東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第7話 閑話:投げられた賽の行方

 


Fallen werewolf perspective.

 

 伯爵様の声の余韻が消えないままに、私は赤い魔法の光へ呑み込まれた。

 

 書庫の床も、月明かりを受けた水晶の破片も、胡散臭い笑みを浮かべる伯爵様の姿も。

 

 すべてが白い光の向こうへ溶けていく。

 

 上下の感覚が失われる。

 

 身体ごと宙へ投げ出されたような浮遊感。

 

 けれど、落ちているのか、上っているのかさえ分からない。

 

 まるで、世界の外側へ放り出されたようだった。

 

 やがて、ふっと身体が重くなる。

 

 足裏に湿った土の感触が戻り、冷たい夜気が毛皮の間をすり抜けた。

 

 私はゆっくりと目を開ける。

 

 そこに広がっていたのは、深い闇を抱えた森だった。

 

 風に揺れる木々の音。

 

 頬を濡らす夜露。

 

 湿った土と、苔と、古い木の匂い。

 

 それらが、私を現実へ引き戻していく。

 

「……ここは」

 

 枝葉の隙間から、白い満月がこちらを覗いていた。

 

 いつものように、満月は私の不出来な身体を嘲笑うように、静かに照らしていた。

 

 だが今は、月よりも恐ろしいものがある。

 

 伯爵様の加護が、消えている。

 

「……っ」

 

 自覚した瞬間、身体の奥がぞっと冷えた。

 

 今まで当たり前のように私を支えていたものがない。

 

 妖力の底を、見えない手で少しずつ削り取られているような感覚。

 

 私はもう、伯爵様の番犬ではない。

 

 庇護を失った、ただの名もなき妖怪だ。

 

 人間の畏れに結びついた名もなく。

 

 語り継がれる伝承もなく。

 

 誰かの庇護もない。

 

 そんな妖怪がどうなるのかくらい、私にも分かっている。

 

 妖力はやがて霧散する。

 

 存在は薄れ、輪郭を失い、最後には自分が自分だったことすら保てなくなる。

 

 世界から忘れられる。

 

 それは、死よりも静かな消滅だった。

 

「……まずい」

 

 声に出してみても、状況は何も変わらない。

 

 生き延びるには、妖力の供給源が必要だった。

 

 人間から畏れを得るか。

 

 あるいは、強い妖怪の庇護下に入るか。

 

 だが、追放されたばかりの私に、そんな都合の良い相手がいるはずもない。

 

 その時だった。

 

キ゛ィィィア゛ア゛ァァァァア゛ァ

 

「っ……!」

 

 遠くで、森を裂くような叫び声が響いた。

 

 耳を塞ぎたくなるほど甲高い声。

 

 ただの獣の鳴き声ではない。

 

 魔力が乗っている。

 

 精神に爪を立て、恐怖を引きずり出そうとする声だった。

 

 その鳴き声に込められた魔力の波動を感じ取り、私は正体に気づいた。

 

 ……これは、知っている。

 

 館の蔵書で読んだことがある。

 

 人間の精神を錯乱させ、恐怖を煽り、その畏れを糧にする妖怪。

 

 【バンシー】。

 

 長年にわたって人間たちから畏れを集め、肥大化した妖力を持つ危険な妖怪だ。

 

 人間の集落では【森のタタリ神】の伝承として語り継がれているらしい。

 

 並の妖怪退治者では太刀打ちできないと、伯爵様の蔵書にも記されていた。

 

 確か、この妖怪は伯爵様の住む館周囲に広がる広大な森――【まどいの森】にしか生息していないはずだ。

 

 土地神と称されるほど畏れを集める妖怪は、その地に畏れが集まりすぎるため、逆に土地から離れられなくなるという制約を持つことがある。

 

 つまり、バンシーがいるということは。

 

 ここは間違いなく、【まどいの森】の中なのだろう。

 

 

 キ゛ィィィア゛ア゛ァァァァア゛ァ

 

 

「……。」

 

 バンシーの魔法の鳴き声が、さっきからしつこく私の精神に干渉してくる。

 

 だが、この手の精神汚染は妖怪である私には通用しない。

 

 バンシーの鳴き声による精神汚染は、対象の家族や、それに準じる存在にまつわる残酷な幻覚を見せるものだ。

 

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にこそ効果を発揮する。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()には、まったくの無意味。

 

