東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第3話 どうやら私は吸血鬼らしい


The silver-haired girl's perspective?

 

 そよ風が、月明かりに照らされた平原を静かに吹き抜けていく。

 

 銀色の光を受けた草原は、風に撫でられるたびにさらさらと揺れ、穏やかな静けさに包まれていた。

 

 見上げれば、深い蒼のヴェールを広げた夜空。

 その中で、無数の星屑がきらきらと瞬いている。

 

 けれど今夜の主役は、どうやら星たちではないらしい。

 

 夜空の真ん中には、まん丸な月がぷかぷかと浮かんでいた。

 星々は、まるで主役の座を譲るみたいに控えめに瞬き、その満月を静かに引き立てている。

 

 そんな優しい月明かりの下。

 

 平原には、2つの奇妙な影が浮かび上がっていた。

 

 1つは、ちょこんと正座しながら、少しはしゃいでいるみたいに、もう一方の影へずいずいと近づいていく小さな影。

 

 もとい、私。

 

 もう1つは、私が近づくたびにビクッ、ビクッと震え、地面に頭をこすりつけるようにして縮こまっている大きな影。

 

 もとい、変態狼マスクさん。

 

 ……いや、狼男さん。

 

「……ところで! 狼男さん、ちょっと聞きたいことがあります!」

 

「ひぃいいい!? ひゃ、ひゃい! ご、ごめんなさいぃぃぃ!!」

 

 さっきから、ずっとこの調子だった。

 

 私が少し声をかける。

 狼男さんが全力で震える。

 私が慌ててなだめる。

 狼男さんがさらに縮こまる。

 

 この問答を、もう何回繰り返しただろう。

 

 どういうわけか、狼男さんは私を心の底から恐れているらしく、地面に伏せたまま、まったく顔を上げようとしない。

 

「……さっきから、なんでそんなに怯えてるんですか? 普通にお話しましょうよ〜」

 

「ひぃいいい!! ごめんなさいぃ!!」

 

 返事になっていない。

 

 いや、謝罪としては成立しているのかもしれないけれど、会話としては成立していない。

 

 ……うーん。

 

 今の私の見た目は、どう見ても小さな人間の女の子だ。

 

 少なくとも、私自身の感覚ではそうである。

 手足は細いし、背も低いし、声もやけに可愛らしい。

 どこからどう見ても、か弱い少女にしか見えないはずだ。

 

 それに比べて、目の前の狼男さんは私の何倍も大きい。

 

 鋭い爪。

 立派な牙。

 もふもふだけれど迫力のある体格。

 そして、いかにも人間を主食にしていそうな狼の顔。

 

 普通に考えれば、怖がるべきなのは私の方だと思う。

 

 ……思うのだけれど。

 

 狼男さんの視線は、たまに私の手元へ向かっていた。

 

 正確には、土と木くずで少しだけ汚れている手へ。

 

 そして私と目が合うたび、狼男さんは「もう終わりだ」と言わんばかりに震え上がる。

 

「うぅ……殺すならせめて痛くないようにお願いします……」

 

「……」

 

 ……どうしよう。

 

 すべてを諦めた人みたいな目になってしまった。

 

 いや、人じゃなくて狼男さんだけど。

 

 と、とりあえず。

 

 狼男さんは一旦、少しだけ放っておこう。

 これ以上話しかけ続けたら、本当に魂まで抜けてしまいそうだ。

 

 いい機会だし狼男さんが落ち着くまで、後回しにしていた謎を、ひとつずつ拾い集めてみることにしよう。

 

 気づけば、謎があちこちにぶん投げられて散らかっている。

 

 知らない森。

 知らない身体。

 異常な身体能力。

 私を吸血鬼と呼ぶ狼男さん。

 そして、どう考えても現実離れしているこの世界。

 

 しかも、その1つ1つが突拍子もなさすぎるせいで、私の感覚もだいぶ麻痺してきていた。

 

 ……うん。

 

 落ち着こう。

 

 こういう時は、分かることから順番に整理するのが大事だ。

 たぶん。

 前世のどこかで、誰かがそんなことを言っていた気がする。

 

 まずは、自分自身のことから考えてみよう。

 

 今の私は、間違いなくただ者じゃない。

 

 ……いや、こう言うと、ものすごく自意識過剰でナルシストっぽいけれど。

 

 でも、客観的に見て、今の私は絶対に普通の人間じゃない。

 

