東方庇護録   作:まほろばのーぶる

15 / 16
第15話 吸血鬼、お風呂に負ける


Asyl perspective

 

 小悪魔さんが帰った後、月光館には静けさが戻った。

 

 玄関の扉が閉まり、夜風が途切れる。

 

 大広間に残ったのは、月明かりに似た魔法灯と、私たち2人だけ。

 

 さっきまで小悪魔さんの明るい声と、ヴァルターの悲鳴が響いていたせいか、館が急に広くなったように感じる。

 

「……嵐のような方でしたね、小悪魔さん」

 

「はい……先生は昔からああいう方です……」

 

 隣のヴァルターは、完全にくたびれていた。

 

 耳はぺたん。

 

 尻尾はへにゃん。

 

 目元には、もふもふされすぎた者だけが到達する謎の悟りが浮かんでいる。

 

 大丈夫だろうか。

 

 いや、本人が「いつものことです」と言っていたので、たぶん大丈夫なのだろう。

 

 いつものこと、で片付けていいのかは分からないけれど。

 

「では、疲れを取るためにも……お風呂に入りましょうか」

 

「お風呂、ですか?」

 

「はい。さっき見学した大浴場です。疲労回復とか魔力回復とか、色々すごい効能があると聞きましたし」

 

 正直、私も限界だった。

 

 森で目覚めてから、吸血鬼、狼男、紅魔館、グニールさん、月光館、小悪魔さん、魔法、もふもふ。

 

 情報量が多すぎる。

 

 脳が温泉を求めている。

 

 いや、心も身体も魂も、とにかくお風呂に入りたい。

 

「で、ですが……お嬢様と、ご一緒に……ですか?」

 

 ヴァルターが視線を泳がせた。耳がぴこ、と動く。

 

「嫌なら別々でもいいですよ?」

 

「嫌ではありません!」

 

 即答だった。

 

 言った本人が、しまった、という顔をする。

 

 頬がじわじわ赤くなっていった。

 

「そ、その……お嬢様がお一人で入るよりは、私がそばにいた方が安心ですし。護衛として。あくまで護衛としてです」

 

「なるほど。護衛」

 

「はい。護衛です」

 

 お風呂の護衛。

 

 字面が強い。

 

 だが、私は今や吸血鬼である。

 

 日光に弱いし、他にも色々弱点があるはずだ。

 

 そういえば、吸血鬼は流水に弱いなんて話もあった気が――。

 

「ふぁ……」

 

 そこで、思考があくびに溶けた。

 

 夜明け前。

 

 吸血鬼の身体にとっては、かなり眠い時間らしい。

 

 流水?

 

 お風呂?

 

 まあ、湯船だし。

 

 川じゃないし。

 

 たぶん大丈夫でしょう。

 

「お嬢様、眠そうですね」

 

「眠いです。でも、お風呂には入りたいです」

 

「その執念は何なのですか……」

 

「お風呂は偉大なのです。記憶喪失でも、そこだけは魂が覚えています」

 

「魂が……」

 

 ヴァルターが困惑している。

 

 しかし、これは譲れない。

 

「では、念のため一緒に入りましょう。もし私が沈んだり、溶けたり、何か変なことになったら助けてください」

 

「溶けることはないと思いますが、沈んだら必ず助けます」

 

 ヴァルターが真剣に頷いた。

 

 頼もしい。

 


 

 脱衣所には、清潔なタオルと寝巻きが用意されていた。

 

 白地に淡い青の刺繍が入った、ネグリジェ風の寝巻き。

 

 裾には小さな月と星の模様が縫い込まれている。

 

「これ、私たち用ですか?」

 

「おそらく、月光館の管理術式が用意したものかと。先生が館の維持管理をしているので、必要な物が自動で揃うのでしょう」

 

「すごい。お風呂に入ろうと思っただけで寝巻きが出てくる家。昔の私が聞いたら感動しそうです」

 

「昔の、お嬢様ですか?」

 

「記憶が曖昧なので、たぶん、です」

 

 危ない。

 

 うっかり前世と言いかけた。

 

 私は自分が元人間だったことを、まだヴァルターに話すつもりはない。

 

 吸血鬼だと思って私に仕えてくれているヴァルターが、私を見る目を変えてしまうかもしれない。

 

 だから私は、記憶喪失の吸血鬼。

 

 今はそれでいい。

 

「お嬢様?」

 

