ドタドタとありとあらゆる世の不条理を吐き捨てながら浴場から出た、自称モブことナツキ・スバル。
だいぶ体も熱ってきて、これ以上入れば体調も崩しそうなライトは、先ほど出たスバルの態度を思い出しながら笑うロズワールを置いて風呂を上がろうとした。
だが……
「待ちたまえ、ライトくん……いや──タカナシ・ライト。君に話がある」
「何かありましたか……?」
隣から声がかかって、目を移せば嫌に真剣そうな顔をするロズワールがいる。帰ろうにも、そうはさせまいというオーラがこの浴場を支配していた。
浮いた腰の置き場に迷いつつも、とりあえず足湯といった状態で落ち着かせた。
「なんですか……? 急に厳かな雰囲気で」
「君は、──エミリア様の騎士になるつもりはないかい?」
「なんですって」
今までの中で一番低い声が出た。
疑問渦巻くライトの脳内では、騎士という単語をライトぺディアに検索をかけていた。
──騎士。騎馬で戦う者に与えられた名誉的称号とされている。この場合、竜の乗り物もあるわけだから、竜騎士になれ。とでも言いたいのだろうか。それか特定の誰かを守るような近衛騎士という説もありうる。
トリックアートの無限に続く階段の如く完結しないロズワールの真意をどうにか理解しようとしても、ライトは思いつかなかった。
その混乱のなか、指を鳴らす音で現実世界に戻った。
「もう一度言おう。タカナシ・ライト。君はエミリア様の騎士になるつもりはないかい?」
「……騎士ってあの騎士ですか? 誰かを守るみたいな」
「そうだーぁとも。君にエミリア様を守る騎士になってもらいたい」
ますます訳がわからなくなってしまう。
友達になったとはいえ、まず本人であるエミリアに聞かなければならないだろう。なるつもりはないとしても、このまま、『はい』と頷いたところで彼女の迷惑になりうる。
その上エミリアを守るのであれば、志の強いスバルに任せた方が良いと思う。
「俺じゃなくて……昴なら、きっと良い騎士になりますよ。騎士と言っても名前だけじゃなくて……ちゃんと志を持って、それを向けることができる人が良くて……」
「となーぁると?」
ロズワールの異なる色を持つ双眸が鋭く光る。何かを見定めるような鋭い目。
圧迫感のあるその一言にライトは口を籠らせて言うのを躊躇うが、決断は早い方がいい。
だからこそ自身の取る選択肢はこれだ。
「俺は──騎士にはなりません」
否定。
己にその可能性はあるといって、軽い気持ちで入ったとしても重い気持ちで入ったとしても無理だ。
想像がつかないのだ。それに騎士という単語にライトはあまりいい印象を持っていない。実際にこの国の騎士というものを見ればその意見も変わるのだろうが、それでも誰かに従い、特定の人を守るという、不自由が、可能性が封じられることがどことなく嫌いだ。
自分の道は、自分で決めたい。
だと言っているのに、
「それでも、私は君に騎士になってほしいんだーぁよ」
「なんなんですか、しつこいですよ。さっきも言いましたけど、俺は騎士にはなりません。エミリアを思う気持ちはきっと昴の方が……」
「──スバルくんは弱すぎる」
彼からの突然の切り捨てに「は?」と声を漏らすライトに、黄色と青のオッドアイを向けるロズワールが続ける。
「それに比べ、エミリア様から聞けば、あの『腸狩り』を退けたのは君だーぁと聞く。……君は、何か隠しているんじゃーぁないかい?」
ロズワールの疑惑の目に映るライトの表情は、見当もつかない困った顔をしている。
腸狩りを倒したのは、スバルもエミリアも口をそろえてライトが倒したと言うのだ。
ナイフが間近に迫った瞬間意識がなくなり、そこから先が全く思い出せない。隠していると言われるのも仕方ないことだとは思っている。
ただ本当に知らないから、
「何も隠してなんかいませんよ。俺はエルザさんと戦った記憶もないし、きっと見間違い。そんな力、俺にはないですし」