 だって、マッハ三くらいで走れるスーパーガールだ。

 つまり戦闘機だってびっくりするくらい頑丈な身体を持つ女の子である。

 

 ……戦闘機と耐久力で張り合える女の子。

 

 どこぞの空想科学○本に載っていそうな設定だ。

 

 実際、走った時は風圧で顔がぺしゃんこになったり、足がもげたりしてもおかしくなかったはずなのに、私はこうして普通に座っている。

 

 とにかく、移動速度と防御力がすでに人間の範囲を軽く飛び越えている。

 

 なら、次は攻撃力だろうか。

 

 そんな、まるでRPGキャラのステータス確認みたいな呑気な考えが浮かんだ私は、先ほど握力を確かめるつもりで、近くに落ちていた木の枝を軽く握ってみた。

 

 軽く。

 

 本当に、軽く握っただけだった。

 

 すると――。

 

 爆発した。

 

 いや、本当に。

 

 握った小枝が、文字通り《dot》ボンッ《/dot》と爆発したのである。

 

 よく見ると、小枝は真っ黒に焦げ、細かい破片になってあたりに飛び散っていた。

 

 今さらだけど、物理学っぽく考えるなら、枝と一緒に握り込んだ空気が一瞬で圧縮されて、分子の運動エネルギーが上がり、圧縮熱で発火。

 そのまま小枝ごと炭化した――という感じだろうか。

 

 ……と、自分で説明しておいてなんだけど。

 

 何がなんだか、全然意味が分からない。

 

 握力で空気を圧縮して発火させるとか、もはや某グラップラー漫画の世界である。

 

 石炭を握ったら、ダイヤモンドになったりするのだろうか。

 ……ちょっと試してみたい。

 

 そのあと少しだけ面白くなってしまった私は、今度は近くに立っていた大木を、握った拳でこつんと軽く叩いてみた。

 

 軽く。

 

 本当に、軽く。

 

 すると。

 

 細枝が折れるみたいに、大木がポキッと折れた。

 

 そのまま、ズシン、と地響きを立てて横たわる大木。

 

 ……まさか本当に折れるとは思わなかった。

 

 なんだか申し訳なくなったので、私は折れた大木をひょいっと持ち上げ、地面に差し直しておいた。

 

 まるで庭いじりでもしているみたいに、あっさりと。

 

 ここまでやってから、私は自分の手をじっと見つめた。

 

 少し土と木くずで汚れているだけの、どう見ても華奢な女の子の手。

 

 大木をポキッと折ったり。

 ひょいっと持ち上げたり。

 小枝を爆発させたり。

 

 そんなことができる手には、まったく見えない。

 

 ぷにぷにと手のひらを突っついてみても、返ってくるのはマシュマロみたいに柔らかい感触だけだった。

 

 ……この手でさっきの現象を起こしたとか、空想科学○本もびっくりである。

 

 そんな実験(?)を終えた後。

 

 私は、震えながらこっそり逃げようとしていた狼男さんを、情報収集のために捕まえ――じゃなくて、迎えに行った。

 

 そして、そのまま担いで、この平原まで連れてきたというわけだ。

 

 ちなみに、担いだ時に気づいたのだけれど。

 

 狼男さんは意外と、お花みたいないい匂いがした。

 

 獣臭いのかなと少し身構えていたけれど、なんだか全身でその匂いに包まれたくなるような優しい匂いだった。

 

 そして冒頭に戻る。

 

 ……なるほど。

 

 よくよく考えてみれば、大木をポキポキ折っていた小さな女の子に、突然担がれて連れ去られたのである。

 

 狼男さんからしたら、今まさに恐怖体験の真っ最中なのかもしれない。

 

 そりゃ、ガタガタ震えるのも無理はない。

 

 考え事をしながらしばらく様子を見ていると、狼男さんの震えが少しずつ収まってきた。

 

 まだ完全には止まっていない。

 

 けれど、最初のような【バイブレーション最大ガクガク】状態から、【弱めの目覚ましモード】くらいにはトーンダウンしている。

 

 時折、上目遣いでこちらの様子を窺っているけれど、私と目が合うとすぐに逸らしてしまう。

 

 まるで怖い先生に怒られている学生さんみたいで、ちょっと可愛い。

 

 でも、とりあえず逃げ出そうとはしていない。

 何か話せる状態にはなってきたかもしれない。

 

 さて、どうしよう。

 

