東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第10話 月明かりの新居と胡散臭いお隣さん


Asyl perspective

 

「ようこそ、紅魔館へ」

 

 澄んだ鈴のような声が、空気を静かに震わせた。

 

 紅い館の前に立っていたのは、息を呑むほど美しい少女――にしか見えない人物だった。

 

 月明かりを溶かし込んだような白い肌。

 深く澄んだ紅い瞳。

 そして小さな身体に似合わない、堂々とした佇まい。

 

 その人は、私たちを見るなり、綺麗な所作で右足を後ろへ引き、片腕を横へ広げた。

 

 ——ボウ・アンド・スクレープ。

 

 前世の知識でしか知らなかった、貴族が客人を迎えるための礼。

 それを目の前で、しかも芸術品みたいな完璧な美少女が見事にこなしている。

 

 思わず固まってしまった。

 

 心臓が早鐘を打つ。

 頭の中で、何かよく分からない警報が鳴り始める。

 

 落ち着け、アズール。

 ここで変な反応をしたら、田舎から初めて都会に出てきた子供みたいなちょっと恥ずかしい反応になってしまう。

 

「ひゃ、ひゃい! わたひはけっしてあやしいぃものではありまひぇん!」

 

 ……盛大に噛んだ。

 

 しかも、怪しいものではありませんと自分から言ってしまった。

 

 怪しい人が言うやつだ。

 完全に怪しい人が言うやつである。

 

「あ、お、お初にお目にかかりましゅ!」

 

 ……さらに噛んだ。

 

 もう駄目かもしれない。

 穴があったら入りたい。

 いや、この場合、紅魔館の門前に穴を掘ることになるので、それはそれで不審者すぎるけど。

 

 私は慌てふためきながらも、ぎこちないカーテシーでぺこりと頭を下げた。

 

 優雅さとは程遠い。

 たぶん、畑から抜かれた大根が頑張って高貴な礼をしているような動きだったと思う。

 

 けれど、幸いなことに目の前の美少女は笑わずにいてくれた。

 

 左胸に手を添え、にっこりと柔らかく微笑みかけてくる。

 その所作はどこまでも貴族的で洗練されていて、なのに浮かべた笑顔はどこか幼く悪戯っぽい。

 

「そんなに緊張しなくてもいいよ。僕はグニール・スカーレット。この地域の人間や妖怪たちからは伯爵と呼ばれている」

 

 ……僕?

 

 今、僕と言いましたか。

 

 私は思わず、目の前の美少女を凝視してしまった。

 

 ふわりとした髪。

 長い睫毛。

 柔らかそうな頬。

 小さな唇。

 そして、どこからどう見ても可憐なお嬢様のような姿。

 

 ……いわゆる僕っ子というやつだろうか?

 

「伯爵というのは、他の吸血鬼たちが勝手に押し付けてきた名誉爵位みたいなものだけどね。名乗っておくと色々と便利だから、ありがたく使わせてもらっている。真名を毎回名乗るのは面倒だし」

 

 最後の一言だけ、妙に俗っぽかった。

 

 完璧な貴族の所作。

 澄んだきれいな声。

 人形のように整った見た目。

 

 なのに、言っていることはわりと怠惰である。

 

 ……あれ?

 この人、もしかして結構ゆるい感じの人?

 

「それで、君は?」

 

「は、はい! 私はアズールと申します! た、多分、一般吸血鬼です!」

 

 そう答えると、伯爵――グニールさんは、一瞬だけ目を細めた。

 

 紅い瞳の奥が、すっと深くなる。

 

 笑顔はそのまま。

 けれど、その一瞬だけ、目の前の人物がただの可愛い美少女ではないことを思い出させられた。

 

 何百年も生きている吸血鬼。

 ヴァルターの前のご主人様。

 そして、運命を覗くことができる存在。

 

 その視線にぞくり、と背筋が震える。

 

「……一般吸血鬼、ね」

 

 伯爵は小さく呟いた。

 

 けれど、すぐに表情を柔らかい表情に戻す。

 

「いい響きだ。少なくとも、初対面で自分を特別だと名乗る相手よりは、ずっと信用できる」

 

「そ、そういうものですか?」

 

「そういうものだよ。自称・選ばれし夜の支配者みたいな自己紹介をしてくる吸血鬼は、大体あとで面倒なことになる」

 

 ……何があったんですか、吸血鬼社会。

 

 聞きたいような、聞きたくないような。

 

