が入ったときと同じように、音もなく肉から抜かれれば、ヴィルヘルムは遅れてやってきた痛みに呻いて崩れ落ちた。
足の傷から血が溢れ出し、下半身に力が入らなくなる。
『死神の加護』の力が発動すれば、負傷は如何なる治癒魔法を使っても癒えない。加護の所有者と距離が近ければ近いほど効果を増し、それは些細な傷であっても命を蝕む呪いとなって、延々と敵に流血を強いることになるのだ。
「——————」
ヴィルヘルムの右足の傷は、些少などといえる浅い傷ではない。放置すれば命に関わる深手であり、『死神の加護』は強制的に回復を拒む。
命の期限は、あまりに短く設定されたと見るべきだった。
「……無念」
痛みに脳を焼かれていながら、苦鳴より先に嘆息が漏れた。
痛覚は間断ない激しい刺激に絶叫しているが、ヴィルヘルム自身は眉をひそめる程度にしか面にそれを出していない。
「——————」
手の中の剣を取り落とし、ヴィルヘルムは傷口に手を当てる。
流血は命の流出だが、敗北者がそれをみっともなく遠ざけるつもりはない。ただ礼儀として、失血死などという終わりだけは迎えるべきではない。
剣士として戦い、剣士として抗い、剣士として敗北する。
ならばその敗者の命は、勝者の剣によって奪われるべきなのだ。
「一人では、決して……!」
長剣が落ちる瞬間、ヴィルヘルムは右手を伸ばした。そこに、双剣の片割れ———テレシアの捨てた剣が落ちている。
ヴィルヘルムはそれを指先で拾い、最後の最後まで往生際悪く足掻く。
敗北、それはいい。それは仕方ない。
だがここに彼女を残して一人では逝けない。
無理やりに剣を振るわされる妻を、この手で止めることもできず、大恩あるクルシュやスバルたちの下へ、進ませるわけになどいかない。
この命を燃やし尽くして足りないのならば、死後の魂を滅ぼされても構わない。
———しかして、その覚悟の一閃は。
「——————」
「……?」
剣を構えたまま、テレシアは大きく後ろへ飛んでいた。
右手で掴んだ刃、その刺突すら届かぬ距離へ。足を負傷したヴィルヘルムの届かぬ位置で、テレシアはかすかに首を傾ける。
無感情の瞳、そこにひどく空虚な色を見て、ヴィルヘルムは初めて怯えた。
その恐怖は本能に、ヴィルヘルムの剣士としての本能に訴えかけてくる恐怖だ。
致命傷を負った獲物に、無理にトドメを刺す必要はないと。
剣士としての誇りなどとうにない、冷徹な死神だけが下す判断がそこにある。
「待て……待て、テレシア!!」
置いていかれる恐ろしさに、ヴィルヘルムは絶叫した。
偽物であることすら忘れるほどの恐怖。
赤い長髪を揺らして、遠ざかっていくテレシア。
その彼女の足の向かう先に、棒立ちになっているハインケルが立っている。
いまだ戦意の衰えない長剣は、次なる獲物を彼へと定めた。
夫とわからぬ男を斬り、次は息子とわからぬ男を斬る、そのために———。
「やめろ、テレシア!そんなことが……そんなことが、許されると思うのか!?私と戦え!私を……俺を見ろ!俺を、俺を見ろ、テレシアぁぁぁ!!」
血を吐くような声を上げて、ヴィルヘルムはテレシアを呼んだ。
何度も、何度でも、彼女を前にして呼びたかった名を、何度も思った形とまったく異なる形で、愛おしさの代わりに怒りを、熱情の代わりに狂気を込めて。
だが、女は振り返らない。
ハインケルは歩み寄るその姿に息を呑んで、自らの騎士剣を震える手で抜き放った。
「ま、待てよ、待てって。あ、あんた……テレシアって、嘘だろ?そんなはずがねえ……そんな、お袋のはず……ッ」
「——————」
「違う、お袋じゃなくても……そうじゃない!おや、親父があんなになってて、お袋を切ってそれで……クソ!なんだよ!なんなんだよ、何してんだよぉ!」
眼前に迫る、若き日のテレシア。
その姿と、ハインケルの中で母の姿が重ならない。彼は首を嫌々と横に振り、必死に目の前の光景を否定しようと、とりとめのない言葉を口にしている。
