深い深い縦穴に落ちながら、色欲は体を変異させて恨みを叫んだ。
先程いたのは部屋だったはず、一瞬で移動?いやあり得ない。
ならば、そこにすでに穴はあったのだ。
罠だった。
おかしなメイドだとは思っていた。水門都市からの移動時に護衛と一緒に捕縛したは良いが、やけに協力的で聞きたいことをペラペラと喋ったのだった。
そして聞きたくないことまで勝手に話す厄介なやつだった。まるで、あいつのようで…
「私は命乞いをすることを許可されています。なので言わせていただきますが、私を変異させれば誓約によって死にます。そして私が死ねば、直接管理している魔獣の服従が解けて陣営に私の死は伝わります。もし奇襲がお望みならば殺さずに放置していただけませんか?可能な限りは協力しますので」
その交渉とも言えない勝手な言い分に、思わず思考が止まる。確かに魔獣の角を折れば服従させることはできる。
そして主人が死ねば、魔獣はすぐに好き勝手に動き始めるのだ。しかしこれを安否確認に使うなど想像したこともなかった。
しかし、相手は待ってくれない。畳み掛けるように制限時間を設けてくる。
「予定の移動時間から1分でも遅れて連絡がない場合も警戒されます。あと3分程度ですね。時間を使って私を拷問いたしますか?」
恐怖に震えながらも職務をこなすメイド。腹が立つ。不快だ。まるであいつが乗り移ったような言い草は我慢ならない。
色欲は、鬱憤を溜め込んだまま失った左手薬指の付け根を無意識に撫で続ける。
メイドとしての振る舞いに必要な情報はしっかり渡したため、拘束して放置することにした。
とにかく時間がなかった。メイドになり変わるならすぐに動かねばならない。
嫌な予感はするので準備は念入りに。集めた蒐集品を使い潰すことも厭わない。
ミーティアをふんだんに用意することで不安は打ち消した。
その浅慮と短慮の報いが今まさに落下するこの状況である。
「アタクシのこと、なぁんでそんなに分かってやがる!?お前もうアタクシのこと好きだろ!無神経童貞が!」
響く罵倒に、指からの熱線を打ち込みつつ応える。
「嫌いですよ。跡形もなく消えてくれたら、好きになるかもしれません」
熱線で体が焼かれ、さらに落ちる。
そして上から、勢いよく投げられた鉄製の武器が降り注いだ。
その重量と刃に押されて地の底まで落ちていく。
グシャリという音がして落下が停止。
床から顔を引き剥がして立ち上がりつつため息をついて、愚かな肉どもを骨の髄まで愛してやることに決めた。
舐めた態度の黒オスと赤メスは特別に殺すが。
それよりなんだこれは、全身に刺さっている三角形の立体的なトゲ?罠の一種だろうそれが身体中に刺さっている。
そこまで思考して、意識が途切れた。
再び、床から顔を上げる。
一体何が?
また意識が途切れる。
床から起き上がる。
今、死んでいた?
意識が途切れる。
これは…
意識が途切れる。
死んでいる。死に続けている?
途切れる。
どうにかしなくては。何がどうなっている?
途切れる。
呪いか何かか?しかし自分に呪いは…
途切れ続ける。
カペラが復活後に即座に息を止めないといけないと気づくまで、都合15回は死んでいた。
ここまでの苦境について共感できるのは、この世界ではスバルとアルとケイとカペラの四人だけかもしれない。
色欲は、自慢の口を開かずに黙々と壁を登り始める。
そこに撃ち込まれるのは『指銃』による光線。意識を奪われればまた底に落とされる。
頭の損壊だけは避けつつ上に迫る。
穴に近づけば、剣鬼がすべてを千々に刻んだ。
出られない。
再びそこまで落とされて数度、意識が途切れる。
しかし、だんだんと慣れてきた。ここからはもっと大胆に…
カペラは無意識にそれを見た。
上を見上げると、光る何か。そう。光だ。一筋の光が見える。
天の隙間から垂らされる雫のように、上から落ちてくる。
それはまるで、天上の蓮池から垂らされた蜘蛛の糸のように。
地獄の血の池に差し伸べられた救いのように。
その赤熱し溶融する金属の雫はしかし、色欲を救わず盛大に炙った。
熱い熱いアツイ。熱熱熱!!
