「アズールお嬢様、着きました。ここが、紅魔館の別館、月に近い館――〖月光館〗です」
山頂に佇む館は、夜空に浮かぶ満月を背景に、神秘的なシルエットを描いていた。
まるで月の光を集めて作られたかのように、館全体が柔らかな優しい光に包まれている。
紅魔館の鮮やかな紅色とは対照的に、この館は落ち着いた茶色の煉瓦で造られており、どこか温かみのある印象だ。
屋根は月光を受けて淡い青色に輝き、まるで夜空の一部が館に降りてきたかのようだ。
「わぁ……ここからだと月が近く見えますね」
思わず声が漏れる。
スカーレット伯爵とひとまず別れ、さっそく私達が住むことになる館〖月光館〗までやってきた。
館の名前の由来は一目瞭然だ。
ここからは月が手に取れそうなほど近く感じられる。
まるで、月に手を伸ばせば届きそうなほどに。
紅魔館から、大体3km程離れており、山の頂に建っているため、遠くに見える紅魔館を見下ろせる。
館には広大な中庭もあり、館の周囲は紅魔館と同じく巨大な木々が所狭しと生い茂っている。
中庭や館からは、山の頂きなだけに月に近いと感じるほどに月や星を見るのに遮るものは何もない。
空が、近い。
星が、近い。
月が、近い。
まさに素晴らしいお月見スポットだ。
「それにしても、今では使われていない館という話でしたが……何だか新築同然に綺麗ですね」
この館は使われていないとは言ったが、ホコリを被っている訳ではなく、とても綺麗にされている。
まるで、つい先ほどまで誰かが住んでいたかのような清潔さだ。
「月光館は確か先生……私の魔法の先生が維持管理していると言っていたので先生の大規模な魔法術式が……」
ヴァルターはそこまで言うと急にバッと私に向かって身構えた。
恐らく先程は魔法の話をしていた際に私に急に抱きつかれて身体中弄られたので警戒しているのだろう。
その警戒心に満ちた表情が、何とも可愛らしい。
「……大丈夫ですよヴァルター!流石にもう急には抱きつきません!」
……そう、急には……ね。
何やかんやヴァルターは頼めば何でもしてくれそうなチョロ……優しい子なので、今度はしっかりお願いして思う存分ねっとりと弄らせてもらおう。
うぇへへへ。
「……」
……ヴァルターがジト目でじっと見てくるのでつぅっと目を逸らしておく。
……そういえばヴァルターは読心能力のような力を持っているのでしたね……。
ヴァルターの前ではあんまり変なこと考えないようにしないと……。
「……話を戻しますが、館の維持管理も全て先生の魔法で行われているようです。館内の手入れもいらず、館の構造物も壊れたら自動で修復されるとか」
ヴァルターが少し呆れた様子で説明を続ける。
なにそれすごい。
前世ではAIが搭載されたお掃除ロボットが最先端だったけど、こっちの世界では魔法が全自動でメンテナンスしてくれるなんて。
もう未来の技術を超えている。
もう魔法に対する探求心、ワクワクが止まりません。
吸血鬼になって得た能力も素晴らしいけれど、この世界の魔法はもっと奥深そうで、可能性に満ちている。
「……とにかく、中を見てみましょう!どんな部屋があるのか楽しみです!」
私は目を輝かせながら、館の扉に手をかけた。
ヴァルターも少し微笑みながら頷く。
「では、お嬢様。ご案内いたします」
Exploring Moonlight Mansion
重厚な扉を開けると、そこには幻想的な空間が広がっていた。
1階と2階は吹き抜けになっており、吸血鬼は日光に弱いからと窓が少ない館に開放感を与えてくれている。
天井から吊り下げられたシャンデリアには魔法の光が灯り、淡く優しい光で館内を照らしている。
その光は、月明かりのように柔らかく、目に優しい。
「わぁ……綺麗です……」
思わず息を呑む。
まるで、月の宮殿に迷い込んだかのような美しさだ。
「こちらが大広間です」
ヴァルターに案内されて足を踏み入れた大広間は、これまたとんでもなく広かった。
小学校の体育館くらいはある大きさだ。
