東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第15話 吸血鬼、お風呂に負ける


Asyl perspective

 

 小悪魔さんが帰った後、月光館には静けさが戻った。

 

 玄関の扉が閉まり、夜風が途切れる。

 

 大広間に残ったのは、月明かりに似た魔法灯と、私たち2人だけ。

 

 さっきまで小悪魔さんの明るい声と、ヴァルターの悲鳴が響いていたせいか、館が急に広くなったように感じる。

 

「……嵐のような方でしたね、小悪魔さん」

 

「はい……先生は昔からああいう方です……」

 

 隣のヴァルターは、完全にくたびれていた。

 

 耳はぺたん。

 

 尻尾はへにゃん。

 

 目元には、もふもふされすぎた者だけが到達する謎の悟りが浮かんでいる。

 

 ……大丈夫だろうか。

 

 いや、本人が「いつものことです」と言っていたので、たぶん大丈夫なのだろう。

 

 いつものこと、で片付けていいのかは分からないけれど。

 

「では、疲れを取るためにも……お風呂に入りましょうか」

 

「お風呂、ですか?」

 

「はい。さっき見学した大浴場です。疲労回復とか魔力回復とか、色々すごい効能があると聞きましたし」

 

 正直、私も限界だった。

 

 森で目覚めてから、吸血鬼、狼男、紅魔館、グニールさん、月光館、小悪魔さん、魔法、もふもふ。

 

 情報量が多すぎる。

 

 脳が温泉を求めている。

 

 いや、心も身体も魂も、とにかくお風呂に入りたい。

 

「で、ですが……お嬢様と、ご一緒に……ですか?」

 

 ヴァルターが視線を泳がせた。耳がぴこ、と動く。

 

「嫌なら別々でもいいですよ?」

 

「嫌ではありません!」

 

 即答だった。

 

 言った本人が、しまった、という顔をする。

 

 頬がじわじわ赤くなっていった。

 

「そ、その……お嬢様がお一人で入るよりは、私がそばにいた方が安心ですし。護衛として。あくまで護衛としてです」

 

「なるほど。護衛」

 

「はい。護衛です」

 

 お風呂の護衛。

 

 なんか字面がかわいい。

 

「ふぁ……」

 

 我慢できずあくびが漏れる。

 

 夜明け前。

 

 吸血鬼の身体にとっては、かなり眠い時間らしい。

 

「お嬢様、眠そうですね」

 

「眠いです。でも、お風呂には入りたいです」

 

「その執念は何なのですか……」

 

「お風呂は偉大なのです。記憶喪失でも、そこだけは魂が覚えています」

 

「魂が……」

 

 ヴァルターが困惑している。

 

 しかし、これは譲れない。

 

「では、念のため一緒に入りましょう。もし私が沈んだり、溶けたり、何か変なことになったら助けてください」

 

「溶けることはないと思いますが、沈んだら必ず助けます」

 

 ヴァルターが真剣に頷いた。

 

 頼もしい。

 

 


 

 

 脱衣所には、清潔なタオルと寝巻きが用意されていた。

 

 白地に淡い青の刺繍が入った、ネグリジェ風の寝巻き。

 

 裾には小さな月と星の模様が縫い込まれている。

 

「これ、私たち用ですか?」

 

「おそらく、月光館の管理術式が用意したものかと。先生が館の維持管理をしているので、必要な物が自動で揃うのでしょう」

 

「すごい。お風呂に入ろうと思っただけで寝巻きが出てくる家。昔の私が聞いたら感動しそうです」

 

「昔の、お嬢様ですか?」

 

「……記憶が曖昧なので、たぶん、です」

 

 危ない。

 

 うっかり前世と言いかけた。

 

 私は自分が元人間だったことを、まだヴァルターに話すつもりはない。

 

 吸血鬼だと思って私に仕えてくれているヴァルターが、私を見る目を変えてしまうかもしれない。

 

 だから私は、記憶喪失の吸血鬼。

 

 今はそれでいい。

 

「お嬢様?」

 

「いえ、何でもありません。寝巻き、可愛いですね」

 

「はい。とても綺麗です」

 

 ヴァルターはそう言って、自分のローブに手を添えた。

 

 私が彼女に渡したローブだ。

 

 今はヴァルターの小さな身体に合わせ、柔らかな布地として彼女を包んでいる。

 

 ヴァルターはそれを、とても大切そうに脱いだ。

 

 皺にならないよう整え、宝物に触れるような手つきで畳んでいく。

 

