Asyl perspective
「……」
「……ヴァルター。……あ、あの……まだ怒ってますか?」
先程から、ヴァルターが目を合わせてくれない。
口も聞いてくれない。
完全に、不貞腐れた猫みたいな無視モードに入ってしまっている。
……狼なのに。
原因は、まず間違いなく私だ。
勢いに任せて、ヴァルターの身体を二度も堪能してしまったからだろう。
……というか、やばい。
無視されるの、超寂しい!
「ヴァルターぁ……本当にごめんなさいぃ! ヴァルターを弄って、何度も気持ち良くしてしまった私が悪かったです! 謝るので無視しないでくださいぃ!」
「っ、お嬢様! 弄るだとか気持ち良くするだとか、大きな声で変なことを言わないでください!」
私の誠心誠意の謝罪に、ヴァルターが顔を真っ赤にして慌てて詰め寄ってくる。
ふわふわの耳がピンと立ち、尻尾が慌ただしく左右に揺れる。
恥ずかしがるヴァルターも最っ高に可愛い。
「……こほん。……大丈夫です。もう怒っていませんよ。でも、いきなり抱きつかれて全身を撫で回されるのは……その……びっくりしますので……今後は本当に控えてくださいね?」
一度咳払いをしてから、ヴァルターは少し疲れたように肩を落とし、そう言って微笑んでくれた。
その表情には、諦めにも似た優しさが滲んでいる。
……私の執事になってもらって早々、さっそく苦労をかけてしまっている気がする。
ちょっぴりだけ申し訳ない。
でも、なんやかんやあっても最後には許してくれるヴァルターは、本当にチョロ……じゃなくて、優しい良い子だ。
今も恨めしそうにこちらを見てくるジト目が可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
「……変なこと、考えていませんか?」
ヴァルターの尻尾が、ピクリと警戒するように動いた。
疑いの眼差しが、私に向けられる。
まるで獲物を見定める猫のような鋭い視線だ。(ここはもっとわかりやすいたとえで猫じゃなくても大丈夫、秀逸に)
……狼だけど。
「……考えてませんよぉ?」
もちろん、ちょっとだけ考えていた。
空を飛べた興奮もまだ冷めていないせいで、頭の中が妙にふわふわしている。
このままだと、また変なことを口走りかねない。
これ以上ヴァルターに嫌われないためにも、落ち着かなければ。
平常心、平常心。
深呼吸。
「……ところで、ヴァルター。今更ですけど、拠点の当てって何のことなんですか?」
話題を変えるように、私は気になっていたことを口にした。
今、私達は森の上空を飛んでいる。
眼下には深緑の樹海が広がり、夜明け前の風が頬を撫でていく。
最初は不安定だった飛行も、ヴァルターの簡単な指導のおかげで、今では時速50kmほどの速さで安定して飛べるようになっていた。
【まどいの森】の中心。
【妖精の山】と呼ばれる山の中腹にあるらしい、ヴァルターの言っていた拠点の当て。
今は、その場所へ向かっている途中なわけだが――。
「……恐らく、匂いからしても、こちらの方向にもう少し飛んだ先にあるはずです」
ヴァルターは質問に直接答えず、ただ前方を指し示した。
その指先の向こうには、夜闇からわずかに朝焼けへ染まり始めた空と、うっすら霞む山の稜線が見える。
先程から、その拠点の当てについて何度か聞いている。
けれど、そのたびにヴァルターは曖昧に言葉を濁していた。
まるで、その場所について話したくないかのように。
ヴァルターが口ごもる理由。
そこには、きっと何か複雑な事情があるのだろう。
「……差し支えなければ、教えていただきたいのですが」
私は、ヴァルターの手をそっと握った。
小さくて、温かい手だった。
「その拠点の当てとは、一体何なんですか?」
ヴァルターは手を握られた瞬間、びくりと身を震わせた。
けれど、振り払おうとはしなかった。
しばらく迷うように視線を彷徨わせたあと、やがて観念したように飛行の速度を落とす。
深く息を吸い、覚悟を決めたような表情で、彼女は口を開いた。
「……以前、お世話になっていたご主人様の館です」
「以前の、ご主人様?」
「はい。私を追放した吸血鬼の伯爵……スカーレット卿の館です」
「え?」
思わず、言葉が喉に詰まった。
追放された館に向かっている?
え、どうして?
