心臓が一瞬、血管が切れたのではないかと思うほどに音を立てて跳ねる。
目の前の景色がパタリと閉じるように色を失っていって視界が白に染め上げられていく。
目の奥が締め付けられるように痛み、ライトの手が微かに震える。意識を失ったあの時、自分は一度死んでいたのか。でも、それでは今、今日、意識が覚醒して、ここに立ち、ここでこうやって話すことができているのはどういうことなんだ。
呼吸が浅くなり、周りに聞こえそうなほどライトの心臓が重く鳴り響く。
──死んでいた……?
思い出せるのは自分が『死に戻り』を言って、次の瞬間意識を失ったこと。いや、意識がなくなった、気を失ったのではなく──意識を剥がされた。そして次に引き連れていかれるのは凍えるような静寂。
全てが熱が奪われ、だんだんと冷えていき、音も光もなにも届かない、あの場所が死。わからない、理解不能、意味不明、不確か。
でも、今ここでライトは生きている。体温、あたたかい太陽の光、目の前に置かれる昼食の香り、この情景を鮮明に映し出してくれる光の線。
これだけ、生きているという確証は残っているはずなのに、ライトはたった一つの確証が得られなかった。
──ここで、今こうして頭を抱えているおれは、俺は、オレハ、オレハ──誰なんだ。
自分が存在しているこの事実そのものが、得体の知れないものに思えてくる。
心が心を問いかけるたびに、自分の存在そのものが霧の中へ、今まで感じていた虚な穴へと吸い込まれてかき消される感覚に襲われる。あるのは広がり、穴という境界線が曖昧となった虚無の空間。
目の前の現実も遠ざかっていき、足元が崩れ落ちる。本当はもういないはずの自分がこの世界で、居場所なきところで息をしている。その事実があまりに恐ろしく、悲しく、どうしようもなく孤独だ。
そんな囚われる来翔の手を引いたのは、隣でその事実を否定する、
「ちょっとロズワール。死んだなんてライトにすごーく失礼じゃない」
エミリアだった。
彼女の声で黒泥から引き出されたライトは目を見開き、自分という個を保つ。見てはいけない禁忌にも触れたようで、危うく飲まれかけてしまうところだった。
エミリアの言う通りだ。こうして心臓が動いていれば、血も通っていて、体も動かせれば、ここに至るまでの記憶もある。これが本当に自身という確証になるかはわからない。だがこれぐらいしか、ライトには縋るものがない。
「死んでたって、そんな冗談……じゃ、ないですよね」
「飲み込みが早いんだーぁね、ライトくん。エミリア様、すこーぉしだけ私たちの会話に口を挟まないでもらえなーぁいでしょうか?」
周りの反応を吟味しながらライトは言いかけた言葉を途中で変える。
ちらっと見たとき、一度も自身から目を離さないで小さな口が開いたままベアトリスが席についていた。少女の反応はみんなの反応からもあらかた察せるのだが、ボケっとしたベアトリスのご飯を貪り食うパックは本当に空気が読めていない。ちょっと前のリアクションはなんだったのか。
何か物言いたげな顔でエミリアはロズワールを見るが、嘆息をついて心配の色を宿らせた目でライトを映す。
正面には圧迫感、背中には慈愛宿る心配で挟み撃ちになるライトは目を閉じて、一呼吸置く。
「以前にもライトくんは、こういったこーぉとはあったのかな?」
「──いえ、ないです。……これが初めてです」
低い声を耳に入れたライトは目を開け、膝に握った手を置いて話す。己の人格や経験を改まって紹介するのは面接以来だとライトは緊張を胸にしながら内心で自嘲。
心の内とは対照的に顔を強張らせるライトの返答を耳にしたロズワールは鼻で唸った。
「そうかーぁい。ライトくんは、客人のいた部屋で倒れていたんだーぁよ。これは彼の部屋にいたラムが説明したまーぁえ」
左手を上げてロズワールが仰ぐと主人の命を受けたラムが丁寧にお辞儀をして一歩前へ。
どういうわけか、ラムがどことなく、真実はいつも一つのような探偵に見えてきて、どこからか謎解きの背景音楽が流れている気さえした。ライトは疲れてしまったのだろうか。
肩を回してライトは調子を整えてみれば、幻覚や幻聴は跡形もなく消え去っていた。やはりあのときのショックが影響で、よほどのストレスが溜まっていたということなのだろう。