「いえ、何でもありません。寝巻き、可愛いですね」

 

「はい。とても綺麗です」

 

 ヴァルターはそう言って、自分のローブに手を添えた。

 

 私が彼女に渡したローブだ。

 

 今はヴァルターの小さな身体に合わせ、柔らかな布地として彼女を包んでいる。

 

 ヴァルターはそれを、とても大切そうに脱いだ。

 

 皺にならないよう整え、宝物に触れるような手つきで畳んでいく。

 

「そのローブ、大事にしてくれているんですね」

 

「はい。お嬢様がくださったものですから」

 

「……そ、そうですか」

 

 思ったよりまっすぐ返されて、少し照れた。

 

 嬉しい。

 

 かなり嬉しい。

 

 けれど、ここでにやけると威厳が消える。

 

 いや、最初から威厳があったかは不明だけれど。

 

「いつか、もっと色々な服も着てみましょうね」

 

「え?」

 

「いえ、何でもありません」

 

 危ない。

 

 可愛い服を着せたい欲が漏れた。

 

 ヴァルターの耳が警戒するようにぴくりと動いたので、私はそっと目を逸らす。

 

 その先に、大きな鏡があった。

 

 私は何気なくそちらを見て――。

 

「……あ」

 

 映っていない。

 

 鏡の中には、脱衣所と、タオルと、寝巻きと、ヴァルターの姿だけ。

 

 私の姿は、どこにもなかった。

 

 吸血鬼は鏡に映らない。

 

 そんな知識が、頭の奥にぽつりと浮かぶ。

 

「お嬢様?」

 

「いえ。鏡に映らないの、ちょっと不思議だなと思いまして」

 

「ああ、吸血鬼の方は鏡に映らないと聞きます。伯爵様もそうでした」

 

「グニールさんもですか」

 

「はい」

 

 なるほど。

 

 吸血鬼あるあるらしい。

 

 私たちは身体にタオルを巻き、浴場へ続く扉の前に立つ。

 

 ヴァルターはかなり緊張していた。

 

 ローブを脱いだせいか、狼耳と尻尾がいつもより目立つ。

 

「もしかして、ヴァルターはお風呂が初めてですか?」

 

「……はい。狼男だった頃も、こういう浴場には入ったことがありません。水浴びくらいならありますが、お湯に浸かるのは……初めてです」

 

「なるほど」

 

 初めてのお風呂。

 

 これは重大イベントである。

 

「大丈夫です。怖くありません。お風呂は敵ではありません。極楽です」

 

「ごくらく」

 

「はい。極楽です」

 

 ヴァルターがますます困惑した顔になった。

 

 私はそっと扉を開ける。

 

 湯気が、ふわりと流れ出した。

 


 

 浴場は広かった。

 

 磨かれた石造りの床。

 

 大きな湯船。

 

 白く上る湯気。

 

 月光館らしく、窓から光は直接差し込まない。

 

 壁に反射した淡い月明かりと魔法灯が、湯面の上で揺れている。

 

「すごいですね、ヴァルター。湯船の中に月がありますよ」

 

「本当ですね……」

 

 ヴァルターも目を丸くしていた。

 

 さっきまで警戒していたのに、景色には素直に感動しているらしい。

 

 耳が少し立っている。

 

 かわいい。

 

「では、まずはかけ湯をしましょう」

 

「かけ湯?」

 

「いきなり湯船に入るのではなく、先に身体へお湯をかけるのです。そういう作法があるのですよ」

 

 かけ湯用の湯は、ちょうどいい温度だった。

 

 肩へかけると、じんわりと身体が温まる。

 

「ん……気持ちいい」

 

 自然と声が漏れた。

 

 ヴァルターも真似して足先に少しかけ、ぴくっと震える。

 

「熱かったですか?」

 

「いえ……温かくて、びっくりしました」

 

「ふふ。では、ゆっくり慣らしましょう」

 

 私は先に湯船へ足を入れた。

 

 湯が足首を包む。

 

 そのまま、ゆっくり腰を下ろす。

 

 肩まで湯に沈めた瞬間――。

 

「はぁぁ……」

 

 完全に声が出た。

 

 これは駄目だ。

 

 幸せすぎる。

 

 今日の混乱も、不安も、小悪魔さんの嵐も、全部まとめて湯に溶けていくようだった。

 

「しあわせぇ……」

 

「お嬢様、お風呂に入る姿がとても慣れていますね」

 