普通に考えたら、受け入れてもらえるどころか、また追い返される可能性の方が高いのではないだろうか。
いや、もしかしたら敵対される可能性だってある。
ヴァルターの横顔を見る。
その表情には、いくつもの感情が混ざっていた。
懐かしさ。
不安。
緊張。
そして、ほんの少しの期待。
故郷に帰るような安堵と、追放された場所へ戻る怖さ。
相反する感情が、その瞳の奥で揺れているように見えた。
「……ヴァルター」
「はい」
「その……行って、大丈夫な場所なんですか?」
私は、できるだけゆっくり尋ねた。
ここで勢いだけで励ますのは、何か違う気がした。
ヴァルターは、ただ何となくそこへ向かっているわけではない。
きっと、考えた上で選んでいる。
なら、まずはその理由を聞きたい。
「……分かりません」
ヴァルターは、正直にそう答えた。
「ですが、伯爵様は気まぐれな方ではありますが、無意味なことをなさる方ではありません。私を追放したことにも、何か理由があったのだと思います」
そう言って、ヴァルターはほんの少しだけ笑った。
まだ不安は残っている。
けれど、その笑顔には確かな覚悟があった。
なら、私が言うべきことは1つだ。
「分かりました」
私はできるだけ明るく、そして強く頷いた。
「じゃあ、一緒に行きましょう。大丈夫です。私もついてますし、何かあったら……えっと、何とかします!」
「そこはもう少し具体的に言ってほしかったです」
「ご、ごめんなさい。でも、気持ちは本当です!」
ヴァルターは小さく吹き出した。
その笑顔を見て、私も少しだけ安心する。
「……お嬢様。ありがとうございます」
ヴァルターは繋がれた私の手を自分の顔に近づけて、嬉しそうに私の手に頬擦りした。
ニコッとはにかみ、小さく頷き、手を繋いだまま前を向いて、飛行の速度を戻す。
その横顔には、不安と期待が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
……。
……うぅ。
ヴァルターの一挙手一投足が可愛いすぎてつらい。(かわいいだけではなくていじらしい、アズールはそんなヴァルターをトロトロに甘やかしたいと思っている)
嬉しそうにぴこぴこ跳ねてるお耳を、わしゃわしゃヨシヨシとなでなでしてあげたい……。
繋いだ手をにぎにぎと握り返してくるのも最高に可愛い……。永遠に手を繋いでいたい……。
……。
……あれ?
……というか。
今更だけど、さっきヴァルターが言った【吸血鬼】で【スカーレット】という単語の組み合わせが、前世の記憶の中で何かを引っ掻いていく。
脳の奥底で、何かが引っかかる。
まるで錆びついた鍵が、ゆっくりと回り始めるような感覚。
いや、まぁ吸血鬼といえば血。
血といえば赤。
鮮やかな赤はスカーレット。
名前として連想できなくはない。
でも、それだけじゃない。
もっと具体的で。
もっと明確で。
前世で何度も目にしたはずの情報が、確かに記憶に残っている。
「恐らく、ご主人様……伯爵様が私を追放したのは、ここに至るまでの運命を見通していたからだと思います」
ヴァルターが、自分にも言い聞かせるようにぽつりぽつりと説明する。
「伯爵様には、〖運命を覗く程度の能力〗がありますので。それに、その通りなら、追放される前に私の能力で垣間見えた伯爵様の心情にも、幾分か納得がいきます」
〖運命を覗く程度の能力〗?
ヴァルターの能力で、心情が垣間見える?
運命を見るだなんて、それはもう未来予知みたいなものでは?
そして、ヴァルターは心の中を見ることができるのだろうか。
確かに、これまでにも何度か、考えていることを見透かされていそうな時があった。
……それに、〖程度の能力〗という表現も気になる。
前世で読んだ幻想郷に関する書物に、確かそんな表現方法の記載があった気がする。
超速思考が加速する。
前世の記憶を、片っ端から検索していく。
〖運命〗
〖吸血鬼〗
〖スカーレット〗
〖館〗
様々な単語が脳内でフラッシュバックしていく。
特に気になるのは、前世の記憶の中にある、幻想郷の歴史に関する書物に記載されていた事件や事変の項目。
埃まみれの古文書の中で見つけた、断片的な記録。
誰も信じてくれなかった、幻想の記述。
そこに、当てはまりそうな記載がいくつかあった。
紅霧異変。
吸血鬼異変。
永遠に紅い幼き月。
紅い悪魔。
……確か、彼女の名前は……。
「……ヴァルター。もしかして、その伯爵様の名前って【レミリア】さんと言いますか?」
ヴァルターは私の質問に、一瞬だけ飛ぶ速度を落とした。
驚いた表情を見せ、耳がピクンと跳ね上がる。
尻尾も硬直していた。
「え? 違いますよ? 確かお名前は【グニール・スカーレット】という名だったはずです」
「あ、あれ? 違いましたか」
予想外の答えに、私は思わずガクッと飛行速度を下げてしまった。
ここまで記載されていた情報と合致していたのに、まさかの別人だった。
……でも。
スカーレット姓の吸血鬼が他にもいる可能性はある。
あるいは、私が知っている記録とは時代が違うのかもしれない。
そもそも前世で読んだ情報が、どこまで正確だったのかも分からない。
前世の知識と、目の前の現実が噛み合わない。
その違和感に戸惑いながら、私はもう1つの可能性を探ることにした。
「それなら、その伯爵様が住んでいる館って、【紅魔館】っていう名前の館ですか?」
ヴァルターは再び驚いた様子で、私の顔を覗き込んだ。
その瞳には、困惑と疑問が浮かんでいる。
「あれっ? お嬢様。伯爵様と面識があるのですか?」
「い、いえ。面識はない、はずです」
「そうなのですか? ですが、その通りです。今から向かう先は、伯爵様が住まう館――〖紅魔館〗です」
――ッ!