「そうかーぁい。それでも、エミリア様が契約なされている大精霊様にも引けを取らない精霊、ユニコーンと君は契約しーぃている。同じ精霊使い。話が通じるものもあるだろうし、じーぃじつエミリア様は君に心を開きかけている。開きかけた彼女の心を君が精霊騎士として入ってくれさえすれば王選は安泰だ」
「それは……エミリアの心の支えになれってことですか? なら、尚更俺だけじゃないでしょうに」
心の支えは別にライトではなくてもできるのだ。屋敷の面々と会話したりするのも一種の心の支えにもなるし、エミリアに命を懸けるスバルや早とちりだとしても守ろうとしたパックだっているのだから。
「確かに、俺はユニコーンと契約しています。ユニコーンが強いことも、たぶん守れるくらいの力があることもわかってはいるんです。でもエミリアとは分け隔てない友達でいたいし、騎士になってもどうなるかわかりません」
「友達、ねーぇ。王候補でもあり次期国王になるかもしれない御方に、随分と甘い考えに浸っているようだ。君が騎士というものをどう捉えているかは知らないけーぇど、悪い話じゃーぁないはずだ」
なかなか手を引かないロズワール。
なぜこうまでして引き止めようとするのだろうか。
だが、ライトの心は決まっている。自分がどこにいるのかさえわからないのに、無責任に振る舞うことなんてできないのだから。
「それでも……俺は騎士になりません。力があっても、昴みたいに彼女に命を懸けられるほど勇気もなければ、心も強くない。そんな俺にできる訳ないじゃないですか」
「違うね。わかっていない、君は──君がどういう存在であるかということを」
ロズワールの口から流れ出た新たなキーワードに、ライトは「俺の、存在?」とおうむ返し。
真顔だったロズワール口元が不敵な笑みへと変わったが、以前として目に宿る底知れなさは解かれていなかった。
「君は、──あの人に選ばれたんだ。そうでなければ君が、ユニコーンをあそこまで従順に従えることができる理由には到底ならない」
「ユニコーンが従順って……確かにユニコーンはとてもいい子ですけど……」
眉を寄せて左下に視線を移したライトは向き直り小首をかしげると、ロズワールが無言で頷く。
ユニコーンは確かに従順だ。従順といっても立場関係が下というよりかは、むしろ対等な関係。心通わせるパートナーのような存在でもある。
従順に従っているわけでもないし、あれらユニコーンの行動は全て彼がしたいことだったわけで、別に強制したわけではない。
「そうだとも。私にさえ与えなかったその精霊、ユニコーンを君に与えたということは、君はその『器』に足る人物ということなんだ。ユニコーンと契約し、従えることのできる『器』」
「さっきから従えるとか、器とか、なんなんですか。ユニコーンを物みたいに言わないでください。それに俺は、特別な人とかでもなんでもないごく普通の一般人で……」
「いーぃや、彼が、ただの平凡な輩に与えるとは思えない。きっとユニコーンに眠る何かを託すに足る者だからこそ、君に託したんだ。違うかい?」
ライトの否定を聞き終わることもなく、重ねて言うロズワール。異なる色の双眸がライトには別の感情が宿っているようにさえ見えた。何か悍ましい粘つくような何かが。
心理戦のような心休まない雰囲気とロズワールからの問いに、ライトは答えられないでいた。
自分には何かなすべきことがあってそのためにここに来たとさえ目の前の道化は言う。その言葉が、ライトには嫌に心中を反響し、残響させられていた。
一向に返答が帰ってはこなくなり、温風に煽られた湯船の波音があたりを満たす。
何も生まない、ただ両者をのぼさせるだけの揺蕩う空気をロズワールが柏手を打ち、
「そうか……君は嫉妬しているんだーぁね?」
「ぁ……なにを──っ」
嫌に神経を苛立たせる声色に、ライトは顔をあげざるを得なかった。言い返そうとしても言葉は紡がれず、ただロズワールの顔を直視することしかできない。
目を細め、悦に浸る彼の顔を。
「君は、ここに来て自分という価値を見出しているスバルくんに嫉妬しているんだ。ここまで騎士を断るのは責任かーぁらでなく、君という価値を──居場所さえ見つけることができないからで……」