 その時、後ろからヴァルターがそっと近づいてきた。

 

 彼女は私の半歩後ろで姿勢を正し、深く頭を下げる。

 

「お久しぶりです、伯爵様」

 

「おやおや。やあ、僕の番犬……いや、今の姿は番犬というよりもお嬢さんと呼んだ方が良いのかな?」

 

 そうヴァルターに返すと伯爵はくすりと笑った。

 

 からかうような声。

 でも、そこには少しだけ、身内に向けるような柔らかいものが混ざっている気がした。

 

「1日足らずで戻ってくるとは思わなかったよ。僕の見た運命も、たまには随分と急ぎ足になるらしい」

 

「私は、もう貴方様の番犬ではありません」

 

 伯爵のからかうような言葉にヴァルターは静かにそう返した。

 

 その声に、迷いはなかった。

 

「お嬢様から、ヴァルターという名をいただきました。今の私は、アズールお嬢様の執事です」

 

 そんなヴァルターの言葉に胸の奥が、きゅっと温かくなる。

 

 ……やばい。

 嬉しい。

 すごく嬉しい。

 

 顔がにやけそうになるのを、私は必死に堪えた。

 

 ここでニヤニヤしたら、せっかくの感動的な場面が台無しになる。

 

 ……でも無理。

 ちょっと口元が緩む。

 

 伯爵は、そんなヴァルターを見て目を細めた。

 

「ヴァルター、か。良い名だね」

 

 その言葉は、思っていたよりもずっと静かだった。

 

 からかいでも、皮肉でもない。

 ただ、何かを確かめるような声だった。

 

 名前を褒められたヴァルターの耳が、嬉しそうにわずかに揺れる。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言われるほどのことは言っていないよ。僕はただ、そう思っただけだ」

 

 伯爵はそう言って肩を竦めた。

 

 しかし次の瞬間、その口元がにやりと悪戯っぽく歪んだ。

 

「それにしても、君が執事か。なるほど。確かに、その可愛らしい姿なら番犬よりは執事の方が似合うかもしれないね」

 

「……伯爵様」

 

「怒らないでおくれよ。褒めているんだよ? 半分くらいは」

 

「半分なのですね」

 

 そう言って微笑むヴァルターの笑顔が怖い。

 

 目が笑っていない。

 尻尾もぴんと張っている。

 

 あ、これは怒っている。

 間違いなく怒っている。

 

 伯爵はそれを見て、むしろ楽しそうに笑った。

 

「くくっ。やっぱり君はすぐ表情や尻尾に感情が出るから面白いね。それに前よりずっと表情が豊かになった」

 

「……何もかもお嬢様のおかげです」

 

「それは何より」

 

 軽い会話のようでいて、その奥に何かがある。

 

 ヴァルターは伯爵を恨んでいるわけではない。

 伯爵もヴァルターを完全に見捨てたわけではない。

 

 ——でも、以前と同じ関係には戻らない。

 

 そのことを、二人とも分かっているようだった。

 

 少しだけ、不思議な沈黙が落ちる。

 

 私はその空気にどう入ればいいのか分からず、視線を泳がせた。

 

 そんな私の混乱に気づいたのか、伯爵がこちらへ視線を戻した。

 

「さて、アズール嬢。少し確認してもいいかな」

 

「は、はい。何でしょうか」

 

「君は今、住む場所に心当たりがないのだろう?」

 

「……はい」

 

 素直に頷く。

 

 というか住む場所どころか、この世界に関しても何も知らない。

 

「それに、このあたりの事情にも詳しくない」

 

「……はい」

 

 そんな内心を見透かされるように質問は続いていく。

 

「身元を保証してくれる相手もいないし、知り合いも今のところそこのヴァルターくらいだ」

 

「……はい」

 

 頷くたびに、現実が重くのしかかってくる。

 

 改めて言われると、私、かなり詰んでいたのでは?