 この狼男さんは、なぜか私のことを【吸血鬼】と呼んでいた。

 

 正直、その単語だけで頭がいっぱいになりそうだけれど、今はそれ以上に知りたいことが多すぎる。

 

 ここがどこなのか。

 この世界は何なのか。

 妖怪とは何なのか。

 そして、私は本当に吸血鬼なのか。

 

 現在進行形で異世界転生モノの主人公みたいな状況に放り込まれている私は、この世界のことを何も知らない。

 

 せっかく話せそうな相手が目の前にいるのだ。

 これは情報収集のチャンスである。

 

 とはいえ、あまり強引に詰め寄ると、また【バイブレーションMAX】に戻ってしまいそうだ。

 

 ここは優しく話しかけよう。

 

 相手は怯えた子犬。

 

 ……じゃなくて、怯えた狼男さんなのだから。

 

「そ、そういえば、先ほどはどうして私のことを吸血鬼って呼んだんですか?」

 

「そ、それは……狼男である私が捕捉できないほどの速度で移動できる大妖怪様は、この辺りでは吸血鬼様しかおりませんので……」

 

「ふ、ふむふむ。なるほど!」

 

 正直、狼男さんの言っていることはあんまり分かっていない。

 

 狼男。

 捕捉。

 大妖怪。

 吸血鬼様。

 

 単語の1つ1つは何となく分かるのに、全部つなげると急に妖怪学の専門講義みたいになる。

 

 でも、とりあえず相槌を打っておく。

 

 こういう時はノリが大事!

 

「それでは狼男さん……あ、そういえば、お名前はなんていうんですか?」

 

「……弱小な妖怪は、基本的に名前を持っていないのです」

 

 狼男さんは、少しだけ目を伏せて続けた。

 

「吸血鬼様のような強大な妖怪であれば、家名や、その名に込められた人間からの畏れによる加護を持っています。ですが、我々〝狼男〟のような〝無名の妖怪〟は、そうした強大な存在の庇護下に入り、加護を頂きながら生き長らえているのです」

 

 そう言って、狼男さんは自嘲するように小さく笑った。

 

「ですから、私のことは、そのまま狼男とお呼びください」

 

「無名の妖怪?……加護?……畏れ?……」

 

 私は、狼男さんの言葉を小さく復唱する。

 

 うん。

 分からない。

 

 分からないけれど、たぶん大事な話をしていることだけは分かる。

 

 妖怪。

 畏れ。

 加護。

 無名。

 

 ……?

 

 ええと、つまり。

 

 妖怪は人に怖がられることで力を得ていて。

 名前がある妖怪は強くて。

 名前がない妖怪は、強い妖怪に守ってもらわないと生きていけない。

 

 ……ということだろうか。

 

 一応、自分自身が人外みたいな能力を持っていることがさっき分かったわけだし、今さらメルヘンな存在に驚くことはない……というよりは余裕がない。

 

 ……ここまで来たら、妖怪という存在もファンタジーではなく現実として受け入れるしかなさそうだ。

 

 それにしても、狼男が無名だなんて。

 

 オカルト好きじゃなくても知っている有名どころだと思うんだけどなぁ。

 

 ハロウィンの仮装でも定番の三大モンスターの一角だし。

 

 フランケンシュタイン、吸血鬼、狼男!

 

 ……みたいな感じで。

 

 もしかして、この世界と私の知っている世界では、妖怪や怪物の知名度がぜんぜん違うのだろうか。

 

「ふむ、じゃあ貴方も吸血鬼かその他の存在からの加護を受けてるんですか?」

 

「……いえ、私は加護を先ほど取り上げられてしまいまして」

 

「取り上げられた?」

 

「はい。妖怪の存在の源である“畏れ”のエネルギーが枯渇して、もうすぐ世界から消えてしまうところなのですよ」

 

 ……サラッとすごいこと言った!

 

 え、ちょっと待って。

 「もうすぐ世界から消えてしまう」って……それはつまり、死ぬってこと?

 

 ……それと畏れのエネルギーはさっきのお話にもありましたよね、覚えましたよ。

 妖怪の力の源的なアレですよね……。

 ……覚えましたけど分かったとは言っていません。

 

 というか、なんかすごく深刻な話をポロッと言ってませんか!?

