東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第6話 閑話:賽は投げられた


The page turns, and fate casts its die.

 

 赤い栞の挟まれた頁から、物語は少しだけ離れる。

 

 次に開かれるのは、まだ名を持たぬ狼の頁。

 

 同じ月明かりの下、その狼が夜明け前の草原へ辿り着くまでの、短い運命の一節。

 

 暗い館の奥で、ひとつの賽が音もなく手放された。

 

 それを慈悲と呼ぶべきか。

 

 気まぐれと呼ぶべきか。

 

 あるいは、運命の悪戯と呼ぶべきか。

 

 投げられた賽自身に、それを知る術はない。

 

 ただ、ページをめくる者だけが知っている。

 

 砕けた水晶の音が、名もなき狼の終わりではなく、始まりを告げる鐘だったことを。

 


Fallen werewolf perspective.

 

 赤い閃光が弾けた。

 

 次の瞬間、書庫にガラスの砕ける甲高い音が響き渡る。

 

 古い紙とインクの匂いが満ちる、館の奥まった書庫。

 窓から差し込む月明かりが、積み重ねられた本の影を床に落としている。

 

 普段なら、世界が凍り付いたかのように静かな場所。

 

 けれど今、その静寂は、私の失敗によって無惨に破られていた。

 

 ……また、やってしまった。

 

 私は後悔と恨めしさを込めて、自分の大きな手を見下ろす。

 

 毛むくじゃらで。

 不器用で。

 力加減ひとつ、まともにできない手。

 

 その手の中にあったはずのものは、もうない。

 

 次いで、私は小さな窓の向こうを睨みつけた。

 

 そこには、忌々しいほど美しい満月が浮かんでいる。

 

 同族にとって、満月は恩恵だ。

 信仰すべき対象であり、加護を与えてくれる母のような存在。

 

 今宵は、その月の力がいつも以上に強まる特別な夜だった。

 

 本来なら、我ら狼男にとって祝福の日。

 記念すべき、誇るべき夜。

 

 ……本来なら、だ。

 

 私にとって満月は、ただでさえ使い物にならないこの手を、さらに役立たずに変える呪いでしかない。

 

 現に今日の私は、主から与えられた【水晶を書庫から持ってくる】という、あまりにも簡単な使命すら果たせなかった。

 

 床の上には、赤い破片が散らばっている。

 

 先ほどまで【水晶】だったもの。

 

 けれど水晶は砕けた瞬間、内に宿していた魔法の力を失い、何の価値もないただの破片へと変わってしまった。

 

 砕けた音の余韻が、まだ耳に残っている。

 

 それはまるで、私の失態をいつまでも責め続けているかのようだった。

 

 ……ああ、まったく。

 

 月明かりというものは、なんて忌々しいのだろう。

 

「……やってしまったね」

 

 背後から、あどけなく可愛らしい声が響いた。

 

 小さな子供のように澄んだ声。

 

 けれど、その声を聞いた瞬間、私の背筋は冷たく強張った。

 

 どうやら、審判の時が来たらしい。

 

 振り向くと、そこには私に【水晶を書庫から持ってくる】という使命を与えた御方――館の主である吸血鬼の伯爵様が立っていた。

 

 私はすぐにその場へ跪き、頭を垂れる。

 

「……なんなりと罰をお与えください。私は、大事な【水晶】を破壊してしまいました」

 

「……言い訳はしないのかい?」

 

 伯爵様は、楽しそうに首を傾げた。

 

「今宵は、君の嫌いな心地よい満月の夜だ。触れれば簡単に壊れてしまうような脆い【水晶】を、満月の影響で力の加減が効かなくなっている君に取らせた僕にも、非はあると思うけれど?」

 

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。

 

 まるで、すべてが予定調和だったとでも言うような口ぶりだったからだ。

 

 視線の先にいた伯爵様は、五十年仕えてきた主そのものだった。

 

 好奇心と期待に満ちた表情。

 そして、いつものように胡散臭い笑み。

 

 常に月光を浴びているかのような、白く滑らかな肌。

 夜の闇に浮かぶ彫像のように整った顔立ち。

 

 その姿は、一見すると十代前半の子供のようにも見える。

 可憐で、幼く、儚げですらある。

 

 だが、その深紅の瞳だけは違った。

 

 永い時を生きた老獪な深み。

 吸血鬼としての本質。

 血のように美しい、底の知れない宝石の瞳。

 

