東方庇護録   作:まほろばのーぶる

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第9話 紅い館は夜明けに微笑む


Asyl perspective

 

「……」

 

「……ヴァルター。……あ、あの……まだ怒ってますか?」

 

 先程から、ヴァルターが目を合わせてくれない。

 

 口も聞いてくれない。

 

 完全に、不貞腐れた猫みたいな無視モードに入ってしまっている。

 

 ……狼なのに。

 

 原因は、まず間違いなく私だ。

 

 勢いに任せて、ヴァルターの身体を二度も堪能してしまったからだろう。

 

 ……というか、やばい。

 

 無視されるの、超寂しい!

 

「ヴァルターぁ……本当にごめんなさいぃ! ヴァルターを弄って、何度も気持ち良くしてしまった私が悪かったです! 謝るので無視しないでくださいぃ!」

 

「っ、お嬢様! 弄るだとか気持ち良くするだとか、大きな声で変なことを言わないでください!」

 

 私の誠心誠意の謝罪に、ヴァルターが顔を真っ赤にして慌てて詰め寄ってくる。

 

 ふわふわの耳がピンと立ち、尻尾が慌ただしく左右に揺れる。

 

 恥ずかしがるヴァルターも最っ高に可愛い。

 

「……こほん。……大丈夫です。もう怒っていませんよ。でも、いきなり抱きつかれて全身を撫で回されるのは……その……びっくりしますので……今後は本当に控えてくださいね?」

 

 一度咳払いをしてから、ヴァルターは少し疲れたように肩を落とし、そう言って微笑んでくれた。

 

 その表情には、諦めにも似た優しさが滲んでいる。

 

 ……私の執事になってもらって早々、さっそく苦労をかけてしまっている気がする。

 

 ちょっぴりだけ申し訳ない。

 

 でも、なんやかんやあっても最後には許してくれるヴァルターは、本当にチョロ……じゃなくて、優しい良い子だ。

 

 今も恨めしそうにこちらを見てくるジト目が可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。

 

「……変なこと、考えていませんか?」

 

 ヴァルターの尻尾が、ピクリと警戒するように動いた。

 

 疑いの眼差しが、私に向けられる。

 

 まるで獲物を見定める猫のような鋭い視線だ。(ここはもっとわかりやすいたとえで猫じゃなくても大丈夫、秀逸に)

 

 ……狼だけど。

 

「……考えてませんよぉ?」

 

 もちろん、ちょっとだけ考えていた。

 

 空を飛べた興奮もまだ冷めていないせいで、頭の中が妙にふわふわしている。

 

 このままだと、また変なことを口走りかねない。

 

 これ以上ヴァルターに嫌われないためにも、落ち着かなければ。

 

 平常心、平常心。

 

 深呼吸。

 

「……ところで、ヴァルター。今更ですけど、拠点の当てって何のことなんですか?」

 

 話題を変えるように、私は気になっていたことを口にした。

 

 今、私達は森の上空を飛んでいる。

 

 眼下には深緑の樹海が広がり、夜明け前の風が頬を撫でていく。

 

 最初は不安定だった飛行も、ヴァルターの簡単な指導のおかげで、今では時速50kmほどの速さで安定して飛べるようになっていた。

 

 【まどいの森】の中心。

 

 【妖精の山】と呼ばれる山の中腹にあるらしい、ヴァルターの言っていた拠点の当て。

 

 今は、その場所へ向かっている途中なわけだが――。

 

「……恐らく、匂いからしても、こちらの方向にもう少し飛んだ先にあるはずです」

 

 ヴァルターは質問に直接答えず、ただ前方を指し示した。

 

 その指先の向こうには、夜闇からわずかに朝焼けへ染まり始めた空と、うっすら霞む山の稜線が見える。

 

 先程から、その拠点の当てについて何度か聞いている。

 

 けれど、そのたびにヴァルターは曖昧に言葉を濁していた。

 

 まるで、その場所について話したくないかのように。

 

 ヴァルターが口ごもる理由。

 

 そこには、きっと何か複雑な事情があるのだろう。

 

「……差し支えなければ、教えていただきたいのですが」

 

 私は、ヴァルターの手をそっと握った。

 