 だから、鳴き声そのものを必要以上に警戒する必要はない。

 

 ……ない、はずなのだが。

 

 だからといって、油断できる相手ではない。

 

 もしバンシー本体に狙われれば、一瞬で捕食され、妖力を根こそぎ奪われるだろう。

 

 しかも、ここは夜闇に包まれた【まどいの森】。

 

 この森には、名も知れぬ危険な妖怪たちが徘徊している。

 

 弱者から妖力を奪おうと目を光らせるもの。

 

 理性すら持たず、ただ飢えに従って人間や妖精、弱い妖怪を襲うもの。

 

 そういう連中が、いくらでもいるはずだ。

 

 そんなものに出くわさないためにも、常に周囲を警戒しておかなければならない。

 

 私は鼻腔を広げ、深く息を吸い込んだ。

 

 狼男特有の嗅覚による察知能力。

 

 こういう状況では、これほど頼りになるものはない。

 

 空気中に漂う微細な匂いの粒子が、次々と感覚に届く。

 

 湿った土。

 

 苔。

 

 古い木。

 

 小動物の痕跡。

 

 遠くを流れる水。

 

 そして、魔力の残り香。

 

 周囲の状況が、頭の中で立体的に浮かび上がっていく。

 

 幸い、この森は人間たちから忌み嫌われている場所だ。

 

 獣避けの焚き火や、嗅覚を妨害する罠の類いは、この周辺にはなさそうだった。

 

 この調子なら、少しの時間でこの辺り一帯の探知は完了できるだろう。

 

 それまでは、できるだけ妖力を消費しないように、大人しく待つことにした。

 


 

 嗅覚による探知を始めてから、五分ほどが経った。

 

 だが、この周囲一里ほどの範囲には、獰猛な妖怪たちの匂いがまったく感じられない。

 

 幸運。

 

 そう言えば、確かに幸運なのだろう。

 

 だが、私は気を抜くことができなかった。

 

 なにしろ、ここは数多の無名の妖怪が生息しているはずの森だ。

 

 それなのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どう考えても異常だった。

 

 こういう時は決まって、どこかにとんでもない強者が潜んでいるものだ。

 

 ……それに、もう1つ奇妙なことがある。

 

 危険な匂いがしない一方で、不自然なほど目立つ匂いが1つだけ漂っていた。

 

 まるで花のように優しい香り。

 

 それは、()()と思しき匂いだった。

 

 今は真夜中。

 

 暗闇に包まれた森は、人間にとって死地でしかない。

 

 ましてや、恐怖の森と呼ばれる【まどいの森】に、人間がたった一人でいるなど、どう考えてもおかしい。

 

 怪しい。

 

 あまりにも怪しい。

 

 ……だが。

 

 妖力がどんどん削れていくこの状況で、人間から畏れを得て妖力を回復できる機会は滅多にない。

 

 この好機を逃せば、妖力はさらに減り、最後には存在ごと消えてしまう。

 

 選択肢はない。

 

 葛藤している時間もない。

 

 賭けごとは得意ではないが、ここは自分の命を賭けてみるしかない。

 

 そう覚悟を決め、私は駆け出した。

 

 この付近では吸血鬼に次ぐ俊足を誇る狼男としての本領発揮である。

 

 夜の森を、影のように駆け抜ける。

 

 木々の間をすり抜け、草を踏みしめ、湿った土を蹴る。

 

 匂いのする方角へ向かって、一直線に。

 

 およそ二分ほど走り続け、匂いの元に近づいたところで、私は速度を落とした。

 

 ここからは慎重にいく。

 

 気配を殺し、息を潜め、草の陰を進む。

 

 やがて、草の垣根をかき分け、森の中の開けた場所へ出た。

 

 そこには――。

 

 幼い人間の少女が、ぽつんと一人で立っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 木々の枝葉に遮られ、ほとんど届かないはずの月光。

 

 その淡い光が、なぜか彼女のもとにだけ集まっているように見えた。

 

 白銀の髪は、夜の中で静かに輝いている。

 

 全体的に白を基調とした服装のせいか、暗い森の中にぽつりと浮かぶ幽霊のようにも見えた。

 

 儚げで。

 

 美しくて。

 

 あまりにも場違いな少女だった。

 

 その瞳は、深い紫色。

 

 まるですべてを見透かしているような、不思議な色をしている。

 

 気配を消して近づいていたはずの私に、彼女はしっかりと気づいていた。

 

