東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第13話 月光館と寂しがり狼


Asyl perspective

 

「アズールお嬢様、着きました。ここが紅魔館の別館、月に近い館――〖月光館〗です」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ヴァルターの声に導かれて顔を上げると、山頂に佇む館が見えた。

 

 夜空には、丸い満月。

 

 その月を背負うように建つ館は、紅魔館とはまるで違う雰囲気を纏っていた。

 

 紅魔館が鮮やかな紅で人目を奪う館だとすれば、こちらは月明かりに溶け込むような静かな館だ。

 

 落ち着いた茶色の煉瓦。

 淡い青に見える屋根。

 月光を受けて、やわらかく光る窓。

 

 まるで、夜そのものが形を変えて館になったみたいだった。

 

「わぁ……ここからだと、月が近く見えますね」

 

 思わず、そんな声が漏れた。

 

 スカーレット伯爵とひとまず別れた私たちは、これから住むことになる館までやって来ていた。

 

 紅魔館からは大体3kmほど離れているらしい。

 山の頂に建っているから、遠くに紅魔館の姿も見える。

 

 紅い館が、眼下の森の中で静かに灯っていた。

 

 そして、その上には月。

 

 空が近い。

 星が近い。

 月が近い。

 

 なるほど。

 

 月光館。

 

 名前の由来が、あまりにも分かりやすい。

 

「これは……とんでもないお月見スポットですね」

 

「お月見、ですか?」

 

「月を眺めながら、お茶とかお団子とか楽しむ行事です。」

 

 こんなに月が綺麗な場所で何もしないのはもったいない。

 

「いつかここで、お月見会をしましょう」

 

「はい。お嬢様が望まれるのでしたら」

 

 ヴァルターが柔らかく微笑む。

 

 その反応が自然すぎて、一瞬忘れそうになる。

 

 ……そうだ。

 

 ここは、私たちの家になる場所なのだ。

 

 森で目覚めて、何も分からないまま歩いて、吸血鬼だと知って、狼男の女の子を従者にして、紅魔館の伯爵と会って。

 

 そして今、私は館をもらっている。

 

 展開が早すぎる。

 

 冷静に考えると、人生……いや、吸血鬼生の序盤イベントとしては豪華すぎないだろうか。

 

「それにしても、今では使われていない館と聞いていましたが……ずいぶん綺麗ですね」

 

 使われていない館、という言葉から想像していたのは、もっと埃っぽくて、窓に蜘蛛の巣が張っていて、床がギシギシ鳴るような場所だった。

 

 けれど、目の前の月光館は違う。

 

 外壁に傷みはほとんどなく、庭も荒れていない。

 窓も綺麗で、玄関へ続く石畳にも落ち葉ひとつ見当たらない。

 

 まるで、ついさっきまで誰かが住んでいたみたいだ。

 

「月光館は、私の魔法の先生が維持管理していると聞いています。先生の大規模な魔法術式が――」

 

 そこまで言ったところで、ヴァルターが突然びくりと肩を震わせた。

 

 そして、さっと私から半歩距離を取る。

 

「……?」

 

 なぜ身構えたのだろう。

 

 あ。

 

 もしかして、さっき魔法の話を聞いた瞬間に私が抱きついて、身体中を確認したからだろうか。

 

 魔法。

 魔法ですよ。

 

 前世では空想の産物だった、あの魔法。

 

 そんな単語を聞かされて平静でいられる方がおかしい。

 

 とはいえ、いきなり抱きついたのはよくなかった。

 反省している。

 反省はしている。

 

「大丈夫ですよ、ヴァルター。さすがに、もう急には抱きつきません」

 

「……本当ですか?」

 

「本当です」

 

 急には。

 

 そう、急にはしない。

 

 ちゃんとお願いして、了承を得てから、思う存分ねっとりと確認させてもらう予定だ。

 

 うぇへへへ。

 

「……」

 

 ヴァルターがジト目でこちらを見てきた。

 

 私は静かに目を逸らした。

 

 そういえばこの子、読心能力みたいなことができるんでしたね。

 

 こわい。

 

 非常にこわい。

 

「……話を戻します。館の維持管理は、先生の魔法で行われているようです。館内の清掃、空調、照明、結界、損傷箇所の自動修復まで、ほとんどが術式で制御されているとか」

 

「なにそれすごい」

 

 思わず素で言ってしまった。

 

 前世では、お掃除ロボットが床を勝手に動くだけでも未来を感じていたというのに。

 

 こちらの世界では、館そのものが魔法で自動メンテナンスされているらしい。

 

 未来技術を超えている。

 

 いや、魔法だから過去技術なのか?

