第1話 夢から覚める方法
——胡蝶の夢、という話がある。
昔、ある人が蝶になる夢を見る。
夢の中の彼は、自分が人間であることなどすっかり忘れて。
ただ一匹の蝶として楽しげに空を舞う。
やがて彼はそんな夢から目が覚める。
蝶の夢を見ていた1人の人間として、夢の世界から現実の世界に戻ってくる。
——でも。
目覚めたその人は、ふと思う。
今の私は、本当に蝶の夢を見ていた人間なのだろうか。
それとも、今まさに人間になった夢を見ている蝶なのだろうか、と。
——夢と現実。
夢を見る側と、夢に見られる側。
夢から目覚める前の自分と、夢から目覚めた後の自分。
その境界の認識は常に曖昧で。
夢の中の蝶と現実に目覚めた自分は、どちらが本当の自分なのかを決めることは、ひどく難しい。
——胡蝶の夢とはこんなお話。
夢と現実の区別を疑うための、古い思想のたとえ話。
世界の不確かさを語るための、少し不思議なおとぎ話。
——けれど。
夢と現実の境界というものが、ただの比喩では済まされない世界があるのだとしたら?
夢と現実の境目が、どこかに実在しているのだとしたら?
人が見ている夢の向こう側に、もうひとつの現実があるのだとしたら?
夢を見る者。
夢に見られる者。
夢から覚めたと思い込んでいる者。
夢を見ていると思い描いている者。
そのすべては、同じ境界の上に立っている自分自身だ。
そして、その境界を踏み越えた瞬間。
自分が人なのか。
それとも蝶なのか。
――その答えは、誰にも分からないまま、目覚めることになる。
Sleeping girl's perspective?
……。
…………。
…………んぅ。
…………。
………………んあ?
……。
なんだか……ふわふわしてる?
最初に意識したのは、そんな頼りない感覚だった。
水に浮かんでいるような。
雲の上で寝転がっているような。
どこにも足がついていないような。
説明が難しいけれど、とりあえずそんな感じ。
……
——つまり?
どうやら私は、眠っているらしい。
……たぶん。
……。
「らしい」だとか「たぶん」だとか曖昧な言い方ばかりだけれど仕方がない。
断言できないのは、今の状態……というか感覚があまりにも中途半端だったからだ。
眠っているのに、眠りきれていない感じ。
起きているわけでもないのに、今こうして漫画や物語小説の主人公モノローグみたいに考えることだけはできている。
なんとも曖昧で、落ち着かない感覚だ。
この状態を一言で表すならば。
……そう。
——夢見心地。
……夢ならば、これまでにも何度も見たことがある。
目覚めればすぐに記憶が薄れてしまう、取り留めのない映像。
知ってるようで知らない場所。
知ってるようで知らない誰か。
現実ではありえない出来事。
奇想天外で摩訶不思議な世界。
夢なんて、たいていはそんな感じのものばかりだ。
……けれど、今のこれはそれらとは違った。
ぼんやりしているのに、意識だけが妙にはっきりしている。
——まるで、夢の中で目を覚ましてしまったみたいに。
……というか、これは、本当に夢なのだろうか。
どうして?
何が起きているの?
私は、今どこにいるの?
今更ながら、じわじわと高まり始めた現状に対する不安や恐怖に突き動かされるように次々と答えの出ない問いだけが湧きあがり、ふわふわと意識の中を漂っていく。
そんなもどかしさの中で。
ふと、鈴のような声が聞こえた。
『夢から覚める方法は、2つ』
可愛らしい女の子の声だった。
淡々としているのに、どこか切なげで。
耳元で囁かれているようでいて、なぜか、遠くから呼びかけているようにも聞こえた。
『ひとつは、郷愁――』
『もうひとつは、忘却――』
突然のことで困惑する隙も与えてくれず、声は、淡々と告げる。
——夢から覚める2つの方法。
郷愁と忘却。
懐かしいもの……忘れてしまったもの……だろうか?