けれど苦痛は耐えられる。問題はこの熱だ。
体が燃える。炭になる。再生しても、そこに液体になった金属が混ざってくる。
うまく体が作れない。時間をかけて息を吸い込めばまた死ぬ。
死ぬ死ぬ死ぬ。
死に続ける。
爆発せずに熱を発する高炉用の魔石が投げ込まれる。
金属が冷えない。まるで火口にいるようだった。
しかし、それでも色欲は死なない。燃やされ続けても、落とされ続けても。それでも死なない。
死ねない。
その地獄を生み出したケイは冷徹に見下している。
この世界における法則。ずっと分析してたことは『優先度』である。
通常の物理よりも。魔法が優先されて現実は変わる。
魔法よりも加護や呪いが優先されて、結果は変わる。
加護よりも一部の権能が優先されて、世界が変わる。
溶鉄という物理では。色欲の権能である『変異・変貌』を焼き尽くすことはできない。
いくらでも再生し続けるだろう。そういうものなのだ。
しかしながら、終わりはあるはずだと睨んでいる。それは権能の限界ではない。
権能、権利というのは誰かが誰かに、何かの目的があって付与するものだ。
色欲の権能はきっと、ここで焼かれ続けることに費やされる想定ではないはず。
ならば、付与者がカペラという対象に見切りをつける事もあるのではないか?
まるでそれは『剣聖の加護』のように。
一月も殺し続ければきっと誰かさんが諦めるか、カペラも廃人になるのではないだろうか。
その前に陽剣で焼くのは確定ではあるが。
生物として形を成せないほどにエネルギーを注ぎ続ければ良い。
その殺しの罠は、もはや装置であった。
ヴィルヘルムは戦慄する。これはもはや戦いではない。ケイにかかれば、戦いが起きずに相手が死に続けるという状況が作られる。
「ケイ殿。来ます」
「総員、戦闘準備」
空に『夜払い』が打ち上げられて、敵の威容が映る。
雲霞の如き虫の群れが、黒い獣人の影が迫る。
用意していた熱した油が、水魔法によって操られて面制圧で虫を揚げていく。
凡人が、剣鬼を凌ぐ速度で虫を落とす。工夫、相性、準備とは。やはり重要なのだ。
彼らは全身甲冑であり、関節も虫の針が刺さる隙はない。
しかし、甲冑騎士たちの動きは鈍い。
黒い影は彼らを無視して突破してくる。
先頭の一人が、建物に到達すると爆発した。
彼らは自爆のための魔石を仕込んでいるようだった。次々と防壁を。建物を吹き飛ばし、そしてケイたちを捕捉した。
捨て身の猛攻は凄まじい。事前に聞いていなければここで詰まされていただろう。
剣鬼に迫る個体は全てが斬られて爆発すら許されないが、それでも数が多かった。
その上未知のミーティアを複数使っているらしい。突然、ヴィルヘルムの剣が当たらなくなる個体や壁を透過する個体もいた。
事前に聞いていない現象もいくつか起こる。やはり色欲は、こちらの準備や剣聖、プリシラの位置によって動きを変えるようだった。
戦力や準備をし過ぎると警戒して治療中まで逃げ隠れて間接的な嫌がらせを繰り返される。そのパターンが最悪だった。
だからこそ、プリシラも呼ばず剣聖も遠くに配置してのこのスタートだ。
色欲という無限の対応力を持った敵は、スバルの少ないやり直しでは補足しきれない相手である。
そう。スバルから聞けたのは襲撃を確定させられる条件まで。いつ誰に、どのように化けるのか空かの奇襲なのかはわからなかった。
相手を誘うために魔獣で完全に固めることもできない。メイドや青蓮獅子が最も狙われる可能性が高いため彼らが生き残るための方策も打った。
色欲の所作や模倣は完璧だった。しかし、特注の絨毯に仕込んだ仕掛けは誰にも教えていない。乗ったものの体重によって踏みしめた音の変わる絨毯を用意していたのだった。
だからこそ聞いたのだ。「太ったか?」と。半日見ない間に30kg以上太ることなど不可能だ。
そこで化けの皮は剥がれた。「は?」などと返事するように教育はしていない。普段ならあり得るが、現在は警戒体制を敷いている。その反応はありえない。
あとは、敵意をそいつに向けるだけだ。それだけで剣鬼は何も考えずに剣を振るう。
しかし、ここまでやっても今回で確実に色欲を取れるかどうかの確信はない。
何ならこれまで一度しか色欲を殺すことはできていないらしい。その場合、クルシュの治療を犠牲にする必要がある。なら色欲などどうでもいい。今殺すためにベストは尽くすが。
