この水門都市に来てからというもの、いやこの一年間と言うべきか。まるで世界がガラリと変わってしまったようだった。
今日の復活劇もまさにそれだ。エルザはまた誰も周りにいないことを確認して大笑いしてしまった。
あまりに痛快だった。カペラが絶対の自信を練り込んだ悪意の塊である『龍の血』どころか本人すら対処しきったのだあの男は!
これが笑わずにいられるか。気分が高揚し、美酒に酔うように頬が紅潮する。
そんなエルザに、隠しもしない荒々しい気配が近づいてくる。
「ふふ、女性が一人でいる時には配慮をすべきと思わない?ガーフィール・ティンゼル」
エルザは上機嫌に笑う。
「はッ。筋通しに来たッだけだ。すぐ消えらァ」
笑みを投げられた虎は、かつてよりも安定して見える。クルガンとの最後の打ち合いで何かを掴んだらしい。
そうでなければあそこで死んでいただろう。生きているのなら強くなったということだ。
強くなったということは。いい事だ。とても、とても。
「幻滅せずに済みそうかしら。それともまだ心残りがあるの?」
「心残りなんてェのは無くならねェ。それは抱えるッて決めた。だからいい。『トラスの背負い投げ』ッてなァ」
「私もちょうど、ようやく母親離れできそうなのだけれど。あなたは抱えることにしたようね」
そこまで語って、もう十分だと互いに理解できていた。
互いは全く違う矜持を持っている。これは身を置く陣営の違いかもしれない。指針とする者の価値観の違いかもしれない。
けれど、どちらだっていい。ガーフィールやエルザは戦士である。戦いに集中できるならなんだっていいのだ。
ガーフにとっての心残りはまだ水門都市にある。それにも区切りをつけて、時間をかけて足場を固めよう。そう思って歩き出した。
「そういえば、あなたの母親とその家族。きっとこの都市を離れるわ。私たちが関わるから、きっとあなたのことも伝わるでしょうね。人から伝えられるのが嫌なら、早めに自分で動いた方が良さそうよ」
口を開けば戦いの愉悦と臓物語りだけの女とは思えぬ発言。そしてその内容にガーフは体が傾く。
「そッちの大将は、なんッつーか容赦なさすぎねェか」
「ええ、素敵でしょう?早いことは良いこと。そうは思わない?」
一応文句のつもりが、通用しなかった。ガーフィールは駆け出した。母の元へ、妹と弟たちの元へ。
自分で思いを伝えるために。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
クルシュ・カルステンは自らの足で傷ついた水門都市を進む。
その足取りは軽く、先日まで自ら死を望むほどの苦痛を受けていたとは思えない堂々たる姿だった。
しかし、完璧とは言い難い。彼女の左腕はその体についているだけだ。
都市の住民たちは、その姿に奇跡をみる。
拝むように、讃えるように、彼女の姿を見送る。本当に跪くものすらいた。
『聖女がその左手を犠牲に、都市のものたちの命を救った』
それが信じられている物語である。
クルシュの左腕は所在なさげに揺れている。その感覚は一切なく、そこに異物がぶら下がっていることを肩が認識している程度だ。
痛みも苦痛も、他の感覚も全てがない。
これはクルシュが捨てざるを得なかったものの一つだ。感謝している。心から感謝しているが、片腕を失うというのはショックだった。朝目覚める度に動かそうとして反応がない事実に愕然とする。
目的の場所に着くと、依頼していた協力者が腰を折る。
「クルシュ様、まずは復帰されて何よりです。その節は…」
左腕を見て、エミリア陣営の内政官オットー・スーウェンは言葉に詰まる。
「大丈夫です。共に戦った仲間でしょう。そのような社交辞令は必要ありません」
オットーは、クルシュの態度に変化を見た。
かつてのカルステン公爵も知っている。
どこまでも真っ直ぐで苛烈。その気迫は見るものを圧倒し、思わず従いたくなるカリスマがあった。
白鯨討伐後の姿は、まさに神話の英雄のようだったとも聞く。