「そのローブ、大事にしてくれているんですね」

 

「はい。お嬢様がくださったものですから」

 

「……そ、そうですか」

 

 思ったよりまっすぐ返されて、少し照れた。

 

 嬉しい。

 

 かなり嬉しい。

 

 けれど、ここでにやけると威厳が消える。

 

 いや、最初から威厳があったかは不明だけれど。

 

「いつか、もっと色々な服も着てみましょうね」

 

「え?」

 

「いえ、何でもありません」

 

 危ない。

 

 可愛い服を着せたい欲が漏れた。

 

 ヴァルターの耳が警戒するようにぴくりと動いたので、私はそっと目を逸らす。

 

 その先に、大きな鏡があった。

 

 私は何気なくそちらを見て――。

 

「……あ」

 

 映っていない。

 

 鏡の中には、脱衣所と、タオルと、寝巻きと、ヴァルターの姿だけ。

 

 私の姿は、どこにもなかった。

 

 吸血鬼は鏡に映らない。

 

 そんな知識が、頭の奥にぽつりと浮かぶ。

 

「お嬢様?」

 

「いえ。鏡に映らないの、ちょっと不思議だなと思いまして」

 

「ああ、吸血鬼の方は鏡に映らないと聞きます。伯爵様もそうでした」

 

「グニールさんもですか」

 

「はい」

 

 なるほど。

 

 吸血鬼あるあるらしい。

 

 私たちは身体にタオルを巻き、浴場へ続く扉の前に立つ。

 

 ヴァルターはかなり緊張していた。

 

 ローブを脱いだせいか、狼耳と尻尾がいつもより目立つ。

 

「もしかして、ヴァルターはお風呂が初めてですか?」

 

「……はい。狼男だった頃も、こういう浴場には入ったことがありません。水浴びくらいならありますが、お湯に浸かるのは……初めてです」

 

「なるほど」

 

 初めてのお風呂。

 

 これは重大イベントである。

 

「大丈夫です。怖くありません。お風呂は敵ではありません。極楽です」

 

「ごくらく」

 

「はい。極楽です」

 

 ヴァルターがますます困惑した顔になった。

 

 私はそっと扉を開ける。

 

 湯気が、ふわりと流れ出した。

 

 


 

 

 浴場は広かった。

 

 磨かれた石造りの床。

 

 大きな湯船。

 

 白く上る湯気。

 

 月光館らしく、窓から光は直接差し込まない。

 

 壁に反射した淡い月明かりと魔法灯が、湯面の上で揺れている。

 

「すごいですね、ヴァルター。湯船の中に月がありますよ」

 

「本当ですね……」

 

 ヴァルターも目を丸くしていた。

 

 さっきまで警戒していたのに、景色には素直に感動しているらしい。

 

 耳が少し立っている。

 

 かわいい。

 

「では、まずはかけ湯をしましょう」

 

「かけ湯?」

 

「いきなり湯船に入るのではなく、先に身体へお湯をかけるのです。そういう作法があるのですよ」

 

 かけ湯用の湯は、ちょうどいい温度だった。

 

 肩へかけると、じんわりと身体が温まる。

 

「ん……気持ちいい」

 

 その心地よさに自然と声が漏れた。

 

 ヴァルターも真似して足先に少しかけ、ぴくっと震える。

 

「熱かったですか?」

 

「いえ……温かくて、びっくりしました」

 

「ふふ。では、ゆっくり慣らしましょう」

 

 私は先に湯船へ足を入れた。

 

 湯が足首を包む。

 

 そのまま、ゆっくり腰を下ろす。

 

 肩まで湯に沈めた瞬間――。

 

「はぁぁ……」

 

 完全に声が出た。

 

 これは駄目だ。

 

 幸せすぎる。

 

 今日の混乱も、不安も、全部まとめて湯に溶けていくようだった。

 

「しあわせぇ……」

 

「お嬢様、お風呂に入る姿がとても慣れていますね」

 

「……身体が覚えているんですよね。お風呂は極楽だって」

 

「お嬢様の記憶は、不思議なところが鮮明なのですね」

 

「……本当にそうですね」

 

 自分の名前も、家族も、元の姿も分からない。

 

 でも、お風呂のありがたみは分かる。

 

 確かに私の記憶は偏りがひどい。

 

「ヴァルターもどうぞ。大丈夫です。お湯は噛みませんよ」

 

「お湯が噛むとは思っていませんが……」

 

 ヴァルターは慎重に湯船へ足を入れた。

 