「俺は、そんなんじゃ……もういいです──っ」
もう何も聞きたくない。早くこの場から去りたい一心で、ライトは逃げるように浴場の外へと歩き出す。
心渦巻く濁流に飲まれるのをどうにか塞ぎ止めることに、拳を握りしめて耐えることで精一杯だった。
歩みの中、それでも尚耳に響くのは、心底嫌いと思った嘲憐む彼の声色だけ。
*
*
「俺……どうしたらよかったんだ」
枕に顔を埋めて、ライトは浴場の出来事を振り返りながら独り呟く。
視界が黒く染めげられ風景が浮かび上がってくるのを横を向いて妨げた。それでも刻まれた傷が、呼吸をするたびに鮮明に浮かび上がってくる。
『君に騎士になってほしい──』
『君は何を隠して──』
『自分という居場所さえ見つけることができないから──』
最後のフラッシュバックでライトの閉じていた目が見開いた。彼が壁を凝視していてもそこには何もない、飾り気のない白い壁。
ただ、ライトが見ているのは壁ではない、別の場所。彷徨う自分が一体どこに存在したらいいのかわからない空虚な穴。
それをライトはただ見つめることしかできず、できたとしてもベッドに横たわる身体を丸めて己のテリトリーに籠る。
「あのあと、誰かいたような気がしたけど……何話してたんだっけ」
浴場から出たとき、扉の横で誰かがいたような気がしたし、何か喋っていた。耳に入る言葉も右から左へ受け流してシャットアウトしていたライトには内容なんて知る由もなく、着替えて自室に逃げ込むだけ。
思考が空白に染まっていき、今日の仕事で受けた疲労さえ感じ取れなくなったライトがいる部屋に変化が訪れた。
「────……?」
軽い音が扉からした。
誰なのか見当もつかないライトは体を起こして音のした方へ視線を向けるのみ。
そうして声も上げられず数秒が経過したにも関わらず、向こう側にいる相手の気配は消えない。
「ライトくん……寝ているんですか?」
「……ぇ。あっレムちゃん、か。起きてるよー」
「起きているのでしたら、早く返事くらいしたらどうなんですか? ──失礼します」
嫌味を言われてしまって苦笑いを浮かべるライトは、ベッドから立ち上がって部屋の向こう側にいるレムの来訪を待つ。
扉がスムーズな音を立ててひらけば、ランプを優しく反射させる青い髪を持った少女が本を持って部屋に入ってきた。
「こんな夜にどうしたんだ? それにその本って……」
頭を掻いて眉を寄せるライトはレムが持つ本を見る。龍のような何かが描かれている表紙の上には、白いリボンに何度見ても意味のわからないこの世界の文字。
訳がわからずその場で立ち続けるライトの前を横切り、レムは部屋の奥──書き物用の机へと足を向けた。
部屋選びしているときでも、各部屋に置かれている机なのだが、この世界で読み書きできないライトには役にも立たない。それはスバルにも言えることだろう。
「読み書きを教えますので、早く座っていてください」
従えるとはこういうことを言うのではないかと頭の中のピエロに投げつけるライトは、レムの指す椅子へと足を運んで座った。
これからの仕事では買い出しもある。メモも読めなければ『はじめてのおつかい』でもひどい絵面になってしまうこと間違い無いことだ。
「読み書きか……何にも聞かされてなかったけど」
「姉様はライトくんにも伝えたと言っていましたが、聞いていなかったようですね」
「ごめん……ちょっと考え事していたからさ」
ノートに目を向けながら答えるライトに、「考え事?」と言って首を傾げるレム。
歯切れの悪い答えだったためだろうか。うまく笑えているかわからないライトはペンを持って開いた手を頬杖にする。
「別になんでも。これから何をしたらいいのかわかんなくなってただけ」
「……そうですか。でしたらライトくんは、姉様とレムが楽をするために勉学に励んでください」
「清々しいほど正直なんだね」
太陽のような清々しさでそう言い切るレムに、顔が引き攣っているのを感じる。
この会話も前の時間のような親しさは感じられるが、まだまだ他人のような接し方だ。
「まずは簡単な子供向けの童話集をもとに、今日から毎晩レムが勉強に付き合います」