 

 よく分からない。

 

 とにかくすごい。

 

「魔法……魔法ですか……」

 

「お嬢様?」

 

「……いえ。中を見ましょう。今は館です。魔法については後でじっくり聞きます。じっくり」

 

「は、はい」

 

 ヴァルターが少しだけ警戒した顔で頷いた。

 

 そんな反応をされると、まるで私が危険人物みたいではないですか。

 

 失礼な。

 

 私はただ、魔法とモフモフに興味があるだけの無害な吸血鬼ですよ。

 

「では、お嬢様。ご案内いたします」

 

 ヴァルターが玄関の前に立ち、恭しく扉を開けた。

 

 月光館の扉が、静かに開いていく。

 

 


Exploring Moonlight Mansion

 

 

 重厚な扉の向こうには、月明かりのような光に満ちた空間が広がっていた。

 

 まず目に入ったのは、吹き抜けの大広間。

 

 1階から2階までが大きく開けていて、天井から吊り下げられたシャンデリアが淡い光を放っている。

 

 けれど、その光は眩しくない。

 太陽の光ではなく、月の光に似た、やわらかい明るさだ。

 

 吸血鬼に優しい照明。

 

 ……そんなジャンルがあるのかは知らないけれど、少なくとも私はとても気に入った。

 

「わぁ……綺麗です」

 

 思わず息を呑む。

 

 床は磨かれた大理石。

 壁には月と星を模した装飾。

 柱には蔦のような模様が彫り込まれていて、どこか森の気配も感じる。

 

 足音が、広間に静かに響いた。

 

 広い。

 

 とんでもなく広い。

 

 たぶん、小学校の体育館くらいはある。

「こちらが大広間です。紅魔館ほどではありませんが、来客の応対や宴席にも使える広さがあります」

 

「宴席……」

 

 この広間で宴会。

 

 想像してみる。

 

 月明かりのようなシャンデリアの下、長いテーブルに料理が並び、吸血鬼や妖怪や悪魔や狼男が集まって賑やかに笑う。

 

 ……いや、登場人物が濃すぎる。

 

 普通の宴会にはならない気がする。

 

「2人で住むには、少し広すぎますね」

 

「はい。ですが、お嬢様の庇護下に入る者が今後増えるのであれば、決して無駄にはならないかと」

 

「庇護下……」

 

 その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。

 

 そうだ。

 

 私はヴァルターに名を与えた。

 

 それは、ただの勢いだけでは済まないことなのだろう。

 

 この館は、私だけの家ではない。

 

 私が誰かを守るための場所にもなっていくのかもしれない。

 

 そう考えると、広すぎる大広間が、ほんの少し違って見えた。

 

 空っぽの広間。

 

 けれど、空っぽだからこそ、これから何かを満たしていける。

 

「……うん。良い場所ですね」

 

「はい」

 

 ヴァルターが嬉しそうに微笑んだ。

 

 耳が少しだけ揺れている。

 

 可愛い。

 

 とても可愛い。

 

 

 大広間の奥には、長い廊下が続いていた。

 

 廊下の両側には、客室らしい扉がずらりと並んでいる。

 

 扉にはそれぞれ、月や星を模した小さな装飾が施されていた。

 三日月の部屋、星の部屋、満月の部屋。

 名前が書かれているわけではないけれど、なんとなくそんな印象を受ける。

 

「この辺りは客室です。1階と2階を合わせると、かなりの数があります」

 

「廊下から見えるだけでも、20部屋くらいありますね……」

 

「使われていない部屋も多いですが、寝具などは魔法で保管状態が維持されているはずです」

 

