水門都市よりもずっと前、正月をやってみた後のこと。
ケイが王都に寄り付かなくなったきっかけである通称『四大令嬢事変』が発生した。
それ以降カルステン陣営が王都滞在中にはケイが身を隠すのが常になっている。
目立たぬその隠れ家に、訪問客があった。
それに合わせて、クルシュもこのセーフハウスに詰めている。
緊張を完璧に隠したローズは泰然と佇んでいる。あくまで彼女はカルステン家に忠誠を誓うものとしてこの場に参加している。
実の娘がこの世界を動かす英雄たちと面談をするからと言って、彼女は無様を晒したりはしない。事前に準備は死ぬほどしてきた。その努力と娘のことを信じるだけだ。
朝の柔らかな陽光が差し込み、髪をまとめる装飾が光る。その『氷炎の華』を身に纏うその姿は社交界であれば一目で誰かわかるだろう。
リリシア・フローラインは、清楚な淡いクリーム色のドレスを纏い、繊細なレースが彼女の華奢な体を優美に包んでいる。彼女の水色の髪はきちんと整えられ、その瞳には静かな知性が宿っている。若くして男爵家を受け継いだ才能に嘘はないらしい。自信に裏打ちされた佇まいが彼女の品位を際立たせていた。
公爵の執務室に案内されたリリシアは、深く一礼すると、静かに息を整え、丁寧な所作で公爵に向き合う。
この国で一番王に近く、特別な英雄だ。
「はじめまして、公爵様。リリシア・フローラインと申します。この度、お目通りを賜り、大変光栄に存じます」
彼女は顔を上げると、クルシュを真っ直ぐに見つめるが、決して威圧的ではなく、むしろその瞳には敬意と穏やかな温かみが漂っている。
「母がいつも公爵様のご英明さとご寛大さへの敬愛を話しておりました。そのお話を伺うたびに、私もこのような機会をいただける日を心待ちにしておりました。どうぞ、至らぬ点がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。『氷炎華』の名にかけて最善を尽くし続けることを誓います」
最上の礼と誓いを受けて、公爵は微笑む。
「ええ、頼りにしていますよ。リリシア。それと、そう硬くならないでくださいね。ローズにはいつも助けられています。こちらからお礼を言わなければいけない程でした。これからもよろしくお願いしますね」
挨拶が終わり、即座に本題へと進むリリシア。それは通常貴族の作法としては非礼とされる言動だが当然ローズが指導している。その簡潔さを見たからか、後ろに控えていたケイが初めてその目をリリシアに向けた。
黒い瞳は冷たい知性を窺わせる。ゾクリと悪寒が走ったのはなぜだろう。彼が多くの人間の命運を握っていると知っているからか、この王国の趨勢すらも左右すると予想しているからだろうか。
母であるローズからは、彼と関係を悪化させずに仲を深めることこそが現在のルグニカにおける最重要の仕事であると念押しされている。最初は何を言い出したのだと、白鯨討伐の熱にやられておかしくなったのかとも思ったものだ。
その後の狂ったような実績を一年も経ずに積み上げ続けた結果を見れば、母の慧眼には頭が下がるばかりだった。やはり武人としても貴族女性としても一流だ。どうにか一人前と認めてもらわねば。そう思って努力してきた。
兄と父が大征伐の際に白鯨に殺されて、姉はすでに嫁いでしまっていた。そこから母が当主としてフローライン家をどうにか切り盛りしてきたが、当主と次期当主を失うというのは貴族家にとっては廃絶すらありうる異常事態だ。
母と私、必死にやってきたその結実。そう言ってもいいのかもしれない。
クルシュ・カルステン公爵と王選を裏で操る頭脳、ケイと呼ばれる謎の書記官。この二人と私的な面談を行うことができることがどれだけすごいことか、王都の貴族ならわかる。これはどんな大貴族であっても難しい特別扱いだ。
このケイという人物は特に気難しく、多くの令嬢から狙われ続けてついに姿を現さなくなっている。