 淡い青紫色の髪は肩口で揺れ、月明かりを受けてほのかに輝いている。

 

 小柄な身体には、大きな黒い外套。

 そして背には、吸血鬼特有の翼。

 

 その翼はあまりにも大きく、まるで夜の闇そのものを背負っているかのようだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……内容や過程がどうであれ、貴方様に与えられた使命を果たせず、貴重な【水晶】を破壊してしまったのは、決して覆せない私の失態です。どうか、罰をお与えください」

 

「……まあ、君ならそう言うと思っていたよ」

 

 伯爵様は、最後まで胡散臭い笑みを崩さなかった。

 

 そして、跪く私へ唐突に審判を下す。

 

「よし。君をここから追放しよう」

 

 可愛らしくも魔性を感じさせるその声が、残酷な宣告を告げた。

 

 その瞬間――なぜか、私の胸には安堵が広がった。

 

 そんな自分の心情に戸惑う間もなく、伯爵様の両手に力が集まり始める。

 

 どうやら、今日私はこの館から追い出されるらしい。

 

 館からの追放。

 

 それはつまり、数多の人間から畏れられる吸血鬼である伯爵様の加護を失うということ。

 

 ただの無名の妖怪へと堕ちるということ。

 

 事実上の、死刑宣告だった。

 

 ……まあ、これも仕方がない。

 

 吸血鬼。

 

 それも名を持つ吸血鬼ともなれば、伝承となり、恐怖の象徴として長い年月を畏れられ続けた存在だ。

 

 私たちのような名もなき妖怪は、そんな強大な存在の庇護がなければ、この世界に存在し続けることすら難しい。

 

 だからこそ、私のような妖怪の行き着く先は決まっている。

 

 人々から忘れられ。

 名前も残らず。

 妖力の残滓となって世界へ溶け込み、やがて消滅する。

 

 それが、庇護を失った無名の妖怪の末路だ。

 

「……何か言い残すことはあるかい?」

 

「……」

 

 伯爵様の問いかけに、私の中で遠い記憶が蘇る。

 

 この世に生を受けてから、月と世界を恨み続けてきた記憶。

 

 それが、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡り始めた。

 

 

 


 

 

 私は遠い昔、満月の夜にこの世界へ生まれ落ちた。

 

 満月の日に自然発生する妖怪。

 

 それが、狼男である。

 

 目覚めてすぐ、私は周囲で産声をあげていた他の狼男たちと共に、とある人狼の集落で保護された。

 

 狼男とは、満月の光を数十年にわたって浴びることで妖力を得て、やがて【人狼】という妖怪へ進化していく存在だ。

 

 人狼へ進化した者の運命は、大きく2つある。

 

 1つは、人間に化け、人里で正体を隠しながら暮らす道。

 

 ただし、その場合は妖力を少しずつ削りながら、人間と同じような短い寿命を終えることになる。

 

 もう1つは、私たちを保護した集落のように、人狼同士の群れへ加わる道。

 

 群れとして人間たちから畏れを集め、妖力を高めながら、長く生きることができる。

 

 大半の人狼は後者を選ぶ。

 

 群れを大きくし、畏怖を糧に、種としての力を増していくのだ。

 

 しかし、実際には人狼へ進化する前の狼男は、人間たちに狙われやすい。

 

 妖怪退治を生業とする者たちに見つかれば、進化する前に退治されてしまうことも珍しくない。

 

 だから、人狼たちは月から生まれ落ちた狼男を保護し、集落へ連れ帰る。

 

 育て、守り、人狼へ進化するまで面倒を見る。

 

 そして進化した者を群れへ迎え入れ、コミュニティを大きくしていく。

 

 私も、そんな人狼たちの庇護を受ける一匹の狼男だった。

 

 ……そのはずだった。

 

 けれど、私の運命は、生まれて初めて満月を見た日から狂い始めた。

 

 初めて迎えた満月の夜。

 

 同族たちが月の光を浴びて妖力を得ていく中、私だけはなぜか何も得られなかった。

 

 次の満月も。

 

 そのまた次の満月も。

 

 何度、月が満ち欠けを繰り返しても――。

 

 私だけは、原始の獣の姿のままだった。

 

 そもそも、私が本当に“狼男”として生まれたのかすら、今となっては分からない。

 

 ただ、そう呼ばれたから。

 そう扱われたから。

 そういうものなのだと、信じるしかなかった。

 