 耳がぴんと立つ。

 

 尻尾は濡れないように必死に上げられている。

 

「……!」

 

「どうですか?」

 

「……温かいです」

 

「でしょう?」

 

「……気持ち、いいです」

 

 ヴァルターの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 そろそろと湯に入り、私の隣に腰を下ろす。

 

 湯気の向こうで、頬が赤く見えた。

 

 しばらく、私たちは黙って湯に浸かった。

 

 ぽこり、と小さな気泡が弾ける音が静かな時間によく響く。

 

 湯が石壁に当たり、静かに返る。

 

 穏やかな時間だ。

 

 ようやく一息つけた気がする。

 

「……ヴァルター」

 

「はい、お嬢様」

 

「この世界のことを、もう少し教えてもらってもいいですか?」

 

「世界のこと、ですか」

 

「はい。私は記憶喪失の吸血鬼ですからね。常識がすっぽり抜けている可能性が高いのです」

 

「それを明るく言えるのは、お嬢様のすごいところですね」

 

「暗く言うと自分でも怖くなるので、明るく言ってごまかしています」

 

「ごまかしているのですか……」

 

「はい。かなり」

 

 ヴァルターが小さく笑った。

 

「私もすべてを知っているわけではありません。紅魔館で聞いたことや、私が見てきた範囲になります」

 

「それで十分です」

 

「では……この辺りでは、人間と妖怪は常に敵同士というわけではありません。人間を襲って畏れを得る妖怪もいますが、取引をしたり、土地を守ったり、信仰を受けたりする者もいます」

 

「妖怪も色々なんですね」

 

「はい。人間も色々です。妖怪を恐れる者もいれば、利用しようとする者もいます。共に暮らそうとする者も、必ず滅ぼそうとする者もいます」

 

「うーん。複雑そうですね」

 

「はい。複雑です」

 

 単純な善悪ではない。

 

 そこは、何となく分かってきた。

 

「紅魔館は、人間とはそこそこ上手くやっているんですよね?」

 

「はい。伯爵様は周辺の人間社会と契約や盟約を結んでいます。こちらが人間を無秩序に襲わない代わりに、人間側も紅魔館の領域へ不用意に踏み込まない。時には物資や情報の取引も行うそうです」

 

「グニールさん、ちゃんと領主っぽいことしてるんですね」

 

「伯爵様は伯爵様ですから」

 

「それはそう」

 

 幼い外見で、男の娘で、しかも伯爵。

 

 情報が渋滞している。

 

「人間側で、妖怪退治をする組織もあるんですよね?」

 

「あります。村の自警団や、領主の兵、祈祷師、魔法使い、聖職者……地域によって様々です。その中でも、この辺りで特に名が知られているのが【ワルプルギス】です」

 

「ワルプルギス?」

 

 なんだかめちゃくちゃ強そうな名前が出てきた。

 

「最近の人間たちは、【教会】と呼ぶこともあるそうです。聖職者や信仰を掲げる者が多く関わっているため、俗にそう呼ばれるようになったとか。ですが、古くから知る者はワルプルギスと呼びます」

 

「……なるほど」

 

 世界は複雑だ。

 

 人間と妖怪の関係も、紅魔館の立場も、ワルプルギスのことも、簡単には理解できない。

 

 でも、全部を今すぐ背負う必要はない。

 

 まずは知る。

 

 少しずつ覚える。

 

 それでいい。

 

「他に、知りたいことはありますか?」

 

「時代とか、国とか、そのあたりも知りたいです。私の知っている地理や歴史とは似ているけど違うみたいなので」

 

「この辺りには、人間の王国や部族、領主の土地、都市、教会勢力の強い町などが点在しているそうです。ローマという大きな帝国の影響も、まだ残っていると聞きます」

 

「ローマ……」

 

 その言葉には、はっきり聞き覚えがある。

 

 ただ、私の知っている歴史と同じかどうかは分からない。

 

 この世界には吸血鬼がいて、狼男がいて、悪魔がいて、魔法がある。

 

 なら、似ていても別物と考えた方が良さそうだ。

 

 ほかにこの辺りにはどのような地名があるのかをヴァルターに聞こうとした——その時。

 

 

 浴槽の奥で、湯が小さく流れ始めた。

 

 おそらく魔法による循環なのだろう。

 

 湯温を保つための、ごく弱い流れ。

 

 それが、足首に触れた感触がした。

 

「……あれ?」

 

 その流れが触れた直後身体から、すっと力が抜けた。

 