「なぜか身体が覚えているんですよね。お風呂は極楽だって」

 

「お嬢様の記憶は、不思議なところが鮮明なのですね」

 

「本当にそうですね」

 

 自分の名前も、家族も、元の姿も分からない。

 

 でも、お風呂のありがたみは分かる。

 

 私の記憶、偏りがすごい。

 

「ヴァルターもどうぞ。大丈夫です。お湯は噛みません」

 

「お湯が噛むとは思っていませんが……」

 

 ヴァルターは慎重に湯船へ足を入れた。

 

 耳がぴんと立つ。

 

 尻尾は濡れないように必死に上げられている。

 

「……!」

 

「どうですか?」

 

「温かいです」

 

「でしょう?」

 

「……気持ち、いいです」

 

 ヴァルターの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 そろそろと湯に入り、私の隣に腰を下ろす。

 

 湯気の向こうで、頬が赤く見えた。

 

 しばらく、私たちは黙って湯に浸かった。

 

 ぽこり、と小さな気泡が弾ける。

 

 湯が石壁に当たり、静かに返る。

 

 静かだった。

 

 けれど、退屈ではない。

 

 ようやく一息つけた気がした。

 

「……ヴァルター」

 

「はい、お嬢様」

 

「この世界のことを、もう少し教えてもらってもいいですか?」

 

「世界のこと、ですか」

 

「はい。私は記憶喪失の吸血鬼ですからね。常識がすっぽり抜けている可能性が高いのです」

 

「それを明るく言えるのは、お嬢様のすごいところですね」

 

「暗く言うと怖くなるので、明るく言ってごまかしています」

 

「ごまかしているのですか……」

 

「はい。かなり」

 

 ヴァルターが小さく笑った。

 

「私もすべてを知っているわけではありません。紅魔館で聞いたことや、私が見てきた範囲になります」

 

「それで十分です」

 

「では……この辺りでは、人間と妖怪は常に敵同士というわけではありません。人間を襲って畏れを得る妖怪もいますが、取引をしたり、土地を守ったり、信仰を受けたりする者もいます」

 

「妖怪も色々なんですね」

 

「はい。人間も色々です。妖怪を恐れる者もいれば、利用しようとする者もいます。共に暮らそうとする者も、必ず滅ぼそうとする者もいます」

 

「うーん。複雑」

 

「複雑です」

 

 単純な善悪ではない。

 

 そこは、何となく分かってきた。

 

「紅魔館は、人間とはそこそこ上手くやっているんですよね?」

 

「はい。伯爵様は周辺の人間社会と契約を結んでいます。無秩序に襲わない代わりに、人間側も紅魔館の領域へ不用意に踏み込まない。時には物資や情報の取引も行うそうです」

 

「グニールさん、ちゃんと領主っぽいことしてるんですね」

 

「伯爵様は伯爵様ですから」

 

「それはそう」

 

 幼い外見で、男の娘で、しかも伯爵。

 

 情報が渋滞している。

 

「人間側で、妖怪退治をする組織もあるんですよね?」

 

「あります。村の自警団や、領主の兵、祈祷師、魔法使い、聖職者……地域によって様々です。その中でも、この辺りで特に名が知られているのが【ワルプルギス】です」

 

「ワルプルギス」

 

 名前の圧が強い。

 

「最近の人間たちは、【教会】と呼ぶこともあるそうです。聖職者や信仰を掲げる者が多く関わっているため、俗にそう呼ばれるようになったとか。ですが、古くから知る者はワルプルギスと呼びます」

 

「人間からすれば守ってくれる組織。でも妖怪からすれば怖い組織」

 

「そうです」

 

 ヴァルターの声が少しだけ小さくなった。

 

「狼男は、人間にとって分かりやすい怪物ですから。満月、森、爪、牙、遠吠え。そういうものを怖がる人間は多いです」

 

「ヴァルターは怖い怪物じゃないですよ」

 

「……お嬢様はそう言ってくださいますが、人間から見れば違います」

 

「人間の見る目が節穴なのです」

 

「節穴……」

 

「少なくとも、私には可愛い狼さんに見えています」

 

「それはそれで、少し複雑です……」

 

 ヴァルターが耳を伏せる。

 

 でも、口元は少しだけ緩んでいた。

 

「お嬢様は、吸血鬼としてはとても不思議です」

 

「そうですか?」

 

