皆の意見や知識で動かせ戦国物語 作:星野林(旧ゆっくり霊沙)
「ゆっくり信長です」
「ゆっくり家操だぜ」
「「第二回実況……天下統一後の織田政権」」
「続きましたね」
「続いたんだぜ」
「では天下統一後の織田幕府についての動きをみていきましょうか。解説頼むわね」
「任せるんだぜ! まず織田政権最初の仕事は大規模な国替えが行われたんだぜ。畿内や尾張の近くに居た譜代家臣を含めて九州や東北に加増転付が相次いたんだぜ」
「混乱はなかったの?」
「それが混乱が起こる前に大規模な討伐による地ならしが行われていたために混乱は最小限にとどまったんだぜ」
「へぇ……転付された譜代家臣や大名達の統治はどうなっていたんだ?」
「それが歴史的特異点と言われる尾張米がこの転付により全国に散ることになるんだぜ。この米と尾張付近で普及していた優れた農法が一気に広がり、4年後には全国の米の生産量が3倍になっているぜ」
「3倍!? 凄いじゃない!!」
「これで飢える人はほぼ居なくなったんだが、豊作貧乏が各地で発生し、米で税を徴収していた大名達も米相場の下落により打撃を受けるんだが、津田家操が各地の大名に凄い低金利で金を貸し付けをして一気に破産するというのは回避するぜ」
「そうだったんだ」
「で、信長が政権3年目に全国の大名達に安土城下に大名屋敷を建てて、妻子を住まわせる政策を始めたので、その時に全国的に内政の天才と呼ばれていた津田家操に各地の大名が頼り、津田家操は惜しみなく様々な特産品作りに協力しているぜ。島津家の芋焼酎や北九州の石炭産業、神戸の牛や紀伊のみかん、東北のてん菜やじゃがいもを使った酒、越前の硝子細工、瀬戸内海諸国の真珠養殖や海苔栽培、塩の増産等を全国各地に普及させて、米以外の作物を大量に作り、海運で各地に運び、銭にするというのが流行ったぜ」
「この動きで大成功した大名として伊達政宗が挙げられるぜ。伊達政宗は仙台に本拠地を移転させて林檎と海産物、米と小麦の増産に成功して米粉と小麦粉を混ぜたパイ生地を使った林檎パイやシーフードパイと呼ばれる料理(日本語だと林檎包みや魚包み)が大流行し、晩年には信長の目の前で料理を披露して信長が喜んで食したというマーケティングにも成功し、様々な創作料理を作り、仙台を料理大国へと押し上げる基盤を作ったぜ」
「へぇ、米中心だった日本の産業が色々分散したんだね」
「ただ一見お人好しに見える津田家操も2つの技術は秘蔵したんだぜ」
「どんな技術?」
「椎茸の栽培方法とボーンチャイナと後に言われる乳白色の陶磁器の製造方法だけは秘蔵したんだ……と言っても椎茸栽培の方法は津田家操の兄である内葉伊達に技術を教えていたために椎茸栽培が普及して値段が急激に下落するのを防ぐ為に行われたと言われているぜ。結局津田家操の息子達が各地の大名に婿入りとか家臣として雇われるようになったことで技術が徐々に伝播していき、織田政権から50年後には椎茸の値段も下落し、明への大量輸出で織田政権の良い金策になるんだけどな」
「こんな言葉があるぜ。織田政権が約300年続いたのは真珠養殖と砂糖栽培と格安の布と椎茸による交易の利益を独占していたからと言われているぜ」
「へぇ……それだけ莫大な利益を出せたのね」
「明や清へは近代になるまで技術流出しなかったんだぜ」
「織田政権の他に政策とかはないの?」
「まず織田政権と言ったら海外植民が各地で行われたぜ。天下統一により武功が立てられずに不安分子となるはずだった浪人や改易により領地が無くなったり、縮小して首になった武士達がこぞって北海道と台湾入植に志願したぜ。ここでキーになるのは米が作れないとされていた北海道でも尾張米は十分に成長したことが挙げられるぜ」
「既存の米よりも多く実を付けて味も良く、寒冷地でも良く育ち、風や病気にも強い尾張米は他の米と配合のベースとなり、現代の米を辿ると全て尾張米に行き着くぜ」
「へぇ……それは凄いわね」
