何か、あった気がする。とても重要そうな何か。
穏やかな光がライトの瞼を刺激する。その光はおそらく朝だろうと予感がするとの同時に、重要なことを忘れていたことを思い出した。
それは、
「──勉強! ……あれ?」
上体を飛び上がった先で目にしたのは木製の扉。
手から伝わるのは自宅にあるシーツにも勝る高級なもの。足にかかったままの毛布もいい手触りで、二度寝も快眠が約束されるものなのだが、あいにくライトの目はピカピカに輝いている。
「なんかよく寝た。……置いたままだし、本」
恐る恐る隣を見ればあるのは積み重なった本で、山の頂上にユニコーンが持ってきた本も置かれている。
レムのあまりのプロフェッショナルさには度肝抜かれてしまって、苦笑いを堪えられないでいるとライトの首にかかるネックレスが発光。
「うっ──ってユニコーン、どこ行ってたんだよ」
だんだんと追いついてきた。おそらくは昨日の晩に、勉強をすると言ってレムに『イ文字』を教わっていたところ、扉を強く叩かれ驚き。また開いたと思えば、空前の灯火のように部屋に飛んで入ってきたユニコーンにも驚いたのだ。
そして飛び込んできたユニコーンを身構えてぶつかったと思えば衝撃もない。部屋を見渡してもどこにもいなくなったと焦ればレムが自身の髪を見て──
「そうだ髪の毛! 俺の髪の毛真っ白になったと思ったら……」
すぐ後ろの窓にライトは自身の顔を映して、異常ありまくりな真っ白の髪を確認しようとしたのだが、言葉の続きが止まった。
「髪が──黒い。……いや別にこれでいいんだけど」
普通だ。これと言って何の変哲もない黒髪。目も紫がかった黒目で、よく友人に揶揄われたものなのだが、今では安心感のあるものだ。実家のような安心感とも言える。
頭をひと掻きして、枕を腰に設置しライトは嘆息。
昨夜のあれは見間違いだったのだろうか。今考えてみれば、疲れもあって少し頭が熱っぽかったような気もする。きっとあれは夢に違いない。
「うーん。──?」
ドアノブが回されドアを止める金具が外れる。ゆっくりと開かれるその扉からは美味しそうな匂いが漂ってきて、何とも食欲を刺激される。
食べ物をここまで配膳してくる正体は、どうやってここまで運んだかわからない台車を引いて来た。
「ライトくん、失礼しま……起きていらしたんですか」
明るい青色の髪に鮮やかな青藍色の瞳を持つ可憐な少女が、無表情だった顔を珍しく崩していた。
改造メイド服の裾を揺らしながら、日の傾きからして朝食であろう料理を運んで部屋に入ってくる。
「ううん、今起きたところ。それは?」
「ライトくんの、今日の朝食です。体調は……もう元に戻ったのでしょうか?」
「うん、別に何ともない。それより、早く食べて昴たちと合流して仕事しないと」
「その……ライトくんの今日の仕事なんですが。ロズワール様が今日は大事をとってお休みになったほうがいいと」
話しながら台車から料理の乗った皿を手に取るレムを見てライトの動きが止まる。
ユニコーンにどうしたのかと頬を突かれながらも、心を打った彼女の衝撃の一言。休暇を知らぬ間にいい渡されたことに驚愕してしまった。
ライトとしても休暇を言い渡された程度で驚きはしない。
問題は働いた日数なのだ。前回を含めればそれは大量の業務を全うしたとも言えるだろうがここはリセットされた世界。働いた日数は驚異の一日という圧倒的日数不足。
「え!? それ大丈夫なの? 俺まだここで働いて一日も経ってないのに」
「正直に言わせていただくと、とても迷惑です」
心にダイレクトアタックを受けたライトは反動で胸に手を押さえて後ろへと下がってしまう。
バッサリと切って言われた。この傷は目の前に用意された朝食を食べなければ癒えるものも癒えない。