 

「え!?ど、どうして?なんで加護を取り上げられちゃったんですか?」

 

「……なんというか、私は結構、不器用でして……。本来、狼男は満月の夜を経ていくことで人狼という妖怪に進化していくのですが……」

 

 ふと空を見上げると、まんまるなお月様が満面の笑顔でこちらを見ている。

 

 確かに今夜は満月だ。

 

 狼男さんの話によると、狼男は満月のたびに力を得て、やがて“人狼”へと進化していく種族らしい。

 

 狼男が人狼になる。

 

 ……ええと。

 

 日本語的にはかなりややこしい。

 

 狼男と人狼って、同じようで違うらしい。

 進化前と進化後みたいなものだろうか。

 ポケッ〇モン〇ター的なあれだろうか。

 

「じゃあ狼男さんも、その人狼ってやつに進化する途中なんですか?」

 

「……私は人狼になり損ねた、落ちこぼれの狼男なのです」

 

 そう語る狼男さんの顔は、相変わらず立派なかっこいい狼顔だけど、なんだか寂しそうに見える。

 

「狼男は満月から力を授かると、獣の姿から徐々に人間の姿へと変わっていきます。そうして人間社会のようなコミュニティを作るのです。でも、私だけは何故か月から力をもらえず進化できなかったので、そのまま同族から追い出されてしまいました」

 

 今の狼男さんは、茶色い狼が二足歩行しているみたいな姿をしている。

 

 私的には、結構かっこいいと思う。

 

 もふもふしているし。

 大きいし。

 見た目だけなら、頼れる森の番人みたいだ。

 

 でも本人にとっては、きっとそういう問題ではないのだろう。

 

 狼男さんは、悔しそうに拳を握りしめていた。

 鋭い爪が、自分の手のひらに食い込みそうなくらい強く。

 

「その後、吸血鬼の館の番犬として雇ってもらったんですが、このまま満月の夜になると、物を上手く持てないし、力加減も苦手だしで、館の主様にたくさんご迷惑をおかけしてしまって……。ついさっき、館を追い出されて路頭に迷っていたところなのです」

 

「……そうだったのですね」

 

 なるほど。

 

 きっと、そんな事情があって、私を襲おうとしたのだろう。

 

 加護を失って、畏れのエネルギーもなくなって、もうすぐ消えてしまう。

 だから、生き延びるために、誰かから畏れを得ようとした。

 

 あるいは、私を怖がらせることで、ほんの少しでも自分の存在をつなぎ止めようとしたのかもしれない。

 

 確かに、襲ってきた時の目つきはちょっと怖かった。

 

 けれど今こうして話してみると、それは悪意というより、生きるために必死だっただけなのだと思える。

 

 ……というか。

 

 こんなに怯えて、こんなに申し訳なさそうにしている狼男さんを見ていると、さっきまで怖がっていたのが少し申し訳なくなってきた。

 

「まあでも、最後に貴方のような美しい吸血鬼に殺されるのなら、妖怪本能に尽きるというものです。今更抵抗いたしませんので、どうか安楽な死をお与えください」

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………え?

 

「殺さないよ!?」

 

 思わず、変な声が出た。

 

 狼男さんがびくりと肩を跳ねさせる。

 

「そんな物騒なことしません! しませんから! むしろ助ける気マンマンなのですが!?」

 

「た、助ける……?」

 

「はい! 助ける方です! 殺す方じゃないです!」

 

 この状況で死を覚悟されるとか、私どんだけ怖がられてたんですか!?

 

 いや、確かに狼男さんは最初、私を食べようとしてきて怖かった。

 

 けれど、それは生きるための本能だったわけで。

 今こうして話してみれば、むしろ不器用だけど真面目で、誠実な人柄――というか、妖怪柄? が伝わってくる。

 

 できることなら助けてあげたい。

 

 もし吸血鬼が加護を与えられる存在なら、他称吸血鬼の私にもできるかもしれない。

 

 加護さえあれば、狼男さんは消えずに済むはず。

 

 たぶん。

 

 やり方は分からない。

 

 でも、目の前で「もう諦めます」みたいな顔をされて、何もしないでいることなんてできなかった。

 

 しばらく沈黙が続いた後、狼男さんは狼の顔で、ニコリと微笑んだ。

 

「……貴方様の寛大な心遣いに感謝いたします。……最期に出会えたのが貴方で良かった」

 

 最後の言葉は、うまく聞き取れなかった。

 

 そう言って、狼男さんは跪き、深く頭を垂れる。

 

「わ、分かりました! でも、跪くのはやめてください。前の主人がどうであれ、私はそういうの苦手なんです。普通でいいんですよ、普通で!」

 