床は大理石で、壁には芸術的な装飾が施されている。
月と星をモチーフにした彫刻が壁を飾り、まるで美術館のようだ。
足音が響く。
その音が、館の広さを物語っている。
「流石に、紅魔館程広くは無いですが……2人で住むには少し寂しすぎるくらいには広いですね」
ヴァルターが苦笑しながら言った。
確かに、2人で住むには広すぎる。
「大広間から奥に進むと、客室が並んでいます」
ヴァルターに案内されて長い廊下を歩く。
廊下から見えるだけでも20部屋程あり、お客さんには困らなさそうなほどに客室があるようだ。
それぞれの部屋のドアには、月や星をモチーフにした装飾が施されていて何だか可愛らしい印象を受ける。
一つ一つのドアが個性的で、見ているだけで楽しい。
「2階にも同様の廊下と部屋があり、2階にはゆっくりと寛げそうな広いバルコニーもあります」
2階に上がると、確かに広いバルコニーがあった。
そのバルコニーからは、妖精の山の絶景が一望でき、遠くには紅魔館も見える。
夜風が心地よく、星空を眺めるには最高の場所だ。
ここで読書をしたら、きっと最高だろうな。
「……それから、地下には書斎があります。お嬢様は本がお好きだと仰っていたので、きっと気に入っていただけるかと」
ヴァルターの言葉に、私の目が輝く。
「本当ですか!?見てみたいです!」
「では、ご案内いたします」
ヴァルターに導かれて地下へと降りる。
階段を降りると、そこには——。
「……!」
書斎というよりも、まるで図書館のような本棚がたくさんある大きな部屋があった。
壁一面に並ぶ本棚には、古びた本やスクロールが所狭しと並んでいる。
本の背表紙には見慣れない文字が刻まれており、中には魔法陣が描かれた羊皮紙もある。
部屋の中央には大きな机があり、その上にはインク壺や羽ペンが置かれている。
まるで、魔法使いの研究室のようだ。
本の匂いが鼻をくすぐる。
古い紙と、インクと、何か不思議な香りが混ざり合っている。
「すごい……こんなにたくさんの本が……」
私は興奮を抑えきれず、一冊手に取ってみた。
でも、当たり前だけど全く理解できなかった。
そもそも書かれている言語からして魔法初心者の私には全く解読できないほどだ。
……勉強しがいがありそうでワクワクする。
しばらくはここで魔法の研究にのめり込んでみようかな……。
「まさか自分の家に図書館があるなんて……この部屋に寝泊まりしたいくらいです」
私の言葉に、ヴァルターがクスリと笑った。
そして、忘れてはならないのがお風呂だ。
「こちらが浴場です」
ヴァルターが案内してくれた先には、それはもう大きなお風呂……いや、大浴場とでも言うべき浴室があった。
扉を開けた瞬間、ほのかに薬草の香りが漂ってくる。
「……想像以上に大浴場です」
大理石の浴槽は温泉のように広く、天井には星空を模した装飾が施されている。
その装飾は魔法で動いているらしく、本物の星空のようにゆっくりと瞬いている。
浴槽の周りには、月の光を模した淡い青色の照明が配置され、幻想的な雰囲気を醸し出している。
お湯は既に張られており、湯気が立ち上っている。
「魔法で常にお湯が張られており、手入れもいらないそうです。浴場を維持、点検する魔法の媒体となる魔草が妖怪や妖精たちにとっては魔力回復、魔力循環の促進、はてには存在値とも言える妖力の回復まで望める効能があるとか」
「よく分からないけどすごそうです……」
「もちろん肌ツヤも良くなるしリラックス効果もある最高級浴場だそうです」
……なにそれ最高すぎる。
今すぐにでも入りたい。
「最後に、中庭もご覧になりますか?」
「はい!」
館の中央にある中庭へと案内される。
扉を開けると、そこには緑豊かで美しい庭園が広がっていた。
「わぁ……綺麗……」
芝生が綺麗に整えられ、色とりどりの花が咲き誇っている。
紅魔館の薔薇園とは違い、こちらはもっと自然に近い雰囲気だ。
中庭の中央には小さな噴水があり、その水音が心地よく響いている。