 

 前世でいうなら、身分証なし、住所なし、所持金なし、常識なし、ついでに種族が吸血鬼。

 

 役所にこの世界に生まれましたって出生届を出しに行っても門前払いされそうだ。

 

 ……いや、この世界に役所があるかどうかも分からないけれど。

 

 そこでヴァルターが一歩前に出た。

 

「ご安心ください、お嬢様。住む場所が見つかるまでは、私が必ずお守りします。野宿になったとしても、雨風をしのげる場所を――」

 

「それは困る」

 

 伯爵が即答した。

 

 あまりにも早かった。

 

 ヴァルターがぴたりと固まり訝し気な顔で伯爵をにらむ。

 

「……困る、とは?」

 

「紅魔館の近くで、正体不明の吸血鬼が野宿している。しかも隣には、僕が追放したはずの元番犬がいる。そんな噂が広まったらどうなると思う?」

 

 伯爵は優雅に微笑んだまま、さらりと言った。

 

「とても面倒くさくなる」

 

 ……意外と理由が俗っぽい。

 

「吸血鬼社会は、見栄と噂と古いしきたりでできているようなところがあるからね。君のような存在が野宿なんてしていたら、いらぬ詮索を招く。こちらとしても、近所で火種がくすぶるのは避けたい」

 

「ひ、火種ですか……」

 

「それに」

 

 伯爵はちらりとヴァルターを見た。

 

「ヴァルターを放り出したのは僕だ。結果として君に拾われたとはいえ、まったく知らない顔をするのも少しばかり外聞が悪い」

 

「外聞?」

 

「建前は大事だよ、アズール嬢。特に長生きする者ほどね」

 

 そう言って、伯爵は楽しそうに笑った。

 

 ……建前。

 今、はっきり建前って言いましたね。

 

 つまり本音は別にあるということだ。

 

 私がじっと見ていると、伯爵は観念したかのように小さく肩を竦めた。

 

「もちろん、本音もある」

 

「やっぱり!」

 

「くく。だって君の運命は面白い」

 

 その言葉に、空気が少しだけ変わった。

 

 先ほどまでの軽い笑みはそのままに紅い瞳が深まっていく。

 

「僕は運命を覗くことができる。でも、見えるものがすべてではない。特に君の周りは、どうにも輪郭が曖昧になる」

 

「……曖昧?」

 

「そう。見えるようで見えない。決まっているようで決まっていない。だからこそ、僕は君に興味がある」

 

 伯爵は楽しげに目を細める。

 

「君がこの土地に根を下ろすなら、紅魔館にとっても悪いことにはならない。少なくとも、僕はそう見ている」

 

 ——根を下ろす。

 

 その言葉が、妙に胸に残った。

 

 私はこの世界に来てからまだ半日にも満たない。

 

 それでも私はこの世界では圧倒的部外者で、かなり疎外感を感じていた。

 

 ……だからもし、ここに居場所を作れるなら。

 

 少しだけ、この世界でも息がしやすくなる気がした。

 

「紅魔館から少し離れた山の上に、使っていない別館がある」

 

 伯爵は紅魔館の背後に広がる暗い山影へ目を向けた。

 

「名前は月光館」

 

「月光館……」

 

 思わず、その名を繰り返す。

 

 夜に似合う名前だ。

 吸血鬼が住むには、これ以上ないくらいそれっぽい。

 

「元々は客人を泊めるための館だったけれど、ここしばらくは使っていない。紅魔館ほど大きくはないが、住むには十分だ。家具も残っているし、地下室もある。日差しを避ける場所にも困らない」

 

「地下室まであるんですか?」

 

「吸血鬼向け物件だからね」

 

 吸血鬼向け物件。

 

 すごい言葉が出てきた。

 

 前世では聞いたことがない。

 不動産広告に書いてあったら……ちょっと見てみたい。

 

 伯爵は続ける。

 

「そこを君に譲ろう」

 

「……え?」

 

 思わず、変な声が出た。

 

 今、何と言いましたか?

 

 譲る?

 館を?

 私に?

 

「え、えっと……貸す、ではなく?」

 

「譲る」

 

「一部屋ではなく?」

 

「館ごと」

 

「……事故物件とかではなく?」

 

「失礼だね。多少古いだけで、事故物件ではないよ……たぶん」

 

「たぶん!?」

 

 さらっと不穏な言葉を混ぜないでほしい。

 

 ヴァルターが横から小さく咳払いをした。

 

「お嬢様。吸血鬼の館である以上、多少のいわくは誤差です」

 

「誤差なんですか!?」

 

「はい。少なくとも、住めます」

 

「評価基準が低い気がします!」

 

 私が思わず叫ぶと、伯爵は楽しそうに笑った。

 

 紅魔館の前に、くすくすという可愛らしい笑い声が響く。

 

 見た目は可憐。

 笑い方も可愛い。

 でも言っていることは、館一軒をぽんと譲る気前がいい吸血鬼貴族様である。

 