「ごめんね、本当に。あとありがとう、料理。早速食べるね? いただきま……じゃなくて、──木よ、風よ、星よ、母なる大地よ」
食事の最初にやるのがまずロズワールが目を瞑って呟いていた、この世界で言う『いただきます』という言葉。
食前の前に目の前に調理された食べ物の命に感謝を込めて祈りを捧げる。所詮は人間のエゴとも言うのだろうが、やるのとやらないのでは、食べることに栄養補給以外にも意味が出るものだ。
「驚きました。スバルくんとは違って、初めてにしては随分と慣れていらっしゃるんですね。」
「初めて……まぁそうか。記憶力に関してはなかなかだと思うよ?」
そう言って、ライトは立てた人差し指で頭を叩いてみせる。
得意げなライトの仕草を見て「そうですか」と呟き、レムはいつまでも手がつけられないでいた料理を見た。
「……ライトくんはいつまで食べないおつもりなのですか? 作った本人を前にするなら、まずは一つ口にしてはどうかと」
その通りとしか返せないレムの言葉にライトが背筋を正す。
もう少し何かあるだろうと顔が引き攣ってしまうが、特に何も言い返せず黙って口元にスプーンを運んでスープっぽいものを飲む。
口に入って舌に染み込んだものはいつも通り、
「美味しい。ふぅ……なんだか安心する感じっていうのかな……体温まる感じ」
「当たり前ですよ? 温かいものですから」
「いや、そうじゃなくて……なんていうのか心が温まるような。誰かのために作ってるんだなぁって感じてさ」
誰かのために料理を振る舞う者が作る料理というものは、素晴らしいものだと思う。刀に何を込めるかによって呪いにもなれば、誰かを守るための付喪神にもなる。または勝利の武器とかに。
でも、この料理には鬼が宿っているようにさえ感じるのだ。生半可な修行では到底辿り着くことさえ不可能とも思う高み。それは、今までレストランで食べてきたものとは比べ物にならないものを、レムの作る料理からあるのだと悟った。
「ほんと、レムちゃんは毎日これ作ってるからすごいって思うよ。半端な覚悟じゃできないっていうのかな──『鬼が宿ってる』って感じる」
「鬼が、宿る?」
ライトの何気のない呟きにレムが首を傾げる。
「鬼が宿るっていうのは、並外れた何かを感じさせるって意味。半端な覚悟じゃできないって言ったじゃん? あとはすごいとかとてつもないみたいな感じで、俺はそういう表現好きかな」
「ライトくんは鬼、好きなんですか?」
「え? そうだな……」
鬼といえば、桃太郎に登場する悪い鬼がメジャーなのかもしれない。鬼が登場する物語は、善を勧めて悪を懲らしめる『勧善懲悪』のテーマも多い。無論桃太郎もその一つなのだろう。
ただ悪い印象だけじゃないものもあるのだ。
「俺は『鬼』、嫌いじゃないよ。──好きかな。日本……俺と昴が住んでた国では、鬼って存在は結構ありがたいんだよね。例えば、魔除け鬼とか。玄関とか、みんながよく集まる場所とかに鬼の置物を置くと、金運とか健康運とか……まぁとにかく人の持つ運を守ってくれるすごい守り神なんだ」
「そう、なんですか」
「あとは、鬼に来年の話とか将来の話とかすると一緒に笑ってくれるんだってさ」
口角を僅かにあげ、料理に再び視線を移したライトがまた食材を口に運ぶ。
鬼が笑うと言ってもあれには諸説があると聞いたことがある。中でも色濃い話というのは、来年の話をする人が実はその頃にはもう生きてはいないから、その滑稽さに笑っているという話。
それでも捉えようによっては、種族が違えど分かり合えることができるからあんなふうに笑ったりできるのだという話だと思う。みんなで囲んで、一緒にご飯を食べて、今日のしたいこと、その次の日、明後日明明後日のやりたいことを言って笑い合う。誰だって笑顔で過ごせる時が来たのなら、それでこそさっきの言った一緒に笑うことができる。