この一年の交流を通して知った記憶を失った後のクルシュはどうか。
無垢で純朴。歪みも汚れも知らない聖女。
その清廉潔白な雰囲気は、聖女と呼ばれるのも納得できた。とても戦乙女と呼ばれるのは違和感があるような人柄だと、そう思っていた。
けれど、そうではなかった。その純朴さをそのままに空を翔けてロズワールと空中戦を繰り広げるまでに至りかつてよりも戦闘能力が向上しているが、心は以前より純真な少女。
ちょっとしたアンバランスさを感じていたが、それはこちらの陣営の長も似たようなものである。他所様のことを言っている暇はなかった。
今目の前にいる女性の雰囲気はそのどちらとも違う。商人の目利きによってオットーはそう感じる。
変な意味ではないが、どこか大人びている。何かを諦め、何かを現実的に選んだ大人の目をしている。
自分の陣営には少ない眼差しでもある。
彼女もこの激戦と、受けた傷によって大きく変わったのだろう。以前は社交辞令にも花の咲くような笑顔を向けてくれたものだが、今は一定に保たれた微笑みでこちらを見ている。
やはり、候補者は騎士の影響を受けるということだろう。いや、間違えた。彼は騎士ではなかったのだった。ケイの存在があまりに大きくなってしまい失言するところだった。
「では早速行きましょうか。時は金なり、ですからね」
「ええ、よろしくお願いいたしますね」
都市庁舎の一角に、体を丸めて何かに怯えるような黒竜がいた。
二人が前に立ち、話しかける。
オットーはかつて、自身の『言霊の加護』を活用して魔獣とも対話を試みたことがある。話にならなかったが、その時でもここまでの恐怖は感じなかった。
これは純粋な竜ではなく、元は人なのだと言い聞かせて自身を落ち着かせた。
オットーの役割は加護による通訳である。
これは、黒竜となったギャレク・トンプソンのカルステン陣営への引き抜きだ。
今回の騒動で十分に理解した。魔女教相手にどれだけ準備していても足りることなどあり得ない。
あれだけの備えと戦力があってこの惨状である。この一年も協力してはいたが、内心考えることは多々あった。
しかし、これを機にオットーは心から同盟への協力を決めたのだった。
「お時間をいただき、ありがとうございます。まずは命の無事を互いに喜びましょう」
同じ色欲の被害者同士の対話だ。どちらがマシかなどという愚か者はここにいない。
「私は提案に参りました。あなたと家族のこれからについてです。混乱と傷心の中でこんな話をすることは卑怯かもしれません。けれど、時は一刻を争う。どうかお聞きください」
黒竜となったギャレク・トンプソンは若き公爵に首を垂れてその言葉をまず聞こうとしている。
「感謝します。まず報告です。昨日の深夜に色欲が再び我が陣営の拠点を襲いました。複数のミーティアと腹心の部下を伴っての奇襲です。彼女はメイドに化けて我が陣営の頭脳たる書記まで肉薄しました」
黒竜は息をのむ。その動作一つとっても竜の息吹の前触れに思えて、常人を恐れさせてしまう。
それでもオットーは平静を装って翻訳を続けた。
黒竜の代弁をオットーが行なっている。
「一体、それでどうなったのですか?誰か犠牲者は?」
「こちらの被害はありません。物が壊れた程度です。メイドも対策によって無事でした。色欲の配下は倒され、一名はこちらに投降しました。ミーティアは破壊され、再利用は不可能であると復元師からの言葉もいただいているようです。色欲は逃亡しましたが、彼女が失ったものは大きい」
「それは、よかったです。何よりだ。でも、なぜそんなことを私に?」
「私の陣営は、色欲の攻撃から人を守ることができます。それを伝えたいと思い先の話をさせていただいてます。ここからは、単刀直入に言わせてもらいますね」
クルシュの双眸が、黒竜の大きな瞳を捉えている。
そこに恐れはない。気負いも、緊張も。そこにあるのは別の強い感情だ。
「当家への協力を願います。あなたの力が必要です」
黒竜は動揺した。まさか英雄たる公爵に直接そんなことを言われるなんて。