 じっと、こちらを見据えている。

 

 しかし、その瞳の奥には、確かに恐怖の色が揺れていた。

 

 私の【機微を悟る程度の能力】でも、少女が私を怖がっていることははっきりと感じ取れる。

 

 ……これは、まさかの大チャンス。

 

 珍しく、賭けが当たったかもしれない。

 

 私は人間の扱いに詳しくない。

 

 人狼の集落では檻に閉じ込められていた。

 

 館の番犬をしていた時も、人間の襲撃者など一人も来なかった。

 

 人間の姿を見るのも、人狼の集落によく訪れては私に無駄な嫌味を言ってきていた人間以来。

 

 つまり、これが人生で二人目の人間である。

 

 だから、人間についてはほとんど知らない。

 

 どうやって驚かせればいいのかも、正直よく分からない。

 

 それでも。

 

 ここでこの少女を怖がらせ、畏れを得なければ、私は確実に消えてしまう。

 

 ……やるしかない。

 

 私は喉を低く震わせる。

 

 できるだけ、恐ろしく。

 

 できるだけ、怪物らしく。

 

 そして、少女へ向かって言った。

 

「おまえ、うまそうだな」

 

 ……決まった。

 

 たぶん、今のはかなり怖かったはずだ。

 

 実際、少女の心に浮かぶ恐怖は、私の能力を通して少しずつ強くなっていくのが分かった。

 

 よし。

 

 ちゃんと怖がってくれている。

 

 あとは、このまま飛びかかって捕食するふりをすればいい。

 

 恐怖のどん底へ叩き落として、畏れを得る。

 

 それで、私は生き延びることができる。

 

「グルルルルルァァァァ!!」

 

「ひわぁぁぁぁ!?」

 

 飛びかかろうとした瞬間、少女が可愛らしい素っ頓狂な声を上げた。

 

 その反応が、なんだか妙に楽しい。

 

 今まで人間を驚かせたことなどなかった。

 

 だが、妖怪としての本能なのだろうか。

 

 こういうのは――少し、癖になりそうだ。

 

 などと、危機感のないことを考えていた、その瞬間。

 

 目の前で恐怖に立ちすくんでいたはずの少女の姿が、ふっと消えた。

 

「……は?」

 

 あまりの出来事に、思わず間抜けな声が漏れる。

 

 慌てて嗅覚による探知で少女の匂いを追った。

 

 そして、理解する。

 

 彼女の匂いは、およそ一里ほど先にあった。

 

 

 たった一瞬で。

 

 森の外れまで、移動していた。

 

 「……。」

 

 嫌な予感が、頭をよぎる。

 

 私は視界に捉えられないほど遠くへ行った少女の方角へ向けて、遠見魔法を発動した。

 

 その瞬間。

 

 私は、自分がしでかした最大級の失敗を理解した。

 

 彼女は、人間ではない。

 

 一里ほど先。

 

 森を抜けた先の平原で、少女は振り返っていた。

 

 こちらを見ている。

 

 遠見魔法を使っている様子もない。

 

 それなのに、私の視線に気づいたように、小さく手を振っている。

 

 私はもう一度、遠見魔法越しにその姿を見た。

 

 深い紫色の瞳。

 

 けれど、その奥に混じる紅。

 

 肉眼では見えなかった翼。

 

 遠見魔法を通してようやく視認できる、悪魔の翼のような輪郭。

 

 いや、ただの翼ではない。

 

 不定形で、不可視に近く、常に境界が揺らいでいる。

 

 まるで存在そのものが、こちらの認識を拒んでいるかのようだった。

 

 そんな特徴を抜きにしても、魔法も使わず一瞬で一里近い距離を移動する身体能力。

 

 

 考えるまでもない。

 

 彼女は、吸血鬼だ。

 

 それも、尋常な個体ではない。

 

 吸血鬼にとって力の象徴である翼を、さらに上位の力で隠せる吸血鬼など聞いたことがない。

 

 ……さて。

 

 そんな怪物に喧嘩を売った私は、どうすればいいのか。

 

 少女は、にこりと微笑んだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ……見惚れている場合じゃない。

 

 私は即座にその場で地面に膝をついた。

 

 頭を垂れる。

 

 額が土につく勢いで、できる限りの大声を張り上げた。

 

「申し訳ありませんでしたぁぁあ! 吸血鬼さまぁぁ!?」

 

 生まれて初めての命乞い。

 

 それが、無謀にも吸血鬼の彼女へ襲いかかってしまった私が、生き残るために選べる唯一の手段だった。

 


And then, the wolf met the moonlit girl.