膝が笑い、視線はおぼつかず、剣すら握れぬ姿は弱々しい。
このままではハインケルは、間違いなくテレシアに斬り殺される。
そんなことだけは、あってはならない。
「テレシア!こっちだ!私はまだ生きている!殺すなら私を先に殺せ!ハインケル、お前には無理だ!今すぐ、逃げろ!!」
遠い。遠すぎる。
遅い。遅すぎる。
また、ヴィルヘルムは間に合わない。また、ヴィルヘルムでは届かない。
「ひっ……」
「——————」
テレシアの長剣が弧を描き、それを見てようやく抜いた剣がそれをどうにか阻む。
わずかな停滞もなく、呆気なく騎士剣はハインケルの手を離れ、甲高い音を立てながら石畳の上を跳ねていった。
「や、やめて……やめてくれよ、か、母さん……っ」
無手になり、怯えたハインケルがその場に尻餅をついた。必死に手足を動かして、這いずるようにしてハインケルは逃れようとする。
だが、震える指先が、怯える心が、テレシアの無感情の瞳が、ハインケルの心と体を恐怖で縛りつけて、その場からほとんど動かさない。
———月を割るように、直剣が真っ直ぐ天へと伸びる。
命の瀬戸際で、ヴィルヘルムは為す術もなく、妻に息子が斬られる瞬間を目の当たりにさせられようとしていた。
声を上げる。届かない。
手を伸ばす。届かない。
「テレシア———!!」
剣に全てを込められなかった剣鬼の、ただ叫ぶだけの声に力はない。
長剣は無情にも、ハインケルの命を絶つために振り下ろされ———。
「———そこまでだ」
その声は唐突に、しかし明確に、そのひりつくような緊迫感を切り裂いた。
凛とした声色には欠片の躊躇もなく、一切の容赦も含まれていない。聞くものにただ圧倒的な存在感を叩きつけ、その意思を伝わせる天性の代物だ。
ヴィルヘルムが、ハインケルが、そしてテレシアさえも動きが止まった。
三者の視線の向く先に、一人の青年が立っている。
燃え上がる炎のような赤い頭髪、澄み渡り、輝く蒼穹を閉じ込めた青い瞳。
白い装いを血と泥に汚しながらも、真っ直ぐ在る立ち姿は勇壮以外に装飾する言葉の一切を必要としていない。
青年はゆっくりと、その場に歩みを進めてくる。
その手には深々と鋭い傷の刻まれた鞘と、その鞘から抜き放たれた騎士剣。
異常なまでに刀身の磨き上げられた、龍剣レイドが握られていた。
———剣神の笑い声が、剣鬼の耳元でうるさいほど聞こえた気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
———龍剣レイドは謎の多い剣だ。
代々、『剣聖』を輩出してきたアストレア家に伝わる宝剣であることは確かだが、その龍剣が何処から賜ったものであるのかなどは伝わっていないのだ。
来歴不明の宝剣であり、その上、『剣聖』以外には抜き放つことができないという曰く付き。追記すれば、その『剣聖』であっても必要なとき以外は抜けないという。
———龍剣レイドは如何なる宝剣にも、伝説の剣にも、魔剣にも勝る至上の剣。
———剣という鋼を突き詰めた究極の体現であり、あれを超える鋼は存在しない。
その曇りなき白い刀身を目の当たりにするのは、剣士の誉れである『ヴァン』の名を頂いたヴィルヘルムですら、生涯でたった数度のことだった。
「———ラインハルト」
赤毛を風に揺らし、青の瞳で真っ直ぐに状況を睥睨するのは当代の『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアに他ならない。
その凛々しく、雄々しい立ち姿にヴィルヘルムですら圧倒される。
『剣聖』を継承し、近衛騎士として王国の剣を自任する実の孫———ヴィルヘルムがその戦場での姿を目にするのは、実はこれが初めてのことだ。
そこに立っていたのは、『剣聖』だ。
剣神の寵愛を一身に受け、至上最高の剣を抜く誉れに恵まれ、ありとあらゆる剣士の望む頂に立つ存在———『剣聖』以外の何者でもない。
その姿に、ヴィルヘルムは思い違いを知る。