「便利すぎる」

 

 魔法式メンテナンス。

 

 前世の私が聞いたら卒倒するだろう。

 

「2階には広いバルコニーもあります。こちらへ」

 

 階段を上がり、廊下の先へ進む。

 

 扉を開けると、夜風がふわりと髪を揺らした。

 

「……わぁ」

 

 そこには、広いバルコニーがあった。

 

 視界いっぱいに、夜の森が広がっている。

 

 遠くには紅魔館。

 その向こうには、山の影。

 空には満月と星々。

 

 手すりに近づいて見下ろすと、森の木々が月光を受けて銀色に揺れていた。

 

 静かだ。

 

 けれど、寂しくはない。

 

 風の音。

 葉の擦れる音。

 遠くで鳴く、何かの声。

 

 全部が、夜の一部として溶け込んでいる。

 

「ここで読書したら、絶対に最高ですね」

 

「椅子や机を用意いたしましょうか?」

 

「お願いします。あと、毛布も。あと、お茶も」

 

「はい。では後ほど確認しておきます」

 

 即答だった。

 

 優秀すぎる。

 

 この子、従者力が高すぎる。

 

 まだ出会って初日なのに。

 

 というか、初日からここまでしてもらっていいのだろうか。

 

 少し申し訳なくなる。

 

 けれど、ヴァルターはどこか嬉しそうだった。

 

 なら、今は素直に甘えよう。

 

 その代わり、私もこの子をちゃんと守る。

 

 そう思った。

 

 

「次は地下をご案内します。お嬢様は本がお好きだと仰っていたので、きっと気に入っていただけるかと」

 

「本当ですか!?」

 

 地下。

 

 本。

 

 その組み合わせだけで、私の中の何かが跳ねた。

 

 ヴァルターに導かれて階段を降りる。

 

 地下へ続く階段は暗いはずなのに、壁に埋め込まれた小さな結晶が淡く光っていて、足元に不安はなかった。

 

 扉の前で、ヴァルターが立ち止まる。

 

「こちらが書斎です」

 

 扉が開く。

 

 そして私は、言葉を失った。

 

「……!」

 

 書斎。

 

 ヴァルターは確かにそう言った。

 

 けれど、これは書斎というより、ほとんど図書館だった。

 

 壁一面に並ぶ本棚。

 天井近くまで積み上げられた古書。

 巻物。

 羊皮紙。

 魔法陣の描かれた紙束。

 中央には大きな机があり、その上にはインク壺や羽ペン、用途不明の小瓶が並んでいる。

 

 古い紙の匂い。

 インクの匂い。

 それから、少し甘い薬草のような香り。

 

 ここだけ空気が違う。

 

 知識が眠っている場所。

 

 そんな感じがした。

 

「すごい……」

 

 私は吸い寄せられるように本棚へ近づき、一冊の本を手に取った。

 

 革の表紙。

 見たことのない文字。

 背表紙には、月のような紋章。

 

 開いてみる。

 

 読めない。

 

 まったく読めない。

 

 笑ってしまうくらい読めない。

 

「……読めない」

 

「古い魔法文字かもしれません。私にも読めないものが多いです」

 

「なるほど」

 

 私は本をそっと閉じた。

 

 理解できない。

 

 でも、それが逆に胸を躍らせた。

 

 分からないものが、ここには山ほどある。

 

 知らないことが、棚いっぱいに詰まっている。

 

 勉強しがいがある。

 

 研究しがいがある。

 

「ここに寝泊まりしたいです」

 

「寝室は別にございますよ、お嬢様」

 

「知っています。でも、ここに寝袋を置くのもありでは?」

 

「なしです」

 

 即答された。

 

 厳しい。

 

 けれど正しい。

 

 私は名残惜しく本棚を見上げる。

 

 魔法。

 文字。

 術式。

 世界の仕組み。

 

 この部屋は、私にとって宝箱みたいな場所になるかもしれない。

 

 

「次はこちらです」

 

「……これは」

 

 ヴァルターが案内してくれた先にあったのは、浴室だった。

 