 

 その後、私は逃げることもできず、その場で平伏し続けていた。

 

 逃げようとはした。

 

 ほんの少しだけ、じりじりと後退もした。

 

 だが、一里ほど先にいるはずの彼女の存在感は、なぜかすぐ背後にあるように感じられた。

 

 逆らうという選択肢など、最初からなかった。

 

 やがて彼女は、森の中へ戻ってきた。

 

 小さな足音。

 

 草を踏む軽い音。

 

 それだけで、私の全身から血の気が引いていく。

 

 そして彼女は、怯えきっている私を見下ろして、不思議そうに首を傾げた。

 

「えっと……とりあえず、広いところでお話しましょうか?」

 

 次の瞬間、私の身体はひょいと持ち上げられていた。

 

「……え?」

 

 抵抗など、できるはずもなかった。

 

 平原に出ると、月明かりが一面の草を銀色に染めていた。

 

 風が吹くたび、草の波が静かに揺れる。

 

 その中央に、彼女はいた。

 

 小さな身体で。

 

 怯えた私を不思議そうに見つめながら。

 

 念のため、もう一度【機微を悟る程度の能力】で彼女の心情を探ってみる。

 

 しかし、分かったのはただ1つ。

 

 裏表がない。

 

 悪意もない。

 

 ――つまり、裏が読めない。

 

 悪意ならまだいい。

 

 嘲笑でも、侮蔑でも、殺意でも、感じ取れるものなら対処のしようがある。

 

 けれど、何を考えているのか分からない善意ほど、時に残虐な悪意よりも怖いものはない。

 

 能力でそれを知ってしまった私は、ただ震えるしかなかった。

 

 吸血鬼という圧倒的な強者に捕まってしまった以上、私にできるのは、相手の機嫌を損ねないことだけだ。

 

 そんな私に、彼女は不思議そうに問いかけてくる。

 

 「それでは狼男さん……あ、そういえば、お名前はなんていうんですか?」

 

 ……え?

 

 名前。

 

 弱小な妖怪である狼男に対して、名前の有無を聞く。

 

 それは、妖怪にとっての常識を知らないかのような問いだった。

 

 余程の世間知らずの箱入りお嬢様なのか。

 

 それとも、私を試しているのか。

 

 どちらにせよ、返答を間違えれば命はない。

 

 私はできるだけ失礼のないよう、慎重に言葉を選んだ。

 

「……弱小な妖怪は、基本的に名前を持っていないのです」

 

 私は、少しだけ目を伏せた。

 

「吸血鬼様のような強大な妖怪であれば、家名や、その名に込められた人間からの畏れによる加護を持っています。ですが、我々〝狼男〟のような〝無名の妖怪〟は、そうした強大な存在の庇護下に入り、加護を頂きながら生き長らえているのです」

 

 自嘲するように、小さく笑う。

 

「ですから、私のことは、そのまま狼男とお呼びください」

 

 名前がないこと。

 

 加護とは何か。

 

 無名の妖怪がどれほど弱い存在なのか。

 

 できるだけ簡潔に説明してみたが、彼女はやはり詳しいことを知らない様子だった。

 

 どうやら、本当に世間知らずの箱入りお嬢様らしい。

 

 この様子なら、よくある吸血鬼のような残虐性は持ち合わせていないのかもしれない。

 

 少なくとも、なぶり殺しや食い殺しの心配は――たぶん、しなくていい。

 

 ……はず。

 

 その後も私は、身の上話をした。

 

 つい先ほど庇護から追放されたこと。

 

 加護を失ったせいで、このままでは妖力の残滓となって消えてしまうこと。

 

 自分でも驚くほど、正直に話してしまった。

 

 話しているうちに、少しずつ頭が冷えていく。

 

 そして冷静になればなるほど、逆に悟ってしまった。

 

 もう、人間から畏れを得て妖力を回復する希望など、ほとんど残されていない。

 

 おそらく、私の妖力は夜明けとともに尽きるだろう。

 

 目の前の吸血鬼は、能力で見てもとても優しい性格をしている。

 

 私の身の上話にも、この境遇にも、心から同情してくれているのが分かった。

 

 ……それなら。

 

