暗い世界ーー眩しい白が染み出した。
冷たさが/寒さが脱げ落ちていくと同時、暖かいなにかに包まれる。
感情/感覚が、自分というひとつの存在を意識し始める。
何も覚えていなかったことが嘘だったかのように、明瞭に刻まれていく一つの記憶。
途切れることのない何十ものプロペラ音。
何度も浴びせられた油の混じる波しぶき。
やがて、焼けるような熱さが身体を貫いて。
数多の視線を知覚する。
あるのは一隻のボロボロになった駆逐艦。
ある者は拳を甲板上に叩きつけ、ある者は手すりから大きく身を乗り出しながら。
悔しそうな男達を知りながら……爆音。
唐突に記憶の再生が停止した。
それと時を同じく、揺れることも沈むこともない土の大地に足がついたのを自覚する/人間のように/自分が人間としての形を得ていることを受け入れる。
自分が生まれた時に感じたオイル、鋼鉄……そして何よりも、潮の香りを知覚する。
自然と頭の中を満たす、これからのやるべき責務。
目を開ける/自分が生まれた世界と向き合うために。
明るさに双眸を細めながら、認識ーー茫然と己を見つめる軍服/己が知るものと僅かに異なるソレに身を包んだ1人の青年=己の主とそばに控えるひとりの娘。
自然と頭に刻まれた知識と記憶の齟齬を鑑みて、
「不知火です。ご指導、ご鞭撻よろしくです。」告げる言葉は明瞭に。
不知火は鎮守府に着任するのであった。
2200
夕食後から作業を開始して数時間。それでも山の形を維持する書類達。
訓練計画から補給物品の申請、総監部への報告、広報の依頼etc.。多種多様な書類を起案・浄書し、決められた時間に出さなければならない書類を割り振り片づけてーー。
今日中には終わることのできそうな量になった書類を見やり、不知火はようやく息を吐き出した。
着任から7日/秘書艦の任に就いて早3日。
前任者からの申し継ぎを受け、初めて秘書艦として臨んだ職務内容は、あやふやなものから確かな知識へと定着し始める。
机の脇に置かれた冷たい湯のみ。
ぬるくなったそれを一息に飲みほすと静かに立ち上がる。
眼前。黙々と机に向かう主人に気づかれぬまま、執務室に置かれた急須まで10数歩。
茶葉を入れ替え湯を注ぐ/2つの湯のみを煎茶で満たし、10数歩。
机を挟んで向かい合えど、己の存在に気づくことのない主人に向けて不知火は湯のみを滑らせる。
静寂。
机に広げた海図を前に、眉間にシワを作る男へ不知火は申告した。
「司令、おかわりをお持ちしました」
「……ああ、ありがとう」
笑顔で返し、男は身体を解すように大きく伸びをする。
「すまない。また気づかなかった」
「余計なことかもしれませんが、根を詰めすぎです」
苦笑。「今日中に編成を決めないといけない案件があったからね」
送る視線。小さな島が点在し、それらを縫うように航路が伸びる南西諸島を記した一枚の大きな海図。
日本へ資源を送り出す血管/航路には艦娘の名前が刻まれたネームプレートが添えられる。
「やはり、司令は変わっていますね」不知火。海図と提督を交互に見比べて。
「もう慣れたよ」提督。頬を掻き、逸れた視線は海図上。
前線とは違い、砲火を交えることがわずかな後方域。そんな敵が出るとは限らない場所に2人から3人の艦娘でひとつの隊を編成し、哨戒監視任務や大型タンカー、商船を護送する。現在の鎮守府に所属する多くの艦娘が駆逐艦であり、正面からの殴り合いを可能とするのは一個艦隊のみの偏った編成。
艦隊決戦に力を傾注する者が多い中で、提督の部隊運用方針は、時に臆病者と揶揄される異様なものーー海上護衛。
「ですが、不知火はそんなことを考える司令は嫌いではありません」静かな声で淡々と。
「かつての戦争で帝国海軍が負けた理由の一つに補給を軽視したことがあります」
咄嗟に合わさった視線を気にせずに、
「油の一滴は血の一滴と言いながらも、油を積んだ多くのタンカーは簡単に沈められ、油が無くて動けない不知火達はただ見ていることしかできませんでしたから」投げかけるのは肯定の言葉。