敵も必死だ。あらゆる手段を消費して、狸人の黒影は目的の穴に到達した。
ケイと剣鬼は無事だが、鉄を流し込む作業員は避難し、その道具が破損される。
一部は地中にも投下したのだろうか。爆破が竪穴にも及んだ。最大の爆風が、色欲を吹き飛ばす。
それはまるで銃口のように火を吹いて、鉄片と肉片が降り注いだ。
そのうちの一つがボコボコと盛り上がり、完全無欠の状態で。否、左手の薬指以外を復元して色欲は地面に転がった。
「があぁ…あ…テメーら。殺す…アタクシにここまで好き勝手しやがって…完璧に。完璧を…」
そして、周囲に集まった影たちが風が吹いたように消えた。
まるで虚影のように跡形もない。
「アタクシの可愛い息子たちに、何してくれやがった!?」
エルザは無事に術者を捕捉したらしい。これで邪魔は入らないはず。
敵の位置がスバルの情報と、風魔の斥候によって特定された。
そこへ駆けるのはロブルとエルザだ。
そこには虚な目で自らの体毛を引きちぎり続ける狸人のなれ果てがいた。
無心で、自身を削って影を生み出していく。
その顔はどんな感情も映しておらず、まるで装置のようだった。
その虚が肉薄した二人を捉えると、影の洪水が殺到する。
死闘である。それの苛烈な物量はまだ常人の域にいる二人には荷が重かった。
それでも役割は全うする。合図を打ち上げて、その後のわずかな時間を耐える。耐える耐える。
そして時はきた。
どこからか降ってきた剣聖の一撃によって、狸人はミーティアごと消滅する。
そして剣聖は一言も発さずに、再度跳躍する。求められた役割を果たすために。
その後、エルザとロブルに話しかけるものがいた。
「はぁ。ようやく消えてくれましたねぇ。怖い顔しないでくださいよ。降参ですよ。降参〜。ってあれ、エルザちゃんじゃないですか〜。お姉さんのこと忘れちゃいましたぁ?」
エルザの記憶に、目の前の女は該当するものはいない。
整った顔立ちにプロポーション。紫の髪は肩まで伸びない程度。メィリィよりは多くの『子供たち』と会っているはずなのだが、いかんせん人に興味がなさすぎた。
特に目の前の女のように、戦闘ができないものの記憶は非常に薄いと言わざるを得ない。
「やだぁ。エルザちゃんったらほんとに覚えてないんですね。でも私もあなたと会った時に名乗ってた名前を忘れてますし、おあいこってことにしませんか?でも良かった〜。あなたほどのお気に入りが裏切っても、本当に無事なんですねぇ」
「あら、ごめんなさいね。あなたもお母様を裏切ってこちら側に来たい。そういうことで良いのかしら」
「ええ、そうですぅ〜。お母様の力は絶対だった。だからずっと従ってきましたけどぉ。こんな体たらくを連続で見せつけられちゃったらもう。こんな好機を逃すはずないじゃないですかぁ」
エルザは笑った。きっとこいつも自分と同じように歪んでいる。
その在り様のままで、寝返ることができると思っているのだ。ちょうど一年前の自分のように。
「きっと歓迎されるわ。でも、こちらに入れば今までしなかった様なことをさせられるかも。それでも良いというなら紹介するのだけれど」
「はぁ?結局は王選候補者側の陣営でしょう?求めるものなんてたかが知れてる。その程度苦痛に感じるわけがないじゃないですかぁ。お母様の躾を、忘れたわけじゃないでしょう?」
エルザはここで言葉を尽くす意味を感じない。ただ微笑んで相手を否定もしなかった。
それが意外だったようで、考えを外されたことに苛立っている様子を隠しもできていない。
「改めて、エルザよ。よろしくお願いするわ」
「名前はぁ。最近使ってたのも捨てたんですよねぇ〜。モミジ、カエデ、うーん…じゃあツバキ!ツバキ・モーメントと呼んでくださいねぇ」
エルザは笑顔でツバキの手を握る。人に戻される恐怖を、まだ想像することもできていない後輩の手をとった。
心から労うように握手を結んだのだった。
消えた虚影を認めて、ケイは話しかける。
「さぁ。子ども同士の喧嘩じゃないですか。そんなことより、話しません?」
史上最悪の好感度を互いに更新し続ける関係を無視して普通に声をかけた。
「テメー。ようやく顔見せたかと思ったらそのふざけた仮面を外せっ!!最低限の礼儀も習っちゃいねーんですかァ!?」
ケイは、市販されている剣聖の仮面を被っている。認識阻害もかかっていないが別に顔を晒す必要もない。