 いっそ、この優しそうな吸血鬼に安楽な死を頼むのも、悪くないのかもしれない。

 

「まあでも、最後に貴方のような美しい吸血鬼に殺されるのなら、妖怪本能に尽きるというものです。今更抵抗いたしませんので、どうか安楽な死をお与えください」

 

 諦観を込めて、そう願い出る。

 

 だが。

 

 その瞬間、目の前の吸血鬼から、溢れんばかりの庇護の心情が伝わってきた。

 

 甘く。

 

 温かく。

 

 痛いほど優しい心情。

 

 私の能力は、彼女の内側にある感情を容赦なく拾い上げてしまう。

 

 だからこそ分かった。

 

 彼女は、本気で私を助けようとしている。

 

 どうして。

 

 出会ったばかりの、見ず知らずの私を。

 

 今まさに襲いかかったばかりの私を。

 

 なぜ、そこまで気にかけてくれるのか。

 

 分からない。

 

 能力を使うまでもなく、彼女が私に加護を与えて生かそうとしてくれていることは分かった。

 

 だが、加護というものは、そう簡単に授けられるものではない。

 

 加護とは、簡単に言えば、強大な妖怪の名に込められた畏れの力を、その名に忠誠を誓った配下が譲り受けることだ。

 

 もちろん、彼女はおそらく吸血鬼である。

 

 吸血鬼の名に込められた畏れ、そして加護の力は膨大だろう。

 

 しかし、膨大だからこそ危険でもある。

 

 加護のことを何も知らなかった世間知らずのお嬢様が、自身の膨大な妖力を不用意に分け与える。

 

 そんなことをすれば、与える側に、どんな負荷がかかるか分からない。

 

 込められた妖力が大きければ大きいほど、その危険は跳ね上がる。

 

 だから私は、彼女に負担をかけるわけにはいかなかった。

 

「……貴方様の寛大な心遣いに感謝いたします。……最期に出会えたのが貴方で良かった」

 

 私は彼女の心配に応えるように跪き、頭を垂れる。

 

 最後に口をついて出た言葉は、彼女が心配しないようにするための、精一杯の誤魔化しだった。

 

 もう、いい。

 

 諦めて、世界からの忘却を待つ。

 

 それも、悪くないのかもしれない。

 

 彼女に感謝を伝えて、この優しい申し出をうまく断ろうとした。

 

 その時だった。

 

 「それと……狼男さん、って呼びにくいので、私が名前を付けてあげます!」

 

 ――は?

 

 思考が止まった。

 

 名前を、付ける?

 

 妖怪に名前を付けるというのは、自らの存在値――つまり妖力を、名付けとともに分け与える行為だ。

 

 妖怪社会において、それはとんでもなく危険な行為である。

 

 ましてや、彼女は吸血鬼。

 

 その強大な妖力の一部を剥ぎ取り、他者に与えるなど、いくら痛みに強い吸血鬼でも、妖力を剥ぎ取る際に感じる痛みは計り知れないはずだ。

 

 加護を与える以上に、苦痛と危険を伴う可能性すらある。

 

 私は必死に説明しようとした。

 

 危険です。

 

 おやめください。

 

 私などに、そこまでする価値はありません。

 

 そう言葉を重ねようとした。

 

 しかし彼女は、まったく気にした様子もなく、軽いノリで名付けを始めてしまう。

 

「じゃあ、今日から貴方は〝ヴァルター〟です!」

 

「へ?」

 

「執事って意味の言葉から取ってみました。まあ、私は貴方のことを執事というより、家族みたいに思っているので……仲良くしてくださいね!」

 

「へぁ!?」

 

 気がついた時には、名付けは終わっていた。

 

 訳が分からなかった。

 

 ただ1つ、確かなことがある。

 

 私には、〖ヴァルター〗という名前が与えられた。

 

「こ、これは!?」

 

 突然の出来事に呆然としていた私の身体に、異変が起きる。

 

 まるで、世界からの忘却に真っ向から逆らうかのように。

 

 不思議なほど膨大な妖力が身体の奥底から溢れ出した。

 

 今にも消えそうだった存在値が、みるみる回復していく。

 

 世界に。

 

 この世界そのものに。

 

 【私という妖怪】の存在が、改めて力強く刻み込まれていくのを感じた。

 

 それだけではない。

 

 今まで、諦観の底で変化を求めることすら諦めていた毛むくじゃらの身体が、突然まばゆい光に包まれる。

 