 小さくて、温かい手だった。

 

「その拠点の当てとは、一体何なんですか?」

 

 ヴァルターは手を握られた瞬間、びくりと身を震わせた。

 

 けれど、振り払おうとはしなかった。

 

 しばらく迷うように視線を彷徨わせたあと、やがて観念したように飛行の速度を落とす。

 

 深く息を吸い、覚悟を決めたような表情で、彼女は口を開いた。

 

「……以前、お世話になっていたご主人様の館です」

 

「以前の、ご主人様?」

 

「はい。私を追放した吸血鬼の伯爵……スカーレット卿の館です」

 

「え?」

 

 思わず、言葉が喉に詰まった。

 

 追放された館に向かっている?

 

 え、どうして?

 

 普通に考えたら、受け入れてもらえるどころか、また追い返される可能性の方が高いのではないだろうか。

 

 いや、もしかしたら敵対される可能性だってある。

 

 ヴァルターの横顔を見る。

 

 その表情には、いくつもの感情が混ざっていた。

 

 懐かしさ。

 

 不安。

 

 緊張。

 

 そして、ほんの少しの期待。

 

 故郷に帰るような安堵と、追放された場所へ戻る怖さ。

 

 相反する感情が、その瞳の奥で揺れているように見えた。

 

「……ヴァルター」

 

「はい」

 

「その……行って、大丈夫な場所なんですか?」

 

 私は、できるだけゆっくり尋ねた。

 

 ここで勢いだけで励ますのは、何か違う気がした。

 

 ヴァルターは、ただ何となくそこへ向かっているわけではない。

 

 きっと、考えた上で選んでいる。

 

 なら、まずはその理由を聞きたい。

 

「……分かりません」

 

 ヴァルターは、正直にそう答えた。

 

「ですが、伯爵様は気まぐれな方ではありますが、無意味なことをなさる方ではありません。私を追放したことにも、何か理由があったのだと思います」

 

 そう言って、ヴァルターはほんの少しだけ笑った。

 

 まだ不安は残っている。

 

 けれど、その笑顔には確かな覚悟があった。

 

 なら、私が言うべきことは1つだ。

 

「分かりました」

 

 私はできるだけ明るく、そして強く頷いた。

 

「じゃあ、一緒に行きましょう。大丈夫です。私もついてますし、何かあったら……えっと、何とかします!」

 

「そこはもう少し具体的に言ってほしかったです」

 

「ご、ごめんなさい。でも、気持ちは本当です!」

 

 ヴァルターは小さく吹き出した。

 

 その笑顔を見て、私も少しだけ安心する。

 

「……お嬢様。ありがとうございます」

 

 ヴァルターは繋がれた私の手を自分の顔に近づけて、嬉しそうに私の手に頬擦りした。

 ニコッとはにかみ、小さく頷き、手を繋いだまま前を向いて、飛行の速度を戻す。

 

 その横顔には、不安と期待が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。

 

 ……。

 

 ……うぅ。

 ヴァルターの一挙手一投足が可愛いすぎてつらい。(かわいいだけではなくていじらしい、アズールはそんなヴァルターをトロトロに甘やかしたいと思っている)

 嬉しそうにぴこぴこ跳ねてるお耳を、わしゃわしゃヨシヨシとなでなでしてあげたい……。

 繋いだ手をにぎにぎと握り返してくるのも最高に可愛い……。永遠に手を繋いでいたい……。

 

 

 ……。

 

 ……あれ?

 

 ……というか。

 

 今更だけど、さっきヴァルターが言った【吸血鬼】で【スカーレット】という単語の組み合わせが、前世の記憶の中で何かを引っ掻いていく。

 

 脳の奥底で、何かが引っかかる。

 まるで錆びついた鍵が、ゆっくりと回り始めるような感覚。

 

 いや、まぁ吸血鬼といえば血。

 血といえば赤。

 鮮やかな赤はスカーレット。

 

 名前として連想できなくはない。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 もっと具体的で。

 

 もっと明確で。

 

 前世で何度も目にしたはずの情報が、確かに記憶に残っている。

 

「恐らく、ご主人様……伯爵様が私を追放したのは、ここに至るまでの運命を見通していたからだと思います」

 

 ヴァルターが、自分にも言い聞かせるようにぽつりぽつりと説明する。

 

「伯爵様には、〖運命を覗く程度の能力〗がありますので。それに、その通りなら、追放される前に私の能力で垣間見えた伯爵様の心情にも、幾分か納得がいきます」

 

 〖運命を覗く程度の能力〗?