今度は、前世の記憶と完全に合致した。
心臓が大きく跳ねる。
胸の奥で、何かが弾けたような感覚があった。
紅魔館。
幻想郷。
吸血鬼。
スカーレット。
それらが、現実のものとして目の前に現れようとしている。
けれど同時に、新しい疑問が次々と湧き上がってくる。
レミリアではなく、グニール・スカーレット。
これは前世の知識と現実の差異なのか。
それとも時間軸の問題なのか。
この世界では、私の知っている幻想郷の歴史とは違う出来事が起きているのか。
そもそも。
幻想郷は、本当に実在する場所なのか?
前世で、私は幻想郷を探していた。
誰も信じてくれなかった。
何度調べても、確かな証拠には辿り着けなかった。
夢物語だと笑われた。
幻想に取り憑かれていると言われた。
けれど、それでも私は諦めきれなかった。
その幻想の世界が。
あれほど追い求めた場所が。
今、手の届きそうな場所にあるのか?
……どうして?
……なぜ?
……私は、ここにいる?
答えの出ない疑問が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
ヴァルターが何かを話しかけてくれていた気もする。
けれど、その声は遠く、思考の渦に呑まれてうまく聞き取れなかった。
吸血鬼になったせいなのか、思考だけが異様に加速していく。
1秒が何分にも引き延ばされたように感じる。
それでも、答えは出ない。
分からないことが、分からないまま増えていく。
ただ1つだけ、はっきりしていることがある。
私は今、前世で追い求めた幻想の手前にいる。
その事実だけが、恐ろしくて、どうしようもなく胸を高鳴らせた。
Beyond the veil of dawn, the Scarlet Devil Mansion waited in silence.
「着きました。ここが、私が以前お世話になっていたご主人様……スカーレット卿の住まう館、紅魔館です」
ヴァルターの声で、私は我に返った。
吸血鬼の超速思考を使って、先ほど聞いた事柄を必死に整理していたはずなのだが――結局、何1つ整理しきれないまま目的地に着いてしまったらしい。
1秒が何分にも感じられるほど思考が加速しても、分からないものは分からない。
というか、考える材料が足りなすぎる。
思考の渦から顔を上げると、前方に巨大な館が見えた。
夜明け前の白み始めた空を背景に、紅色の館が静かに佇んでいる。
……なるほど。
〖紅〗魔館である。
名前に偽りなし。
思っていた以上に、ちゃんと紅い。
前世の知識では、書物に載っていた簡単な挿絵や、断片的な記述でしか知らなかった。
けれど、実際に目の当たりにすると印象がまるで違う。
深い紅色の煉瓦壁。
空へ伸びる尖塔。
高い窓から漏れる、柔らかな灯り。
館全体が、夜闇の名残の中にぼんやりと浮かび上がっている。
まるで、暗い森に置かれた巨大な紅い宝石のようだった。
周囲には庭園が広がっている。
薔薇らしき花々が夜風に揺れ、甘く、どこか妖しい香りを漂わせていた。
美しい。
けれど、それだけではない。
近づくだけで背筋が伸びるような威圧感がある。
招かれているようで、試されているようでもある。
ここは誰かの住まいであり、同時に、ひとつの領域なのだ。
そう感じた瞬間、ふと入口の方へ視線が引き寄せられた。
そこに、少女が立っていた。
10代前半くらいに見える、美しい少女だった。
最初からそこにいたのか。
それとも、たった今現れたのか。
分からない。
気配が薄い。
けれど存在感だけは、館そのものに負けないほど濃い。
ぱっちりとした瞳は、吸い込まれそうなほど深い紅色。
青みがかった紫色の髪は肩のあたりで揺れ、夜明け前の淡い光を受けて静かに輝いている。
白いスーツと白いズボン。
その上から、大きな黒い外套を羽織っている。
まるで男装した貴族の令嬢のような姿だった。
そして背中には、吸血鬼らしい黒い翼。
少女は、私とヴァルターを見て、穏やかに微笑んだ。
その笑みは優雅で、どこか楽しげで。
けれど、底が見えない。
隣で、ヴァルターの身体が小さく強張るのが分かった。
繋いだ手に、ほんの少しだけ力がこもる。
少女は一歩も動かないまま、綺麗にお辞儀をした。
「ようこそ、紅魔館へ」
その声は、夜明け前の空気に溶けるように静かだった。
朝日はまだ、地平線の向こうに隠れている。
夜と朝の境目で。
紅い館の前で。
吸血鬼は、まるで最初からすべて知っていたかのように、静かに微笑んでいた。