The way out of the dream is just within reach.
「お嬢様。好きな食べ物はありますか?」
名前を決めて、少ししんみりして。
これからどうしようかと考え始めた、まさにその直後。
ヴァルターは、なぜかとても真剣な顔でそんなことを聞いてきた。
いや、まあ。
大事ですよね、好きな食べ物。
衣食住のうちの食ですし。
新生活を始めるにあたって、確認しておくべき最重要項目……なのかもしれない。
ただ、さっきまで「名前」だの「存在」だの、わりと重めの話をしていたので、急に話題が食卓へ飛んだことに少しだけ脳が追いつかなかった。
「えっ、食べ物ですか? え、ええと……和食、でしょうか」
「わしょく、ですか?」
「お米とか、お味噌汁とか、焼き魚とか……」
「おこめ……おみそしる……やきざかな」
ヴァルターは真剣な顔で、知らない呪文を覚える見習いみたいに私の言葉を繰り返した。
その表情があまりにも真面目だったので、逆にこちらが少し申し訳なくなってくる。
「でも、今この辺りで食べられるかどうかは分かりませんね。というか、お米ってあります?」
「申し訳ありません。おこめ、というものは聞いたことがありません」
「ですよねぇ!」
知っていました。
こんな見知らぬ森の中で、いきなり炊きたて白米と味噌汁が出てくるほど、世界は私に優しくない。
「お嬢様は人間の血を好まれるのですよね?」
「い、いきなり吸血鬼らしい質問が来ましたね!?」
「吸血鬼であらせられますので血を好んで召し上がるものかと」
「いや、確かにイメージはそうなのですけど。まだ自覚が追いついていないというか、できれば主食は普通のご飯でお願いしたいというか……」
「?普通のご飯、ですか……」
ヴァルターは少し考え込むように首を傾げる。
そして、「あ、なるほど!」と言わんばかりに手をぽんと叩いた。
同時に、狼の耳がぴこんと揺れる。
「では、狩りをしてきます」
「待ってください! 今すぐ血の滴る獲物を持ってこようとしないでください!」
私が慌てて止めると、ヴァルターは目に見えてしゅんとした。
尻尾が下がる。
耳も下がる。
さっきまで輝いていた赤い瞳まで、分かりやすくしょんぼりしている。
うっ。
これは良くない。
罪悪感がすごい。
「え、えっと。いつかお願いするかもしれませんから。その時は頼りにしていますからね?」
「……! はい! お任せください、お嬢様!」
ぱあっと表情が明るくなる。
尻尾がぶんぶん揺れる。
ちょろい。
というか素直だ。
とても素直で、健気で、真面目な良い子なのだ。
……でも、やっぱりちょっとちょろすぎて心配にはなる。
それからヴァルターは、まるで私の取扱説明書を作るみたいに、次々と質問を重ねてきた。
好きな食べ物や嫌いな食べ物。
得意なこと、苦手なこと。
眠る場所の好み。
寒さには強いのか、暑さには弱いのか。
血はどのくらい飲むのか。
眷属は何人ほど必要になるのか。
領地はどの方角に広げるべきか。
……。
……ん!?
「待ってください! 領地拡大の予定はありませんよ!?」
「え?ですが、お嬢様ほどのお方であれば、いずれは立派な館……いえ、城のような住まいを持つべきかと」
「城!?」
「はい。吸血鬼の城です」
「言葉の響きはすごく格好いいですけど、今の私は城どころか寝床もないんですよ?」
「では、まずは城の前に寝床を」
「順番が極端!」
そんなやり取りをしているうちに、ふと気づけば、辺りが白み始めていた。
夜の闇が少しずつ薄れ、東の空が淡く色づき始めている。
どうやら、夜明けが近いらしい。
……今の私は、吸血鬼なんですよね。
吸血鬼。
それはつまり、今まで食べたパンの枚数を気にしている某石仮面の吸血鬼みたいに、日光を浴びると消滅してしまうかもしれないということである。
ちなみに私は和食派なので、パンは生涯で20枚ほどしか食べたことがない。
たぶん。
いや、正確に数えていたわけではないけれど。
それでも、誰かに「たまにはパンもいいですよ?」と言われながら、炊きたてご飯を頬張っていた記憶だけは妙に残っている。
「パンはおかずを受け止める力が弱いです! お米こそ至高なのですよ!」と、今思えばかなり理不尽な文句を言っていたこと。
バターが溶けた香ばしい匂いに、ほんの少しだけ心が揺らいだことも。
……本当にどうでもいいことは覚えているのに、大事なことが思い出せない記憶喪失は、タチが悪い。
……とにかく。
日光でハイに――じゃなくて、灰になってしまうのは絶対にイヤだ。