 いや、浴室というより、大浴場だった。

 

 扉を開けた瞬間、ほのかに薬草の香りが漂ってくる。

 

 大理石の浴槽には、すでに湯が張られていた。

 湯気がふわふわと立ち上り、天井には星空を模した装飾が瞬いている。

 

 壁際には月の光を思わせる青白い照明。

 床は滑りにくそうな石造り。

 浴槽は、どう見ても数人で入れる大きさだった。

 

「……想像以上に大浴場です」

 

「魔法で常に湯温と水質が保たれているそうです。浴場の維持には魔草が使われており、妖怪や妖精にとっては魔力回復、魔力循環の促進、妖力の回復などが見込めると聞いています」

 

「よく分からないけど、すごそうです」

 

「さらに、肌艶を整える効果と、疲労回復、リラックス効果もあるとか」

 

「最高では?」

 

 思わず真顔で言ってしまった。

 

 吸血鬼としての生活に不安は山ほどある。

 

 日光に弱い。

 血が必要。

 そもそも自分の正体もよく分からない。

 

 でも。

 

 このお風呂があるだけで、かなり頑張れる気がする。

 

「今すぐ入りたいです」

 

「夜明けも近いので、入浴は寝室を決めてからの方がよろしいかと」

 

「それもそうですね」

 

 正論だった。

 

 でも、絶対に入る。

 

 今日入る。

 

 何が何でも入る。

 

 月光館、恐るべし。

 

 生活の質が高すぎる。

 

 

 最後に案内されたのは、中庭だった。

 

 館の中央に設けられた扉を開けると、月明かりに照らされた庭園が広がっていた。

 

「わぁ……」

 

 芝生は綺麗に整えられ、花壇には色とりどりの花が咲いている。

 

 紅魔館の薔薇園が華やかで気品のある庭だとすれば、こちらはもっと自然に近い。

 森の中にぽっかりと開いた、秘密の庭のようだった。

 

 中央には小さな噴水。

 水音が静かに響き、月光を受けた水面がきらきらと揺れている。

 

 噴水のそばにはベンチ。

 少し離れた場所には、畑のように区切られた一角もあった。

 

「ここでは野菜や薬草を育てることもできるそうです」

 

「園芸もできるんですね!」

 

 思わず目が輝いた。

 

 前世の記憶では、私は狭い部屋に住んでいた気がする。

 

 ベランダも狭くて、植物を育てるとしても小さな鉢植えくらい。

 土に触れる機会なんて、ほとんどなかったような気がする。

 

 それが今は、庭がある。

 

 畑がある。

 

 自分で何かを植えて、育てられる場所がある。

 

 ……なんだろう。

 

 少し、不思議な気持ちになった。

 

 豪華な大広間や図書館みたいな書斎にも驚いた。

 

 大浴場にも感動した。

 

 でも、この中庭を見た時、初めて強く思った。

 

 ここで暮らすのだ。

 

 ここが、私の帰る場所になるのだ。

 

「……すごいですね」

 

「お嬢様?」

 

「いえ。ただ、少しだけ実感が湧いてきました」

 

 私は月明かりの中庭を見渡す。

 

 まだ何も置かれていない。

 まだ何も始まっていない。

 

 けれど、ここには余白がある。

 

 何かを植える余白。

 何かを学ぶ余白。

 誰かを迎える余白。

 そして、私とヴァルターが暮らしていく余白。

 

「とんでもなく快適なおうちを手に入れることができましたね」

 

「はい。私も月光館にはあまり訪れたことがありませんでしたが……本館より快適そうです」

 

 ヴァルターが少し困ったように笑った。

 

 尻尾がゆっくり揺れている。

 

 嬉しそうだ。

 

 その姿を見て、胸の奥が温かくなる。

 

「……さて」

 

 私はヴァルターに向き直った。

 

「改めて、これからもよろしくお願いします。ヴァルター」

 

「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。アズールお嬢様」

 

 月の光が、私たちの間に落ちていた。

 

 出会ってまだ長くはない。

 

 分からないことばかりだ。

 

 それでも。

 