彼はヴォラキアの皇弟でないことは母から聞いているが、平民と言われてもこれまた信じ難かった。
普通は男爵家当主と平民が出会えば平伏し、恐れるのが当たり前だ。
王候補の公爵ともなれば顔など上げられないだろう。その横で、対等な顔をするなど他国の王族でもなければあり得ない。
それが当然の分析だ。しかし、そこから当家は一歩踏み込んだ情報を得ている。
この違和感の回答は、彼が大瀑布の向こう『異世界からの来訪者』であるという突拍子もないものだ。これまた母を疑ってしまった。もう何度目になるかわからなかったが、仕方ないだろう。
しかし、荒地のホーシンのごとくこの世界の貴族社会を、経済界を、武人たちを変えて成したことを踏まえればむしろ異世界人であるという方が納得できる。
彼が成したことはヴォラキア皇族などでは説明ができない。冷静に考えればわかることを皆がみんな、想像が及ばないばかりに気づかないフリを続けている。無意識にだ。
そんな彼には貴族の作法など一切好印象を与えない。だから、相手の流儀に完璧に合わせてきたのだった。
「すでに当家及び、傘下の職人たちからの提案はご覧いただいたかと思います。その件について、詳細を相談させていただきたくお時間をいただきました」
今回の提案は、カルステン陣営の功績やクルシュ様の威光を、装飾として社交界にも浸透させるのはどうかという提案だった。彼の計画では、貴族や商人、民衆への『ぷろぱがんだ』なるものが予定されていると聞いた。
それをこちらでも助力するというのが、今回の内容だ。
そしてそれは事前に資料にまとめて提出してある。
貴族としては暴挙とも言える非礼、思わず冷や汗をかいたがそれこそが彼の求めることだと言う母の助言に従った。
クルシュはケイに目配せをして最後の確認を行い、そしてリリシアに向き直る。
こういった所作が貴族社会にあらぬ噂を巻き起こしているのだ。おそらく意図したものだろう。
「カルステン家のお墨付き。それを与え、新たな装飾を着飾ることに問題はありません。ただ、少し時期を待ってほしいのです。これは極秘の話でありましたがあなたには話しましょう。我々はカララギ都市国家より招待を受け、訪問をすることとなりました。そこで状況が変わるかもしれません。その結果を踏まえて制作を依頼したいと思いますので、それまで生産施設の拡充や職人の確保などをお願いします。損はさせませんから、ご安心くださいね」
絶句する。それは、実質的には国の代表としての扱いである。カララギ出身のアナスタシア様を差し置いて?それはもはや、王選の勝利に等しいのでは?
「そ、それは…おめでとうございます。その旅路が良いものになるように、微力ながら協力させていただきたく」
王への敬意を込めて跪く。
「職人たちの引き抜きは敵を作っても構いません。今の我々にはどうとでもなる。むしろ、初期にいくつか抵抗した工房を潰せば後が楽になるでしょう。こちらについた職人たちには平均以上の待遇を約束してください」
これがケイ様の基本戦略。『飴と鞭』ならぬ『金と槌』だ。
抵抗したものは叩き潰し、恭順したものには金を与える。これが一番早いと思いますと言う彼からは人間性というものが感じられない。
ここまでであっても、最高の結果である。
しかし、リリシアの緊張は高まるばかり。ここからが本番、決戦なのだ。
戦いとは準備の段階でその勝敗は決まっているとケイ様は言った。
それは正しい。だから、事前に整えるだけ戦場を整備した。味方を増やした。敵を排除した。
ここに一の騎士であるフェリックス様はいない。ケイ様は彼のことが苦手であって、よく母に追い払うことを依頼するらしい。今回もその一環で、彼の意思でフェリックス様を遠ざけることができた。
ケイ様はすでに話は終わったつもりのようで、その目は中空を見つめて別のことを考え始めているようだった。
リリシアはその様子に一切の手応えを感じないが、クルシュとローズの見解は異なる。
よしっ!めっちゃ機嫌いい!!