 周りの狼男たちは、次々と人間に近い姿へ変わっていく。

 

 言葉を覚え、道具を扱い、群れの一員として認められていく。

 

 その中で私だけが、獣の姿に取り残された。

 

 変わらない。

 

 進めない。

 

 認められない。

 

 いつしか私は檻に閉じ込められ、鎖で繋がれた。

 

 与えられるのは、生きるために最低限必要なものだけ。

 

 首輪をはめられ、身動きもままならない日々は、確かに苦しかった。

 

 けれど、一番苦しかったのは痛みではない。

 空腹でもない。

 自由を奪われたことですらなかった。

 

 一番苦しかったのは――誰にも必要とされなかったことだ。

 

 一族の誰もが、私を疎ましげに見ていた。

 

 時には、腹いせのように殴られた。

 蹴られた。

 笑われた。

 

 それでも私は、希望を捨てなかった。

 

 いつか人狼になれる。

 

 いつか誰かの役に立てる。

 

 いつか、必要とされる日が来る。

 

 そう信じて、檻に差し込むわずかな月の光にすがりながら、生きてきた。

 

 幾度も満月を見送るうちに、長い年月が流れた。

 

 世代がいくつも変わり、新しい人狼たちが次々に生まれていく。

 

 その中で私は、ただの獣のまま、変わらずそこにいた。

 

 私より後に生まれた狼男たちが、私を嘲りながら人狼へ進化していく。

 

 何世代も。

 

 何世代も。

 

 自由に生きていく彼らを、私は檻の中から見送った。

 

 そのたびに、同じ問いが胸を刺す。

 

『なぜ、私は人狼になれないのか』

 

『このまま狼男として生きている意味などあるのか』

 

 何度も自分を責めた。

 

 何度も死にたいと思った。

 

 消えてしまいたいと願った。

 

 けれど、同族たちは残酷にも、私を無意味に生かし続けた。

 

 私が夢見ていた希望は、いつしか絶望へと姿を変えた。

 

 心は暗く沈み、気づけば諦観だけが私の頭を支配していた。

 

 そんな日々が幾度も過ぎたある日。

 

 生きる気力もなく、ただぼんやりと日々を過ごしていた私に、転機が訪れた。

 

 集落の外から、強大な妖怪の庇護を求める話が持ち上がったのだ。

 

 理由は詳しく知らされなかった。

 

 ただ、集落の者たちは怯えていた。

 

 人間たちが攻めてくる。

 

 このままでは守りきれない。

 

 強い妖怪の庇護が必要だ。

 

 檻の中にいた私にも、そんな断片的な言葉だけは届いた。

 

 力の弱い妖怪が、強大な妖怪に庇護を求める時。

 

 その対価として、同族を【生贄】と称して捧げる風習がある。

 

 生贄となった者は、強力な妖怪の食事になるか。

 

 研究材料にされるか。

 

 実験の被検体になるか。

 

 使い道はさまざまだが、どれもろくなものではない。

 

 ほとんどの場合、貢ぎ物として差し出された同族が戻ってくることはない。

 

 そして当然のように、満場一致で生贄に選ばれたのは私だった。

 

 その時の私は、生きる気力などほとんど残っていなかった。

 

 だから、生贄に選ばれても特に何も感じなかった。

 

 むしろ――やっと死ねるのか、と少しだけ安堵した。

 

 そうして私は、生贄として、この地域で最強と謳われる妖怪――【吸血鬼】のもとへ差し出された。

 

 その吸血鬼は、棲家である館周辺の地域を支配する高位の存在だった。

 

 かつて多くの人間が、そして同族の吸血鬼ですら、名声や新たな畏れを得るためにその館を襲撃したという。

 

 だが、生きて帰った者は一人もいない。

 

 そんな大妖怪の庇護を求めて、私は手足を縛られたまま、その吸血鬼の前へ差し出された。

 

 実際にその吸血鬼を目にした時、私は内心でとても驚いたことを覚えている。

 

 見た目は、完全に見目麗しい少女だった。

 

 けれど、その存在感は長い年月を生きた大妖怪そのもの。

 

 圧倒的だった。

 

 その威圧感に恐れをなしたのか、私を運んできた同族たちは文字通り尻尾を巻いて逃げ出していった。

 

 人狼たちも、私のような出来損ないを生贄に差し出したところで、吸血鬼が受け入れるはずがないと半ば諦めていたのだろう。

 

 それはもう、清々しいほどの逃げっぷりだった。

 