 この館で、この子と暮らしていくのだと思うと、不安よりも楽しみの方が少しだけ勝った。

 

 

「ところで、夜明けも近いですし、そろそろ寝室を決めませんか?」

 

 館内を一通り見終えたところで、私はそう提案した。

 

 言葉にした途端、身体の奥からじんわりと眠気が滲んでくる。

 

 人間だった頃の眠気とは少し違う。

 

 太陽が近づくにつれて、身体が自然と休息を求めているような感覚だ。

 

 改めて思う。

 

 私は本当に、吸血鬼になったらしい。

 

 ……生まれた、というより、いつの間にか森に落ちていた感じだけど。

 

「そ、そうですね。寝室を……」

 

 ヴァルターが急に落ち着かない様子になった。

 

 耳がぴこぴこと動いている。

 視線も泳いでいる。

 尻尾も、少しそわそわしている。

 

「ヴァルターはどの部屋がいいですか?」

 

「え、えと……その……」

 

「遠慮しなくていいですよ。部屋はたくさんありますし」

 

「……お嬢様の寝室に、一番近い部屋が……いいです」

 

 小さな声だった。

 

 けれど、はっきり聞こえた。

 

 ヴァルターの耳がぺたんと伏せられ、頬が赤くなっている。

 

「え?」

 

「あ、いえ! その! 護衛として、お嬢様の近くにいた方が何かあった時にすぐ駆けつけられますし! お嬢様が昼間に何か必要になった時にも対応できますし! 夜に起こしに行くのも楽ですし! 決して、その、寂しいとか、そういうわけではなくてですね!」

 

 早口だった。

 

 ものすごく早口だった。

 

 尻尾もぶんぶん揺れている。

 

 ……あぁ。

 

 可愛い。

 

 可愛すぎる。

 

 これが母性本能というものだろうか。

 

 いや、母性本能とモフりたい欲を一緒にしてはいけない気もする。

 

 でも可愛いものは可愛い。

 

「ふふ。では、私の部屋の隣にしましょうか」

 

「よ、よろしいのですか?」

 

「もちろんです。近くにいてくれると、私も安心ですし」

 

「……はい!」

 

 ヴァルターの表情がぱっと明るくなった。

 

 耳が立ち、尻尾が嬉しそうに揺れる。

 

 これはいけない。

 

 破壊力が高い。

 

 私は吸血鬼として強いらしいけれど、この尻尾には勝てないかもしれない。

 

「では、2階の一番奥の部屋を私の寝室にして、その隣をヴァルターの部屋にしましょう」

 

「はい。ありがとうございます、お嬢様」

 

 嬉しそうに頭を下げるヴァルター。

 

 その耳。

 

 その尻尾。

 

 触りたい。

 

 非常に触りたい。

 

 だが、ここでいきなり飛びついてはいけない。

 

 私は学習した吸血鬼なのだ。

 

 ちゃんと許可を取る。

 

 これが文明的モフモフである。

 

「……ところでヴァルター」

 

「はい。お嬢様」

 

「とんでもなく快適なおうちを手に入れることができましたが、忘れていることが2つあります」

 

「忘れていること、ですか?」

 

 私はぐい、とヴァルターに近づいた。

 

 ヴァルターの耳が、私の接近に反応してぴこんと動く。

 

「魔法ですよ、ヴァルター。先ほどから何度も出てくる魔法と表現される超常的な力のお話です! それと、さっき約束したナデナデをさせてください!」

 

 魔法。

 

 ソーサリー。

 

 マジック。

 

 マギア。

 

 マギ。

 

 呼び方は何でもいい。

 

 とにかく魔法だ。

 

 魔法なのですよ!