「それは、それは私でなくてもいいのではないですか?今私は何もできる気がしません。この体になって、頭が変になりそうなんです。食べたいものも変わっている。体に心が引っ張られているようで、不安なんです」
当たり前だ。そうなるに決まっている。彼は戦士ではなかった。善良な都市庁舎職員だったと聞いている。
「では、凍結を望むと?いつか誰かが救いをもたらしてくれると信じて」
「ええ、それしか。それくらいしか私にできることなんて…」
クルシュは、自らの左腕を右手で持ち上げて見せつけた。
「これは色欲より受けた呪いです。私の左腕は失われたどころか、隙を見ては私の全てを飲み込もうとしている。対策が不足すればまた飲まれます。何も感じないのに、まだ痛むんですよ。痛覚もないのに。幻の痛みがずっと私を苛んでいる」
だから、なんだというのか。気の毒だが、それに同情する余裕はギャレクにはない。
「あなたに、私の左腕になっていただきたいのです。自前の翼はありますが、ぜひ翼にもなってほしい。あなたにはそれができるはずです」
「いや、そんな…そんなこと。戦いは恐ろしかった。怖かったんです!体を変えられる苦痛は、二度とあんなのはごめんだ」
「ええ、色欲とまた戦うことになるかもしれない。今度こそ、殺されてしまうかも。次はハエや獣に変えられてしまうかもしれません」
「なら、あなたならわかるでしょう!あの大罪司教とはもう会いたくない。二度と、絶対に関わりたくないんです!恐ろしいんだ…体が震えて止まらないんです」
クルシュは一度目を瞑り、思考を整理して覚悟を決めた。
左腕は捨てた。そして、今ここにはもう一つ大事なものを捨てに来たのだった。
クルシュは自身の、柔らかで人を思いやるそんな親切心の衝動を。それを捨てる。
代わりに纏うのは、合理の鎧だ。人を救うために人をただ想うことをやめる。
最後に救いたいという願いは変えない。けれど、もう心のままには動けない。あの失敗だけは二度とできない。
「ええ。色欲は恐ろしい。だからこそ、彼女を討ち滅ぼさねばならない。彼女は執念深く、狡猾で、こちらの嫌がることをこそ進んでやります。彼女が一体何をするのか、想像できますか?」
答えはない。想像なんて…あんな狂人の何も理解したくない。
「彼女…いえ、あれは裏切りを嫌います。配下だったものの裏切りには制裁に動くでしょう。そしてもちろんそれは、あなたにもです。あなた自身はきっと狙われない。狙われるのは常にその人の大切で弱い部分」
黒竜が怒りに吠える。その声に翻訳は必要ない。認め難い現実を否定したいのだろう。
「ええ、気持ちはわかります。けれど今あなたが私に何を言おうとも、色欲は変わりません。あれと戦い大切な人を、家族を守りたいとは思いませんか?」
それはある種の脅迫だった。事実を並べ、恐怖を煽る脅迫だ。
「色欲に消えぬ傷を負わせて、その影響力を削ぎ、無様に敗走させる。それを二度も行っているのは当家だけです。これは契約です。あなたの家族を守ります。だからあなたの力を貸してほしい。あの色欲を、許すことなどできないでしょう?あんな理不尽。絶対に許せないでしょう!」
黒竜が大きく揺れる。先ほどの恐怖は、別の感情に塗り替えられていく。
それは、目の前の女傑から伝播した『怒り』だ。
クルシュ・カルステンは心の底から怒っていた。
オットーが感じた差異はここだ。彼女は極めて冷静に怒り狂っている。
「このままあなたが氷の中で眠り、家族は水門都市でどうやって生きていくのですか?その間に子供たちは成長するでしょう。起きたら100年後だったということがあり得ないとでも?こうやって意思の疎通ができるのです。家族と離れる必要はありません」
黒竜は、最後の最後。最大の恐怖を告白する。
「もし、もしですよ。私が黒竜になりきってしまったら?もし家族をこの牙と爪にかけてしまったら?そんなことは…」
「そんなこと、この私がさせません。私はすでに4頭の竜と戦いその2体を討ち取り、2体を撃退しました。あなたには決して負けません。必ず殺して見せると約束しましょう」