 やっぱりこの世界、色々とおかしい。

 

「もちろん、ただの慈善ではないよ」

 

 伯爵はおかしそうに笑いながら言う。

 

「君にはこの先、月光館というわが紅魔館のすぐ隣に住まう吸血鬼として、吸血鬼社会に馴染んで、そして紅魔館と良い関係を築いてもらいたい。もちろんヴァルターの新しい主人としてもね。それに、僕としても君の運命を近くで見ていたい」

 

「……館経営だとか全然経験なくて超不安なんですけれども……つまり、先行投資ってやつですか?」

 

「うんうん。理解が早くて助かるよ」

 

 伯爵はぱちりと片目を閉じた。

 

「もっとも、投資というには少し安いくらいだ。使っていない館ひとつで、君という不確定要素を隣人に置けるならね」

 

 不確定要素。

 

 その言い方は、少しだけ怖かった。

 

 けれど、不思議と嫌な感じはしない。

 なぜか吸血鬼社会に馴染ませようとしてくるし、伯爵は私を利用しようとしているのは明白だ。

 

 でも同時に、助けようともしてくれている。

 

 吸血鬼らしい打算と、悪戯好きの好奇心と、ほんの少しの親切。

 

 その全部が混ざった結果が「館を譲る」というとんでもない申し出なのだろう。

 

「それにね」

 

 伯爵はヴァルターへ視線を向けた。

 

「君が野宿していたら、この子が気に病むだろう?」

 

 そんな伯爵の言葉にヴァルターがわずかに目を見開いた。

 

 それでも伯爵は、すぐにからかうような笑みに戻る。

 

「元番犬に未練があるなんて言われたくないからね。新しい主人の住居くらいは用意しておかないと、僕の寝覚めも悪いし」

 

「伯爵様……」

 

「何かな、ヴァルター」

 

「そういう言い方をなさるから、他の吸血鬼たちから胡散臭いだの言われるのです」

 

「ふっふっふ。褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒めていません」

 

 ヴァルターは呆れたようにため息をついた。

 

 けれど、その表情はさっきより少し柔らかい。

 

 伯爵の心情が、彼女には見えているのかもしれない。

 だとしたら、あの軽口の奥にあるものも、きっと少しは伝わっているのだろう。

 

 感謝。

 未練。

 安心。

 そして、それを絶対に素直に言わない面倒くさいツンデレっぽい感じ。

 

 ……なんとなく、この二人の関係が見えてきた気がする。

 

 私は改めて伯爵に向き直った。

 

「あの、本当にいいんですか? 私、まだこの世界のこともほとんど分かっていませんし、吸血鬼社会で上手く馴染めるかも分からないですし、何かお返しできるとも限りませんし……」

 

「構わないよ」

 

 伯爵は即答した。

 

「君は、君のままここで暮らせばいい。経営について分からないことは今から覚えればいいし、困ったことがあれば気軽に僕に相談すればいい。もっとも、紅魔館に相談すると高確率で余計な騒ぎも付いてくるかもしれないけれどね」

 

「それは相談先として大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫。退屈はしないと思うよ?」

 

「安全性の話をしているのですけど……」

 

 そう言うとまた、伯爵が笑った。

 

 つられて、なぜか私も少しだけ笑ってしまう。

 

 ……なんだろう。

 この人、すごく胡散臭い。

 絶対にたくらみの全部は話していない。

 たぶん、私の知らないところで色々と計算している感じがする。

 

 ……でも、悪い人ではなさそうだ。

 

 いや、吸血鬼に対して悪い人ではなさそうという表現が正しいのかは分からないけれど。

 少なくとも、今の私たちに敵意を向けたりはしなさそうだった。

 

「では、これからは良き隣人としてよろしく頼むよ、アズール嬢」

 

 伯爵が右手を差し出す。

 

 小さくて、白くて、綺麗な手だ。

 

 私は少しだけ迷ってから、その手を取った。

 

「はい。よろしくお願いします、グニールさん」

 

 そう言った瞬間、伯爵の紅い瞳が楽しそうに細められた。

 

「グニールさん、か」

 

「あっ、す、すみません! 伯爵様の方が良かったですか!?」

 

「いや、構わないよ」

 

 伯爵は楽しげに笑う。

 

「その方が、面白そうだ」

 

 ……面白そう。

 

 その一言に、ほんの少しだけ不穏な響きが混じっていた気がした。

 

 こうして私は、紅魔館の隣人になった。

 

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