せっかく第2の人生、いや妖怪生が始まったばかりなのに、朝日を浴びて「ギャー!」なんて展開はごめんこうむりたい。
まずは、太陽から身を隠せる場所だ。
「ヴァルター。さっきの話に戻りますけど、まずは寝床……いえ、拠点を探しましょう」
「はい。城の前に寝床……いえ、まずは館でございますね」
「館に格上げしないでください。寝床です。寝床から始めましょう」
言いながら、私は指を折って必要な条件を数えていく。
「雨風をしのげること。日光を避けられること。安全であること。あと、できればお風呂とかあれば最高ですね」
東の空がじわじわ明るくなっていくのを横目に、私は少し早口で理想の住処について語る。
日本人だった前世の記憶によれば、お風呂は人生の癒やしだ。
疲れた身体を温め、考えごとを整理し、嫌なことを湯気と一緒に流してくれる文明の極み。
つまり、妖怪生においても癒やしになるはずである。
「分かりました。……1つ、質問してもよろしいでしょうか?」
ヴァルターは真剣な表情で、小さな手を胸の前で組んだ。
「はい。なんですか? ヴァルター」
「おふろ、とは何でしょう?」
「へ?」
一瞬、耳を疑った。
まさかヴァルター、お風呂を知らない系妖怪!?
でも、さっき運んだ時はお花みたいないい匂いがしたし……。
やっぱり美少女は、お風呂に入らなくてもいい匂いがするのか!?
強すぎる。
超ずるい。
これが美少女特権というやつか。
「お風呂は、お湯に浸かって、体を洗い清めて、疲れを癒やす場所のことですよ」
できるだけ分かりやすく説明してみる。
「……あぁ! そのことでしたか!」
ヴァルターの顔がぱっと明るくなった。
……よかった。
さすがに、お風呂そのものを知らないわけではなかったらしい。
単に「お風呂」という言葉を知らなかっただけかもしれない。
……けれど、その小さなすれ違いが、私の中に妙な引っかかりを残した。
言葉は通じている。
でも、同じ言葉を知っているわけではない。
私が当たり前に使った「焼き魚」や「お米」や「お風呂」という言葉を、ヴァルターは知らなかった。
逆に、ヴァルターが当たり前のように口にする「妖怪」や「畏れ」や「妖力」は、私にはまだ半分も分かっていない。
会話は成立している。
なのに、話している時に前提……常識が少しずつズレる。
同じ言葉で話しているのに、見ている世界が違う。
……そんな感じだ。
森の匂いが濃いこと。
空がやけに高いこと。
星が見慣れないほど鮮やかだったこと。
狼男がいて、吸血鬼がいて、ケモミミ全裸美少女が現れて……。
それら全部を、私はどこかで「夢みたいな出来事」として片付けかけていたのかもしれない。
……けれど、もう今更ここを夢だとは思っていない。
目は覚めている。
足元の草も、冷たい空気も、ヴァルターの声も、全部ちゃんと現実だ。
だとしたら、知る必要がある。
ここがどこで、いつで、どういう世界なのか。
いわゆる王道の異世界転生なのか。
それとも、別の何かなのか。
「……ヴァルター。少し変なことを聞いてもいいですか?」
「はい。何でしょうか、お嬢様」
「ここは、人間たちの呼び方だと、どのあたりの土地になるんですか? それと……今が西暦何年なのか、分かりますか?」
「申し訳ありません、お嬢様。せいれき、というものはよく分かりません」
ヴァルターは少し困ったように眉を下げた。
「ただ、人間たちは“救い主の誕生”を基準に年を数えることがあると聞いたことがあります。それで言うなら、たしか400年ほど経っている頃だと……」
「……400年」
「はい。場所につきましては、人間たちの呼び方では、この辺りはガリアにあたるようでございます。大きな街や街道はローマの支配下にありますが、森の奥までは人間たちもそう簡単には入り込んできません」
西暦400年頃。
ガリア。
ローマ。
その単語が頭の中でつながった瞬間、背筋がぞくりと震えた。
てっきり、記憶喪失+吸血鬼化=異世界転生だと思っていたのに。
まさかの過去へのタイムスリップ疑惑である。
というか西暦400年って……。
空気の澄み具合とか、混じり気のなさとか、確かに現代っぽくないなぁとは思っていたけれど、まさかここまでとは。
しかも、ここはヨーロッパですか。
確かに、狼男や吸血鬼といえばヨーロッパ。
まぁイメージ通りではある。
……それにしても、西暦400年のヨーロッパ。
日本でいえば、まだ古墳時代の頃だ。
教科書のかなり前の方。
少なくとも、私が知っている“現代”からは、めまいがするほど遠い。
そう考えた瞬間、時代の遠さにちょっと気が遠くなった。