「はい。吸血鬼の方は、もっと威厳があって、恐ろしくて、近寄りがたいものだと思っていました」

 

「私に威厳がないと」

 

「い、いえ! そういう意味では!」

 

「大丈夫です。自覚はあります。威厳はお風呂の湯気と一緒に飛んでいきました」

 

「飛ばないでください、威厳」

 

「捕まえてきてください」

 

「無理です」

 

 そんな軽口を交わしていると、不思議と胸が軽くなった。

 

 世界は複雑だ。

 

 人間と妖怪の関係も、紅魔館の立場も、ワルプルギスのことも、簡単には理解できない。

 

 でも、全部を今すぐ背負う必要はない。

 

 まずは知る。

 

 少しずつ覚える。

 

 それでいい。

 

「他に、知りたいことはありますか?」

 

「時代とか、国とか、そのあたりも知りたいです。私の知っている地理や歴史とは似ているけど違うみたいなので」

 

「この辺りには、人間の王国や部族、領主の土地、都市、教会勢力の強い町などが点在しているそうです。ローマという大きな帝国の影響も、まだ残っていると聞きます」

 

「ローマ……」

 

 その言葉には、はっきり聞き覚えがある。

 

 ただ、私の知っている歴史と同じかどうかは分からない。

 

 この世界には吸血鬼がいて、狼男がいて、悪魔がいて、魔法がある。

 

 なら、似ていても別物と考えた方が良さそうだ。

 

「……ふぁ」

 

 また、あくびが漏れた。

 

「お嬢様、そろそろ上がりますか?」

 

「そうですね……名残惜しいですが、そろそろ……」

 

 そう言って、私は立ち上がろうとした。

 

 その瞬間。

 

 浴槽の奥で、湯が小さく巡った。

 

 魔法による循環なのだろう。

 

 湯温を保つための、ごく弱い流れ。

 

 それが、足首に触れた。

 

「……あれ?」

 

 身体から、すっと力が抜けた。

 

 腕に力が入らない。

 

 足が踏ん張れない。

 

 まぶたが急に重くなる。

 

 いや、違う。

 

 眠気だけではない。

 

 身体そのものが、湯に絡め取られるように重い。

 

 吸血鬼は、流水に弱い。

 

 さっき思い出しかけた知識が、今さらはっきりと浮かんだ。

 

 遅い。

 

 とても遅い。

 

 気づくのが遅すぎる。

 

 私はそのまま、湯の中へ沈んだ。

 

 ごぽ、と音がした。

 

 視界が揺れる。

 

 湯気の白と、月明かりの青が、水面の向こうで歪んでいる。

 

 息ができない。

 

 いや、吸血鬼って息は必要なのだろうか。

 

 そんなことを考えている場合ではない。

 

 力が入らない。

 

 指先が痺れる。

 

 湯が流れるたびに、身体の奥から何かを抜き取られているみたいだった。

 

 まずい。

 

 これは、本当にまずい。

 

 お風呂は極楽。

 

 などと言っていた数分前の私を殴りたい。

 

 いや、殴る力もない。

 

 助けて。

 

 そう思った瞬間。

 

「お嬢様!」

 

 湯が大きく跳ねた。

 

 温かい腕が、私の身体を抱き上げる。

 

 ざばり、と顔が水面に出た。

 

「ごほっ、ごほっ……!」

 

「お嬢様、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

 

 ヴァルターの声が、すぐ近くで聞こえた。

 

 濡れた髪。

 

 伏せられた耳。

 

 必死な瞳。

 

 彼女が私を抱きかかえ、湯船の縁へ引き寄せてくれていた。

 

「だ、大丈夫……たぶん……」

 

「たぶんでは困ります!」

 

「はい……すみません……」

 

 怒られた。

 

 でも、怒られて当然だった。

 

 湯から上がると、少しずつ力が戻ってくる。

 

 とはいえ、全身はまだ重い。

 

「吸血鬼は流水に弱い……でしたね……」

 

 私がぼそりと呟くと、ヴァルターの顔が青ざめた。

 

「……失念していました。申し訳ありません。私が気づくべきでした」

 

「いえ、私も思い出しかけていたのに、お風呂の誘惑に負けました」

 

「誘惑に負けないでください!」

 

「お風呂が強すぎたんです……」

 

「お風呂のせいにしないでください!」

 

 正論だった。

 

「ですが……これは、普通の吸血鬼の反応よりかなり重いと思います」

 