噴水の周りには、ベンチが配置されており、ゆっくりと読書を楽しむのに最適だ。
そして、中庭の一角には畑のようなスペースもあった。
「ここで野菜や薬草を育てることもできそうですね」
ヴァルターが微笑みながら言った。
「園芸もできるんですね!楽しみです!」
私は目を輝かせた。
僅かに残る前世の記憶では狭いアパートに住んでいたから、こんな広い庭なんて夢のまた夢だった。
ここで色々な植物を育ててみたい。
「とりあえず、スカーレット伯爵のおかげでとんでもなく順調にとてつもなく豪華な拠点を見つける事ができましたね!」
館内を一通り探索し終えた私は、感動のあまり両手を広げて言った。
前世では一生かかっても手に入らないような豪邸だ。
本当に伯爵に大感謝だ。
「月光館は私もあまり訪れた事はありませんでしたが、なぜか本館より快適そうですね」
ヴァルターも感心したように館内を見回している。
彼女の目には、この館に対する新鮮な驚きが浮かんでいた。
尻尾も嬉しそうに揺れている。
「……さて、では改めてこれからも、よろしくお願いします。ヴァルター」
「はい。こちらからもよろしくお願いいたします。アズールお嬢様」
私たちは向かい合って、改めて挨拶を交わす。
月の光が窓から差し込み、私たちの間に落ちる。
これから始まる新生活への期待と、少しの緊張が入り混じった空気が流れる。
「……ところで、夜明けも近いですし、そろそろ寝室を決めませんか?」
私はヴァルターに提案した。
夜明けが近づくにつれて少しづつ眠気を感じ始めている。
完全に人間の時とは違う感覚で改めて今生では吸血鬼として生まれてきたんだと実感させられる。……生まれたというよりかいつの間にか森の中にいた感じだけど。
「そ、そうですね。寝室を……」
ヴァルターは少し頬を赤らめながら言った。
その反応が何とも可愛らしい……けど、どうしたんだろう?
「ヴァルターはどの部屋がいいですか?」
「え、えと……その……」
ヴァルターは視線を泳がせながら、もじもじとしている。
何か言いたそうだけど、言えない様子だ。
耳がピコピコと動いている。
「どうしました?」
「……あ、あの……お嬢様の寝室に……一番近い部屋が……いいです……」
ヴァルターは小さな声で、恥ずかしそうに言った。
耳がぺたんと伏せられ、尻尾も少し丸まっている。
「え?」
「あ、いえ!その!護衛として、お嬢様の近くにいた方が何かあった時にすぐに駆けつけられますし!それに、お嬢様が昼間に何か必要になった時にもすぐに対応できますし!あと、その、夜起こしに行くのも楽ですし!」
ヴァルターは慌てて言い訳を並べ立てる。
でも、その顔は真っ赤で、目は泳いでいる。
尻尾もブンブンと激しく揺れている。
……あぁ、可愛い。
可愛すぎる。
「ふふ、そうですね。では、私の部屋の隣にしましょうか」
私は微笑みながら言った。
ヴァルターは案外寂しがり屋さんなのか、もじもじと上目遣いで甘えてくる姿が何とも微笑ましい。
これが母性本能というものだろうか。
今すぐヴァルターを抱き締めて撫で回したい。
というか出会って初日でここまで仲良くなってくれて何だか無性に嬉しい。
「では、2階の一番奥の部屋を私の寝室にして、その隣をヴァルターの部屋にしましょう」
「は、はい!ありがとうございます!」
ヴァルターは嬉しそうに尻尾を振った。
……。
…………さて。
「……ところでヴァルター」
「はい。お嬢様」
「とんでもなく快適なおうちを手に入れる事が出来ましたが、1つ……いや2つ忘れている事があります」
「?お嬢様、それは一体」
そこでぐいと私はヴァルターに近付く。
彼女の毛並みの良さそうな耳が、私の接近に反応してピコンと小さく動いた。
「魔法ですよヴァルター。先程から魔法と表現される超常的な力のお話です!!……あと、さっき約束したナデナデをさせてください」
魔法。
ソーサリー!
マジック!
マギア!
マギ!
とにかく魔法だ。
魔法なのですよ!
魔法をもっと知りたい。
もっと見たい。
使ってみたいのです!!