意味は分かれど、意味が分からない。
それでも、なぜか。
その2つの言葉は、きっと正反対の意味を持つはずなのに。
——今の私には、その言葉が同じ場所を指しているように思えた。
……私は、その場所の名前を知っている。
古い書物。
写真付きのノート。
講義資料。
赤い印のついた地図。
何かについて書き散らしたメモ。
妖怪。
冥界。
神隠し。
異界。
結界。
ばらばらの単語と場面の曖昧な映像が、記憶の底から泡のように浮かび上がってくる。
——そしてひと際大きく浮かび上がった映像は私の歩く少し先を仲良さげに並んで歩く少女が2人。
夜の墓地。
肌寒い秋だった。
一面には咲き乱れる彼岸花。
そして墓石を、私を含め3人で囲んでいる。
空を見上げて、時刻を呟く声。
……二時三十分、ちょうど。
声に合わせてみんなで墓石を動かして……。
そして、秋の夜の向こうに、季節外れの桜が広がる。
——映像はそこまで浮かんだあと、すぐにぱちんとはじけて消える。
……私は確かに覚えている。
不思議な活動の楽し気な記憶。
でも、その中心にいたのは、たぶん私ではない。
星や月を見るだけで、今いる場所や時間を言い当てる黒髪の少女と。
何もしていなくても、世界の境目を見つけてしまう金髪の少女の2人。
私は、その2人の少し後ろにいた。
無茶をするなと止めて。
それは墓荒らしみたいなものですよと、呆れて。
それでも結局、2人に押し切られて、夜の墓地まで付き合わされて。
大人としては止めるべきで。
でも、あの2人の保護者としては、結局ついて行くしかなかった。
そしてある日古い書物の中に、その場所の名前を見つけた。
誰にも読まれなくなった記録の端に。
伝承と噂話の隙間に。
誰かが残した、かすれた文字で。
ひっそりと書かれていた地名。
——幻想郷。
私たちはその場所について調べていた。
境界を観測するために。
そして現実の隣にある、もう1つの世界へ続く手がかりとして。
……そして。
——ぱちん。
そこまで思い出そうとすると、浮かび上がってきていた記憶の泡の映像がすべてはじけて消えてしまう。
…………。
……どうなったんだっけ?
夜空に浮かぶ星や月を読んでいた黒髪の少女。
ありとあらゆる境界を見ていた金髪少女。
その2人の姿は、確かに私の記憶の中にある。
けれど、その記憶にも空白がある。
2人の名前も。
顔も。
声も。
私が2人を何と呼んでいたのかも。
2人が私を何と呼んでいたのかも。
大切だったはずなのに。
何度も振り回されたはずなのに。
ずっと一緒にいたはずなのに。
何度も心配して、何度も呆れて、何度も一緒に笑ったはずなのに。
大切だと思っていたはずの2人との思い出が。
……どうしても思い出せない。
『あなたは、どちらを選ぶの?』
——あの声だ。
夢から覚める方法を告げた、女の子の声。
私はいつの間にか、ずいぶん長い回想をしていた。
知らないはずの場所や、思い出せない誰かのことばかりを、延々と。
——郷愁。
——忘却。
……つまり、これは。
選べ、ということなのだろうか。
その記憶を思い出すのか。
それとも、忘れたままでいるのか。
……。
……そんなの、理不尽だ。
だって私は、何を懐かしめばいいのかも分からない。
何を忘れようとしているのかさえ、分からないのだから。
——忘れている。
私は、何かを忘れている。
そのことだけは、分かる。
けれど、何を忘れたのかが分からない。
……なら。
——私はだれだろう?
私の名前。
私の顔。
私がどこで生まれて、どんなふうに生きてきたのか。
……。
…………。
……あれ?
……おかしい。
先ほどまである程度は浮かび上がってきた記憶の泡が一切浮かび上がってこなくなる。
自分のことを思い出そうとすると、霧がかかったように記憶が曖昧になる。
まるで、自分自身に関する大切な情報だけが、誰かに抜き取られてしまったみたいに。
私は確かに、何かを忘れている。
何かを失っている。
そして、その失くしたものが、とても大切だったことだけは分かってしまう。
分かってしまうからこそ、余計に怖かった。
——待って。
ここで唯一の登場人物である謎の少女の声に、とにかくそう言いたかった。
あなたは誰?