「かしこまりました」

 

 狼男さんは素直に立ち上がった。

 

 けれど、その表情はどこか緊張したままだ。

 

 うーん。

 

 どうすれば、この緊張をほぐせるだろう。

 

 私は少し考えてから、ぽんと手を打った。

 

「それと……狼男さん、って呼びにくいので、私が名前を付けてあげます!」

 

「なっ!? お、おやめ下さい! 妖怪への名付けは、本来とても危険な行為です!」

 

 狼男さんが、慌てたように声を上げた。

 

「名付けとは、名付けた妖怪に魂の力を分け与え、眷属にするという意味で――そんな恐れ多いこと……!」

 

「魂の力……眷属……」

 

 また難しい単語が出てきた。

 

 でも、今度はなんとなく分かる。

 

 この世界での名付けは、ただの呼び名ではないらしい。

 

 名前を与えることは、力を与えること。

 存在を認めること。

 そして、自分の庇護下に置くこと。

 

 たぶん、そういう魔法的な契約みたいな意味があるのだろう。

 

 ファンタジーっぽいです!

 

 でも。

 

 それなら、なおさら狼男さんを助けられるチャンスなのでは?

 

 危険なのは分かった。

 何かを分け与えるのも分かった。

 たぶん代償もあるのだろう。

 

 でも、目の前で消えそうになっている相手に、手を伸ばせるかもしれないなら。

 

 私は、それを試してみたい。

 

「じゃあ、今日から貴方は〝ヴァルター〟です!」

 

「へ?」

 

「執事って意味の言葉から取ってみました。まあ、私は貴方のことを執事というより、家族みたいに思っているので……仲良くしてくださいね!」

 

「へぁ!?」

 

 狼男さん――いや、ヴァルターの目がまん丸になった。

 

 狼の顔なのに、人間みたいにはっきり驚いているのが分かる。

 

 口をぱくぱくと開けたり閉じたりして、何か言いたそうなのに言葉が出てこない様子だった。

 

 ヴァルターの丁寧な話し方にピンときて、ふと思いついた名前をそのまま名付けてみた。

 

 執事を意味する言葉を、少しアレンジして「ヴァルター」。

 

 気に入ってくれるといいな。

 

 ……というか。

 

 家族みたいに思ってる、って。

 

 言ってから、自分でびっくりした。

 

 出会ってまだ数十分。

 さっきまで追いかけ回されて、食べられそうになっていた相手なのに。

 

 それでも、どうしてだろう。

 

 落ちこぼれだと寂しそうに笑った狼男さんを見ていたら、放っておけないと思ってしまった。

 

 ……もしかすると、少しだけ他人事ではなかったのかもしれない。

 

 私だって、目が覚めたら知らない場所にいて。

 自分が何者なのかも分からなくて。

 頼れる人も、帰る場所も、まだ何ひとつ見つかっていない。

 

 そんな状態で一人ぼっちになる怖さは、ほんの少しだけ分かる気がした。

 

 家族という言葉は、ちょっと早すぎたかもしれない。

 

 でも、仲良くなりたい。

 助けてあげたい。

 

 そう思ったのは、本当だった。

 

 

 ……ていうか、ぷぷぷ。

 

 ヴァルターの狼顔で驚く表情が、なんだかコミカルでちょっと笑ってしまう。

 

「……ん?……んあ!? ……んっ……あ、くぬぬぬぅ!?」

 

 くすくす笑っていると、突然、私の中から何かが抜けていく感覚がした。

 

 次の瞬間。

 

 胸の奥を、見えない爪でえぐられたような痛みが走った。

 

 全身の骨の髄から、中身を神経ごとむしり取られる。

 血管の中を、針の束が逆流していく。

 心臓を身体から何度も引きずり出される。

 

 そんな、言葉にすると大げさに聞こえるような痛みが、確かに身体の内側を駆け抜けた。

 

 けれど。

 

「……ふ、ぅ」

 

 私の口から漏れたのは、少し息を吐くような声だけだった。

 

 痛い。

 

 たぶん、とても痛い。

 

 普通なら、悲鳴を上げて転げ回っているのかもしれない。

 泣き叫んで、意識を手放していてもおかしくないのかもしれない。

 

 なのに、私はそれをどこか遠くの出来事みたいに感じていた。

 

 痛みはある。

 苦しさもある。

 気持ち悪さもある。

 

 でも、それを受け止める私の心のどこかが、妙に静かだった。

 

 まるで、これくらいの痛みには慣れているみたいに。

 

 ……慣れている?

