東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第14話 可愛い悪魔は毛並みがお好き


Asyl perspective

 

「お〜い! おおかみさ〜ん! 出て来なさ〜い! この館にいるのは分かっていますよ〜! 観念して、私の前に出て来なさ〜い!」

 

 静寂に包まれていた月光館に、可愛らしい少女の声が響き渡った。

 

 鈴を転がすような、明るく澄んだ声。

 

 けれど、その声を聞いた瞬間、私の背後にいたヴァルターは、びくりと肩を震わせた。

 

「……ヴァルター? この声は――っとと」

 

 問いかけようとした瞬間、ヴァルターが私の背中にぴたりと張り付いた。

 

 小さな手が、私の服の裾をぎゅっと掴む。

 

 耳はぺたん。

 尻尾はしょんぼり。

 表情は、天敵に見つかった小動物そのものだった。

 

 ——かわいい。

 

「あぁ……まずい……先生だ……」

 

 ヴァルターが震える声で呟く。

 

 先生。

 

 ということは、外から呼びかけているのは、先ほど話していた魔法の先生らしい。

 

 ヴァルター曰く、壊した物に見合う凄惨な対価を要求してくる、恐ろしい悪魔さん。

 

 ……の、はずなのだけれど。

 

 声だけ聞くと、どう考えても元気な女の子である。

 

「ヴァルター、大丈夫ですか? ぎゅっと抱きついてくれるのは、私としてはとても嬉しいのですが……来客のようですし、応対しないと」

 

「ふぁ!? ……だ、大丈夫ですよ! 私は外にいる子に観念するつもりなんてありませんし、あの子が私の魔法の先生だとしても、きっと居留守を使っても怒らない、優しい先生だと思います! だから、ここは居留守で乗り切りましょう? ね? お嬢様は私の味方ですよね? 助けてください!!」

 

 私の背に隠れたままのヴァルターが、私の服を引きちぎる勢いでグイグイ引っ張りながらものすごい早口でまくし立ててきた。

 

 ふわふわ♪

 もふもふ♪

 ぷにぷに♪

 

 ……うぇへへへ。

 ……ぷにふわで、もふもふなヴァルターにそんなにぎゅうぎゅうしがみつかれるなんて……幸せな感触だぁ……。

 

「……ってあぁ!?ちょ、ちょっと、お、落ち着いてくださいヴァルター。そ、そんなに私の服にしがみついてグイグイ引っ張っちゃったら、私の見えちゃいけないところがポロリと見えちゃいますから!!」

 

「お、お嬢様ぁ。ど、どうしましょう!私はどうしたらいいのでしょうかぁ!!?」

 

 無意識に私の服を剥ぎそうになっているヴァルターは、私の悲鳴も意に介さず、涙目でさらにしがみつく力を強めてきた。

 

 「ぐぇ」

 

 ギリギリ♪

 メキメキ♪

 ミシミシ♪

 

 ……うぐぐぐぅ。

 な、なんか身体から鳴っちゃいけない音がしてる……それもしがみつかれている部分から……。

 というか、ものすごく痛いし……感覚がだんだん無くなってきてる気がするぅ……。

 

「ちょ、ヴァ、ヴァルター、私の服の中身どころか、内臓まで出ちゃいそうなのですが!?」

 

 焦るヴァルターは、それでもなお可愛い。

 

 しかし彼女は慌ててパタパタと手を振り、ドタバタしているせいで、ローブの隙間から見えちゃいけないものがチラチラと覗きそうになっていた。

 

 それに万力のように締め上げてくるとんでもない力で私の身体も真っ二つになりそうだ……。

 

 とにかく、パニック状態で破廉恥な姿になりかけているヴァルターを落ち着かせるためにも、そしてミンチのようになりかけている自分の身体を守るためにも、私はヴァルターの背中をぽんぽんと優しくさすりながら声をかけた。

 

「よ、よーしよし。大丈夫です。落ち着いてくださいね」

 

