第8話 常識に囚われず、空へ
Asyl perspective
世界には、知らない方が幸せなものがある。
かの有名な禁断の果実よろしく、知らなければ幸せでいられたものほど、人はなぜか覗き込みたくなるもの。
一度味わえば、もう戻れない甘い誘惑。
例えば、深夜に食べる背徳のラーメン。
罪悪感と幸福感が同時に押し寄せてくる、あの危険なやつ。
そして今、私は知ってしまった。
この世には、それらに匹敵する――いや、もしかするとそれ以上に蠱惑的なものが存在するのだと。
つまり、それは——。
もふもふ。
ふわふわの耳。
ぴこぴこ動く尻尾。
そして、撫でるこちらの指先に合わせて、あまりにも素直に反応してしまう小さな身体。
……ダメだ。
これはダメだ。
人類には早すぎるタイプの幸福だ。
……いや、今の私は暫定吸血鬼なので人類ではないのだけれど。
「お゛♡、おじょうさまあ゛ぁ♡」
……あ、やっべ。
「は、はぁ♡……はぁ♡……お、お嬢様ぁ……。も、もう、やめへぇ♡……」
はっと我に返って視線を落とす。
視線の先では、頬を林檎みたいにぷっくりと真っ赤にしたヴァルターが、ぴくぴく身体を小刻みに震わせながら、涙目で私を見上げていた。
両耳はぺたんと伏せられ、尻尾は力なくへにゃりと垂れている。
……やっちまった。
これは完全にやりすぎたやつだ。
「……ヴァルター。そ、その、本当にごめんなさい! つい、興奮しちゃって……」
魔法の話でテンションが爆上がりして、流れでヴァルターのふわっふわなしっぽや、ぴこぴこ動く柔らかな耳を、遠慮なく堪能してしまった……。
気づけば目の前には、顔を真っ赤にして小さな舌をちょろっと出し、肩で息をしながら虚ろな目で宙を見つめているヴァルターのあられもない姿。
——あ゜……この表情はマズい。
今のヴァルターの表情には、公共の場では絶対に見せてはいけない種類の恍惚感が滲んでいる。
もし誰かに見られたら、私が何か怪しいことをしているように誤解されかねない。
いや、確実に誤解される。
……違うんです。
私はただ、なでなでして、もふもふして、ちょっと夢中になって……気づいたらヴァルターがこんなことになっていただけなんです。
……。
……うん。
言い訳としてはだいぶ苦しい。
慌てて周囲に人がいないことを確認し、ほっと胸を撫で下ろしながら、そっと手を引っ込めた。
私の手から解放されたヴァルターは、その場にへたり込んで——ビクン、ビクンと波打つように痙攣している。
……目を蕩けさせて、舌を出して、顔を赤らめて、息を荒げて、力なくペタンと座り込んで、ビクンビクンと震えて……。
……。
……いやおかしいです!
私はまだ何もやましいことはしてないです!
ただもふもふしてただけ!
それだけ!
本当にそれだけなのに、なんでこんなことに……!
「お、お嬢様ぁ……」
ヴァルターが潤んだ瞳で私を見上げてくる。
その視線があまりにもあんまりすぎて、思わず顔を背けてしまう。
……だめです。
そんな目で見ないでください。
今の私は、非常に、ひじょーに危険な状態です。
目の前には、ふわふわのお耳。
ぴこぴこ震える尻尾。
涙目で見上げてくる、可愛いヴァルター。
……はぁ、はぁ。
……無理では?
こんなの、我慢しろという方が無理では?
だって、目の前に禁断の果実そのものがぽんと置かれている感じですよ?
これで手を出すなというのは、もはや拷問に近い。
お耳を撫でたい。
尻尾を梳きたい。
背中をなでなでしたい。
そのまま腕の中に閉じ込めて、ありとあらゆる角度から堪能したい。
……。
……いや待て。
今の思考、だいぶアウトでは?
もふもふという言葉で誤魔化してはいるけれど、かなり危ない人の発想では?