 

 自分で浮かべたその言葉に、少しだけ引っかかる。

 

 けれど考えるより先に、膝から力が抜けた。

 

 がくん、と身体が崩れる。

 

 私はそのまま、へなへなと草の上に座り込んでしまった。

 

 ヴァルターに心配をかけたくなくて、できるだけ何でもないように振る舞おうとする。

 

 けれど、指先が小さく震えているのは隠しきれなかった。

 

 しばらくすると、身体の奥から何かが流れ出ていくような感覚は収まった。

 

 けれど、体が重い。

 全身がじんじんと痛む。

 

 な、なるほど。

 

 これが名付けにともなう力の譲渡ってやつですか……。

 

 つまり、名前をプレゼントしたら、代金として魂的なものをちょっと持っていかれる仕組みらしい。

 

 なにそれ怖い。

 

 命名料、高すぎませんか。

 役所で出生届を出すたびにこんな目に遭っていたら、人類はたぶん三代くらいで名前文化を諦めている。

 

 いや、妖怪だから役所は関係ないのかもしれないけれど。

 

 でもせめて、事前に利用規約くらい表示してほしかった。

 【この名前を付けると魂の一部が譲渡されます。よろしいですか?】

 みたいな確認画面があってもよかったと思う。

 

 もちろん、今さら出てきてもOKボタンを押すけど。

 たぶん押しちゃうけど。

 

 それにしても、名前を付けるだけでこの代償はエグい。

 

 これは確かに、ヴァルターが名付けを危険視するのも分かる。

 

「こ、これは……!?」

 

 ヴァルターの方から、妙に可愛らしい女の子のような驚き声が聞こえた。

 

 私はぐったりした身体をどうにか起こし、ヴァルターがどうなったのか確認する。

 

 そこにいたのは、さっきまでの大きな狼男ではなかった。

 

 年の頃は、十四歳くらいだろうか。

 

 柔らかそうな茶色のセミロングの髪。

 身長は、今の私より少し高いくらい。

 たぶん、百四十センチ前後。

 

 そして。

 

 なんと全裸の、めちゃくちゃ可愛い女の子がぽつんと立っていた。

 

 ……ん?

 

 ……女の子?

 

 

「うえぇ!?狼男さんじゃなくて狼女さん?いや、狼少女さん!?というかすっぽんぽんじゃあないかぁぁぁ!服を着なさい!」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 目の前には、一人の裸の少女。

 

 そして、その少女は間違いなく、さっきまでの狼男さん――ヴァルターだった。

 

 月明かりを受けたその姿は、さっきまでの狼男とはまるで違う。

 

 どこか神秘的で。

 不安げなのに、確かに新しい命を得たようで。

 

 さっきまで今にも消えてしまいそうだった狼男さんが、ちゃんとこの世界に戻ってきたみたいだった。

 

 月明かりの下に落ちる影も、さっきより少しだけはっきりしている気がする。

 

 うまく言えないけれど。

 

 そこにいる。

 

 ただそれだけのことが、なんだかとても大事なことのように思えた。

 

 

 ……うん。

 

 ここまで来たら、もう受け入れよう。

 

 小枝を握れば爆発する。

 大木を殴れば折れる。

 狼男に名前を付ければ、超かわいい女の子になる。

 そして、私はその狼男さんに、吸血鬼様と呼ばれている。

 

 ここがどこなのかは分からない。

 この世界の常識も分からない。

 妖怪の仕組みも、加護の仕組みも、名付けの代償も、まだ何ひとつちゃんと理解できていない。

 

 けれど、目の前で起きたことは、どれも夢みたいに曖昧なものではなかった。

 

 手に残る土の感触。

 身体の奥に残る鈍い痛み。

 月明かりの下で、確かに息をしているヴァルターの姿。

 

 それら全部が、これは現実だと訴えている。

 

 なら、きっと。

 

 狼男さんが震えながら私をそう呼んだことも。

 この身体がありえない力を持っていることも。

 私が誰かに加護を与えられる存在らしいことも。

 

 都合のいい勘違いでは、ないのだろう。

 

 まだ分からないことだらけだ。

 

 けれど、ひとつだけ。

 嫌になるくらい、はっきりしてしまったことがある。

 

 どうやら私は、吸血鬼らしい。

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