 私はヴァルターの背中をぽんぽんと優しく撫でた。

 

 ついでに、乱れかけたローブを整える。

 

 ヴァルターはまだ震えていたけれど、少しずつ力を緩めてくれた。

 

 ふう。

 

 危なかった。

 

 新居初日に従者に締め落とされる吸血鬼になるところでした。

 

「ヴァルター。たぶん、先ほど話していた【魔力水晶】の件で来たのでしょう?」

 

「……うぅ」

 

「誰かの大切な物を壊してしまったのなら、まずは謝りましょう。私も一緒に謝りますから」

 

「お嬢様……」

 

 ヴァルターが涙目で私を見上げる。

 

 その目は完全に「見捨てないでください」と訴えていた。

 

 うっ。

 

 そんな目で見られると、何でも許してしまいそうになる。

 

 でも、ここは保護者としてきちんと言わなければならない。

 

 悪いことをしたら謝る。

 

 それは、たぶん前世でも今世でも大事なことだ。

 

「大丈夫ですよ。出会って間もないですが、あなたがちゃんと“ごめんなさい”できる優しい子だって、私は知っています。もし理不尽な要求をされたら、その時は私が止めます」

 

「……本当に?」

 

「本当です」

 

「……では、話だけなら……」

 

 ヴァルターがようやく観念しかけた、その時だった。

 

「突撃〜!」

 

 玄関の扉が、勢いよく開いた。

 

 重たい扉が軋み、夜風が大広間へ流れ込む。

 

 そこに現れたのは、小さな影だった。

 

「おっとっと〜。あう〜……やっぱり、この身体はまだ慣れませんね〜」

 

 とてとて。

 

 よろよろ。

 

 その子は、少しおぼつかない足取りで大広間へ入ってきた。

 

 明るめの薄紅色の長い髪。

 黒を基調とした白黒のブレザーとスカート。

 頭の両側には小さなコウモリの翼。

 背中にも同じような翼が生えている。

 

 見た目は、今のヴァルターと同じくらい幼い少女。

 

 ……この子が、凄惨な対価を要求してくる悪魔さん?

 

 いや。

 

 悪魔さんというより、悪魔ちゃんである。

 

「こんばんは〜。あなたがアズール様ですね〜。伯爵様からお話は伺っていますよ〜」

 

 小さな悪魔の少女は、にこにこと笑いながら、私にぺこりと頭を下げた。

 

「私は紅魔館にて、伯爵様の秘書兼、書庫の司書を務めております、名も無き悪魔です〜。ヴァルターさんの魔法の先生でもありますね〜。どうぞお見知りおきを〜」

 

「こんばんは。私は吸血鬼のアズールです。よろしくお願いします、悪魔ちゃん」

 

「悪魔ちゃん」

 

 小悪魔さんは、にこにこ笑顔のまま固まった。

 

 あ。

 

 まずかっただろうか。

 

「……さっそく、この小さな姿の影響が出ましたかね〜。ちょっとだけ、傷つきました〜」

 

「す、すみません。見た目が可愛らしかったので、つい」

 

「ふふふ〜。まあ、許しましょう〜。可愛いと言われて悪い気はしませんからね〜」

 

 小悪魔さんは、胸を張った。

 

 小さい身体で胸を張る姿が、これまた可愛い。

 

 ただ、その笑顔の奥には妙な余裕がある。

 

 見た目は幼いのに、雰囲気はどこか大人びている。

 

 なるほど。

 

 確かにただの子どもではなさそうだ。

 

「それで〜」

 

 小悪魔さんの視線が、私の背後に向いた。

 

「狼さ〜ん。隠れても無駄ですよ〜。この館の管理術式は、私が組んだものですからね〜。月光館の中で起きていることは、だいたい分かるのですよ〜」

 

 そう言って、小悪魔さんが小さな手を掲げた。

 

 すると、館の壁や床、天井から、淡い光の粒子がふわりと浮かび上がった。

 

 月光を砕いたような、小さな光。

 

 それが小悪魔さんの手のひらへ集まっていく。

 

「わぁ……」

 

 思わず声が漏れた。

 

 なにこれ。

 

 すごい。

 

 綺麗。

 

 これが魔法?