……落ち着け、私。
これは愛情表現。
そう、愛情表現です。
決して、ちっちゃなケモ耳美少女をどうこうしたいだとか、そういう不埒な欲望からでは――。
……。
…………。
……ちょっとだけある。
「……ふう、ふう、ふう。……ア、アズールお嬢様。すみません、落ち着きました」
息が整い始めたヴァルターの声で、私は妄想の地平線から現実へと引き戻された。
「ヴァルター、大丈夫ですか? 立てますか?」
「はい。ですが、もういきなり耳と尻尾は触らないでいただけると助かります……。この身体だと特に、アズールお嬢様に触られると変な心地良さで……おかしくなりそうなので……」
そう言いながら、尻尾を股の間に必死で隠し、お耳を両手でぺたんと押さえつけるヴァルター。
そのまま私を責めるかのようなジト目でこちらを見てくる。
——んんんんんんんんっっ!!!
——か゛・わ゛・い゛・い゛!!
すぐさま押し倒してしまいたい——そんな嗜虐心を容赦なく抉ってくるヴァルターの仕草。
魔法への興奮も併せて、脳内が爆発寸前だ。
「……すみません。以後、気をつけますね」
押し倒してしまいたい欲求を、とてつもない精神力で抑え込んで、何とか言葉を絞り出す。
……ふぅ。
吸血鬼の超速思考と精神力に助けられた……。
危なかった。本当に危なかった。
……まったく。
ヴァルターはまったく!
「……え。……いや、その……いきなりでなければ……触っても、大丈夫……ですよ?」
——え。
——え?
「……え!?」
今、何て言いました!?
これは、もしかしてもしかすると——私に触られるのは嫌いじゃないってことで、それはつまり許可があればOKということで、ということはヴァルターもまんざらでもなかったということで、それならば……!
吸血鬼の超速思考が今までにない最高速で回転していく。
思考の声が早口でぐるぐると巡る。
脳内BGMは「フライト・オブ・ザ・バンブルビー」だ。
——よし。
とりあえず、手をわきわきとさせながら、ヴァルターにゆっくりと近づいていく。
……ヴァルターが悪いんですよ?
そんな可愛くて魅惑的な尻尾とお耳を、ゆらゆらとさせて……。
触るなという方が無理な話です。
……さぁ、ご近所さんのワンちゃんを一匹残らずヘロヘロに籠絡させたことのある私の、ナデナデの秘技を見せてあげます…………ぐへへへへへ。
そんなよだれを垂らしそうなだらしない顔をしているであろう私の様子を見たヴァルターが、はっとして顔を青くしながら後ずさった。
尻尾がピンと立ち、お耳が警戒するようにピクピクと動いている。
「ア、アズール様! い、今はダ、ダメです!……ほ、ほら、夜明けも近いですし! 今は拠点を探しに行きましょう?……そ、そういうことは、また、夜更けの落ち着いた時に……」
近づく私に、ちょっと涙目になりながらも後ずさりして必死に止めてくるヴァルター。
——涙目のヴァルターもかわ゛い゛い゛!!
——でも、待て。
……深呼吸。
……ふぅ。
落ち着け、私。
「……分かりました! ヴァルター。じゃあ、また落ち着いた時にナデナデの続きを……」
またもや吸血鬼の超速思考と精神力に助けられた。
本当に、この能力には感謝しかない。
この体になってから不思議な能力が次々と発覚しているけど、この自制心の高さはかなり便利だ。
普通の人間だったら、こんなにフワフワした耳と尻尾を目の前にしてこんなにも理性を保てるはずがない。
……絶対に。
「……は、はい。かしこまりました、アズールお嬢様」
ヴァルターはそう言って少し恥ずかしそうにうつむき、ふわふわの耳をピクピクと震わせながら返事をした。
——よし、言質取れました。
落ち着いた時には、たっぷりとヴァルターをなでなでして、ヘロヘロに攻略してやることにしよう。
……と、その前に。
「ところでヴァルター。さっそくさっきの魔法の話、もっと聞かせてもらえませんか? 魔力とか、妖力とか」
身を乗り出して尋ねると、ヴァルターは少し困ったように眉を下げた。
「申し訳ありません、お嬢様。私自身、魔法の扱いは多少心得ていますが、理論まで詳しく説明できるほど学があるわけではないのです」
「えっ」
ここにきて、魔法の説明をお預けにされるなんて。
目の前にステーキを置かれて、匂いだけ嗅いで帰れと言われてるようなものだ。
「ですが」
ヴァルターは、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「私に魔法を教えてくださった先生なら、きっとお嬢様にも分かりやすく教えてくださると思います」
「魔法の先生!」
その響きだけで胸が高鳴る。
魔法の先生。
なんて素晴らしい言葉の響きなのだろう。
魔法。
先生。
つまり魔法先生。
「その魔法先生は、今どこに?」
「……今すぐ会える場所ではありません。ですが、機会があれば必ずご紹介します」
「約束ですよ!?」
「はい。お約束します」
そこまで話したところでいよいよ東の空が明るみ始め、なんだかお肌にピリピリとした痛みを感じ始めてきた。
もしかして、この薄暗い早朝の光でも吸血鬼的には影響があるのだろうか。
……今の太陽の光でもかなりきつめに日焼けした後のようなそこそこの痛みを感じるのなら、直射日光に当たったならば燃え上がってしまうのでは?