才能の違い。かつてはそれを見ても腐らず、剣を振り、振り続け、やがて英雄たちの末端に手をかけた。
埋まらぬ距離はないのだと、そう証明することができたはずだった。
———なんと、狭く小さな、視野だったことか。
質が違う。高さが違う。重みが違う。モノが違う。何もかもが違う。
文字通り、次元の違う存在なのだ。
「——————」
テレシアがゆっくりと、振り上げていた長剣を下ろした。直前までハインケルを斬り捨てんとしていた剣は、その切っ先を新たに現れた敵へと向ける。
心のない、動く亡骸であるテレシア・ヴァン・アストレアは、すでに剣士の矜持も戦士の流儀も何もかもを喪失している。
今の彼女にあるのは、秘術でその亡骸を動かす術者からの命令。
そしてその命令が、脅威足り得る相手を優先するのであれば、当然の判断だ。
すでに継戦能力を奪い、失血死を待つだけの敗北した老剣士。
戦意を喪失し、逃げ出す胆力すら持っていない肩書きだけで怪我まで負っている騎士団副団長。
その両者など、もはやテレシアにとっては脅威ですらなんでもない。
故に彼女がその長剣を、かつての『剣聖』の技量を、今の『剣聖』へ傾けるのは何一つ誤った判断ではなかった。
「待て!テレシア!こっちを、俺を見ろ、テレシアぁぁ!」
屈辱だった。同時に、それを上回る悲しみがあった。
だが、悲嘆に暮れている暇などない。今の自分に、そんな停滞は許されない。
今、叫ばなければ。今、止めなければ———。
「やめろ……なんだよ、なんなんだよ……俺が、俺が何したってんだよ……!」
青い顔をして、頭を抱え込んでしまっているハインケルは気付かない。
目の前で自分の息子が、自分を守るようにして立っていることなど関係ない。
その前の事実がとっくに、ハインケルの心の許容量を突破している。
「ライン…」
「死者は動かない。死者にその先はない。僕はその不条理を、許さない」
訴えようとした言葉が、毅然とした声音によって封殺される。説得のための感情的な言葉の全てが、『剣聖』が背負う無数の重責の一つにも敵わないという事実を痛感する。
緩やかな動きで、龍剣レイドが正眼に構えられた。
奇しくもその構えは、長剣を担うテレシアのものと写し鏡のように同じものだ。
「——————」
龍剣の曇りなき刀身が、やけに艶やかに光り輝いて見える。
無言で、二人の剣士の、共に青い瞳が絡み合う。
空気が凍てつき、緊迫感が色と重みをもって世界を圧迫する。
全身を重苦しく、息苦しい感覚に支配されながら、ヴィルヘルムは口を開いた。
極まった混乱。極限の感情。そんな時にこそ頼るべきものを教えてくれたものがいた。
「剣聖ラインハルト。『青』の到着を待て…『それ』には調査が必要だ」
先ほどまでの絶叫とは違う。淡々とした冷徹な言葉の声量は大きくない。
その内容は、剣鬼の言葉ではないようで。ヴィルヘルムの言葉にも聞こえなかった。
ラインハルトの耳にはまるで、あの黒髪の友人のように聞こえる。
これまでこちらを向かなかった剣聖が、剣鬼を見て言葉を放つ。
「お爺様。それは、ケイの指示ですね?」
祖父の言葉の一切が届かなかった剣聖に、カルステン家の腹心としての声が届いた。
「ああ、ああ。今フェリスが向かっているはず。その術式を解明することが何よりの重要事項だと念押しされている。現状維持だラインハルト」
ラインハルトはその目線で真っ直ぐとヴィルヘルムを見て、そこに冷静な正しさを見た。
「承知しました。お祖父様。足の傷は深い、無理はなさらずにいてください」
その言葉に気負いはない。
このやりとりを待つ必要がないにもかかわらず、テレシアは動けてない。
彼女は敵戦力を削るように言われているのだろう。剣聖をこの場に引き留めている状況は差し引きで大いにプラスであると判断されているようだ。
そして待望の『青』は、その直後に空から降ってきた。
「に゛ゃ゛あ゛あ゛あああああぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っぶっ!」
