皆の意見や知識で動かせ戦国物語 作:星野林(旧ゆっくり霊沙)
1566年 家操33歳
織田家畿内平定戦(非史実)
年が明けて信長様は宣言通り上洛軍を編成して上洛を開始した。
その軍の人数は8万人にもなる。
まず信長様の軍事スケジュールでは近江国を通過でき、かつ美濃から京までの安全な道のりの確保ができるのを3ヶ月かかると見ており、そこから京に入る軍と朝倉を攻める軍に分けるとしていた。
そして朝倉侵攻の軍は柴田勝家に任される予定であった。
俺の忍びと信長様が雇った忍び達による近江国や越前などの地図が作られ、事前調略の段階で六角支配下だった伊賀衆は信長様への服従の使者が送られており、六角と縁切りを既にしていた。(覚悟ガンギマリ)
また六角と浅井は野良田の戦いで関係が冷え込んでおり、連携は怪しいと言う情報も入っていた。
林殿や村井貞勝殿が岐阜城の留守及び兵糧の調整を任じられており、秋のうちから準備が行われていた為に8万の大軍でも1年は軍事行動を可能とする兵糧の準備が整えられていた。
兵糧運搬役には丹羽長秀殿が任命され、8万人の兵糧を前線に送り続ける大役を担う。
1月20日、織田軍岐阜城を出陣。
1月22日、六角領内に侵入。
六角氏というのは鎌倉時代からの名門であり室町が始まった当初から北朝かつ足利尊氏に従っていた。(一時的に建武の新政に参加した事もあったが)
ただライバルである京極氏の妨害工作や領内に抱える寺領及び家臣の離反で当主と息子が暗殺されたりする事件が起こったりして室町初期から中期は六角は不安定でとても強い家ではなかった。
しかし応仁の乱が始まると京極騒乱と呼ばれる京極家で内紛が発生し、ライバルが没落したことで徐々に勢力が安定化していった。
しかし応仁の乱のどさくさに紛れて他家や寺領を横領したことで幕府から不評を買い、幕府主体の討伐軍が編成される。
これは応仁の乱で幕府の権威が低下してしまった為の見せしめ的な行為であったが、六角氏は甲賀山中に脱出してゲリラ戦を展開して幕府軍に実質勝利の引き分けに持ち込んでしまう。
この強烈な成功体験により六角は敵わないと思ったり敵軍が膨大であれば直ぐに逃げる体質とそれをろくにアップデートしなかったのでその戦術が以後100年近く固定化されてしまうのであった。
そして幕府に引き分けに持ち込んだが幕府は第10代将軍が誕生した時にも再び討伐軍を編成されて近江に攻め込まれ、また甲賀に逃げ込みゲリラ戦をするが、今回は酷く押し込まれてしまい甲賀からも逃亡したが次の第11代将軍の時に復権し、しかもその時に権力構造を六角に集中することで戦国大名にいち早く脱皮した。(他家に比べて約50年近く前にである)
そして戦国大名に脱皮したことで力を急速に蓄えた六角は細川晴元と言う室町時代の大魔王の混乱期を乗り越えると最盛期を迎え、畿内を制圧した三好と互角の戦いを繰り広げるが、1560年に起こった浅井の独立戦争である野良田の戦いが発生し、これに敗北。
そしてトドメに重臣を殺してしまう観音寺騒動が発生し、家臣との信頼関係が崩壊し、六角は急速に勢力を失っていた状態で信長様率いる織田軍8万と対峙することとなる。
まず六角の防衛戦略では和田山城、観音寺城、箕作城と言う3つの城で連携することで時間を稼ぐ戦略を取ることにした。
ただ観音寺城は山城であるが、政治色が強く防衛力もお世辞にも強い城ではなかった。
本城の観音寺城が防衛力が劣っていたのはすぐ逃げられる様にと言う意味合いがあり、100年近く戦術のアップデートができていない証拠であった。
ただ和田山城と箕作城は普通に堅城の類であったのだが、信長様は軍を3つに分けてそれぞれの城の連携ができないようにすると箕作城を山砲を運用した砲撃で城門を破壊して力攻めで僅か1日で陥落させると六角氏は恐慌状態に陥り、防衛戦略が1日で瓦解した恐怖から六角当主である六角義治はまだ家臣達が各城で籠もるにもかかわらず観音寺城を捨てて甲賀に逃走する。
しかし、情勢が大きく変わっており、甲賀の勢力は約10年近く家操によって金が入ってくる……織田家が超太客であり、任務が難しい割に報酬がしょぼく、更に蔑まれる六角への忠誠心は失われており、家操が六角一門が逃げてきて討ち取れば報酬を出すと事前に伊賀や甲賀に通達していた為、忍び達は報酬及び浜松への移住権利をかけて血眼になって探し回っており、観音寺城が陥落して2日も経たずに甲賀に逃げ込んできた六角一門は首だけになって信長様の前に並べられた。