激昂するも、続く言葉にその怒りは止められる。
止めて話に応じてしまう。だって彼女は、大罪司教だから。
「愛されるというのは具体的にどんな状態を指すんですか?」
明らかに時間を稼いでいることはわかっているだろう。しかし、無視できない。
「っ!…話して欲しけりゃ薬指くださいよ。テメーかあのメス肉のならうまいこと繋がる気がするんですよね」
どうせ断られるであろう難題を投げて相手を困らせる。もう襲ってしまえばいいのだ。今すぐに…
「へえ。じゃあ、どうぞ」
そう言って間髪入れずに投げられるのは左手薬指。ナイフで切って即座に叩きつける。
その早さに困惑する。しかし色欲は幽鬼のような動きで、その指を拾って自分の指があった場所にあてがう。
泣きそうな顔で、その指を必死に自分の手に擦り付けている。いや、泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。綺麗でいます。美しくいます。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
一体誰に対しての謝罪なのだろう。それは確実にケイでもクルシュでも、水門都市で苦しめられている誰かでないことだけはわかった。
当てがい続ける。ガジガジと傷口を噛み潰しながら、繋がれ繋がれと呟きながら、涙を流した必死の形相で。
その様子に、剣鬼すら鳥肌が立つ。あれはすでに最初から壊れていたとは思うが、それでも一貫性や矜持は感じることはできた。今は、より悪い。
乱暴に扱って、最後には指が潰れた。
「それで、愛されるとは具体的に何を指すんです?」
ケイはその狂乱の一切に興味を示さず質問を重ねる。剣鬼はケイにも戦慄した。
カペラは呆然としている。何かが抜け落ちたように口をだらしなく開けて、それでも色欲は対話は続けている。
まるで色欲とカペラが分かれてしまっているかのようなそんな姿だった。
「下半身おっ立てて、ずぶ濡れになってりゃ文句なく愛でしょうが…それが相思相愛ってやつです…」
「発情が愛の定義なんですね。なら老人などは若返らせた方が良いのでは?」
まさかの助言である。剣鬼は再びケイを見てしまった。
色欲はいよいよ混乱したように、しかしケイを見て気を取り戻したように調子を戻して話し始める。
「昨日から思ってましたが、テメーは否定しやがらねーんですね。愛を性欲と一緒にすれば怒るやつがこの世界の大部分ですよ」
「別にあなたがどう思っていようが興味はないと言いませんでした?ただ、それを目的にするのならあなたの行動は無駄が多い。なぜ失敗から学ばないんですか?なぜ最適を目指さないので?」
色欲が絶句する。
「なんというか。あなたは空っぽですね。やってて虚しくなりませんか?一歩も目的に進んでいないのに、自分をどうやって騙してるんです?狂ったフリで誤魔化しているんですか?ある程度思考できるくせに。あなたのやり方で人が自身に発情をすることがないことを知っているでしょう」
怒りのあまり絶句するのは本当に初めての体験で。呆然としてしまう。
「この無駄話も時間稼ぎとわかる頭があるのに、それでもくだらない時間に付き合う。今の方法で愛された実績なんてないはずなのにそれを続けている。いやそれとも別の目的でもあるんですか?その方が理解できますよ。それとも、魔女因子というものは対象の価値観とかそういう思考の弱点を固定でもするんですかね」
「つまり、お前は空っぽで、バカだって言ってんだよ」
ブチりと血管の切れた音がする。色欲がケイの形を歪めるために飛びかかるが、それを防いだ燃えるような赤がいる。
「そこまでだ」
時間稼ぎは十分だった。再び剣聖が、降り立った。
間髪入れずに、色欲が飛び立つ。
足を草食獣の脚に変化させ、肩からは翼を展開する。それはかつての逃走の再現だ。
そんなことでは剣聖を撒くことなどできるわけもないが、一応ケイも撃っておく。
何か捨て台詞でも放とうとしていたのだろう。
声にならない無様な何かを叫んでいる口を閉じさせることはできたようだ。
そこに、ただ跳躍しただけの剣聖が追いつくも再び何かが撒かれる。
「っ!またその方法か」
ラインハルトは歯噛みするが、同じ轍を踏むことはない。この囮は無視せねばならない。そう理解している。
しかし、ラインハルトの中の何かが本能のような何かが叫ぶ。