ドグチャ!という湿度の高い破裂音と共に、付近の壁に叩きつけられた『青』。その姿はどう見ても『赤』一色であるがしかし、彼は水門都市の最短を駆けて、最後は投げられた。
「絶対あいつの入れ知恵!ほんとに悪質!これ終わったらエリノアちゃんと嫌がらせ考案大会!絶対殺す!!」
フェリスの表情が明るい。互いにケイの入れ知恵に救われたらしい。本当にすごいな君は。
ラインハルトは微笑んで、声をかける。
「フェリス。どうすれば?」
ラインハルトは今しがた全身を潰したにも関わらず、心の調子を戻した様子の友人に声をかける。
「え、龍剣!?まぁ元剣聖ならあり得るのかにゃ。手足とか封じて動けないようにしてくれる?フェリちゃんが詳しく診るから。ヴィル爺、これ!」
フェリスがヴィルヘルムに何か投げて受け取る。
指示を受けた剣聖の動きは早かった。肉薄し龍剣を振るう。
迎撃するテレシア。その剣技は剣聖であっても一合で崩せるものではない。しかし、その武器はそうではなかった。
龍剣の剣圧に耐えきれず、その剣身が砕ける。
たたらを踏んで、後ろに下がろうとするも剣聖の踏み込みはそれを許さない。
足払いが文字通り、足を払い飛ばして立てなくなる。
たったそれだけで不死身の元剣聖が無力化された。
「僕が押さえている。安心して調べてくれ」
そういう前にフェリスは調査を始めていた。
「やっぱり秘蹟…でも同じなのは基本だけ?何これ、知らない方式ありすぎ…でもこれ、すごい」
フェリスの目には誰にも理解できないレベルの情報が次々に入り込んでおり、マナからは膨大な術式が見えている。
「これも頭おかしい奴が作ってる。キモすぎ…絶対に変。って!気付かれた!?」
フェリスが術式を辿り、そのマナの供給源を見つけると相手もこちらを感知したようだった。
術式が崩壊し、屍兵の二度目の終わりが始まる。
並行して行っていたヴィルヘルムの治療も止血だけは済んでいる。
フェリスとヴィルヘルムの距離を無くしたのは、先ほど投げた糸である。
その糸にはヴィルヘルムの血が染み込んで、フェリスと繋がっている。
遠隔での治癒魔法。これもケイが考案してどうにか形にしたものだった。
ヴィルヘルムを支えるのはすっかり孫としての顔で心配をしているラインハルトだ。
「ヴィル爺!こっち!」
突然のフェリスの大声に驚く。そしてそこを見れば、妻がいた。
閉じていたテレシアの目が開き、青い瞳には理性と感情の光が見える。
ヴィルヘルムが倒れ込むように駆け寄った。
「情けない、顔…」
「テレシア、私は…」
そんなヴィルヘルムを愛おしく見つめ、その横に所在なさげに立つ赤髪の青年の方を見る。
「ラインハルト?大きくなったのね…よかった」
「ハインケルも、いるのかしら」
そう呟く彼女の目は、すでに周囲を見えていないようだった。
気配だけで家族を察知するのはさすが元剣聖というべきか、祖母はすごいと言うべきか。
体の崩壊が始まっている。今はまさに奇跡のような一瞬だ。
ヴィルヘルムに抱かれ、彼の言葉を待つテレシア。
「お前に、言わなくてはならないことが…ある」
そう覚悟の表情で言葉を口にした時には、フェリスはそこを離れ始めた。
ここから先はこの家族、いや二人だけの時間だ。
ラインハルトを伴ってそこから離れる。きっとこれは孫であっても部外者だ。
すでに『不死王の秘蹟』についての情報収集は終わっている。そして今最優先で連絡を取るべきはあの男。
ラインハルトにもフェリスにも、きっとまだやるべきことがある。それを決めることができるのはこの状況を一番把握しているあいつ。
対話鏡に引き篭もったまま出てこないこいつにしか託せない。
いつもいつも、対症療法では意味がない。根治の方法はないのかと。口うるさくて性格の悪いあいつにしか。
「術者がいた。『魔女』がこの都市に隠れてる」
諸悪の根源がここにいる。
魔女を殺すための都市に、『魔女』がいる。
カルステン陣営の成長回です。