 

 ヴァルターの能力で、心情が垣間見える?

 

 運命を見るだなんて、それはもう未来予知みたいなものでは?

 

 そして、ヴァルターは心の中を見ることができるのだろうか。

 

 確かに、これまでにも何度か、考えていることを見透かされていそうな時があった。

 

 ……それに、〖程度の能力〗という表現も気になる。

 

 前世で読んだ幻想郷に関する書物に、確かそんな表現方法の記載があった気がする。

 

 超速思考が加速する。

 

 前世の記憶を、片っ端から検索していく。

 

 〖運命

 

 〖吸血鬼

 

 〖スカーレット

 

 〖

 

 様々な単語が脳内でフラッシュバックしていく。

 

 特に気になるのは、前世の記憶の中にある、幻想郷の歴史に関する書物に記載されていた事件や事変の項目。

 

 埃まみれの古文書の中で見つけた、断片的な記録。

 

 誰も信じてくれなかった、幻想の記述。

 

 そこに、当てはまりそうな記載がいくつかあった。

 

 紅霧異変。

 

 吸血鬼異変。

 

 永遠に紅い幼き月。

 

 紅い悪魔。

 

 ……確か、彼女の名前は……。

 

「……ヴァルター。もしかして、その伯爵様の名前って【レミリア】さんと言いますか?」

 

 ヴァルターは私の質問に、一瞬だけ飛ぶ速度を落とした。

 

 驚いた表情を見せ、耳がピクンと跳ね上がる。

 

 尻尾も硬直していた。

 

「え? 違いますよ? 確かお名前は【グニール・スカーレット】という名だったはずです」

 

「あ、あれ? 違いましたか」

 

 予想外の答えに、私は思わずガクッと飛行速度を下げてしまった。

 

 ここまで記載されていた情報と合致していたのに、まさかの別人だった。

 

 ……でも。

 

 スカーレット姓の吸血鬼が他にもいる可能性はある。

 

 あるいは、私が知っている記録とは時代が違うのかもしれない。

 

 そもそも前世で読んだ情報が、どこまで正確だったのかも分からない。

 

 前世の知識と、目の前の現実が噛み合わない。

 

 その違和感に戸惑いながら、私はもう1つの可能性を探ることにした。

 

「それなら、その伯爵様が住んでいる館って、【紅魔館】っていう名前の館ですか?」

 

 ヴァルターは再び驚いた様子で、私の顔を覗き込んだ。

 

 その瞳には、困惑と疑問が浮かんでいる。

 

「あれっ? お嬢様。伯爵様と面識があるのですか?」

 

「い、いえ。面識はない、はずです」

 

「そうなのですか? ですが、その通りです。今から向かう先は、伯爵様が住まう館――〖紅魔館〗です」

 

 ――ッ!

 

 今度は、前世の記憶と完全に合致した。

 

 心臓が大きく跳ねる。

 

 胸の奥で、何かが弾けたような感覚があった。

 

 紅魔館。

 

 幻想郷。

 

 吸血鬼。

 

 スカーレット。

 

 それらが、現実のものとして目の前に現れようとしている。

 

 けれど同時に、新しい疑問が次々と湧き上がってくる。

 

 レミリアではなく、グニール・スカーレット。

 

 これは前世の知識と現実の差異なのか。

 

 それとも時間軸の問題なのか。

 

 この世界では、私の知っている幻想郷の歴史とは違う出来事が起きているのか。

 

 そもそも。

 

 幻想郷は、本当に実在する場所なのか?

 

 前世で、私は幻想郷を探していた。

 

 誰も信じてくれなかった。

 

 何度調べても、確かな証拠には辿り着けなかった。

 

 夢物語だと笑われた。

 

 幻想に取り憑かれていると言われた。

 

 けれど、それでも私は諦めきれなかった。

 

 その幻想の世界が。

 

 あれほど追い求めた場所が。

 

 今、手の届きそうな場所にあるのか?