支えるべき宗家である六角一門が壊滅したため、忠義が薄れていた六角家臣達は次々に降伏し、六角制圧は僅か1週間で六角氏の滅亡で幕を降ろした。
三好と長年争っていた名門六角が僅か1週間で滅亡となったことで周辺大名や国衆は色めき立ち、三好からは松永久秀が茶器を贈って降伏を宣言し、信長様は松永久秀とその一門の所領安堵を約束。
浅井、朝倉、三好は織田家の強さに恐怖することとなる。
織田軍の電撃的な侵攻で浅井や朝倉は六角が耐えている間に動員を完了して中山道と後に言われることになるところの番場のやや北の門根城がある場所周辺を決戦地と見ていたが、信長様はその決戦地を普通に通過し、軍を予定通り2つに分け、上洛軍4万と浅井朝倉討伐軍4万に分離し、家操は上洛軍に組み込まれた。
俺は道中にある浅井家の城である鎌刃城佐和山城を包囲。
無数の砲撃により堅城と言われていた2つの城も数日で失陥。
城に詰めていた磯野員昌は佐和山城内で自害し、佐和山城は炎に包まれた。
堅城でも次々に陥落させていく織田軍の攻撃力に心が折れた国人衆達は浅井家を見捨てて決戦をする前に崩壊してしまい、浅井家の調略を任された秀吉の弁舌が冴え渡り、戦わずしてどんどん城や国人衆が降伏していく。
織田家の想定では3ヶ月かかると見ていたが出陣から3週間も掛からずに戦略目標である京への街道の確保を達成し、圧倒的な武名を持って入京し、三好が接収していた将軍家の御所である二条御所を奪還し、そこを仮拠点として再建し、そのまま陣を敷いた。
出陣から1ヶ月と少し……2月25日には禁裏(天皇の御所)に上がり、右大将に叙任され、正三位……室町将軍でもここ最近は従三位に任じられることがなかったのに将軍の官位を上回ってしまった。
これには上杉と北条を除き多くの大名が室町を無視する信長様の行動を異端に思い、非難の声を上げるが、物理的な距離や京までの道中の攻略速度により近場の国人衆達は三好に良い感情がなかったのもあり服従を選択する者も現れ足並みは揃わない。
「鶴」
「は!」
「やれ」
「御意」
俺は信長様の命令で三好勢討伐に乗り出し、直轄の7千の兵を率いてまずは大和で服従していた松永久秀を攻撃していた筒井家を攻撃し、筒井は1万5千の軍であったが、訓練の成果で戦列歩兵及び行軍射撃を会得していたこと、火打石式に着火機構が変わり密集して射撃ができるようになったため2倍以上の敵兵がいようが普通に戦うことを選択した。
法螺貝や銅鑼の音で集団歩行を始める様子は他家からしたら異様であり、筒井家がバラバラに突っ込んでくるところを一斉射撃と両側面と中央後列に控える大砲の砲撃により筒井軍の戦意を崩壊させ、更に隊列を2列にしていることで銅鑼の音で前列と切り替わり、後列だった銃手が前に出て再び一斉射撃を開始する。
弾込めが終わった後列に下がっていた銃手が再び前に出て射撃をしてと絶え間ない射撃が実現。
しかも徐々に前に前進してくるのだ。
筒井軍は莫大な被害を出しながらも必死に軍を維持していたが、前衛の壊滅により陣が乱れて足軽大将などの位の高い武将が射撃位置に出てきて鼓舞していたため、控えていた狙撃部隊により高官への狙撃が始まると前線指揮をしていた者が次々に狙撃されてしまい、辛うじてこらえていた士気が崩壊。
裏崩れを発生し我先にと農兵が逃げ出し、それに巻き込まれる形で筒井軍の精鋭も総崩れとなる。
これに右翼と左翼を固めていた騎馬鉄砲隊が追撃を開始し、筒井軍は5千名近くの死者を出して壊滅。
所領を放棄して逃亡することとなるが、忍び衆により捕縛されてしまい、織田家に服従を選択することとなる。
そのままの勢いで三好勢の砦や城を次々に攻略していき、合戦3回、城攻め5回行ったが、こちらの死傷者は500名に対して三好の関係する軍は3万名近くの死傷者を出して敗走を続け、三好三人衆のうち三好一族の長老であった三好長逸を討ち取り、三好勢力も四国に叩き出し、四国に逃げる際にも津田海軍の追撃により散々被害を出して多くの有力家臣を失う結果となり、四国に逃げる際に病弱で擁立するはずだった足利義親が持病の悪化とストレスにより急死してしまう。
この三好を畿内から追放する一連の戦いで家操の戦上手ぶりは全国に轟き、今義経や砲聖と呼ばれ恐れられることになるのだった。