「あ」
これまでにも微笑は何度も目にしていたが、主にこちらをどことなく下に見るような感じだった。でも、今の笑みは違って、しっかりと笑ってくれているのは初めてのことだ。
「──鬼可愛い」
「姉様に言いつけますよ」
「正直に言ったつもりなんだけどな。それくらいレムちゃんは可愛いから、もうちょっとでも笑う機会あったほうがいいんじゃない?」
スプーンをお盆に乗せて自分の口の端に指を置いて押し上げて見せる。
それでも、もうレムがあの笑顔を見せることなく再び神妙な面持ちに戻ってしまったのだが。
「そういえば、ユニコーンってどうやってご飯食べてるんだ?」
「……? (首を傾げる)」
「そういえばそうですね。大精霊様のようなお口もついておりませんし、基本的にはマナを食べて生活していらっしゃるかと」
「マナ……あれかぁ多分俺のマナ食べてくれてるんだ。なんか、ゲートが複雑らしくて生まれつきの病みたいなものにかかってるってロズワールさんに言われたんだ。体内のマナが溜まりすぎたらポンって感じで死んじゃうんだけど、そこをユニコーンが食べてくれるから今みたいに元気に生きてるんだってさ」
「ライトくんにそんな事情が……では、ユニコーン様とはもう長い付き合いということになるんですね」
ユニコーンからライトへと髪を揺らして視線を移したレム。
レムの言った通り、長い付き合いにはなるのだろうがいつからなのか正直覚えているかと言われてしまえば、覚えていないと断言してしまう。
「そう……なるのかな。いつからかは、記憶にないんだけどね。はい、いつも通り美味しかったよ朝ご飯」
「はい、お粗末様でした。喜んでいただけたのなら幸いです」
腿の上に置いていたお盆をレムが回収して一礼。優しく微笑んでくれるものだから心が一時乱れかけるも、気にかかることが頭の中に出現した。
「髪の毛が白くなったり、目が緑になったりしたような気がするんだけどさ、あれ夢だよね?」
「夢ではありませんよ? あのあとライトくんの汚い鼻血がついたままベアトリス様とロズワール様を呼んだんです。これと言って特に異常がないと、機嫌を損ねてしまったベアトリス様がおっしゃっていました」
「それは……ごめんなさい。俺がいなくなってレムちゃんも大変かもしれないけど、頑張ってね」
「そのときはスバルくんに仕事を押し付けますので、心配しなくても結構です」
ナチュラルに言ってきたレムが唇に人差し指を立ててウインクをする。片目が隠れてるから違いが分かりにくいのだが、以外にも茶目っ気があるのはラムとあんまり変わらないものだとわかった。
台車を押して部屋に出るレムをフードからモゾモゾと這い出てきたユニコーンが小さい手で一生懸命振って見送った。一つの動作にも全力なユニコーンが可愛かったのか、扉を閉めるレムが見たあとにまた口に笑みを浮かべて一礼。
「行っちゃったな」
「……(頷く)」
大量の本が置かれたままの部屋でライトはこのあと何をしようか考えるのだったが、のちにユニコーンと本を読む中で文字が読めることが発覚し、屋敷中に驚愕の声が反響するのだった。
*
*
たんまりと休んで翌日となり、ライトの執事業務が再開した。しかし、そこでもまたトラブルが発生する。
目の前の広がる光景に、暫定新人執事の二人が立ち尽くしていた。今スバルとともに庭の木の剪定をしていて、少しは先輩方の仕事振りを見てみようと作業の手を止めた。観客のように見ていたのだが明らかにおかしい。
「なぁ昴……あれってどう見てもさ」
「言うなライト……お前が何考えてんのかは俺でも想像できる」
刃が枝を捉えるたびに「ギリッ」「ギシッ」という摩擦音が木々の静寂を破る。音の下にいるのはラムとレムだ。