 四肢を縛られ、身動き一つ取れない私は、なすがままにその吸血鬼へ語りかけた。

 

『何の役にも立たない愚かな私ですが、最期にあなたの役に立てるのなら、それで構いません。どうぞ、私の身体から魂に至るまで、すべてを差し上げます』

 

 そう言って顔を上げ、吸血鬼の表情を窺った瞬間――。

 

 私が、ずっと呪いだと思ってきた【能力】が発動した。

 

 吸血鬼の心情が、頭の中へ流れ込んでくる。

 

 興味。

 

 不快。

 

 そして、ほんの少しの同情。

 

 吸血鬼が、私に興味を持っている。

 

 そのことに気づいた瞬間、私は驚きのあまり目を見開いた。

 

 言葉が出なかった。

 

 今まで他者から向けられてきたのは、せいぜい好奇の視線だけ。

 

 軽蔑。

 

 失望。

 

 嘲笑。

 

 それなら、嫌というほど浴びてきた。

 

 けれど、興味を持たれたことなど一度もなかった。

 

 初めて感じる“他者からの興味”という感情に、私はどうしていいのか分からなくなってしまったのだ。

 

 私の能力。

 

 それは、生まれた時から私の魂に刻まれていたもの。

 

 【機微を悟る程度の能力

 

 この能力は、他者の心の表面には出にくい微細な心情を察することができる。

 

 何を考えているのか、すべてが分かるわけではない。

 

 だが、言葉にされない悪意。

 

 誹謗。

 

 見下し。

 

 そういった、できれば知りたくなかったものまで察してしまう。

 

 そんな厄介な力だった。

 

 相手が笑っていても、その奥にある苛立ちが分かる。

 

 優しい言葉をかけられても、その裏にある侮蔑が伝わる。

 

 だから私は、誰かの顔色ばかり窺うようになった。

 

 誰かの声色に怯えるようになった。

 

 誰かの沈黙にさえ、恐怖するようになった。

 

 私は、そんな自分の能力をずっと呪っていた。

 

『君、面白いね』

 

 吸血鬼は、胡散臭い笑みを浮かべながらそう言った。

 

『せっかくだし、僕の館の番犬として君を雇おう。衣食住の面倒は見てあげる。それと、たまに残念な悪魔の話し相手をしてくれたら嬉しいかな』

 

 生贄として差し出された者に対しては、あまりにも破格の待遇だった。

 

 私は思わず戸惑いの声を漏らす。

 

『えっ……わ、私を雇ってくれるのですか? 実験材料やご飯にするのでは……?』

 

『……なぜそんなことをしなくちゃならないんだい?』

 

 吸血鬼は、心底不思議そうに首を傾げた。

 

『君はもう、人狼たちの庇護の対価として捧げられた。どのみち、君に拒否権などないよ。今日から君は我が館の番犬だ』

 

『か、かしこまりました、お嬢様……』

 

 私は、まるで運命に導かれるように、不思議と抵抗なく新たな役割を受け入れていた。

 

『……言っておくけど、僕はお嬢様じゃないよ。性別としては一応男だし』

 

 吸血鬼は少しむっとしたように眉を寄せ、それから、どこか芝居がかった仕草で胸に手を当てた。

 

『これからは、スカーレット伯爵と呼んでね』

 

 その名を口にした瞬間、周囲の空気がほんの少しだけ重くなった気がした。

 

 名を持つ吸血鬼。

 

 畏れを集め、伝承となり、夜に君臨する者。

 

 それが、私の前にいる御方の名だった。

 

『はい。かしこまりました、スカーレット伯爵』

 

 少しむっとした顔で呼び方を訂正してきた時のことは、その衝撃とともに今でも鮮明に覚えている。

 

 こうして私は、その日からスカーレット伯爵の住まう館の門番――いや、番犬として生きることになった。

 

 私を生贄に捧げた同族たちは、伯爵様の庇護を正式に受ける前に、妖怪退治を生業とする人間たちの集団に襲撃され、集落ごと壊滅したらしい。

 

 狼男たちは一匹残らず退治されたそうだが……。

 

 まあ、私にとってはどうでもいい話である。

 

 番犬としての生活は、今までの暮らしを思えば夢のような待遇だった。

 

 侵入者はほとんどいない。

 

 食事は3食きっちり出る。

 

 休みもある。

 

 寝床もある。

 

 鎖で繋がれることもない。

 