もしそうなら怖すぎる。
「ヴァルター。魔法の話はすっごく名残惜しいんですけど……そろそろ拠点を探した方がいいですよね?」
「……はい。そうですね」
ヴァルターは頷いた。
けれど、その表情にはわずかな迷いがあった。
何かを言おうとして、飲み込んでいるような。
尻尾が落ち着かなく揺れ、お耳が小さく伏せられる。
「……ヴァルター?」
「……その、アズールお嬢様。拠点なのですが……1つ当てがあります」
「おぉ! 当てがあるんですか! それは助かります!」
正直言って、この世界のことは何もわからない。
前世の記憶と多少似通った部分はあるけれど、言わばここは前世とは全く別の世界。
それも私が生きていた時代よりも2000年くらい昔の時代だ。
そんな状況で、この世界の住人であるヴァルターの存在は、異世界人も同然の私にとって命綱のような存在だ。
「今私達がいるこの森は【まどいの森】と呼ばれています。名前の通り、人や妖怪の方向感覚を狂わせる魔力が満ちた広大な森です」
ヴァルターの口から語られる地名に、思わず胸が高鳴る。
まどいの森!
なんですか、そのRPG序盤のダンジョンみたいな名前は!
「この森の中心には高く盛り上がった山があり、妖精が多く生息していることから【妖精の山】と呼ばれています。その山の中腹に行けば、私の言う当てがあります」
妖精の山……!
ますますファンタジーRPGな雰囲気が濃厚になってきた。
「その山の中腹に、何があるんですか?」
「……館があります」
ヴァルターはそう言うと少しだけ視線を逸らす。
……廃墟の館があるのかな?
この際贅沢は言っていられないし廃墟でもなんでもあるだけありがたい。
「なるほど! とにかく屋根と壁があるなら現状は最高物件です!」
「……はい」
……でも。
こんな森の奥深くで、私たちは今いる場所もよく分かっていない。
どうやって目的地まで行くのだろう。
GPSもない。
スマホの電波も当然ない。
それに方向感覚を狂わせる森だなんて、迷うこと間違いなしでは?