たとえ一隻の駆逐イ級であろうとも、その攻撃からただの船舶が身を守る術は多くない。
先の大戦、日本は東南アジアの資源地帯を確保したものの、無事に油を送り届けることができたのは油送船の3割にも満たないとも言われている。
航空爆撃で。
潜水艦の待ち伏せで。
資源を外から運び込まなければ成り立たない日本を嘲笑うかのように、米国は海上交通/輸送・商船を徹底的に破壊した。大戦中盤以降は制空権すら握られ、軍艦を含めた多くの船舶が、日本に戻ること叶わず沈められている。
「商船乗りの祖父が散々に愚痴ってたからな……それもあるよ」照れは謙遜へ。
先人の言葉/学ぶべき教訓だ。
短期決着を目指した前回とは異なり、深海棲艦との戦いは終わりの見えない自給戦/消耗戦。
深海棲艦がどのような意図/戦略を持って行動しているかわからない以上、言葉を交わし、講話を結ぶ道は選ばれない。故に、先の大戦のような国民全てが干上がるという歴史の繰り返しは避けなければならないことであった。
「例えきっかけがそのような理由であっても、誹謗中傷に折れることなくその道を曲げない事を尊敬する者もいると思います」謙遜には更なる賞賛を。
数は少なかろうが、その意を認める者達の支援のおかげで鎮守府の方針が今のままであり続けられる。
一拍。
沈黙してしまった提督に、不知火は更なる言葉を投げかけるのであった。
「最初は司令のことをただのロリコン変態野郎と思っていた不知火をお許しください」
賞賛からの反転だった。
呆然と見つめる提督に向けて、不知火は頭を下げる。
「……そこまで思っていたのか」
諦観の混じる絶望を絞り出すかの声に、
「その理由を……答えるべきでしょうか」
不知火ひ背を向け己の机へと歩き出す。逃げ出すように。
呼び止められることもなく/返答もなく、提督の沈黙を肯定と捉えた不知火は口を開く。
「不知火が着任した瞬間に抱きついて頬ずりなるものを行いました」
「それは……ぬいぬいが着任したことの嬉しさに歯止めが聞かなかった」
「『ぬいぬい』などというふざけた呼び名もそうです。不知火が異議を唱えて名前で呼んで欲しいと頼んだ日には、半日部屋に引きこもっていましたよね」
「ぬいぬいと……早く仲良くなりたかっただけだ。愛称って大切だろ」
「不知火の居室を案内して頂いた時には、既にぴたりとサイズの合った服が用意されていました……下着と共に」
「……運命的だな」
「そんな変態な司令を誰が支えているのかと思って所属名簿を見ればほとんどの艦娘が駆逐艦」
ゴミくずを見るように。
「説明を求めようとしたとき、ちょうど司令は駆逐艦の娘達と一緒に鬼ごっこに興じておられました」
ダニを/害虫を見るように。
「子どもって、無邪気でかわい「鬼になった時の司令の表情はとてもおぞましいものでした」……ごめんなさい」
それ以上は語るまでもないと息をつくと静かに席につく。
一瞥。「不知火に何か落ち度でも?」
「ありません」
執務室に静寂が訪れた。
「司令」
不知火はぽつりと言葉を吐き出した。
「どうした?」
どんな言葉も甘んじて受け入れる。そう言いたげに深々と椅子に沈み込んだ提督に向けて、
「少し言い過ぎました。いつもでしたらまだヘラヘラとしていらしたので」
「どんな奴にも限界ってのはあるんだよ。そういえば、着任した艦娘にはよくロリコンですかと聞かれてたなー」
子どもは好きだからしょうがないんだけどーーと乾いた笑いとともに提督は仕事を再開する。
「とりあえず、心の中で思われるだけより、正直に言ってもらえたほうが有り難いよ。俺は人の機微に疎いから」
「同意します」投げやりな言葉には即答を。
「相変わらず不知火……ぬいぬいは手厳しいな」
「それが、不知火です。不知火はまだまだ未熟者ですが」
「ぬいぬいの歴史を考えたら、俺のほうがまだまだだよ」