もちろん、当時を生きている人たちが「よし、そろそろ古代が終わって中世が始まるぞ」なんて思っていたわけではない。
けれど、歴史を後ろから眺める現代人だった私には分かる。
この頃のローマは、もう昔みたいに盤石ではない。
広すぎる領土。
足りなくなる兵士。
重くなる税。
揺らぐ皇帝の権威。
そして、北や東からローマ領内へ移動してくる、ゲルマン系の人々。
フランク人。
ゴート人。
ヴァンダル人。
世界史の教科書にも出てくる、いわゆる民族大移動の時代だ。
彼らはただの侵略者というより、時にはローマに雇われた兵士であり、時には移住者であり、時には敵でもあった。
そして、このガリアは。
やがてフランク人の国が力を持ち、ずっと後にはフランスへと繋がっていく場所でもある。
そう考えると、ただの森に見えていたこの場所も、いきなり世界史の地図の上に置かれたみたいに感じられた。
——ただの「知らない世界」だった場所に、知っている名前がついた。
私は今、歴史の中にいる。
もしここが、私の知っている歴史の延長線上にあるのなら。
いつか、ずっと先の時代に、私が生きていた日常がある。
知りたいことは端末越しにすぐ手に入り、月面ツアーの費用にため息をつく人がいて、宇宙ステーションの話題がニュースに流れて……。
そう思うと、胸の奥にほんの少しだけ灯りがともった。
けれど、すぐにその灯りは揺らぐ。
だって、私の知っている歴史には、狼人間も吸血鬼も、名付けで姿を変える妖怪も実在する記録はなかった。
少なくとも、表向きには。
なら、ここは似ているだけの別の世界なのか。
それとも、私が知らなかっただけで、歴史の裏側には最初からこういうものが息づいていたのか。
答えは、まだ分からない。
……まあ。
……それはそれとして。
西暦400年頃のガリア。
そう聞いて、私はすぐにあるものを思い浮かべた。
「その時代なら、人間たちが作った公衆浴場があるはずですよね。ちょっと恥ずかしいですけど、そこに入らせてもらえれば……」
ローマ帝国の公衆浴場!!
巨大な浴槽。
床暖房。
湯気。
石造りの浴場。
人々が語らい、身体を温め、1日の疲れを癒やす憩いの場所。
たしか、ローマの浴場には温浴室や冷浴室、発汗室みたいなものもあったはずだ。
床下に熱を通す暖房設備。
壁の中を通る熱気。
水道によって運ばれる大量の水。
現代日本人の私から見ても「古代ローマ、衛生観念と風呂への情熱が強すぎませんか?」と真顔で言いたくなるレベルの文明力だったはずだ。
あの有名な漫画で見た、平たい顔族が思わず頷くお風呂文化。
もし本物を見られるなら、歴史好きとしても、お風呂好きとしても、ぜひ一度は体験してみたい。
できれば、石造りの浴槽で優雅に足を伸ばしながら「これがローマ……!」とか言ってみたい。
すごく言ってみたい。
「お嬢様、我々は妖怪です」
ヴァルターが、少し心配そうな表情で私を見た。
「人間とは、畏れを頂きながら生きていくもの。あまり人間に近づきすぎるのは、お互いに良い結果を招かないかと……」
「……そうなのですか?」
「はい。人間は畏れのエネルギー、つまり我々が存在する意義である妖力を与えてくれる存在です。けれど、近づきすぎれば討たれます。怖がられなければ弱り、怖がられすぎれば狩られる。妖怪とは、そういう距離で人間と関わるものなのです」
その真剣な眼差しに、私の浴場への期待は一瞬で崩れ落ちた。
そうか。
ここでは、妖怪と人間は簡単に共存できないのですね……。
私にとって人間は、昨日まで自分もそうだったはずの存在だ。
でも、今の私が人間にとって何なのかは、まだ実感がない。
少なくとも、ヴァルターの言葉を信じるなら。
私はもう、人間の側に甘んじて立っていることは許されないらしい。
「む、むぅ。ヴァルターが言うなら、そうなのでしょうね。……まあ、仕方ありません」
私が少し残念そうに肩を落とすと、ヴァルターは申し訳なさそうに耳を伏せた。
「それに、お嬢様は吸血鬼ですから」
「吸血鬼だと、余計にまずいのですか?」
「はい。夜を自在に歩き、老いと死を超えるもの。血を求め、闇を従え、人の理から外れた存在。吸血鬼は、人間たちの間でも強い畏れを集める大妖怪です」
「大妖怪……」
「お嬢様ほどのお方であれば、ただ存在するだけでも相当な力が集まっているのではないかと」
「た、ただ存在するだけで……」
つまり、知名度補正。
ビッグネーム妖怪ボーナス。
なるほど。
吸血鬼、すごい。
日光に弱いかもしれないという重大な欠点はあるけれど、夜に強くて、不老不死っぽくて、何もしなくても畏れが集まる。
これ知ってます!