 

 いや、たぶん魔法だ。

 

 魔法ですよ。

 

 床から、壁から、空気から、情報みたいなものが光になって集まっている。

 

 どういう仕組み?

 

 術式?

 

 結界?

 

 館そのものに感覚器官みたいなものを持たせている?

 

 それとも、魔力の流れを読み取っている?

 

 分からない。

 

 分からないけれど、すごい。

 

 知りたい。

 

 すごく知りたい。

 

「すごい……これ、魔法ですか?」

 

「はい〜。館の管理術式から、内部の魔力反応や足跡、空気の揺らぎを拾っているだけの簡単な魔法ですよ〜」

 

「簡単」

 

 簡単とは。

 

 私の中の簡単と、小悪魔さんの中の簡単は、きっとまったく違う。

 

 これは危険だ。

 

 魔法、面白すぎる。

 

 もっと見たい。

 

 もっと聞きたい。

 

 もっと知りたい。

 

「ふふ〜。アズール様は、魔法に興味がおありで?」

 

「ものすごくあります」

 

 即答だった。

 

 小悪魔さんの目が、ほんの少し楽しそうに細められる。

 

「それはそれは〜。では後ほど、少しだけお話ししましょうか〜」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ〜。ただし、今は先に用事がありますので〜」

 

 小悪魔さんの視線が、私の背後へ戻る。

 

 そこには、必死に狼耳を両手で押さえながら隠れているヴァルターがいた。

 

 ……隠れられていない。

 

 耳を押さえている時点で、むしろ自己申告である。

 

 何この子。

 

 可愛すぎる。

 

「あの、小悪魔さん。狼さんというのは、たぶんこの子ですよね」

 

 私は背後に隠れていたヴァルターの肩に手を添え、そっと前へ出した。

 

「ぬぇああぁぁ!? お、お嬢様!? どうして言っちゃうんですかぁ!? 気づかれてなかったのに!」

 

「いえ、たぶん最初から気づかれていましたよ」

 

「うぅ……!」

 

 ヴァルターはその場でへたり込み、涙目でこちらを見上げた。

 

 耳がぴょこんと飛び出している。

 

 尻尾もローブの裾から少し見えている。

 

 完全に狼さんである。

 

「あらあら〜。見つけましたよ〜、ヴァルターさ〜ん」

 

 小悪魔さんが、にこぉ、と笑った。

 

 その笑顔は可愛らしい。

 

 可愛らしいのに、ヴァルターは真っ青になった。

 

「随分と可愛らしい姿になりましたね〜。ですが、そのお耳と尻尾……毛並みはむしろ以前より良くなっているようですね〜」

 

「ひっ」

 

「ふふふ〜」

 

 小悪魔さんが一歩近づく。

 

 ヴァルターが一歩下がる。

 

「さてさて。ヴァルターさ〜ん。私の【魔力水晶】を壊した件について、お詫び――すなわち、対価を頂きに参りましたよ〜」

 

「せ、先生! その件は本当に申し訳ありませんでした!」

 

 ヴァルターはその場で勢いよく頭を下げた。

 

「魔力水晶を壊してしまったことは謝ります! 伯爵様にも原因はありましたが、直接壊したのは私です! 本当に申し訳ありませんでした! 素材収集でも、書庫整理でも、魔法薬の調合補助でも、何でもします! ですから、今先生が考えている対価だけは、どうか、どうかご勘弁を……!」

 

「おやおや〜。今日は随分と丁寧ですね〜。いつものように、もう少しぞんざいでもいいのですよ〜?」

 

「い、いえ! 偉大なる先生に対し、今までの私は無礼でした! ですからどうか、どうかその対価だけは――」

 

「ふふふ〜」

 

 小悪魔さんが笑う。

 