正直に言えばこれはありがたいことだ。
事実ライトはここに来てから文字が読めないことにも困っていたし、屋敷で執事を続けていく以上切っても切り離せない問題なのが文字だ。
手紙も今後書くことになるのだろうし、学びの機会を与えてくれるのは重ねて言っても本当にありがたいことだ。
それと言ってもやはり困惑がちらつく。前回はこのようなイベントなど一度もなかったのだから。
「そっか……ごめんね。でもありがとう。──よし、気持ち入れ替えて、さっそくどんな感じに覚えるんだ?」
他者と会話もすれば、気持ちの悪い過去の出来事など埋もれて行ってしまう。
頬を叩いて、器用に羽ペンを回したライトは準備万端を体現してみせる。
これからこの部屋で付き合うことになるだろうマイペンだ。試し書きとして、丸とか三角とか思いつく限りの記号を四つぐらい書いて、止めと跳ねの確認もする。これと言って書きずらさもない良質なペンだ。
「うん、大丈夫そうだな」
「準備もできたそうなので、始めますね。まずは基本のイ文字からです。ほかにも二種類、ロ文字とハ文字がありますが、覚えるにはイ文字が完璧になってからです」
「三種類か……いやでも、こっちの方が使う文字としては多いのかな?」
新たな言語習得を目の前に心折れかけるも、思い返せば日本の方が比べ物にならない種類の言語を使っていたから、むしろ妥当とも言える。
懸念としては、文法が全く異なる可能性があるということだ。的中するならば習得なんて半年以上はかかってしまう。
「イ文字を把握してから童話に入りましょう。時間は冥日一時まで限度ですし、早めに始めましょう。レムは寝つきが悪いので、できれば早めに」
「そこってほんと姉妹だなぁって思うよ……本音をグサグサ言うところとか。嫌いじゃないけどね」
「当然です。レムは姉様の妹なんですから」
キッパリとした口調で言うレムは、ラムに似て率直なことを言う。
小言を返しながら、ライトの言語体験もといレッスンが開始した。
言語や単語の勉強は、基本として反復練習だ。レムの書いてくれた基本の文字『イ文字』をライトはまず数えてみることにした。
指を文字に指してリズムよく下へと移していく。一行終われば隣へ移し、また一行。
そうして終わりまで数えていって気づいたことといえば、あっちの世界にあるアルファベットのように、二十六文字あるということではないこと。文字の総数は四十六文字。
これは奇跡なのだろうか。ひらがなの濁音、半濁音、拗音を抜きにして考えれば同じ。
衝撃に瞼の重みが吹き飛んでしまった。
「どうしたんですか? 早く書き進めてください」
「ごめん、ちょっと驚いてさ。そっかぁ、五十音か……」
時間を使いすぎて注意されてしまい、ライトは慌ててページに書いていく。
まずは手早くひらがなをレムの書いたイ文字の隣に書いていく。送り仮名のように書いていけば。次に新しいページを一枚千切って見知った順番に並び替えていく。縦に五文字と言った形で書き進めていき、各マスの角に再びひらがなを書いた。
そうしてできたのは『五十音表(イ文字バージョン)』。
「こんな感じか……一応スバルにも書いておこう。何か苦戦しそうだし」
「これは?」
「俺なりに覚えやすいように書いた文字表。なんだ、結構同じなんだな」
意味深なことを言うライトは置いてけぼりになるレムを気にせずにどんどん書いていく。
羽ペンをノートに走らせる軽快な音。時折この音が聴きたくて勉強をしていたことさえあるのだ。過去を回想しているからなのだろうが、前回の四日間が映し出されていく。
屋敷案内で何かと口出ししてはずっこけるスバルに眉を顰めてため息をつくラムと、それを横目で見ながら淡々と仕事をこなすレム。そこにはもちろん手間取ったりするライトもいる。ラムはスバルにかかりっきりで、ライトは何かとレムに質問したりして覚えたりしていたのだから負担は当然。なるべく早く覚えて二人の負担にならないよう必死に覚えていた。
そうこうしているうちに五ページに文字をびっしりと書き上げたライトは、意識を紙から部屋へと移す。