 骨格が変わる。

 

 爪が縮む。

 

 毛並みがほどけていく。

 

 ごつごつした手足が、細く、人間のものに近づいていく。

 

 光の中から現れたのは、きめ細やかな肌。

 

 人の子のような手。

 

 柔らかな髪。

 

 そして、今までとは比べものにならないほど濃密な妖力。

 

 今までずっと変わらなかった妖怪としての格が、初めて上がったのだ。

 

 妖怪としての格。

 

 つまり、身に秘めた妖力の量は、その妖怪が人間に近い姿を得るほどに高まると言われている。

 

 耳としっぽさえ隠せば、人間の幼子にしか見えないほど人に近い姿。

 

 それは、私の格が一目で分かるほどに跳ね上がったことを意味していた。

 

 まどいの森の強者であるバンシーよりも。

 

 私を監禁していた人狼たちよりも。

 

 遥かに上位の存在へと、私は進化していた。

 

「うえぇ!?狼男さんじゃなくて狼女さん?いや、狼少女さん!?というかすっぽんぽんじゃあないかぁぁぁ!服を着なさい!」

 

 ……ただし。

 

 なぜか、同族の男たちとはまったく違う姿になっていた。

 

 人間の少女としか言いようのない、幼い女の子の姿に。

 

 けれど。

 

 それでも。

 

 これは、間違いなく――。

 

「…………あ。…………じ、人狼に……お、落ちこぼれのはずの、わ、私が……人狼に……」

 

「と、とりあえずこのローブでも着て……って、丈が足りない!!」

 

 安心と驚きを心に浮かべた彼女は、私が全裸であることに気づくと、慌てて自分のローブをかけてくれた。

 

 彼女の身長は、今の私よりさらに低い。

 

 だから、かけてくれたローブは少し小さかった。

 

 それでも。

 

 能力を使うまでもなく、彼女の心情には慈愛と優しさが満ちているのが分かった。

 

 今まで感じたことのなかった温かさが、冷え切っていた私の心にゆっくり染み込んでいく。

 

 凝り固まっていた諦観が、彼女の優しさで少しずつほどけていく。

 

 その瞬間、忘れたつもりでいた声が、胸の奥から滲み出してきた。

 

 落ちこぼれ。

 

 役立たず。

 

 失敗作。

 

 何度も聞かされた言葉。

 

 聞き流したはずの罵声。

 

 聞こえないふりをして、心の奥に沈め続けてきた悪意。

 

 けれど本当に苦しかったのは、言葉そのものではなかった。

 

 言葉に乗って流れ込んでくる、嘲笑。

 

 侮蔑。

 

 嫌悪。

 

 そして、ほんのわずかな憐れみ。

 

 私の【機微を悟る程度の能力】は、それらを余さず拾い上げてしまう。

 

 どれだけ耳を塞いでも。

 

 どれだけ表情を殺しても。

 

 相手が私をどう見ているのかだけは、嫌になるほど分かってしまった。

 

『早く人狼になれ』

 

『まだその姿なのか』

 

『お前は何のために生まれてきた』

 

『生贄くらいには役に立て』

 

 短い言葉だけが、暗い水底から泡のように浮かび上がっては消えていく。

 

 

 今まで緩むことがなかった心が、彼女の温かさで緩んだからこそ。

 

 忘れたはずの痛みが、はっきりと蘇ってしまった。

 

 ズキン、と胸が痛む。

 

 あの時、感じないようにしていた痛みが。

 

 長い年月を経て、今さらのようにぶり返してくる。

 

 視界がぼやけた。

 

 端から闇に包まれていくように、世界が滲んでいく。

 

ぐすんっ

 

 泣くほどに悲しいという感情が、まだ自分の中に残っていたことに驚いた。

 

 遠い昔に置き去りにしたはずの涙が、どうしてか止めどなく溢れてくる。

 

 このまま消えてしまいたい。

 

 そんな暗い思考が、頭の中をぐるぐると回り続ける。

 

 ……そうだ。

 

 私は、世界から消えるべき存在なのだ。

 

 生贄にされた時も。

 

 スカーレット伯爵に追放された時も。

 

 最初は抗う理由すらなかった。

 

 それなのに、心のどこかに引っかかっていた一握りの希望が、私を無意味に生かし続けた。

 

 保護してくれた人狼たちにも。

 