 ヴァルターの耳が、ぴんと立つ。

 

 どうやら、ヴァルターには小悪魔さんが何を考えているのか分かったらしい。

 

 顔色が、みるみる変わっていく。

 

「……ま、待ってください。今、何を考えました?」

 

「何でしょうね〜?」

 

「いや、分かりますよ。私には分かりますからね。先生、今、絶対ろくでもないことを考えていますよね?」

 

「ふふ〜。対価ですからね〜」

 

「対価という名の私欲ですよね!?」

 

「契約と対価は悪魔の本分ですので〜」

 

「その手つきで言っても説得力ないです!」

 

 小悪魔さんの両手が、わきわきと動いていた。

 

 完全に、何かを揉む手つきである。

 

 ……あ。

 

 私は理解した。

 

 ヴァルターがここまで怯えていた理由。

 

 凄惨な対価。

 

 耐えがたい要求。

 

 悪魔の取り立て。

 

 その正体は、つまり。

 

「ま、まさか……」

 

「ええ〜」

 

 小悪魔さんが、満面の笑みで言った。

 

「対価は、ヴァルターさんのもふもふです〜」

 

「やっぱりぃぃぃ!」

 

 ヴァルターの悲鳴が大広間に響いた。

 

 次の瞬間、小悪魔さんが飛びかかった。

 

「確保〜!」

 

「いやぁぁぁ! 話を聞いてください! 私はまだ心の準備が――ひゃっ!? 耳は駄目ぇ! 耳は本当にくすぐったいんです!」

 

「おお〜。これは素晴らしい毛並みですね〜。以前よりもふわふわ度が上がっています〜。尻尾も見せてくださいね〜」

 

「や、やめっ、やめろ!このクソ悪魔!!!っあ!♡ し、尻尾は! 尻尾ぉ♡! や、やめへぇ♡!」

 

「ふふふ〜。逃げても無駄ですよ〜。この程度の抵抗、書庫の本雪崩に比べれば可愛いものです〜」

 

「比較対象がおかしい!」

 

 小悪魔さんは、ヴァルターの耳をくしゅくしゅと撫で、尻尾をわしゃわしゃと整え、頬をふにふにとつついている。

 

 ヴァルターは床の上でじたばたしながら、笑ったり抗議したり、最後にはへにゃりと力が抜けたりしていた。

 

 ……なんだろう、この光景。

 

 凄惨な対価とは。

 

 悪魔の取り立てとは。

 

 目の前で行われているのは、どう見ても小さな女の子同士のじゃれ合いである。

 

 いや、小悪魔さんは本当に子どもではないのだろうけれど、見た目だけなら完全に微笑ましい。

 

「お嬢様ぁ! 見てないで助けてください!」

 

「助けたい気持ちはあります」

 

「なら!」

 

「ですが、ヴァルターの毛並みが本当に素晴らしいのも事実でして」

 

「お嬢様ぁ!?」

 

 すみません。

 

 裏切るつもりはなかったのです。

 

 ただ、今のヴァルターはとても可愛い。

 

 耳がぴくぴくして、尻尾がばたばたして、くすぐったそうに涙目で抗議している。

 

 これは、見守りたい。

 

 非常に見守りたい。

 

 でも、さすがに限度はある。

 

 私は小悪魔さんの肩にそっと手を置いた。

 

「小悪魔さん。そろそろそのくらいにしてあげてください。ヴァルターが溶けかけています」

 

「あらら〜?」

 

 小悪魔さんが手を止める。

 

 見ると、ヴァルターは床の上でぐったりと伸びていた。

 

 耳はぺたん。

 尻尾はへにゃん。

 目はうるうる。

 

 完全に、もふもふされすぎた狼である。

 

「うぅ……ひどいです……見てるだけなんて……」

 

「ご、ごめんなさい。でも、ちゃんと止めましたから」

 

「遅いですぅ……」

 

 ヴァルターが恨めしそうにこちらを見た。

 

 その表情すら可愛いのだから、本当に困る。

 