海図上の手を止め視線は一点に。
自然と握られた拳の力を抜きながら、
「提督になってそれなりにやってきた自負はあるけど、本当に相手が何を望んでいるのか。提督として、俺自身として、何を与えてあげれば良かったのか。すべきだったのか。今でもわからないことがある」
心を落ち着かせるように湯呑みに手を伸ばし、一服を。
黙って耳を傾ける不知火に、
「俺も未熟者だ。苦労かけると思うけど、宜しく頼むよ」
提督は小さく笑う。そこにあるのは、己を否定して/他者を持ち上げる=誇りのない笑顔。
無機質な秒針と作ったような笑い声をかき消すように、
口調は強く。「少し宜しいでしょうか」不知火/仕事の手を止めて、
「まだ不知火は着任して間もないですが皆の反応を、態度を鑑みれば、提督が未熟者などとは思いません」語る瞳は真剣に。
「過剰評価だよ。ただ、そう思ってもらえるのはありがたい……かな」受けとめてーーそれでも視線は窓の外。
「司令」不知火/逃げるような瞳を呼び戻す。
「……なんだ?」
「司令がなぜそこまで自分を低く評価されるのかはわかりませんが、不知火はそんな司令に我慢なりません」
「……と言われてもな。俺のせいで轟沈させてしまった奴もいるんだ。轟沈させてしまうような俺はまだまだだ」参ったたとばかりに口が閉ざされる。
「それが必要である時でしたら……任務として轟沈もやむ終えません」
任務で/戦闘で求められることは、どれだけ相手を沈めたか/自艦の被害を極限したかだけではない。任務/戦闘の目標をどれだけ達成できたのかが大切なこと。
「ですので、司令が自分自身を卑下する要因にはなりません」
「俺は君の最後の艦長のように強くはない。だから未熟なんだ。片手の指の数にも満たない君たちが沈んだことがわりきれない」
「不知火達は『艦娘』です」
人ではない艦娘。
「そのことは、わかっている」
「わかっていません」
今の提督に、不知火の最期の艦長が下した決断を実行できる自信はない。
必ず起こり得る敵襲の恐れを省みず、助けられる可能性が僅かでもあるからと単艦で味方の救助に向かわせる決断が。
自分の艦を/艦娘を死地へと送る覚悟を今の提督は持ちえない。
護送任務で派遣している艦娘達も、後方だからできているのではないかーーそんな心の囁きに否定できる術はない。
「では、言い換えます。不知火の司令が未熟者であって良いはずがありません」 声音に混じる怒気を感じ、ぼんやりと提督は考えつく。最期に不知火と共に沈んだ艦長は/乗員達は、助けようと動いたことに誇りを持って逝ったのだろう。
「司令は自分の艦娘を死なせることを避けるために護送任務を行っているのですか?」
「それはない!」とっさに出る言葉=故に続かない。
艦娘達の力量と多数のデータが詰まる海域状況を鑑みた護送部隊の編成。
新たな敵と出会うこともなく、リスクは前線よりも遥かに低い。
「何が違うと仰るのですか?」
「いや……違わないな。けど、海上護衛を考えて部隊を作った時は違うんだ」
失うことの恐ろしさを知らなかった。あの日。
自分なら、皆がいるなら誰一人欠けることなく絶対に成し遂げられると信じられていた。
「ですが、今の司令の考えでは海上護衛は不完全です。一つ聞きますが、最前線への補給任務に就く船舶の護送任務を最近いつ派遣しましたか?」
「それは……」
言葉に出そうとして/口から吐き出されるのは空気のみ。
忘れられない、忘れることのできないあの日。
答えを返してくれない提督に/強さを見せない提督に、不知火は一つの決意を固めるのであった。
「……まだまだ実力はありませんが、不知火が司令の目標を叶えてみせます。そのために作ります。誰にも負けない、守り抜ける最強の水雷戦隊を。司令の自信となる、誇りとなる水雷戦たんを!」
着任してから未だ数日。
己の練度/レベルを考えれば笑止な言葉/戯言であれど、それが提督に示した不知火の決意であった。