ここはどこ?
私は誰?
聞きたいことは、いくらでもあった。
けれど、声は答えない。
代わりに、さっきまではっきりとしていた意識がゆっくりと遠ざかっていく。
沈んでいるのか。
はたまた浮かび上がっているのか。
それすら、もう分からないくらいに意識は感覚に飲み込まれていく。
ただ、遠ざかっていく意識の底で。
最後にもう一度だけ、声が聞こえた気がした。
『おやすみ、〇〇〇〇』
Dozing girl's perspective?
目を開けると、目の前には森が広がっていた。
……。
……は?
……森?
……。
……いや。
……いやいやいやいや。
待ってほしい!
いきなり森は、ちょっと急展開がすぎる。
見上げるほど高い木々。
絡まり合う枝葉。
湿った土の匂い。
肌を撫でる風。
そして、木々の隙間から、わずかに差し込んでくる月明かり。
ひどく静かで人の気配が一切しない不気味な夜の森って感じだ。
「……ここ、どこ?」
口からこぼれた声は、思っていたよりずっと小さかった。
……いや、小さいだけじゃない。
——幼い。
小さな女の子のような声。
こんな幼い声だとしても自分の声なのに、当然のように自分の声じゃないみたいに感じる。
そう認識したところでぞわり、と背筋が冷えた。
私は恐る恐る自分の手を見下ろした。
……やっぱり小さい。
指も、手のひらも。
何もかもが小さかった。
白くて、細くて、頼りない。
まるで……というよりも確かな幼い子どもの手だ。
……。
…………。
「……え?」
思わず間抜けな声が口から漏れた。
私は慌てて自分の身体を確認する。
腕。
脚。
服。
そこまで確認し終わった時、視界の端に白い何かが揺れた。
とてもベタだがお化けかと思ってびっくりしたけれど、月明かりを受けて、あらわになったその正体はさらさらとなびく白銀の髪だった。
……。
恐る恐る、その髪を手繰り寄せる。
霞を梳くような、朧げで心地よい手触り。
この世のものとは思えないほど、美しく幻想的な銀髪だった。
木々の隙間から漏れる月光を受けて、淡く輝くその髪はまるで、星屑を集めたみたいで――。
「……な、何ですか……これ」
感動と混乱が入り混じった声で、思わず呟いた。
ひゅるるるる
そこへ、少し強い風が吹いた。
私の手元から、白銀の髪がさらりと逃げていき、かと思えば私の周りを静かになびき始める。
そこでようやく、その美しい髪が自分の髪なのだと実感した。
「……すごく……綺麗……」
まるで、遠い世界のおとぎ話を眺めているみたいだった。
けれど、その幻想的な髪は自分の髪で。
この小さな手も、自分の手で。
この幼い声も、自分の声だ。
つまり——。
……言いかけて今更お約束みたいな問いだと思った。
物語の冒頭で記憶喪失の主人公が言いそうな、あまりにも定番すぎる陳腐な台詞。
でも、今の私にはそれしか言えなかった。
「……私は、だれ?」
もちろん、答えてくれる人なんてどこにもいない。
ただ唸る風の音だけが、私の問いをかき消すように森へ響いていった。
Somnolent girl's perspective?
……さて、状況を整理してみよう。
【目が覚めると、自分のことすらよく覚えていない半分記憶喪失状態で、身に覚えもなく深い森の奥に幼女の姿になってぽつんと1人立っていた】
……うん。
結局、要約してまとめてもわけが分からない。
まるで実際に物語の冒頭によくある【突飛な非日常】に突然放り込まれたみたいな状況だ。
知らない場所に迷い込んだ幼い少女。
そう聞くと、ふと、ひとつのおとぎ話が頭をよぎる。
——不思議の国のアリス。
確か、アリスはしゃべる白ウサギを追いかけて、ウサギの穴に飛び込んだんだったか。
そうして、不思議な国に辿り着く。
おかしなお茶会に参加して。
首をはねたがる女王様に出会い。
意味の分からない不気味な住人たちとお話ししながら。
夢とも現実ともつかない、不条理で奇妙な世界を冒険する少女の物語だ。
……。
…………。
いや、冷静に考えると、あの子すごくないか?