「承りました、ロズワール様。ラムはトライが部屋から出るのを待っていたところ、二人が口論しているところを目撃し部屋に。……仕方がないから話を聞こうとしたとき、トライが倒れました。目を開けたまま寝る気味の悪い姿で──叩き起こそうとしましたが、すぐに脈がないことに気づきました。急ぎ、レムを呼んで治癒魔法を使わせましたが……効果はありませんでした。その後、ロズワール様とベアトリス様、大精霊様をお呼びして、トライの生死を確認していただきました。結果は、トライの死が確認されましたので……ラムとレムがトライの自室に安置した次第です」
「長い説明ありがとうねーぇ、ラム」
事務的に淡々とラムは語り終え、お辞儀。そうしてロズワールを挟んだ先にいるレムと同じ立ち位置に一歩下がった。
反論したい心を無理やりに蓋をして聞いていたライトが目を白黒させる。ロズワールの冗談とでも思ったのだが、淡い期待は色濃い現実に塗りつぶされた。
死んでいたという事実は揺らぐことがないまま、ライトの心は崖っぷちに追い込まれる。
こんなにも胸がざわついて暑いというのに、表情筋は凍え固まっているように動いてくれない。聞いていてもラムの言うことは人の死んでいるもののそれだ。
これは転移前の世界で医学的に証明されたもので、人は心臓が止まれば意識は十秒もたずして失う。そして三、四分経過したら血流が回復したとしても植物状態の可能性が拭えぬ状態となり、五分経過すれば救命は困難を極める。そして十分を超えてしまうと、人はほぼ確実に死に至る。
だが、ここにいる、『小鳥遊来翔』は意識もあれば脈もあり、後遺症もない。丸一日経過してるというのにだ。まるで時間が止まった状態から動き出したかのように。
「ラムの言ってること……おれ、本当に死んでる……。で、でもこうして──」
「生きている。そうだとも、来翔くんは今もわーぁたしたちの目の前でこうして生きているのだーぁとも。それは覆りようもないじーぃつだ。しかしね? ライトくんは心臓の鼓動さえ感じさえなーぁければ、レムの治癒でも手がつけられなかった。当然だーぁとも。何せライトくんの体からは魂がなかった──感じられなかったんだーぁからね」
「感じられなかった……?」
「そーぉう、感じられなかったんだ。これは大精霊様とベアトリスもしーぃっかりと確認した上だ。」
ラムに感謝して目を細めていたロズワールが、検査に協力してくれたお二方に流し目。
彼の目に誘われてライトが目を向けてみれば、パックとベアトリスの猜疑心の映る瞳に射止められていて、恐怖し目を逸らす。言われもないことになのに、なぜこんなにも胸がざわつく。この焦燥の正体はなんなのだ。
「その反応だと、ライトくんはなーぁんにも知らないんだね? まーここでこう言ったことが起きてしまった以上、受け入れざるを得ない。しかーぁし、問題はあれど本当の問題は別なんだーぁとも。ここに、今、こうして話している君は本当に──『タカナシ・ライト』くんなのかなーぁのだよ」
全員の視線が、この瞬間一斉にライトの方へ吸い込まれる。逃げる気など毛頭ないはずなのに、膝がザワザワと動きたがっているのはこの部屋に立ち込める疑念以外に背中を鋭いものであてがわれるように感じさせるからだ。
体に打撃を受けたとさえ錯覚してしまう衝撃がライトの心を激震させる。心臓が高鳴り、鼓動一つ一つがみんなに聞こえるんじゃないかと思うほど鼓膜が一つ一つ拾っている。芯は暑いというのに、体は絶対零度に晒されている気がして両腕で肩を掴んでしまった。
ロズワールの言う懸念というのは実のところライトでもわからないものなのだ。特撮で言うところの、人間に擬態した怪物が本人だと思い込んでしまうものにも等しい、という感じ。
ライトはまた自身の存在を地平線のはるか先まで続く空っぽの場所──心の砂漠で探し当てなければならない。
「おれが……おれじゃない? なんでそんなこと……だっておれがこうして話していれば、みんなのことも覚えてるし……おれはおれです」
「そーぉれは大したご説明だ。でもそんなことはライトくんに取り憑いたモノが頭の中を見れば、覚えてるのもわかるとも言えるんじゃーぁないかね?」
否定できるはずなのに、言えない。ロズワールから発せられる言葉がライトの言葉を縛りつけている。
ロズワールの目がライトではない別の場所を見つめていることに気がついた。
自分ではない、どこなんだ。ライトは自身を見ているはずのロズワールの視線に違和感を感じて、見つけた。
──なんで、ネックレスを……?