白い壁を見て気づいたのは、隣からものすごい圧力がかかっていることだ。
「……なぁ、そんなに見て、どうしたんだ? 何かあった?」
「いえそうではなく、初めてにしては飲み込みが早いと思いまして」
「……そういうことね。まぁそれもそうか」
考えてみればそうだろう。隣に教える先生がいるのにも関わらず、紙と格闘して何も話さない人にどうするかと聞けば、邪魔をしないようただ黙って見るしかない。
せっかく教えに来てもらったのに十分な役割もできないのなら、レムに不満のような目で見られても致し方ない。
自身の失礼な態度に乾いた笑いしかできないライトだったが、そういえばと思って聞いてみることにした。
「ラムちゃんって今何してるの?」
「姉様は、スバルくんの勉強の手伝いを」
「そう。何か苦戦してそうだな……昴のやつ。横から文字の綺麗さとか口出しされたりして。でもラムのことだから、教えるのほっぽり出して途中で昴のベッドで寝てたりね」
誰であろうと我を通すのがラムだ。
他人の気持ちなんて気にせずに思うままに切り開いていく彼女の気持ちは呆れを通り越してむしろ尊敬してしまう。自分にもそんな心意気があれば生きていく上でだいぶ楽になるんだろうと、心なしか諦観してしまうライト。
「ライトくんは……スバルくんのことをどう思っていますか?」
「昴? ──」
いつぞやのレムとの会話だ。これもまた、前回とはまったく違うタイミングのパターン。だが、正直に話してもいいのかとライトは思案する。
スバルが全てわかったような素振りをするのは、『死に戻り』によるもので、これを話しても問題はないのかと。考えても、いざ話したところで頭のおかしいやつと解釈されてしまうのも想像もしやすい。
正直に話した方が良いのか思案して、ようやくライトが口を開いたそのとき。
「昴は……」
「誰ですか!」
ライトの言葉をレムが立ち上がり声を上げたことで遮られてしまう。
部屋の二人が音の先にあるもの──扉へと目を向かわせる。
何かいる。扉の向こうに人ではない別の気配の何かが。いつもの来客なら軽い音が生じる扉も、規則性のないリズムで乱雑に叩かれている。木材が震えるたびに、ドアの向こう側に潜む何かの存在感が増していく。
何度も扉を叩かれるたびにライトの肩はびくびくと跳ね、レムはだんだんと腰を据えて扉へと警戒を強める。
「大丈夫なんだよね」
「いいえ。相手が誰かわからない以上、そんな早慶な判断はできません」
「レムちゃん逞しいんだね……今日に限って、なんでこんな変なことしか起きないんだ?」
「──来ます」
レムの声を合図にライトの神経が扉の一部へと注がれる。
部屋に張り詰め、喉をも締め付けるような圧迫感が最高潮に達したそのとき──ドアノブが動き出した。
静寂の中、ノブがゆっくりと回る不気味な音が響く。金属が擦れるような低い音が、静かな空間にジワリと広がっていく。
瞬きを一瞬たりとも許されない一瞬にも等しいだろうこの時間が、ライトには一分にも長く感じた。
やがてドアノブが最後まで回り切ると金具が外れる小さな音がして、時間が止まったかのように張り詰める。
その僅かな音にも背筋を這うような冷たい感覚が押し寄せ、何か得体の知れない存在が確実にそこにいることを感じさせた。
そしてついにその正体が明かされると、
「──ぇ? ユニコーン……?」
ライトの困惑に小さく震えた喉が開けた先にいる張本人、いやこの場合張本精霊とでも言うべきか。ユニコーンが扉を開けたのだ。
張り詰めた空気がまるで針で突かれた風船のように一瞬で萎んだ。耳に響いていた緊迫感も嘘のように霧散し、肩に力が入っていたことにようやく気づく。
あの濃密な緊張は、一体どこへと消えてしまったのだろうか。今まで警戒を緩めなかったレムの肩も小さく降りるのを見て、自分たちの馬鹿さ加減に思わず吹き出しそうになる。
骨折り損みたいなものでも、次に来るのは警戒からの心配だ。ここまで飛んで来た彼は、今ここで命尽き果てるかのように浮遊している。