桃髪の少女が背伸びして懸命に切って、彼女の剪定した木を青髪の少女が切る。基本この繰り返しなのだが、驚くのはレムの技術ではなく、絶対的に不可能な剪定をするラムなのだ。
「なんか……ラムちゃんの切った木だけ量が増えてるような。物理法則無視してるよね? これ」
「あぁ俺も見えるから幻じゃぁない。どういう腕したらこんな風になるんだ?」
切る前でもなんとなく形がわかる木が、ラムが通ることで全ての均衡が崩れていって自然災害のよう。これが、今でもずっと絶え間なく続いているのだ、明らかにレムの負担になっているような気がしないでもないのだ。
「はぁ、俺たちも続けよう。ラムに怒られる前「話していないで手を動かしなさい」に……」
「言われたな。待ってましたと言わんばかりに」
注意されてしまったらもう突っ込む気力もなくなる。今はできるだけのことを全力で目の前に聳え立つ木にぶつけるだけだ。
ライト達が黙々と剪定に集中する。落ちた枝が地面を打ち、柔らかい音が土と葉の上に広がって、風が吹けば切り取られた葉が舞い上がってかすかな囁きが混じる。周囲の静けさに紛れながらも作業一音一音が確かに木々の間に響いていた。
汗が額に浮かんで集まり、頬に流れるがそのままにして作業を続行。風が吹いて少しだけ涼むのと同時に、鳥のさえずりが耳へと運ばれて背景音楽となる。
剪定には神経を張り巡らせてなければならないのだが、横からの圧力を感じてライトの顔が横へと向く。圧力の先にいたのは横目でこちらを穴が開くほど見るレムで、流石のスバルもその熱心さに気づく。
「……なんかライトの方も見てね?」
「心なしか昴の方見る目が強い気がするんだよな。ほら、俺避けたら昴の方見る」
「うそぉ、俺なんかやらかした感じ?」
避けてみても少しライトの方を目が追うのだが、その奥にいる呆けたスバルにすぐ移る。
磁石みたいな目の動きで少し面白いのだけれども、少し目がきつい気もして心底心配そうに顎を振動させるスバル。
二人でレムに対して湧き出てくる疑問を話していると、一つひらめきを得て目を開けたラムが作業の手を止めてレムの方に顔を合わせた。
「バルスの格好の無様さが目につくんでしょう。特に頭、品が無さすぎるわ。レム。よかったらバルスの髪を少し整えてやるといいわ」
「姉様?」
「おいおい女の子に髪の毛いじられるとかドキドキしちまうだろぉ」
「──髪が気になるからずっとバルスを見つめてるんでしょう?」
中学男子のように照れながら頭を掻くスバル。そんな彼を視界から外さないレムに二人から背を向けてラムが諭すように言っていたのだが、後表情は見えなかったはずなのに、言葉の音から感じるものが少し叱るような、そんな気がした。
「……はい、そうです。ちょっと毛先を整えるだけでも見栄えが変わると」
「だそうよ、お言葉に甘えるといいわ。レムの手さばきで天国に行けるから」
「なんか、いやらしいお願いしてるみたいな言い方すんなぁ」
ラムからの態度に若干引き気味になるスバルだが、彼女の奥にいるレムへと視線を向けた。
会話から察してみてもあまり乗り気ではなさそうなレムなのだが果たしてスバルの髪を整えてくれるのか、横目で見ながら一人作業を続けるライトは思う。ラムやレムはこちらの扱いがおおかた決まったようだが、スバルに関してはレムがまだ決めかねているという印象だ。
「……い、嫌なら嫌ってそう言った方がいいと思うぜ? 嫌がられたいわけじゃないけど」
「いえ、そんなことは。レムも少し、かなり少し、とても少し気になるのは事実ですから」
「昴、一行に矛盾が混ざるくらい髪のこと気にされてるぞ。お言葉に甘えとけ」
すごい気にされているのがわかってライトも参戦し、より自信喪失してへこたれるスバルが頭を掻いて嘆息する。
「わーったよ、お言葉に甘えますぅー」
*