 それに何より、私には「番犬」という役割が与えられた。

 

 必要とされること。

 

 命令されること。

 

 役目を果たせること。

 

 それが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。

 

 他者に必要とされたかった私にとって、それはおそらく、幸せな毎日だったのだと思う。

 

 スカーレット伯爵と出会ったあの日。

 

 あの日こそが、私の運命が変わった日だった。

 

 ――だが、私が館に来て600回目の満月の日。

 

 私にとって“二度目の運命の日”がやって来た。

 

 


 

「……何か言い残すことはあるかい?」

 

 伯爵様は、私を追放するための魔法の準備を終えたらしい。

 

 その声で、私は過去の記憶から現実へと引き戻された。

 

 今までの記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。

 

 私は伯爵様に深く頭を下げ、自分の心情を伝える。

 

「今まで、お世話になりました」

 

「……へぇ。潔いね。てっきり理不尽な追放に、恨み言のひとつも言われると思ったけど」

 

「伯爵様には、迫害され続けていた私を救っていただいた御恩があります。感謝こそすれ、恨むなどとんでもありません」

 

「僕の名が届かない地で、死んじゃうかもしれないんだよ?」

 

 死ぬのは、確かに怖い。

 

 できることなら、醜くとも最後まで抗いたい。

 

 今までずっと諦めの心で、暗闇へ沈みたいと願っていた私が、今さら死に抗いたくなるなんて。

 

 それは、失ったと思っていた妖怪としての誇りがそうさせるのか。

 

 それとも、私の本当の心が「死にたくない」と叫んでいるのか。

 

 どちらなのかは分からない。

 

 それでも、今まで生かしてくれた館の皆様には、感謝しかなかった。

 

 もうこれ以上、この方々に迷惑をかけたくはない。

 

「それでもです」

 

 恐怖で足がすくむ。

 

 身体が震える。

 

 それでも私は、まっすぐ伯爵様へ感謝を伝えるために、深々と頭を下げた。

 

「貴方様に拾っていただけなければ、私はきっと、あの檻の中で何者にもなれないまま朽ちていました」

 

 言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

 けれど、不思議と後悔はなかった。

 

「番犬という役目を与えていただいたこと。居場所を与えていただいたこと。生きることを許していただいたこと。そのすべてに、感謝しております」

 

 伯爵様は、そんな私の様子に少し驚いたように眉を上げる。

 

 そして、やがて楽しそうにくつくつと笑い出した。

 

「……くくく。やっぱり、君は面白いやつだね。拾ってみて正解だったよ」

 

 伯爵様の深紅の瞳が、楽しげに細められる。

 

 その瞳の奥には、私には読み切れない何かがあった。

 

 いつものような悪戯心。

 

 退屈を紛らわせる好奇心。

 

 そして、もっと遠くを見つめるような、不可思議な確信。

 

「安心してよ。君の運命は、これからもっと明るくなっていくみたいだよ?」

 

「……えっ? どういうことでございますか、伯爵様?」

 

 伯爵様は、答えない。

 

 ただ、いつものように胡散臭い笑みを浮かべるだけだった。

 

 その言葉の意味が分からず、私が混乱している間にも、魔法は発動していく。

 

 足元に赤い光が走る。

 

 本棚の隙間から流れ込む月明かりが、赤い魔力の光に呑まれていく。

 

 私は反射的に身を固くした。

 

 これから自分がどこへ飛ばされるのか分からない。

 

 そこに何があるのかも分からない。

 

 生き延びられるのかも分からない。

 

 怖い。

 

 恐ろしい。

 

 逃げ出したい。

 

 それでも、私は最後まで頭を下げ続けた。

 

 せめてこの方の前では、最後まで役目を果たした番犬でありたかった。

 

「では――君のこれからの運命に、期待しているよ」

 

 視界が、魔法の光に包まれる。

 

 魔法で飛ばされる、その瞬間。

 

 伯爵様の最後の言葉に乗せられた心情が、私の中へ流れ込んできた。

 

 期待。

 

 愉快。

 

 そして、ほんのわずかな嫉妬。

 

 だが、心情を読み取ることができる私にも、その言葉の真意は分からなかった。

 

 何に期待しているのか。

 

 何を愉快だと思っているのか。

 

 そして、何に嫉妬しているのか。

 

 結局、何も分からないまま。

 

 私は、50年過ごした館から追放された。

 


And thus, the wheel of fate begins to turn...

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