 匿ってくれたスカーレット伯爵にも。

 

 私は何1つ恩を返すことができなかった。

 

 これからも、きっと誰の役にも立てやしない。

 

 こんな私が、この世界に生きる資格なんて――。

 

「……よ、よしよし」

 

「……」

 

 過去の記憶に押し潰され、暗闇に沈みかけたその時。

 

 ふいに、小さな手が私の頭にそっと置かれた。

 

 そして、優しく撫でてくれた。

 

 暗く滲んだ視界の向こうで、私の頭を撫でてくれている少女の顔が見える。

 

 彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも、慈愛に満ちた瞳で私を見つめていた。

 

 その時。

 

 今まで負の感情ばかり拾ってきた【機微を悟る程度の能力】が、彼女の心情を私の心へまっすぐ届けてくれた。

 

 伝わってきたのは、今まで浴びせられてきた感情とはまるで違うものだった。

 

 嘲笑ではない。

 

 侮蔑でもない。

 

 嫌悪でも、憐れみでもない。

 

 戸惑い。

 

 心配。

 

 どうにかしてあげたい、という必死な願い。

 

 そして、その奥にある、あまりにも無防備な優しさ。

 

 私の能力は、それを疑いようもなく拾い上げていた。

 

 凝り固まっていた負の感情が、彼女の温もりで少しずつほどけていく。

 

 不思議と、生きる気力が湧いてきた。

 

 ――彼女は、自分の妖力を惜しみなく使い、今まで落ちこぼれと呼ばれてきた私を人狼へと進化させてくれた。

 

『じゃあ、今日から貴方は〝ヴァルター〟です! 執事って意味の言葉から取ってみました』

 

 出会ったばかりの私の話を聞いてくれて。

 

 名前まで授けてくれて。

 

『……よ、よしよし』

 

 過去のトラウマに押し潰されそうな私を、心から慰めてくれて。

 

『まあ、私は貴方のこと、執事っていうより家族みたいに思ってるので……仲良くしてくださいね!』

 

 そして。

 

 私のことを、家族だと言ってくれた。

 

「お嬢様!」

 

「え!? ……あ。え!? お嬢様!?」

 

 彼女は命の恩人だ。

 

 落ちこぼれの私を救ってくれた、大恩人だ。

 

 それだけではない。

 

 彼女は、私に名前をくれた。

 

 役割をくれた。

 

 生きていい理由をくれた。

 

「お嬢様! 私〖ヴァルター〗は、生涯、貴方に尽くすことを誓います」

 

「う、うぅ……魔性のロリっ子の上目遣いが効かないだなんて……。お、お嬢様は恥ずかしいですよぅ……。あ、あと、生涯尽くすとか、そんな大層なことは……」

 

 自分がしたことを、大げさなことだとは思っていない様子の彼女。

 

 その恥ずかしそうな顔を見て、私は思わず笑顔になった。

 

 泣き止んだはずの目の端から、今度は温かい涙が溢れてくる。

 

 ああ。

 

 きっと今の私は、生まれて初めて本当の笑顔を浮かべているのだろう。

 

 忠誠を誓うだけで、この大きな恩を返せるとは思っていない。

 

 それでも。

 

 こんなにも心を温めてもらい、忘れていた笑顔を取り戻させてくれたのだ。

 

 この恩は、生涯をかけて返していこう。

 

「ヴァルター、私の名前はアズールです! これからはアズールと呼んでください」

 

「かしこまりました。アズールお嬢様」

 

 能力越しに伝わってくるアズールお嬢様の心情を見てみれば、そこにあったのは、私の大きな感謝を理解している様子ではなかった。

 

 むしろ、彼女は少し不安がっていた。

 

 自分が名付けた名前が、私に似合っているだろうか。

 

 そんなことを、真剣に気にしてくれている。

 

 ああ。

 

 この方は、本当に分かっていないのだ。

 

 自分が私に、どれほど大きなものを与えてくれたのか。

 

 だからこそ、私はもう一度、自分の気持ちを伝えることにした。

 

 胸を張る。

 

 背筋を伸ばす。

 

 そして、アズールお嬢様に向けて、はっきりと宣言した。

 

「私の名前はヴァルター。アズールお嬢様に生涯忠誠を誓い、お嬢様を最大限サポートする執事です! これからよろしくお願いいたします!」

 


Thus, Walter received a name, a role, and a place to return to.

 

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