「話しを戻して、北海道でも米が栽培できるから入植も進み、入植5年後には50万石、20年後には200万石を達成し、海岸沿いでは大量に魚が捕れるから魚肥も多く使われ、石炭や泥炭もよく採掘されたので蒸気機関の普及も早かったとされているぜ」
「ちなみに北海道開拓の英雄とされるのは現代でも通じる正確な北海道と樺太の地図を作った大黒建四郎と北海道から大量の金山や銀山を発見し北海道開拓を勢いづけた津田家操の孫の津田家倉は埋蔵金伝説ができるほど有名になったし、東蝦夷津田家の初代藩主となったぜ」
「織田政権の中で津田家操は明との交渉役として3度明へと航海し、現代では南北比律賓道(以後フィリピン)とされる島々を倭寇の拠点があると言いくるめて日本の領地にすることを認めているぜ」
「フィリピンは当時にはスペインが一部占領していたんじゃないの?」
「津田家操はどこからかポルトガルとスペインの関係が悪化しているのを知ってポルトガルと協力関係を築いてフィリピンを武力で占領しているぜ。家操と信長が55歳の時にな」
「信長は60歳まで生きたって言ってたけど次世代は大丈夫だったのかしら?」
「信長が40歳になる頃には家督は息子の信忠に譲っていたぜ。信長は孫が十分に大きくなるのを見てから亡くなったし、亡くなっても政治的混乱が無いように政治体制を整えていたぜ。武家諸法度と呼ばれる制度も信忠と協議して決められたぜ」
「武家諸法度と言えば参勤交代だったけどそれも?」
「参勤交代自体は安土に当主になってから5年間留まれば良いという緩い制度で、津田家や丹羽家、滝川家の3家は永年免除されている家もあったりしたぜ」
「あれ? 織田家と言えば四天王に柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、津田家操の4人が挙げられるけど柴田勝家は?」
「柴田勝家は80歳まで生きたんだが、跡継ぎができなくて宗家断絶になったんだが、養子に入っていた者と柴田勝家の有力家臣がそれぞれ所領を引き継いだんだが、3国を領有していた柴田勝家の最大版図は分割されて、度々改易等が行われて最終的に佐々成政の子孫が治める能登1国が柴田勝家関係者で明治維新まで続いた家になるぜ」
「へぇ……」
「織田政権は全国の関所を破壊して街道整備と橋を架けることで物流をとにかく改善していった。これにも津田家操が噛んでいたとされて当時にしては凄い広い街道だったが、馬車が通るようになると適切な広さだったと評価されることになるぜ」
「へぇ……物流を改善したんだ」
「そして織田政権は大型船を作るのを推奨したため、丹羽長秀は晩年に一万石船を完成させて周囲の度肝を抜いたとされる。こういうのに敏感な津田家操は船の形状を改造することでガレオン船よりも高速で航海できる船の建造に成功していたりするんだぜ」
「そして台湾入植から10年後にアジア最大とも言われる金瓜石鉱山が発見されてゴールドラッシュで多くの日本人が台湾に入植し、定住することとなるんだぜ。台湾は津田家の管轄とされたので日明貿易や東南アジアのヨーロッパ商人との中継拠点として大いに栄え、入植開始から30年後には200万人の日本人が住むようになったぜ」
「ちなみに日本国民は1500年頃には1400万人だったとされているが1600年には2200万人に、1650年には3500万人、1750年には5500万人、1850年には1億2000万人まで増えていたぜ」
「食糧がよくもったわね」
「ちなみに1600年に行われた全国検地にて日本、台湾、北海道の石高は6500万って出ていたぜ。そこからフィリピンや東インドネシア、最終的にはオーストラリアの食糧事情を加味すると1850年には2億石が生産されていたとされているぜ」
「そりゃ人口爆発するわね……」
「次回は織田信長が亡くなってからも織田信忠、織田秀信の3代に渡り織田家重臣として織田政権初期を支えた津田家操について解説するぜ」
「次回もゆっくりしていってね!」