ケイは上機嫌であった。これまで行った貴族との対談でここまで有意義で短時間に済む経験はない。素晴らしい仕事である。クルシュが王になったなら、こういうやりとりこそを模範にすべきだとも思っている。
素人には判別ができないが、この無表情は最高に良い方の無表情だった。
会議が始まるまで何を語るのかわからない。結論を出すのは2週間や1ヶ月後。そんな仕事をケイは嫌悪していた。
「恐れながら、もう一点だけご相談がございます」
おや、と視線を戻すケイ様。ここにきて事前説明なしの話かと。そういった圧力を感じる。圧力が高まるごとになぜか感じる温度は低くなるようなそういう圧だ。
すぐに弁明を行いつつ、本題へ切り込む。
「こちらもすでに一度説明させていただいている内容でございます。ケイ様の婚約についてです」
ケイの表情が曇る。眉間に皺が集まり、露骨に警戒が上がった。クルシュに目配せをして中断させようとするも、クルシュ様は取り合わない。母に非難の目線を送っても穏やかに微笑むだけ。
そう。すでにこの戦場においてはケイ様の味方はいない。厳密には全員が味方なのだが、彼は孤軍である。
「へえ。準備はできているようですね。じゃあ聞かせてください」
まるで敵と相対するような怜悧な声が響く。
リリシアは声が震えないようにあらゆるものに祈りを捧げて、言葉を紡ぐ。
「少し前のあの件。社交界では『四大令嬢事変』などと呼ばれております。あんな面倒はもう避けたいのではありませんか?」
苦虫を濃縮したような一滴を舌に擦り込まれたような苦渋の表情でケイはそれを肯定する。あんなバカみたいな出来事を避けたくないなど、嘘でも言えるわけがない。
「ええ、まぁ。あれは、最悪でしたね。あのバカ四人には二度と会いたくありませんよ」
しっかりと最悪の記憶として刻まれているようだ。ならきっと成功の目は増えている。
「彼女たちはまだまだ諦めておりません。あの時の戦いを踏まえてさらなる争いに発展する気運すら感じます」
ケイにはそれが理解できない。あれほど明確に拒否をしたというのにその意味がわからないのか?さらに戦線が拡大するなどケイの想定外すぎる。
「クルシュさん。やはりもう王都は捨てましょう。カルステン領を新たな首都として栄えさせるなんてのも不可能じゃ…」
思わず前頭葉を経由しない脊髄からの言葉が出た。これは本心である。
「ケイが冗談を言うなんて、本当に珍しいですね。しっかりと私が訂正させてもらいますが。それは無理ですよ。理由はお分かりでしょう。そして、貴族令嬢たちの家を潰しても無意味ですよ。また新たな令嬢が現れるだけ。お分かりですね?」
まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように、クルシュがケイを諌める光景というのは非常に珍しい。
「そこで、改めて提案です。私と婚約しフローライン家としてしまえば全ての雑事から解放されます。そして期間を設けましょう。それは、王選が終わるまでの間です。そこまでが終われば、ケイ様も貴族社会に配慮する必要はなくなる」
ケイは怪訝な表情で、これまた理解不能という顔をリリシアに向ける。
「ええ、まぁ。でもあと二年ちょっとですよ。流石にそんな婚約なんて親族が認めないでしょう。外聞も悪くなるのでは?王選から離れることはできませんし、王になった後にこそ僕のやりたいことがある。結婚して離脱というのは良くないでしょう」
「ええ、確かに。平民と婚約し婚約解消。もしくは離婚されるなど、そんなことが起これば我がフローライン家の名声は地に落ちます。それも事実です」
「ここからの提案はすでにクルシュ様にも合意をいただいております」
息を吸って、吐く。そして強い眼差しで相手を見据えて切り札を切った。
「それは、一度ケイ様がフローライン家に入ったのち、王となったクルシュ様にフローライン男爵として王配に抜擢いただき、そして私は王配の側室として扱っていただくというものです」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ケイは口を開けて言葉を失う。思考が止まる。
この世界に来て一番の不意打ちを喰らった。結果、何も考えられなくなった。
感情が、直感が。そんなのはおかしい。と叫んでいる。
しかし、理性と知識と論理が、一理あるなと納得しつつある。
貴族の婚姻におけるステップアップ戦略が存在することはいくつか知識もあった。まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかったホコリを被った知識であったが自分ごととして参照にする羽目になるとは。