「ユニコーン様!」「ユニコーン!」
ポトンとユニコーンが床に落ちた。腹に紐で括られている先についているのは分厚い本で、何が彼をそうさせるのかその本と共にゾンビのように這いずって向かってくる。
急いで駆け寄り、レムがユニコーンの腹に巻かれた紐を解いて本を回収し、ライトは両手で労るように床から掬い上げた。
レムの胸の前に両手で抱える本を見ても、彼女が持ってきた童話よりも難しい本だと言うのがわかるのだが、なぜユニコーンがこの本を持ってきたのかがわからない。
「レムちゃん。ちょっとその本、こっちに渡して」
「よろしいですが……ライトくんにこの本は難しすぎますよ?」
「いいんだ。ちょっと確認するだけだから」
躊躇うレムが本をこちらの前に運んでくれる。
やっぱりと言って表紙に書いてあるタイトルを見てもわからないものだが、ライトは受け取ってユニコーンに見せる。
するとライトの手の上に座るユニコーンが本に指を指す。両手を合わせて開く素振りをしても何をしているのかわからないが、必死なのはキレのいい動きから見て取れる。
眉を寄せていまいちピンとこないライトに痺れを切らしたのか、ユニコーンが彼の肩まで飛んでいって座った。チラチラとこっちを見て確認し先ほどの動作を繰り返すのだが、やっぱりわからない。わかりたいのにわかることができないのは不本意で、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「本をめくって欲しい?」
「……(横に首を振る)」
「読んでいるところを見てほしい?」
「──ッ(横に首を振る)」
「わかんないよ……いって! ほっぺ突くな──イテテテッ」
「あの」
いい加減なライトに機嫌を損ねたユニコーンが百裂拳と見紛う突きをその小さい手で放ってくるのだが、蚊帳の外となっていたレムが小さく声を上げた。
頬をつままれたままのライトと摘むユニコーンがレムに注目する中、彼女の唇が動く。
「その、ユニコーン様は読むのを手伝うのではなく、一緒に本を読んで欲しいのではないでしょうか?」
「え? そうなのユニコーン」
レムの説明にハッとしたライトがユニコーンを見る。肩の上に座るユニコーンは首が取れんばかりに縦に振っていた。契約していると言うのにわかってあげられなかったことが恥ずかしい。
一人でただめくってもらうのを手伝ってもらうより、二人で一緒になって本を見る方が楽しさも二倍。内容に一喜一憂して感動を分かち合う方ことができるなら尚更。
しかし、
「でも……俺、この本になんて書いてあるかわからないしなぁ」
「そうですね。なら、今日はびっしりとライトくんの勉強にお付き合いしましょう」
「え──どこから持ってきたんだその本の山!」
やる気に満ちた瞳で二、三冊。下手したらそれ以上な冊数を両手に抱え、床に座っていたライトの前に立つレム。
指を本に指して目を彷徨っていると、ベッドの脇に目がいって驚愕。置かれているのはいつ置いたのかわからない積まれた本で、驚きのあまり声が詰まってしまう。
「ユニコーン様とレムと姉様のために学ぶのなら、より一層張り切らないといけません」
「どんどん仕事が積み重なるんだけど……はぁー、前より仕事に追われてる。手加減とか……」
「お断りします」
空気を短く吸った音がライトから鳴った。
背に腹は変えられん。弱音を吐けばそれでこそレムのスパルタ精神をヒートアップさせてしまうから、ここは素直に従うことにしよう。
ふらふらとした歩きで机に歩みを進めるライトだが、その足には多少なりためらいが宿っていた。
「躊躇うことなんてありませんよ? ライトくん。さぁ早く勉強しましょう」
「なんで、レムはそんなに元気なのさ……ナチュラルハイみたいになって「つべこべ言わずに」ちょっ」
もはや有無も言わせてくれないレムが、ズズズイとライトの背中を押す。
「ちょ待って、自分で行くから! ユニコーンもちょっと助けて!」
「──ッ」
ライトが切羽詰まる声でユニコーンを呼んだ。その声に待ってましたと、ユニコーンが肩から立ち上がり飛翔。レムの周りを高速で巡回して彼女の動きを止めると、次にライトの方へ向かう。