 

 ……どうして?

 

 ……なぜ?

 

 ……私は、ここにいる?

 

 答えの出ない疑問が、頭の中でぐるぐると回り続ける。

 

 ヴァルターが何かを話しかけてくれていた気もする。

 

 けれど、その声は遠く、思考の渦に呑まれてうまく聞き取れなかった。

 

 吸血鬼になったせいなのか、思考だけが異様に加速していく。

 

 1秒が何分にも引き延ばされたように感じる。

 

 それでも、答えは出ない。

 

 分からないことが、分からないまま増えていく。

 

 ただ1つだけ、はっきりしていることがある。

 

 私は今、前世で追い求めた幻想の手前にいる。

 

 その事実だけが、恐ろしくて、どうしようもなく胸を高鳴らせた。

 


Beyond the veil of dawn, the Scarlet Devil Mansion waited in silence.

 

 

「着きました。ここが、私が以前お世話になっていたご主人様……スカーレット卿の住まう館、紅魔館です」

 

 ヴァルターの声で、私は我に返った。

 

 吸血鬼の超速思考を使って、先ほど聞いた事柄を必死に整理していたはずなのだが――結局、何1つ整理しきれないまま目的地に着いてしまったらしい。

 

 1秒が何分にも感じられるほど思考が加速しても、分からないものは分からない。

 

 というか、考える材料が足りなすぎる。

 

 思考の渦から顔を上げると、前方に巨大な館が見えた。

 

 夜明け前の白み始めた空を背景に、紅色の館が静かに佇んでいる。

 

 ……なるほど。

 

 〖〗魔館である。

 

 名前に偽りなし。

 

 思っていた以上に、ちゃんと紅い。

 

 前世の知識では、書物に載っていた簡単な挿絵や、断片的な記述でしか知らなかった。

 

 けれど、実際に目の当たりにすると印象がまるで違う。

 

 深い紅色の煉瓦壁。

 

 空へ伸びる尖塔。

 

 高い窓から漏れる、柔らかな灯り。

 

 館全体が、夜闇の名残の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 

 まるで、暗い森に置かれた巨大な紅い宝石のようだった。

 

 周囲には庭園が広がっている。

 

 薔薇らしき花々が夜風に揺れ、甘く、どこか妖しい香りを漂わせていた。

 

 美しい。

 

 けれど、それだけではない。

 

 近づくだけで背筋が伸びるような威圧感がある。

 

 招かれているようで、試されているようでもある。

 

 ここは誰かの住まいであり、同時に、ひとつの領域なのだ。

 

 そう感じた瞬間、ふと入口の方へ視線が引き寄せられた。

 

 そこに、少女が立っていた。

 

 10代前半くらいに見える、美しい少女だった。

 

 最初からそこにいたのか。

 

 それとも、たった今現れたのか。

 

 分からない。

 

 気配が薄い。

 

 けれど存在感だけは、館そのものに負けないほど濃い。

 

 ぱっちりとした瞳は、吸い込まれそうなほど深い紅色。

 

 青みがかった紫色の髪は肩のあたりで揺れ、夜明け前の淡い光を受けて静かに輝いている。

 

 白いスーツと白いズボン。

 

 その上から、大きな黒い外套を羽織っている。

 

 まるで男装した貴族の令嬢のような姿だった。

 

 そして背中には、吸血鬼らしい黒い翼。

 

 少女は、私とヴァルターを見て、穏やかに微笑んだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その笑みは優雅で、どこか楽しげで。

 

 けれど、底が見えない。

 

 隣で、ヴァルターの身体が小さく強張るのが分かった。

 

 繋いだ手に、ほんの少しだけ力がこもる。

 

 少女は一歩も動かないまま、綺麗にお辞儀をした。

 

「ようこそ、紅魔館へ」

 

 その声は、夜明け前の空気に溶けるように静かだった。

 

 朝日はまだ、地平線の向こうに隠れている。

 

 夜と朝の境目で。

 

 紅い館の前で。

 

 吸血鬼は、まるで最初からすべて知っていたかのように、静かに微笑んでいた。

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