メディチ家は有名であり、フランス王家もこのような話題には事欠かない。スウェーデンの貴族社会にはマルタという女性がおり、彼女は平民出身ながら、裕福な商家の家柄を背景に地方の小貴族に嫁ぎ、その後、さらなる影響力を持つ家系と結婚することで、最終的に王族と繋がる地位を築いたものもいたはずだ。
尊い身分ゆえに叶わぬ婚約を、別の貴族家を踏み台にすることで達成する。それはこの世界でも珍しくはあるが先例はあることだった。
言葉を失ったまま、クルシュを見る。そこには凛とした公爵はおらず、モジモジと自身の髪をいじって明後日の方向を向き、ボソボソと何事かを呟く少女がいた。
「私は、最終的にケイと一緒にいられるならどんな形でも良いのですが。王選期間中のあなたの負担を軽くできるなら、悪くない提案かと思いました。王選が終わるまでどうなるかなんて分かりませんし!」
ローズを睨むと、ようやく口を開いた。どうせこいつが黒幕だ。悪くない提案だからこそ厄介だ。
「これは、あくまでケイ様のためを思っての気遣いが出発点の策ですわ。その上で関係者が皆で幸せになれる。全力で考えた結果がこれです。何か不備があればご指摘くださいな」
不備、欠点。問題点は…
思いつかない。いや、あった。とびきりの問題点だ。
「フローライン家は僕が元の世界に戻ろうと構わないと言っていましたね。でも流石に王配ともなればそうはいかないのではないですか?責任を抱えたなら、放り出すなんて真似はしたくないんですが」
「ええ、そうですわね。けれど、改めて聞かせてください。ケイ様は、元の世界に戻りたいのですか?」
…?何を言っているのだこいつは。
「何を今更、僕の目的は変わりませんよ。だからこうして活動しているんです」
ローズはその目を離さない。動揺もない。まるでこの問答が想定通りと言うようで…
「ケイ様の目的は、『妹様の治療』ですわね。元の世界への帰還は、手段であって目的ではありませんわ。そうでしょう」
それは…その通りだ。ケイにとって不本意な流れは止まらない。
「元の世界でも機能する治癒の魔造具。その開発が少し滞っていることは知っています。治癒魔法は術者の想いがこめられてこそ発揮する。治癒を実現するミーティアの探索も芳しくありませんわね。現実的なのはルグニカの至宝。『龍の血』ですが、これは王となれねば手に入らない」
現状の事実を並べられる。だから、どうしたというのだ。ダメだ。この手の話題になった途端に思考が空回りしてまとまらない。予想ができない。
「全てうまく行った時、ケイ様が治癒の道具を持って帰還するのが、本当に最善だと思いますか?」
それは、そうだろう。それ以外に…
「いいえ、ケイ様はあまりにご自分で全てをなさろうとし過ぎです。仕事においては見事に分担が機能していますが、特に私的な問題に他人を関わらせるのを避けていますわ」
「例えばですが、治癒道具を持った私がそちらの世界に向かうのと。ケイ様が向かうのは、どちらが最善ですか?ええ、そうですわね。事前にそちらのことを学んだ上で私が行った方が良い。それどころかフェリスが向かうことができるならそれが最善でしょう」
せっかくできた魔造具も、龍の血も。元の世界で機能するかはわからない。ならば用意できる治癒の手法は多い方が当然良いのだ。ケイはその点、無力である。フラッド治療なんて最終手段をするにしても、ケイなんかより中野を使ったほうがいい。その方が絶対に楽だし安全だ。
「妹様のことを想うなら、あなたが元の世界に戻るのではなくこちらに残って治癒の魔法を送る努力を続けた方が良いのではありませんこと?または、一度こちらに妹様を招いて、治療をして帰すというのも手ですわね」
「その場合には、クルシュ様が王であり、ケイ様は王配である状態が最善であると熟考いたしました。さて、長い時間をかけて練り上げはしましたが、所詮は無力な淑女の想像ではあります。何か見落としがあればご指摘くださいませ」
ローズは誰よりもケイの手法を、戦いの流儀を間近で学んでいた。
準備を整え、勝てる時に奇襲して、一気に制圧する。
それを自身がやられることもまた、自業自得、因果応報と言えるのだろうか。
ローズの予言通りに令嬢たちから攻められて、精神的にもかなり限界に近い。懸念が全てクリアされたその魅力的とすら言える提案に身を預けた方が良いのではないか。
理性が受け入れろと叫んでいる。
感情がどうにか避けろと叫んでいる。
絞り出したのは情けない一言だけ。
「カララギから戻ったら、決めます。ちょっと考えさせてください」
保留かよ…しかも長いな…
女性陣はそう内心で思うが、表には出さない。
ケイは詰みを打たれて、待ったをどうにかかけただけ。一手戻しなどは認められない。
これまで避け続けていた問題と向き合う時がすぐそこまで来たようだった。
一旦、現実逃避のために動物たちの世話へとそそくさと向かう。その背中は、今までで一番小さかった。