速度を緩めずにまっすぐと彼の胸に。
「待って、はやっ──あれ。 ユニコーン?」
身構えて目を瞑るも衝撃が来なくて、ライトの目が丸くなる。
周囲を探してもユニコーンの姿は影も形もなく、視線が部屋を彷徨ってレムへと止まった。
一息ついたレムは落ち着きを取り戻していつもの様子になったのだが、正面にいるライトを見て固まる。
「ど、どうしたんだよレムちゃん」
「ライトくん……髪が」
「髪? ……なんだこれ」
レムの指摘に足早に窓ガラスに足を進めるライト。震える声が行く先は鏡に映るライト自身だが、視線が一点へと──自身が映る頭を見て思考が真っ白に染め上げられる。
真っ白になったのは思考だけじゃない。見つめる先にある自身の髪が見慣れた黒ではなく──真っ白に部屋の明かりを艶やかに反射していた。
少し紫がかった黒目は鮮緑に染まっていて、宝石がはめ込まれたと見紛うほどに綺麗なものだった。
「え……は? これどうなってるんだ? レ、レムこれどうなって……」
この異常にいち早く気づいたレムに振り返って、ライトはこの現象を聞こうとする。だが、喉に針が迫ったように一歩たりとも動くことができなかった。
目の前にいる無表情のレムの瞳から、心臓の鼓動すらも忘れるような冷たい何かが凍刺してきていたからだ。
「ライトくん……あなたは……」
「ぉ俺だって急にこんなことになってわけわかんないんだって──ぅっ」
白眼視するレムの誤解を解こうと口を開いたライトが呻く。
言い切る間もなく、目の前が歪んでいく。
縦も横も、自分が今どこに立っているかということすらわからなくなるこの感覚。行方しれず、ただ盲目にその場に漂ったあと、均衡が崩れた。
自分ではない何かが精神にまで侵入し、水彩絵の具が別の色に混じり変わる法則すら無視し、色を保ったまま人格そのものを侵食される。
その反応が、一切対抗できないライトは、
「──ぇ」
自分の手に落ちた水滴を見て感覚が奥へと引っ込んでいって、思考が冷め切る。その水滴は妙な温もりを持っていて、妙にねっとりとしたものだ。
ライトの頭が追いつく。あの感覚に必死に抵抗した挙句、身体が、脳が吐き出した抵抗が出血。
鼻から血が一滴、一滴と床に落ちて跳ね飛ぶ。
「ぁ」
「だ、大丈夫ですかライトくん! 気をしっかり、保ってください!」
さっきまで険悪な雰囲気を纏っていたレムが、ガラリと変わって顔に心配の色をいっぱいにして駆け寄る。
身体が支えきれずに前に倒れて、膝に衝撃が加わった。
多分膝をついた。時間が長く引き伸ばされる中、青い何かがこちらに駆け寄ってくるのを見た。何か喋っているのに、よく見たいのにほとんど聞き取れもしなければ砂が混じったように視界が見えなくなっていく。
柔らかに包み込まれる妙に懐かしい感覚を最後に、ライトの意識が引き込まれた。
*
*
混ざり合って表と裏の区別もつかなくないところから、一滴ずつ抽出されていく。元の状態──最適な状態になると言ってもいい。
薄くなったつながりが再び強く紡がれていく。弱く間延びしてしまった糸を二重螺旋に幾重にも織り込んでより強固なものへと変転する。
「──丈夫なのですか。ベアトリス様」
「──ないのよ。強いて言えばマナの流れが良くなったことぐらいかしら」
すぐ近いところで誰かが話している。
だが、まだ目覚めの時ではない。
闇に沈んだライトの意識の奥底で、絡み合うように無数の文字列が現れては消え、回転しながら枝分かれしていく。
縦に伸びるもの、横に並ぶもの、そして螺旋を描くもの──どれも意味を成しているようでいて、決して解読できない。
それらはまるで、あるべき姿を維持するための「潤滑油』のように働いている。
そして、その中心に静かに息づくモノ。
決して明かされてはならないもの。
知られることすら許されず、触れれば破滅を招く可能性すら孕んでいる。
だが、
「──ライトくんの明日の業務はおーぉ休みとしようか」
「──た。ロズワール様」
──それを正しく扱えるのだとしたら……