「ふぅ〜。大満足です〜」

 

 小悪魔さんは満ち足りた表情で頷いた。

 

「これにて、魔力水晶破壊の対価は一部受領ということにしておきましょう〜」

 

「一部!?」

 

 ヴァルターが跳ね起きた。

 

「今ので全部じゃないのか!?」

 

「魔力水晶は高価ですからね〜。もちろん分割払いです〜」

 

「悪魔ぁ!」

 

「悪魔ですので〜」

 

 にこにこ。

 

 小悪魔さんは楽しそうに笑う。

 

 ヴァルターは頭を抱えていた。

 

 なるほど。

 

 この2人、仲が良い。

 

 言葉だけ聞くとひどいやり取りなのに、空気は険悪ではない。

 

 ヴァルターは本気で嫌がっているというより、慣れた相手に振り回されている感じだ。

 

 小悪魔さんも、からかいながらも乱暴にはしていない。

 

 師弟関係。

 

 腐れ縁。

 

 あるいは、友人。

 

 そんな距離感なのだろう。

 

「ですが〜」

 

 小悪魔さんは、ふと私の方を見た。

 

「アズール様の前で少々騒がしくしてしまいましたね〜。改めて、お騒がせいたしました〜」

 

「いえ。楽しかったです」

 

「楽しかったですか〜」

 

「はい。とても」

 

「それはよかったです〜」

 

 小悪魔さんはくすくすと笑った。

 

 それから、私の顔をじっと見つめる。

 

 可愛らしい笑顔。

 

 けれど、その奥にある瞳は、少しだけ鋭い。

 

 まるで、私という存在を観察しているようだった。

 

「伯爵様から聞いていた通り、不思議な方ですね〜」

 

「不思議、ですか?」

 

「ええ〜。吸血鬼でありながら、魔力の流れが少し変わっています〜。それに、館の術式を見た時の目が、とても良かったです〜」

 

「目?」

 

「知りたい、という目でした〜」

 

 そう言われて、私は少しだけ恥ずかしくなる。

 

 でも否定はできない。

 

 私はさっきの魔法を見て、完全に心を奪われていた。

 

「魔法に興味があります。ものすごく」

 

「ふふ〜。良いことです〜」

 

 小悪魔さんの笑みが深くなる。

 

「魔法は良いですよ〜。知れば知るほど、世界の見え方が変わります〜。ただの光も、ただの風も、ただの水も、術式として見ればまったく別の顔を見せるのです〜」

 

 その言葉に、胸が高鳴った。

 

 世界の見え方が変わる。

 

 ただの光が、ただの風が、ただの水が、別の顔を見せる。

 

 それは、なんて魅力的な響きだろう。

 

「……学べますか?」

 

「もちろん〜。ただし、魔法は独学だけでは危険です〜。基礎を知らずに術式へ触れると、指先を焦がす程度では済まないこともありますからね〜」

 

「指先を焦がす程度では済まない」

 

 さらっと怖いことを言われた。

 

「ですので、もし学びたいのでしたら、まずは書庫へいらしてください〜。初歩の魔法文字の扱い方から始めましょう〜」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ〜。ただし」

 

 小悪魔さんは、人差し指を立てた。

 

「研究に夢中になりすぎて、食事や睡眠を忘れるのはおすすめしませんよ〜。魔法に魅入られた者は、よく書庫から出てこなくなりますので〜」

 

「そんな人がいるんですか?」

 

「たくさんいます〜」

 

「へぇ……」

 

 私は地下の書斎を思い出した。

 

 あの本棚。

 あの古い紙の匂い。

 読めない文字。

 知らない術式。

 

 そこに、小悪魔さんのような先生がいる。

 

 魔法を学べる。

 

 世界の仕組みを知れる。

 

 ……危ない。

 

 これは危ない。

 

 私は、引きこもる未来の自分を少しだけ見た気がした。

 

「お嬢様?」

 

 床から復活したヴァルターが、不安そうにこちらを見ていた。

 