 

 前世では空想の中にしかなかった力が、この世界では当たり前のように存在している。

 

 館を清掃し、修復し、お湯を沸かし、照明を灯し、結界を張る。

 

 そんなものを見せられて、気にならないわけがない。

 

 あと、ナデナデの約束も忘れていません。

 

 私は記憶喪失ですが、都合のいい約束は覚えている女なのです。

 

「な、なでなで? な、なんのことで……わわわっ! アズールお嬢様、近いです。お顔が近いです! 分かりました。魔法のお話ですね。魔法のお話をしましょう!」

 

「ナデナデは?」

 

「ま、魔法のお話をしましょう!」

 

 逃げられた。

 

 残念。

 

 でも、魔法の話も大事だ。

 

 今はそちらを優先してあげよう。

 

「そうは言っても、私も教えられるほど魔法に詳しいわけではありません。紅魔館で蔵書の管理をしている悪魔の先生に教わり始めたばかりでして……」

 

「悪魔の先生」

 

 なんて魅力的な響きだろう。

 

 悪魔。

 

 先生。

 

 司書。

 

 魔法。

 

 全部盛りでは?

 

「では、その司書の悪魔さんを紹介してください」

 

 私は即答した。

 

 会ってみたい。

 

 ものすごく会ってみたい。

 

 魔法を教えてくれる悪魔の司書なんて、前世の物語なら確実に重要人物だ。

 

 きっと黒いローブを着て、分厚い本を持っていて、意味深なことを言うに違いない。

 

 ……いや、紅魔館の関係者だから、もっと癖が強い可能性もある。

 

「……え、えと、今は、その……顔を合わせづらいというか、なんというか……」

 

 ヴァルターの声が急に小さくなった。

 

 耳がぺたんと伏せられる。

 

 尻尾も、さっきまでの元気を失っていた。

 

「どうしてですか?」

 

「……その……私が壊してしまった【魔力水晶】が、先生のものだったようで……」

 

「ああ……」

 

 なるほど。

 

 それは気まずい。

 

 誰かの大事なものを壊してしまったなら、謝りに行くのも勇気がいるだろう。

 

 ましてや相手が悪魔なら、なおさらだ。

 

「ちゃんと謝れば、許してくれますよ、きっと」

 

 私は前世の常識に基づいて言った。

 

 悪いことをしたら謝る。

 謝れば、相手も話を聞いてくれる。

 

 たぶん。

 

 相手が悪魔でも、たぶん。

 

「……違うのです」

 

 ヴァルターが震える声で言った。

 

「先生の場合、許す許さないの問題ではありません。壊したものに見合う【対価】を要求してくるのです」

 

「対価」

 

 嫌な響きだった。

 

 悪魔。

 契約。

 対価。

 

 その3つが並ぶと、急に物語のジャンルが不穏になる。

 

「そ、そんなに怖い方なのですか? その悪魔さんは」

 

「はい。今の私にとっては、耐えがたいほど凄惨な対価を要求してくるはずです……」

 

 ヴァルターの身体が小さく震える。

 

 その怯え方は、本物だった。

 

 冗談ではない。

 演技でもない。

 明らかに過去の経験に基づいた恐怖だ。

 

「凄惨な対価……」

 

 私はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 魂を売る?

 血を捧げる?

 永遠に契約に縛られる?

 それとも、もっと恐ろしい何か?

 

 悪魔の対価。

 

 想像するだけで怖い。

 

 ヴァルターがここまで怯えるなんて、一体どんな存在なのだろう。

 

 月光館の静寂が、急に重くなる。

 

 窓から差し込む月の光が、ヴァルターの震える耳と尻尾を照らしていた。

 

 風が止まる。

 

 庭の水音すら、遠くなる。

 

 まるで、何かが近づいてくる前触れのように。

 

 そして――。

 

「お〜い! おおかみさ〜ん! 出て来なさ〜い! この館にいるのは分かっています〜! 観念して、私の前に出て来なさ〜い!」

 

 館の外から、可愛らしい女の子の声が響いた。

 

 声は明るい。

 

 とても明るい。

 

 むしろ楽しそうですらある。

 

 けれど、その瞬間。

 

 ヴァルターの顔から血の気が引いた。

 

 彼女はびくっと肩を震わせると、私の背後にするすると隠れた。

 

 耳はぺたん。

 尻尾はしょんぼり。

 目は完全に、天敵に見つかった小動物のそれだった。

 

「あぁ……まずい……先生だ……」

 

 ヴァルターが冷や汗を流しながら呟いた。

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