庭でこのような一連の流れがあったとき、その光景を眺めている人物がいた。──赤いドレスを身に纏い、不満げに口を歪めるベアトリスである。金書庫からわざわざ出るほどの用事があるのかと思うのだが、うるさい奴らがいないとなれば隙を見て廊下へと出た次第。
こんなやりとりが前にもあったような気がするが、思い出す前に後ろからの小さい気配が陽気な雰囲気を纏って近寄ってくる。
「どうしたんだい? ベティー」
「? (首を傾げる)」
極上の柔らかさを誇る毛並みに包まれたベアトリスの親愛なる兄であるパック。その後ろに続いてくるのは雪のように綺麗な白でありながら朝焼けのような温かみを感じさせてくれる、再会の望みは薄いと思われていた愛してやまない弟のユニコーンだ。
二人とも喧嘩をして一時期は禁書庫には似合わない緊張感が張り詰めていて、こんなにも心休まらないことがあったかと、忌まわしい人間と半端者の小娘が憎いと思った時期があった。だが、その発端の二人の介入のもと円満に仲直りすることができて、今では仲の良い従兄弟という形に落ち着き今に至る。
「なんでもないのよ? にーちゃ、ユーちゃ。それより今日、美味しいお菓子があるかしら。一緒に食べるのよ」
両手に持つ紺色の箱をベアトリスは開けて、パックとユニコーンが覗き込む。そこにあるのは十五枚ほどの黄色いお菓子で、黄色い満月のようだ。
一同が箱からお菓子を取って口に運ぼうとするのだが、ベアトリスとパックが乾いた砂のようにお菓子を砕けさせてしまって落胆するユニコーンに目が止まってしまう。
「ごめんなのよユーちゃ。そうなのよ、よく考えてみればユーちゃには口がついてなかったのかしら……」
配慮に欠けていたことをベアトリスは小さい体をさらに縮こめる思いで両手を握りしめた。ユニコーンの食事事情を念頭に置いてなかった。
どうにか持ちうる魔法でこの口に残る菓子の余韻を共有したいのだが、あいにくその魔法は専門外だ。
どうにもできない中、小さい感触が頭に当たったのをベアトリスは自覚した。恐る思いで顔をあげると横に伸びる無機質な緑色の奥に、慈愛に満ちた双眸が自身を見つめていた。
「ありがとうなのよ。ユーちゃはやさしいかしら」
「優しいんだねユニコーンは。ライトの影響かなー? そういえばこの前ライトが禁書庫に来たときも、ベティーがあそこに混ざりたいって感じでそわそわしてたね」
「そ、そんなことないかしら。にーちゃの勘違いなのよ。……」
口に菓子を運び込んでサクリと軽快で繊細な音が耳をくすぐる。
遠い過去にもそんなことがあったのが、思い出しても虚しくなってしまうだけ。
ベアトリスは儚さを感じさせるお菓子の響きの中そう思うのだった。
*
*
照明に照らされる浴場の大理石の床に、水滴が煌めく。
滑らないように慎重な足運びで、掃除を任された男二人が現れる。
「俺こっちやるから、浴槽の掃除は昴に任せるね」
「りょうかーい」
脱衣所で上着を脱ぎ、ズボンの裾を捲ってデッキブラシを片手に持つライトとスバルだ。
ライトは腰掛けや蛇口などの洗い場周辺のついている水垢を取る作業をし、スバルは浴槽の掃除と作業分担。
大理石の床や滑りやすいタイル部分を力強く磨き始める。ブラシの毛先が水と泡を絡めながら、動くたびにこびりついた水垢が徐々に剥がれていく。細部に抜かりなく、蛇口も自身の顔が映り込むくらいにライトは磨く。
各々が額に汗を浮かべて懸命に業務を全うする中、沈黙を破るように扉が開いた。
その音を耳にした二人は扉を開けたものに視線を注ぐ。
「なんだ? 手伝ってくれるのか?」
「あ、レムちゃん。なんかあった?」
「いえ、スバルくんに用がありまして。あの……スバルくん。お昼のときの、お話ですけど……」
スバルとライトが手を止めて、入ってきたレムにどうしたのかと顔を向ける。