「今、ものすごく危険な顔をしていました」

 

「え?」

 

「書庫に住み着きそうな顔です」

 

「そんなまさか」

 

 否定した。

 

 否定はした。

 

 でも、説得力はなかったと思う。

 

「ふふふ〜。良い弟子になりそうですね〜」

 

「弟子?」

 

 私が聞き返すと、小悪魔さんは楽しそうに笑った。

 

「ええ〜。もちろん、正式に教えるかどうかは伯爵様とも相談しますが〜。少なくとも、魔法に興味を持つ方を放っておくほど、私は冷たくありませんよ〜」

 

「ありがとうございます!」

 

 私は思わず頭を下げた。

 

 魔法を学べる。

 

 その可能性が生まれただけで、胸がわくわくする。

 

 この世界に来てから、分からないことばかりだった。

 

 でも、分からないことを学ぶ道がある。

 

 それは、とても心強いことだった。

 

「さて〜。用事も済みましたし、今日は挨拶だけにしておきましょうか〜」

 

「もう帰るのですか?」

 

「はい〜。この身体にまだ慣れていませんし、紅魔館の書庫も放っておけませんからね〜。それに、ヴァルターさんには後日、正式な分割払い契約書に署名していただく必要がありますので〜」

 

「しない!」

 

「します〜」

 

「しない!!」

 

「では次回の対価に、尻尾のお手入れ時間を追加します〜」

 

「横暴だ!」

 

「悪魔ですので〜」

 

 小悪魔さんは満面の笑みで言った。

 

 強い。

 

 悪魔としての説得力が、妙なところで強い。

 

「それではアズール様。改めまして、ようこそ月光館へ〜。館の管理術式に不具合があれば、私までお知らせください〜」

 

「はい。よろしくお願いします、小悪魔さん」

 

「小悪魔さん」

 

 彼女は一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、柔らかく笑う。

 

「……悪魔ちゃんよりは、少し落ち着きますね〜。では、それで構いません〜」

 

「では、小悪魔さん」

 

「はい〜」

 

「さっきの魔法、今度詳しく教えてください」

 

「もちろんです〜」

 

 小悪魔さんは、楽しそうに目を細めた。

 

「ただし、魔法は深いですよ〜。一度足を踏み入れたら、簡単には戻れませんからね〜」

 

「望むところです」

 

 即答した私を見て、ヴァルターが顔を覆った。

 

「お嬢様が危険な方向に目覚めてしまいました……」

 

「失礼ですね。私はただ知的好奇心が旺盛なだけです」

 

「それを世間では危険と言うのです……」

 

 そんなやり取りを聞きながら、小悪魔さんはくすくす笑う。

 

「では、また近いうちに〜。ヴァルターさんも、逃げないでくださいね〜」

 

「……逃げようかな」

 

「追います〜」

 

「鬼!」

 

「悪魔です〜」

 

 そう言って、小悪魔さんはとてとてと玄関へ向かって歩いていった。

 

 まだ小さな身体に慣れていないのか、少しよろけながらも、どこか楽しそうな足取りだった。

 

 扉が閉まり、月光館に再び静けさが戻る。

 

 けれど、さっきまでとは少し違う。

 

 この館には、魔法が満ちている。

 

 それを知ってしまった。

 

 そして、魔法を教えてくれるかもしれない先生とも出会ってしまった。

 

 私は、きっと今、ものすごく目を輝かせている。

 

「ヴァルター」

 

「はい……お嬢様」

 

「魔法って、すごいですね」

 

「……はい。ですが、ほどほどにしてくださいね」

 

「もちろんです」

 

「本当ですか?」

 

「本当です」

 

 たぶん。

 

 私は心の中でそう付け足した。

 

 月光館の夜は、まだ終わらない。

 

 新しい家。

 

 新しい従者。

 

 新しい先生。

 

 そして、新しい興味。

 

 どうやら私の新生活は、思っていた以上に賑やかになりそうだった。

 


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