異世界転生ラノベでよくあるチートってやつですね!
もしかして、うまくやれば気長に記憶をほのぼのと思い出しながら不老不死スローライフが可能なのでは?
静かな場所にお家を構えて、夜だけ活動して、昼はカーテンを閉めて寝る。
そしてたまにヴァルターの耳やしっぽをもふりながら退廃的な生活を……。
完璧では?
いや、完璧すぎるのでは?
問題は、今のところお家もカーテンもなく、あるのは夜明け前の森と、日光で灰になるかもしれない不安だけという点である。
……道のりが遠い。
スローライフ、開始前からだいぶハードモードである。
そんな能天気なことを考えられるくらいにまでは、私はこの世界に落ち着いてきたらしい。
というより、恐怖が少し薄れていることに、今さら気づいた。
さっきまであんなに訳が分からなかったのに。
この世界で名乗る仮の名前ができて。
ヴァルターがそばにいてくれて。
今いる時代の手がかりがあって。
ほんの少しだけ、自分が立っている場所が分かった。
それだけで、案外前を向けるものなのかもしれない。
だって、泣いても叫んでも朝日は昇る。
それなら、できるだけ楽しい方向に考えて朝を迎えた方が精神衛生上良いだろうし。
……朝日を拝んだ瞬間に燃える可能性があるのは、いったん考えないことにする。
だからお風呂がなくても我慢しよう。
お風呂が当たり前だった現代人の私にとってはかなりつらいけど……。
私が未練がましく浴場への夢を手放しかけたところで、ヴァルターはふと思い出したように微笑んだ。
「それに、身体を洗い清めるのであれば、洗浄
……。
…………。
………………。
……今、何と?
私はゆっくりとヴァルターを見た。
ヴァルターは不思議そうに首を傾げている。
今の一言が、私の中にどれほどの衝撃を与えたのか、まったく分かっていない顔だった。
「まほう?」
口から、かすれた声が出た。
魔法。
その2文字が、頭の中で何度も跳ね回る。
呪文。
魔女。
魔法陣。
杖。
錬金術。
星の配置。
……だめだ。
落ち着けない。
「ヴァルター」
「は、はい。お嬢様?」
「詳しく」
「へ?」
「魔法について、詳しく教えてください!」
「お、お嬢様?」
「詠唱はありますか!? 杖は!? 魔法陣は!? 属性は!? 発動条件は!? 消費するものは妖力ですか、それとも魔力的な何かですか!? 術式の構造は感覚型ですか、理論型ですか!? 個人差はありますか!? 再現性は!? 訓練すれば誰でも使えますか!? 失敗した場合の危険性は!? 洗浄魔法以外には何ができますか!? 火とか水とか光とか、そういう分類はありますか!?」
「し、質問が多いです、お嬢様ぁ!」
気づけば、私はヴァルターにしがみついていた。
逃がしてなるものか。
いや、逃げるつもりはないのだろうけど。
魔法の話を聞ける相手を、ここで手放すわけにはいかない。
「お願いします、ヴァルター先生!」
「せ、先生!?」
「私の魔法の先生です!」
「わ、私などが、お嬢様の先生など……!」
「できます! あなたならできます! というかしてください!」
「理不尽ですぅ!」
そう言いながら、私はヴァルターの頭を撫でていた。
……なぜ撫でているのかは、自分でも分からない。
興奮しすぎて、手の置き場を間違えたのか。
あるいは、単純にそこにもふもふがあったから。
うん。
たぶん後者だ。
「ひゃあぁ!? お、お嬢様!? 耳はくすぐったいです!」
「魔法です! 魔法について教えてください!」
「き、聞いております! 聞いてますから耳はぁ!」
もふ。
もふもふ。
……これは危険だ。
魔法の話を聞きたいはずなのに、手が勝手に幸せになっている。
「お嬢様ぁ……! くすぐったいですぅ……!」
「大丈夫です、ヴァルター! 私はちゃんと聞いています!」
「聞くなら手を止めてください!」
「それはそれ、これはこれです!」
「理不尽ですぅ!」
その時だった。
指先に、ヴァルターの体温が伝わってくる。