レムの用はスバルにあるようで、自身の手元に戻すライトはわずかに映り込む顔に成果が出始めているのを感じる。
「んー、昼? 昼って、なんかあったっけ」
あんまりなスバルの返しに、突如として桶が床にぶちまけられたと思えばライトが派手にずっこけていた。
この男はつい先ほどまでに話題となっていた髪の毛の話でさえ忘れてしまうほど頭が残念なのか。鳥あたまなスバルに突っ込みたい気持ちの山々なライトは痛む尻を労って仕事に戻ることにした。
──レムもいるんだから、きっと軌道修正してくれるはず。
「あ……いいえ、忘れているならいいんです」
期待を裏切られた。
なんの因果か、ライトは二人が肝心の話題に入らなかったことで再び大理石の床という硬い石に尻餅をつくという羽目になる。
「なんでさ!? 髪の毛の話でしょ!?」
「あー、髪の毛の話か。あれその場限りの冗談かと思ってたよ。で、なんでライトはそこでくつろいでんだ?」
「くつろいでいる暇があるのでしたら、ライトくん自身をモップのようにのたうちまわればよろしいのでは?」
「誰のせいでこんなことになったんだろうね!? もういいよ……絶対驚かせてやるからな」
一体誰のおかげで本題に入られるように道を作ってあげたのか。
不貞腐れるライトは大きく息を吐き出して、目の色を変える。その顔は危機迫る──否、鬼気迫ると言ってもいいだろう。手に前回ラムに扱きに扱きまくられた技術をここに集合させ、洗い場を一網打尽にするのだ。
決意を抱き一人、ライトが懸命に無双するなか、スバルとレムはそれを背景音楽として会話する。
「やってくれんの?」
「いえ、差し出がましいことを言ってしまったと思っただけですから。同僚といっても、スバルくんはエミリア様の恩人で、立場が違うのに」
「そんなへりくだるような態度とられても困る……つか、そんなふうに思ってんのか気ぃ遣わせて悪い」
その気遣いを少しは自分にも向けて欲しいと、内心声を大にして叫びたいのも山々なのだが今の敵は目の前の汚れ。二人の会話は音楽と暗示をかけ、気を取り直したライトは手の勢いを増させてしつこい汚れを駆逐していく。
その彼の頑張りを目にも留めない二人はそのまま会話を続けた。
スバルがブラシを持ち替えて謝るなか、レムは首を横に振る。
「いいえ、こちらこそ仕方のないことを言いました。忘れてください」
「そうも簡単にいかないのが人間の小難しいところだ」
『吐いた唾は呑めん』という、ことわざもあるくらいだ。顎に手を当て、スバルは目を伏せるレムを見る。彼の前にいるレムは失言を悔いているようにも、スバルからの注意を待っているようにさえ見えるほどにしおらしい姿だ。
「じゃ、条件を出そう。それを呑んでくれるんなら、今の話は綺麗さっぱり忘れることにする」
「条件……ですか? わかりました。何なりと、お聞きします」
手を叩き名案ここに浮かんだと言い放つスバルに、レムは一度目を瞑ってから覚悟の表情へと変わる。
どうせあのスバルのことなのだから、きっと弁えたことを言うだろう。ライトは作業をして想定するなか、スバルが外道なことを言うなら手に持った桶を顔面にストライクショットさせると身構える。無論そうなった場合ロズワール邸第一回緊急会議を開こうとさえも思っているのだが、スバルがそこまで落ちぶれていなければ漢も捨てていない。
「俺の髪の毛、毛先揃えて整えて、軽く梳いてくれたら許す」
「…………」
この少年はやはり期待を裏切らない。もはや安心感さえ感じさせる真っ直ぐさで、ライトの手を後押ししてくれるぐらいだ。
無論この言葉に反応するものなど誰もおらず、その場でオールバックの髪の毛を指差すスバルが、熱心に汚れを落とすライトの音を背中にして固まる。
「沈黙選ばれるとわりと痛い感じなんだけど、俺」