人を助けろと。
事前にケイと話し合ってそれは間違いであると認めている。その失敗をして今状況があるんじゃないか。
あの時倒していれば、今ここで撒かれる人質は存在しなかったのだ。それが揺るがぬ事実であり正しいことだ。
目の前に命がばら撒かれる。これを無視するというのは、何よりの痛みを伴うがしなくてはならない…
剣聖の苦悶の表情にカペラは気分を良くする。
そうだ。こうでなくては。
「いっつもいつも何か起こってから遅れて到着ですかあ!おっせーんですよ。英雄的自慰野郎が!そんなお坊ちゃんのためにアストレア関係のカエルちゃん集めておきましたよ。カペラちゃんたら尽くす女!万年事後男なんかのために!」
そうして勢いよくばら撒かれる小さな生き物。
剣聖の目はそれを捉えて離さない。いや、離せない。
スバルやクルシュなどの人種はそこで思考がなくなる。理性と本能のせめぎ合い自体が起こらないのだ。
これは別に珍しいことでもない。命懸けで誰かを助けようとして成功したり、失敗したりするニュースは毎年報道されている。
だから、今回は別の仕掛けを用意した。
『回収のための策はある。色欲を殺さないなら、私がフラムとグラシスを殺すぞ!』
再びの脅迫である。嘘はバレるかもしれないので今は本気でやろうと思っている。
人質は回収できるという、言い逃れのいくらでもできる言い回し。
色欲を追わなければ身内を殺すという別の脅迫。
そう言われて、剣聖は硬直する。何かを諦めたようにその視線は色欲へ…
しかし、停滞は一瞬だった。体は流れるように動き始める。
ばら撒かれた命を拾うために。
あまりにも強い強制力を伴った何か。
それはクルシュやスバル。善人たちの無意識の行動とはまた別の、まるで何かに操られるかのような動きだった。
まさに、運命の操り人形。いっそ哀れよな。
プリシラがいたならそう評するだろうことは誰もわからない。
剣聖は助ける。
ラインハルト・ヴァン・アストレアは人を見捨てられない。
そのことにラインハルトは自分自身で愕然とする。
それは決まっていることだった。
色欲は逃げる。
カペラ・エメラダ・ルグニカは夜闇に紛れて命からがらに。
失った指の存在にカペラは発狂に発狂を重ねる。
死を意識するのは、この権能を得てから初めてのことだった。
奸雄はまた失敗する。
永井圭は色欲が逃げる光景を見て歯噛みした。
別の人質を立ててもダメか。あれはラインハルトの自由意志とは別の何かを感じる。
それは、危惧していたものを感じさせる出来事だった。
三者の胸中は奇しくも同じもの。
『敗北感』が色濃く渦巻いている。
勝者不在の戦場跡地に静寂が戻る。
だがようやく、ようやくだ。勝ち負けなどはどうでもいい。
短絡的で直情的なバカがすぐに仕掛けてきそうだと思ってはいた。しかし、スバルからの情報により正確に罠を張ることができた。十分な痛打を与えて追い払わねば明日にも響くらしい。今日のうちに色欲を処理する必要があった。
昼間はプリシラを警戒し、治療本番まで奴は動かないらしい。仕方ない。
これでクルシュを救うための準備が本格的に始められる。
剣聖についてもまぁ仕方ない。そういうものなのだろうと学んだ。
次は、フェルトに協力を依頼して本人を見せつけておこうかと本気で検討をしながら思考を切り替えた。
どこまでなら彼が反応するのか、把握しないといけない。
ここから本当の戦いが始まる。スバルすらまだ一度も成功を見届けていない。まだ見ぬ理想に向かう戦いだ。
『人を救う』という困難な戦いが待っている。
その後、ケイがスバルに事の顛末を報告する。
次なる襲撃でこそ、色欲を殺すために。
「色欲は逃げ出した。協力者からの剣聖に人質を取ったという脅迫は効かない。以上が報告だ」
先程まで流暢に対話していたスバルが呆然として、そして周囲を見回す。
沈黙が過ぎるのをケイは待った。だってこれは…
「ケイ…悪いが、色欲をどうするかはもう話す意味がないっぽい。昨日させた準備も…これ以上は変更できない。今は、これでいいんだと思う」
息を飲む。
ロード位置が、今まさに変わった?これ以上はあの会議前に戻れない?
きっと、
この情報が、希望なのか絶望なのかはわからない。それでも希望だけを信じて、これから変えられることに集中し、慎重に相談を始める。
たった一つのゴールに向けて進み続ける。
色欲はこれ空っぽなり