前世では空想の産物だった魔法が、この世界では当たり前に存在している。
その事実だけで、私の心は童心に帰ったかのようにワクワクしてしまう。
それと、ナデナデさせてもらえる約束も忘れていませんよ……うぇへへへ。
「な、なでなで?な、なんのことで……わわわっ!ア、アズールお嬢様近いです。お顔が近いです。わ、分かりました。魔法のお話ですね」
そんな私の勢いに押されたヴァルターだが、困ったように眉をひそめた。
頬が少し赤くなっている(可愛い)。
どうやらなでなではまださせて貰えそうになさそうだ。
残念。
でも、いつか必ず思う存分モフり倒しちゃいます♪
「そうは言っても、私も教えられる程に魔法に詳しい訳ではなく、紅魔館で館の蔵書の司書をしている悪魔の先生に教わっていたばかりでして……」
ヴァルターは少し視線を逸らしながら言った。
その表情には、何か言いづらそうな様子が浮かんでいる。
「では、その司書の悪魔さんを紹介してください」
私は目を輝かせて言った。
悪魔の先生なんて、前世なら絶対に会えなかっただろう存在だ。
会ってみたい!!
どんな人なんだろう?
「……え、えと、今は、その……顔を合わせ辛いというかなんというか……」
ヴァルターの声が小さくなり、耳がぺたんと伏せられた。
何か心配事があるようだ。
尻尾も元気がない。
「?どうしてですか?」
「……その……私が壊してしまった【魔力水晶】が先生のものだったようで……」
理由を聞くと、ヴァルターの魔法の師匠である悪魔さんが大切にしていた【魔力水晶】というものをヴァルターが破壊してしまったらしい。
……う~ん。
【魔力水晶】というものが何なのかはよくわからないが、悪魔さんの物を壊してしまったのか。
それなら、ちゃんと謝らないと……
「ちゃんと謝れば許してくれますよ、きっと」
私は前世での常識に基づいて言った。
謝れば許してくれる、それが常識だ。
……多分。
「……違うのです。……あの方の場合許す許さないの問題ではなく……それに見合った対価を要求してくるのです……」
ヴァルターの声は震えていた。
その目には本物の恐怖が浮かんでいる。
身体も小刻みに震えている。
「えぇ!?そんなに怖い方なのですか?その悪魔さんという方は」
私も少し不安になってきた。
ヴァルターがここまで怯えるなんて。
一体どんな人なんだろう?
「……はい。今の私にとっては、耐えられないような凄惨な対価を先生は要求してくるはずです……それがとても怖いのです……」
ヴァルターは小さく震えながら言った。
過去に何か恐ろしい経験をしたのだろうか。
その表情には、トラウマを思い出したかのような恐怖が浮かんでいる。
「せ、凄惨な対価……」
……ゴクリ。
ヴァルターの異常な怖がり方につられて、私も緊張してゴクリと生唾を飲み込んだ。
想像力が勝手に働き、様々な「凄惨な対価」の可能性が頭をよぎる。
魂を売る?
血を捧げる?
それとも……もっと恐ろしいことを?
な、なんだか私も怖くなってきました。
一体、悪魔さんはどんなに怖い方で、どんな凄惨な対価を要求してくるのでしょうか……。
月光館の静寂が、私たちの不安を増幅させる。
窓から差し込む月の光が、ヴァルターの震える姿を浮かび上がらせていた。
そうして風が、止まった。
まるで、何かが近づいてきたかのように。
「お~い!おおかみさ~ん!出て来なさ〜い!この館にいるのは分かっています〜!観念して、私の前に出て来なさ〜い!」
唐突に、館の外からまるで拡声器を使ったかのように、可愛らしい女の子の声が大きく響いてきた。
その声は意外なほど明るく、先ほどまでの恐怖の雰囲気とは不釣り合いだ。
むしろ、どこか楽しそうにさえ聞こえる。
そんな声を聞いたヴァルターはビクッと小さく震え、私の後ろにコソコソと隠れながらちっちゃな声で。
「あぁ、マズイ。先生だ……」
と、冷や汗を流しながら呟いた。
その表情は、まるで天敵に見つかった小動物のようだ。
耳も尻尾も、恐怖で震えている。
……一体、どんな人が来るんだろう。
私は、少しドキドキしながら、館の入り口の方を見た。