かつてのクルシュではできなかったであろう殺害の約束。
それをもってギャレクの心は決まった。
彼の家族はカルステン領に移動され、共に暮らせる家を用意されることになる。
もう一頭の逃げた竜となった人物は、戦いの精神的な外傷が重くとても同じことはできそうになかった。彼はエミリアによって凍結されることとなった。
これによりカルステン公爵は『竜の巫女』の名前を独り占めにすることとなる。
他の候補者とは一線を画した意味が込められたその呼び名は、あまりに衝撃的な物語として語られ、目撃されていく。
その噂は、異常な速度で広まっていく。
ケイがこの一年で築いた吟遊詩人、旅芸人による郵便ネットワーク。それにカルステン家にとって有利となる情報を載せて広げさせていくのだった。
同時に広がり、そして流行った物品がある。
『親愛の指輪』と呼ばれるものが王国どころか、世界で流行することになる。
それもごく短時間のうちにだ。
それは、ケイとプリシラの日食の如き奇襲から生まれた産物だった。
色欲が失った左手の薬指。そこに大切なもの同士指輪をつけるのが、互いの確認手段となっていく。
そして指輪を贈る行為が、すなわち家族になろうという意思表示になっていき。婚約の際のプロポーズの一つとして根付き始める。
流行らせたのは『氷炎華』のフローライン家だ。すでに婚約や告白における贈り物としての一定のブランドがあり、それを当代の娘が発表する形にして次代の流行を作らせた。
なぜなら賢人会推奨の様式であるからだ。装飾職人に壮絶な量の仕事が舞い込み新たな利権に人が殺到するのはまた別のお話である。
人を捨てて進む『黒竜』。
優しさを捨てて進む『竜の巫女』。
左手の薬指を捨てさせられた『色欲』は果たして進めているのだろうか?
クルシュは遠い空の風を眺め、敵意をもって微笑む。
これが憎しみだろうか?いや、違う気がする。
あの暴虐を誰にも経験させたくない。だからあれを殺す。それだけだ。
強い使命感と透き通るように純粋な怒り。そして抱えきれぬほどの感謝を胸に飛び立つ。
黒竜と共に『黒翼の戦乙女』は空を舞い、救ってくれた自分だけの英雄の元へと翔けていく。
「うまくいったようですね。お疲れ様です。クルシュさん」
「ケイ、あなたは以前の私が記憶を失って今の私になった時呼び方を変えてくれましたね」
彼は怪訝そうな顔で眉を歪める。やっぱり質問の意図が読めないらしい。
「ええ、まぁそうですけど…」
「私はさらにもう一度死にました。これは事実です。なら、また呼び方を変えるべきとは思いませんか?」
反論がやってくる。風を読まなくてもそれくらいは手に取るようにわかる。
だから、不意に彼の手を取ってその反論を黙らせた。
「クルシュと呼び捨てて構いません。主からの命令と受け止めてもらってもいい。これは絶対です」
相手の了承も待たずに願いを押し付ける。もう遠慮はない。遠慮なんてしてられない。
「今後は我慢はしないことにしました。だって、人生はいつ終わるか、終わらないのかわからないのだから。これはあなたが教えてくれたことなのですよ」
その確固たる信念が燃える瞳を見えれば、抵抗が無意味であるとケイは悟った。
「……努力は、しますよ。はい。いや、わかりましたって…」
多くの失敗と少しの成功。多くを捨てて前に進むものたちは否応なしに変化していく。
人はそれを成長と呼ぶのかもしれない。
これにてようやく水門都市編が終了です!
お付き合いいただき感謝っ!
みんな感想と評価待ってるぜ!!
ひとまず明日からは間話にまた入ります。郵便ネットワークとかなんだよって思ったでしょ。ケイ君の一年のやることリストにはあったんですよ。間話『第四権力編』などなどをお楽しみに!
xでは創作にあたって考えてることや、裏話を呟いたりもしてます。よければぜひ!
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