「そうなんですか?」

 

「はい。伯爵様なら、この程度の湯の流れで沈むことはないはずです。普通の吸血鬼でも、川や大きな流れは危険ですが、浴槽の循環でここまで力を失うのは珍しいかと」

 

「つまり私は、お風呂に弱い吸血鬼……?」

 

「正確には、流水に特に弱い吸血鬼です」

 

 なんという悲劇。

 

 吸血鬼になったら、日光だけでなくお風呂にも命を狙われるとは。

 

「でも、お風呂には毎日入りたいです」

 

「今の話を聞いて、なぜその結論になるのですか」

 

「好きなので」

 

「好きなので、ではありません」

 

 ヴァルターが呆れた顔をした。

 

 でも、すぐに真剣な表情になる。

 

「……でしたら、これからは私が毎回お嬢様のお風呂に付き添います」

 

「え」

 

「お嬢様が沈まないように、ちゃんと見ています。湯の流れが強くならないように気を配りますし、もし力が抜けたらすぐに支えます。だから、安心してお風呂に入ってください」

 

 ヴァルターは少し恥ずかしそうだった。

 

 でも、目はまっすぐだった。

 

 毎回一緒にお風呂。

 

 これはつまり。

 

 介護。

 

 いや、護衛。

 

 でもやっぱり介護。

 

 ……いや待ってください。

 

 ヴァルターと毎日お風呂。

 

 それは、かなり嬉しいのでは?

 

「……迷惑ではありませんか?」

 

「迷惑なわけありません」

 

 ヴァルターは即答した。

 

「私はお嬢様の従者です。お嬢様が危ないなら、そばにいます」

 

「ヴァルター……」

 

「それに……その、お嬢様と一緒に入るのが嫌なわけでは、ないので……」

 

 最後の声は、とても小さかった。

 

 けれど、私にはしっかり聞こえた。

 

 耳が熱い。

 

 湯のせいか。

 

 違う気がする。

 

「ありがとうございます。では、これからもよろしくお願いします。お風呂護衛係さん」

 

「お風呂護衛係……」

 

「駄目ですか?」

 

「……いえ。任せてください」

 

 ヴァルターが少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

 耳がぴこりと立つ。

 

 濡れないように上げていた尻尾が、感情に負けて少し揺れる。

 

 可愛い。

 

 とても可愛い。

 

 私は流水に弱い。

 

 だが、ヴァルターがいる。

 

 つまり、私はお風呂に入れる。

 

 素晴らしい。

 

 吸血鬼生、まだ希望はある。

 


 

 結局、その後はあまり長湯せずに上がることになった。

 

 名残惜しい。

 

 でも、もう一度沈むのはさすがに怖い。

 

 ヴァルターに支えられながら湯船を出て、脱衣所へ戻る。

 

 身体を拭いて、用意されていた寝巻きに袖を通す。

 

 白地に淡い青の刺繍が入った柔らかな寝巻きは、驚くほど肌触りが良かった。

 

 月光館、衣食住のうち衣と住の満足度が高すぎる。

 

 あとは食、というか吸血鬼的には血の問題だろうか。

 

 ……それは後で考えよう。

 

 今は眠い。

 

「ヴァルター、髪と耳、拭きましょうか?」

 

「えっ」

 

「濡れたままだと冷えますし。さっき助けてもらったお礼です」

 

「で、では……お願いします」

 

 ヴァルターは少し照れながらも、私の前に座った。

 

 私はタオルで、彼女の髪を優しく拭く。

 

 次に耳。

 

 水を含んだ毛は少し重くなっていた。

 

「痛くないですか?」

 

「はい……大丈夫です」

 

「では、尻尾も」

 

「し、尻尾もですか?」

 

「濡れたでしょう?」

 

「少しだけ……」

 

「少しだけなら、少しだけ拭きます」

 

「……お願いします」

 

 ヴァルターは観念したように尻尾を差し出した。

 

 私はタオルで丁寧に水気を取る。

 

 小悪魔さんのように暴走しない。

 

 私は理性的な吸血鬼なのです。

 

 たぶん。

 

「今度、小悪魔さんに毛並み乾燥用の魔法がないか聞いてみましょうか」

 

「先生ならありそうですが、聞いたら対価を要求されそうです」

 

「対価はまた、もふもふでしょうか」

 

「現実味がありすぎるのでやめてください」

 

 2人で小さく笑った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。