逆提案に普段ならツッコミを入れるライトでさえも今はゾーンに突入。期待裏切られその沈黙に耐えきれなかったスバルが音をあげると、レムはその薄青の瞳にスバルを映し、吐息。
そのまま固まるスバルを通り過ぎて脱衣所に出て行ったことで、しばらく彼は置き物になった。
*
「エミリア様もおっしゃってましたけど、スバルくんは欲のない人なんですね」
腿まで伸びる長い靴下と靴を脱いで戻ったレムが、デッキブラシを片手にスバルの浴場掃除に参加する。
「おっかしいなぁ。呆れられるより、惚れ直されるシーン演出のはずなんだが……」
「姉様から二人きりになるといやらしい目をすると聞いていたので、今の提案についてもレムは正直、少し覚悟していました」
「風評被害がひどいし、ライトがいないことになってんのもどうかと思うな!」
ようやくスバルが今まで空気と化していたライトに触れた。当の本人に関しては全く耳に入ってはおらず、先ほどから変わって何かに取り憑かれたように桶共を磨いている。
熱心さにスバルが苦笑いを浮かべると、レムはスカートの両端を摘み、
「条件、承りました。──スバルくんの狙いに乗ってあげます」
お辞儀をして仲直りの提案を飲んであげてくれる。
スバルにはスバルなりに先に約束した相手がいるのだが、その芝居がかった動作に笑った。
「じゃあ、エミリアたんとの約束を無事に果たしたら頼む」
「約束?」
首を傾げるレムに「まだ約束はしていないけどな」とデッキブラシを顔に近づけたスバルが言う。
もう一通りの会話も終えたらしく、機を見たライトは蛇口のノブを捻って桶に水を溜めて、洗い場へと豪快に水をぶちまけた。表面に浮かんだ汚れは落ちた水の波に乗っていき、その輝きをあらわにされ真の姿へと変貌を遂げる。
己の成果に感嘆の息が漏れ出てしまうも、この技術をループを含めてみても短い期間で習得させたラムに感謝の意を捧げた。
「よし、二人が話してるうちにこっちは終わらせたよ」
腰を当て一仕事を終えたライトはスバルとレムに進言して、額に流れている汗を拭った。
二人がどんな反応するのか楽しみで、口の端が上がってしまうのを抑えて平常心を保つ。
「お? この短さでどんなもんだ? は!?」
「これは……すごいですね」
「そうさ、すごいでしょ!」
スバルとレムが目の前に広がる光景に言葉が詰まる中、その目の前でライトは両手を広げる。一つ一つの動作はそれこそ洗礼された動きで、ショーが開幕したとも感じさせる丁寧な所作をした。
彼の後ろで床に並ぶものは皆、丹念に磨かれ表面が鏡のように光を反射している。
磨き抜かれた床のタイルは、水の滴が天井の光を受けて小さな星のように瞬き、まるで浴場全体が昼間の静かな湖面のように輝きを放っている。体を動かすたびに煌めきは表情を変えて見せてきて、さざ波のように床の光を揺らし、掃除の行き届いた洗い場は、神聖な舞台のような威厳さを湛えた。
「おおおまっ鏡じゃねぇか!! いや鏡じゃねぇけどピッカピカじゃねぇか! コーティング剤か? それとも魔法か!? 掃除のレベル超えてるよ、鏡面仕上げとかマジパネェなお前!!」
「ラムちゃんの教えてくれたことやっただけだから、昴も頑張れば同じようにきっとできるよ」
「いや無理だろ! 俺がやってもせいぜい普通に綺麗が限界だわ! 次元違いすぎてマジ鬼がかってんな、お前!?」
レベルが桁違いなライトの掃除ぶりに、スバルが驚愕と感動が入り混じった感想をとめどなく言い放つ。
これには想像以上のリアクションをしてくれたスバルにライトはご満悦で笑顔が隠しきれておらず溌剌とした雰囲気を解放していた。
年よりも幼い反応と年相応な反応が浴場を反響して木霊すなか、この空気に置いてかれた少女はというと、
「鬼、がかる……?」
スバルの奇怪な造語に一人小さく呟いたレムの声は、二人の少年の声によって掻き消された。