普通、知らない場所に落ちて、よく分からない生き物たちに囲まれたら、冒険どころではない。
私なら怖すぎて泣く。
みっともなく泣きわめきながら訳も分からず逃げ惑う。
というか、今だってすでに狂いそうなほどに怖くて泣いちゃいそうだもの。
「……ほ、ほんとに、ここ、どこぉ?」
情けない声がとめどなく漏れていく。
その声に伴って思考がどんどん重く沈んでいく。
頭の中に嫌な想像が次々と浮かんでくる。
【アリスは二度と元の世界には戻ることはできず、不思議な国に閉じ込められてしまいましたとさ】
【アリスは狂ったお茶会から逃げられず、同じ時間をずっと繰り返し発狂してしまいましたとさ】
【アリスは女王様に見つかり、大きなはさみで首をちょん切られてしまいましたとさ】
【アリスは、はらぺこな怪物に見つかり、頭からバリボリ食べられちゃいましたとさ】
……。
……いや、そんな話だっただろうか。
……たぶん違う。
……いや、絶対違う。
……でも、今の私には、どうしてもそんな結末ばかりが浮かんでしまう。
私はぶんぶんと首を振って、頭の中のろくでもない想像を追い払おうとした。
大丈夫。
お、落ち着け。
まずは深呼吸しよう。
すぅーーはぁーー。
こういう時こそ、冷静に状況を確認するべきで――。
そう自分に言い聞かせていた、その時だった。
キ゛ィィィア゛ア゛ァァァァア゛ァ
森の奥から、何かの鳴き声が響き渡った。
獣の声、とは少し違う。
鳥の声でもない。
金属を無理やり引き裂いたような。
人が喉の奥を潰しながら絞り出したような。
聞いているだけで、背筋が凍るような、そんな甲高い鳴き声。
「ひぃ!!」
私が勝手に想像した、ろくでもないおとぎ話の結末が、恐ろしい幻覚みたいに頭の中を駆け巡る。
閉じ込められる。
食べられる。
戻れない。
見つかる。
そんな言葉ばかりが、ぐるぐると頭の中で回って増えていく。
震えて湿った地面をじゃりじゃり鳴らしてしまう脚を両手で必死に押さえても、震えは止まらない。
「うぅ……。ひぅ……」
私は、アリスのように不思議な国を冒険する勇気も、不思議な国を楽しむ胆力も持っていなかったらしい。
——これは夢だ。
夢であってほしい。
夢なら、目が覚めれば終わるはずだ。
だって、夢から目覚められなかったんだよね、なんて話を誰からも聞いたことがないもん。
ない、もん。
……たぶん。
……いや。
そもそも、そんな話、目覚められなかった時点で誰にも話せないのでは?
そんな最悪な気づきが、頭の中にぽとりと落ちた、瞬間。
キ゛ィィィア゛ア゛ァァァァア゛ァ
「ひっ……」
もう一度、今度はさらに大きくなって聞こえてきた鳴き声に私は必死に息を殺した。
声も、涙も、震えさえも、どうにか押し殺そうとして。
小さな身体をさらに小さく丸める。
膝を抱えて、息を潜めて、とにかく誰からも見つからないように祈る。
——何も分からない。
自分が誰なのかも。
ここがどこなのかも。
分からないことだらけのまま、私はただ震えるしかなかった。
夢なら、早く覚めてほしい。
でも。
もしこれが夢ではないのなら――。
その先を考えるのが怖くて、私はぎゅっと目を閉じた。
そうして、しばらくの間、得体の知れない恐怖に包まれながら。
私は深い森の中で、小さく震え続けた。
The girl was waking....