 腕に力が入らない。

 

 足が踏ん張れない。

 

 身体そのものが、湯に絡め取られるように重くなる。

 

 

 そして、私はそのまま、湯の中へ沈んだ。

 

 ごぽ、と音がした。

 

 視界が揺れる。

 

 息ができない。

 

 力が入らない。

 

 指先が痺れる。

 

 水流が身体に触れるたびに、身体の奥から何かの力を抜き取られているみたいだった。

 

 ……まずい。

 

 これは、本当にまずい。

 

 お風呂は極楽。

 

 などと言っていた数分前の私を殴りたい。

 

 吸血鬼は流水に弱い。

 

 いまさら前世で知っていた吸血鬼の弱点を思い出した

 

 いや、今更過ぎる。

 

 このままではせっかく始まった吸血鬼生が溺死で終わってしまう。

 

 そう思った瞬間。

 

「お嬢様!」

 

 そんな慌てふためくヴァルターの声が聞こえた。

 

 温かい腕が、私の身体を抱き上げる。

 

 そしてざばり、と水面から出ることができた。

 

「ごほっ、ごほっ……!」

 

「お嬢様、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

 

 ヴァルターの声が、すぐ近くで聞こえた。

 

 濡れた髪。

 

 伏せられた耳。

 

 必死な瞳。

 

 彼女が私を抱きかかえ、湯船の縁へ引き寄せてくれていた。

 

「だ、大丈夫……たぶん……」

 

「たぶんでは困ります!」

 

「はい……すみません……」

 

 怒られた。

 

 でも、怒られて当然だった。

 

 湯から上がると、少しずつ力が戻ってくる。

 

 とはいえ、全身はまだ重い。

 

「吸血鬼は流水に弱い……でしたね……いまさら思い出しましたよ」

 

 私がぼそりと呟くと、ヴァルターの顔が青ざめた。

 

「……失念していました。申し訳ありません。私が気づくべきでした」

 

「いえ、私も思い出すべきだったのに思考がお風呂の誘惑に負けてました」

 

「誘惑に負けないでください!」

 

「お風呂が強すぎたんです……」

 

「お風呂のせいにしないでください!」

 

 正論だった。

 

「ですが……これは、普通の吸血鬼の反応よりかなり重いと思います」

 

 ヴァルターは少し困惑気味に思案を始める。

 

「そうなんですか?」

 

「はい。伯爵様なら、この程度の湯の流れで沈むことはないはずです。普通の吸血鬼でも、川や大きな流れは危険ですが、浴槽の循環でここまで力を失うのは珍しいかと」

 

「つまり私は、お風呂に弱い吸血鬼ってことですか……?」

 

「正確には、流水に特に弱い吸血鬼ということです」

 

 ……なんという悲劇。

 

 吸血鬼になったら、日光だけでなくお風呂にも命を狙われるとは。

 

 お風呂好きの私にとっては悲報すぎる。

 

「……でも、お風呂には毎日入りたいです」

 

「今の話を聞いて、なぜその結論になるのですか」

 

「好きなので」

 

「好きなので、ではありません」

 

 ヴァルターが呆れた顔をした。

 

 でも、すぐに真剣な表情になる。

 

「……でしたら、これからは私が毎回お嬢様のお風呂に付き添います」

 

「え」

 

「お嬢様が沈まないように、ちゃんと見ています。湯の流れが強くならないように気を配りますし、もし力が抜けたらすぐに支えます。だから、安心してお風呂に入ってください」

 

 ヴァルターは少し恥ずかしそうだった。

 

 でも、目はまっすぐだった。

 

 毎回一緒にお風呂。

 

 これはつまり。

 

 ……介護?

 

「……迷惑ではありませんか?」

 

「迷惑なわけありません」

 

 ヴァルターは即答した。

 

「私はお嬢様の従者です。お嬢様が危ないなら、そばにいます」

 

「ヴァルター……」

 

 ヴァルター、めっちゃ良い子過ぎる。

 こんなお風呂でおぼれる情けない吸血鬼を嫌がらず介護してくれるなんて。

 

「ありがとうございます。では、これからもよろしくお願いします」

 

「任せてください」

 

 ヴァルターが少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

 耳がぴこりと立つ。

 

 濡れないように上げていた尻尾が、感情に負けて少し揺れる。

 

 可愛い。

 

 とても可愛い。

 

 ヴァルターのおかげで私は今生でもお風呂に入れる。

 

 素晴らしい。

 

 吸血鬼生、まだ希望はある。

 

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