「その山の方角というのが分からないのですが、どうしましょうか。ここは見晴らしのいい草原ですが大きな木に隠れて山はあまり見えないですし……」
「……? 何を言っているのですか? お嬢様? 飛べば良いではないですか」
ふわり
「へ?」
なんでもないかのように、空にふわりと浮かんだヴァルターに、突然の事で唖然となった私は固まる。
「ヴァ、ヴァルター!? 空に!? えっ? どうやって飛っ!? うぇ!?」
「お嬢様、落ち着いて下さい。お嬢様は飛び方をご存知ないのですか?」
ヴァルターは空中でくるりと可愛らしく回転し、首を傾げながら私を不思議そうに見てくる。
空に浮いている。
つまり、飛んでいる。
それがあまりにも当然のことのように行われているせいで、私の思考が停止した。
さらに衝撃的なのは、ヴァルターの問いかけだ。
まるで「呼吸の仕方をご存知ないのですか?」と困惑されながら聞かれているような感覚だった。
「ど、どうやって飛んでいるのですか!? 揚力は? 重力は? 物理法則はいったいどうなってるんですか!?」
前世の常識が頭をよぎり、思わず空想のような光景に科学的な疑問を口にしてしまう。
「お嬢様、落ち着いてください。じゅうりょく? やら、ぶつりほうそく? やらは、あまりよく分かりませんが……妖力や魔力の使い方は吸血鬼ならば分かるはずです」
ヴァルターは困惑した表情を浮かべながらも、優しく説明を続けた。
「アズールお嬢様は吸血鬼です。魔力や妖力を用いて空を自在に飛ぶことは、呼吸をするように当たり前のことなのです。空を飛ぶ方法は単純です。自分が空を飛ぶ姿を、当たり前のように思い描くだけ」
そこでヴァルターは、少しだけ誇らしげに胸を張る。
「すべての魔法の根源たるエネルギーは、意思や想像の力である。私に魔法を教えてくれた先生は、よくそう言っていました」
ヴァルターの言葉に、私ははっとした。
そうだ。
私は前世でも、見えないものや、分からないものや、常識の外側にあるものを追い求めていた。
夢か現実かも分からないこの世界で、散々不思議なものを見てきた。
それなのに、今さら物理法則がどうこうなんて、私は何を言っているのだろう。
幻想を追い求める者が、無粋な常識に縛られてどうする。
身体や記憶に刻まれた
ここはもう、私の知っている世界ではない。
そして私は、ただの人間でもない。
私は空を飛ぶ事が出来る!!
だって、私は吸血鬼なんだから!
自由自在に空を飛びまわる事の出来る、幻想たる存在なのだ!!
吸血鬼の超速思考が、世界の時間を遅くする。
その一瞬の中で、私は何度も何度も自分の姿を思い描いた。
地面から浮かぶ足。
雲に手が届くような感覚。
月の光を浴びながら、夜空を自由に舞う自分。
ただ、そこにいるのが当然であるかのように、空へ。
すると、不思議なことに身体が軽くなった。
足元から、ふわりと浮力が生まれる。
前世の記憶に縛られた常識がほどけ、身体が宙へ浮かび始める。
地面から足が離れた瞬間、全身に電流が走ったような感覚がした。
重力という鎖から解き放たれた身体は、まるで水中にいるようで、ただそれよりもずっと自由で軽やかだった。
……これが。
これが、空を飛ぶということ――。
「すごい! すごい! すごいです! きゃー! 私空飛んでますよ! ヴァルタァァァー!」
「ちょっ、まっ、お嬢様!?」
歓喜に身を任せ、私は空中に浮かぶヴァルターへ向かって突進した。
勢いのまま彼女に抱きつき、その柔らかな身体に頬を寄せる。
そして、どさくさに紛れて、ふわふわの耳と尻尾に手を伸ばした。
「ひぁ♡ お、お嬢様♡ んんあっ♡……や、やめ♡」
ヴァルターの耳がビクンと跳ね上がり、尻尾が一瞬でピンと伸びる。
その反応があまりにも愛らしくて、思わず撫で続けてしまう。
猫じゃらしに反応する子猫のように、ヴァルターの耳と尻尾が私の手の動きに合わせて踊る。
指先に伝わる柔らかな感触と、ヴァルターの甘い吐息が混ざり合って、なんとも言えない背徳感と満足感が胸を満たした。
——もちろん、この後すっごく怒られた。
「お嬢様の初飛行をお祝いしたいところですが、まずはマナーについて厳重注意です!」と説教30分コース。
説教中は空が暁から東雲へ向かうくらい明るくなり、さらに肌に感じる痛みが強くなってきて内心ビクビク震えていたが、ちょっと本気で怒ってる様子のヴァルターが怖くて言い出せなかった。
でも、土下座して謝ったら優しいヴァルターはお触り禁止令を解いてくれた。
ただし「度を超えたら本気で怒りますよ」と釘を刺されたけれど。
……ヴァルターは怒らせると怖い……覚えておかないと……。
……でも、ふ、ふふふ、どこまでが「度を超える」のか、その境界線を探る旅が、これから始まる予感……楽しみです!
そして何より、空を飛べるようになったことで、この異世界での冒険がまた一歩、前に進んだような気がした。