生きている温かさ。
くすぐったそうに身じろぎする、確かな反応。
それがあまりにも近くにあったせいだろうか。
ふいに、頭の奥へ正反対の光景が差し込んだ。
白い部屋。
冷たい床。
誰かの声。
伸ばした手。
届かなかった指先。
——そして、ひどく静かな、終わりの気配。
「お、お嬢様? どうされたのですか?」
撫でられすぎて少しへろへろになっているヴァルターが、不安そうに私を覗き込んできた。
赤い瞳が、心配そうに揺れている。
私は、その瞳を見つめ返した。
心配されている。
私が。
……。
……なんだか、それが少しおかしく感じた。
「……まあ、いっか」
「お嬢様?」
「それよりヴァルター」
「は、はい」
「魔法の話を」
「……ひゃん!?耳をいじりながら言わないでください!」
過去に何があったのかは分からない。
けれど、今ここには魔法がある。
魔法について教えてくれそうなヴァルターがいる。
ついでに、ものすごくもふもふしている。
なら、今の私が取るべき行動は1つだった。
「続きをお願いします、ヴァルター先生!」
「先生はおやめください!」
「では師匠!」
「もっと畏れ多いです!」
「ではヴァルター!」
「それでお願いいたします!」
「分かりました、ヴァルター! 魔法とは何ですか!?」
「最初からですか!?」
そうしてしばらくの間、ヴァルターの慌てた声と、私の止まらない質問が、夜明け前の草原に響き続けた。
嬉しそうな笑い声。
恥ずかしそうな困った声。
くすぐったそうな悲鳴。
それらを聞いているうちに、白い部屋の冷たさも、届かなかった指先の感触も、少しずつ遠ざかっていった。
???? Perspective
ペラリ、ペラリ。
静かな部屋に、本のページをめくる音だけが響いていた。
窓も天窓もないはずの孤独な部屋には、なぜか優しい明かりが満ちている。
光源はどこにも見当たらない。
まるで空間そのものが、淡い光を放っているかのようだった。
少女は、黒い本を膝の上に開いている。
そのページには、夜明け前の草原が映っていた。
銀色の髪を揺らす小さな吸血鬼。
その傍らで、耳まで赤くして慌てる人狼の少女。
そして、草の上に落ちる影が2つ。
1つは、小さな吸血鬼の影。
もう1つは、誰のものとも知れない、輪郭の定まらない影。
「……気づかない、か」
少女は、どこか遠くを懐かしむような眼差しで、その光景を覗き込んでいた。
「例えば、少女が時間に執着した一匹の白ウサギを追いかけて、不思議の国へ迷い込んでしまったように……」
くすり、と少女は笑う。
「些細な日常に紛れ込んだ突飛な非日常こそ、物語の幕開けには相応しいと思うんだよね」
ページの中で、夜は終わろうとしている。
けれど、朝はまだ完全には来ていない。
夜と昼の境目。
夢と現の境目。
名前を得た少女が、まだ自分の輪郭を疑わずにいられる、ほんの短い猶予。
少女はページの端を指でなぞり、まるで本の内容を訂正するかのように、静かに言葉を紡いだ。
「夢から覚める方法は、
「ひとつは郷愁。夢と現を区別する境界。懐古と追憶。夢の世界を捨て、現実の冷たい光に目覚めること」
「もうひとつは忘却。夢を現と認識する境界。夢幻泡影。現実の世界を捨て、夢の温かい闇に沈むこと」
そこまで語ると、少女はどこからともなく赤い栞を取り出した。
そして、夜明け前の草原が映るページへ、そっと挟む。
「そして、最後の方法は……」
バタン、と。
本を閉じる音が、その先を隠した。
部屋には再び、永く深い静寂が訪れる。
まるで、まだ語られるべきではない結末を、物語そのものが隠してしまったかのように。
けれど、閉じられた本の向こうで、物語は止まらない。
ページの中の少女は、忘れていく。
忘れながら、進んでいく。
失くしたものの形を、新しい名前で埋めながら。
そうして。
名前を得た小さな吸血鬼の、長い長い胡蝶の夢が始まった。
The butterfly dream still continues?