ライトの目が首にかかるネックレスへと落とされる。
目を浮上させて再度ロズワールの目を凝視してみれば、ライトが片手で触るネックレス見ていた。先ほどとは違う。ただ見てるのではない。別の何か。
霧のように形を掴めさせてくれない。けれど、彼の周りの空気の重さが不自然に変わっているように見える。ふとした瞬間にでもこの首にあるものの存在が危ういと感じさせてくれるほどに。奥に隠されたロズワールの真意が見え隠れしている気がした。
「君の首につけているそれは、精霊が宿っているんじゃーぁないかな? 精霊が出てこないのは君がライトくんではないから……」
「──……え? あーいや、ユニコーンは普通におれの契約精霊ですよ? ほら、出ておいで」
ロズワールの的外れな質問にライトは首を傾けてネックレスを軽くたたく。ほのかな光を発すると一気に放出されて下から上に型を作って顕現。食堂をぐるりと一周すると、謂れのない疑いを契約主にかけていたロズワールの前に降りて地団駄を空中で踏んでいた。
緊張の糸がぷつんと音を立てて切れたのが聞こえた気がする。
張り詰めていた空気は一瞬にしてはじけ、重々しい雰囲気が霧散するように消え去っていく。
ふと、隣から小さな音が聞こえた。──エミリアのため息だ。柔らかな吐息が風に乗って消えるように耳に届く。
思わず顔を上げたライトは横を見てみるとエミリアが胸に手を当てて静かに微笑んでいた。
「……よかった」
吐息に続いて安堵の声が彼女の口から紡がれる。
緊張が抜けたのだろう。胸に手を当て、目を細めながらゆっくりと肩を落とした。
優しい雰囲気に誘われるままにライトも一緒になってため息をつけば、張り詰めていた緊張が本当に解けて、背もたれに不安と疑心で押し潰されかけていた背中でよりかけた。
そして、
「……っ、くく……っ!」
微かに漏れた音がライトの耳を掠めた。
その小さな音が気になりつい視線を向けてみればそこにいたのは、顔を片手で覆いながら必死に肩を震わせるロズワールだ。はみ出た唇の端は抑え切れずに上向きに引き攣り、目元は涙が浮かぶほど笑いを堪えている。
そして、次の瞬間、抑えていた笑いが堰を切ったように爆発した
「──く、くふっ、あはははははっ!!」
その声は思いのほか高く響き、痙攣していた口が大きく開いて反響させた。
あれだけミステリアスな雰囲気を放出していたロズワールが、目尻には涙すら浮かび、肩を振るわせて腹を抱えながら笑い続けている。
ライトは混乱して小さく誰にも聞こえない掠れた声で疑問した。
ロズワールはつい先ほどまであんなにも冷静で淡々とした口調だったのに──何がおかしいのか。
「ロズワール様……」「ロズワール様……」
「く、くく……っ、はぁーいんやーぁ心配しなくても大丈夫だーぁよ、ラム、レム。そうか……なら疑う必要もない。確かに君は、ライトくんだーぁよ」
「え? さっきからずっとわからない、どういうことですか……?」
ラムとレムの心配をやんわりと受け流すロズワールは確証を得た一言を言った。
目尻にかかる涙を指先で払いとるロズワールにライトは疑問を抱かずにはいられなかった。ユニコーンが出てきたことが自身の存在証明に起因がよくわからない。だが、彼のその表情は肩透かしを喰らったような色が見え隠れしていた。
「ライトくんの不安がる気持ちもわーぁかるとも。しーぃかし、この話は私ではなく、大精霊様に説明を変わってもらった方がわかりやすいんじゃーぁないかな?」
開いた手を空中に添えるように右にやったロズワールの先には司書官に抱えられる灰色の子猫がいた。パンクズで口を汚したパックが。
「うん、ロズワールの言うとおりだよ。確かにライトはライトだよ? 精霊と契約するとき、それは魂との契約とも言っていいんだ。つまり、契約精霊は契約者の魂の形に敏感なわけで、もしも君がライトじゃなかったら、うみゃうみゃ……。きっと君の契約しているユニコーンは出なかったんじゃないかな?」
「……つまり?」
結論を急ぎたいあまりにライトは質問で返す。
口に残った食べ物をしっかりと噛んで飲み込んだパックは口元のくずを毛繕いで取り除いて答えを待つ方々の気持ちを弄び、一呼吸おく。
ようやく自身にスポットが集まっていることに気づいたパックは「わかんないかなー」とあざとく言って、
「だから、ここにいるのは間違いなくライトだよー」
「エミリア様、大精霊様の言うことは……」
「う、うん本当のことよ?」
眉を寄せるレムにエミリアは、パックの入っていることが真実であると告げた。
証言してくれるのが三人ともなればもはや答えは出ているものだ。
──おれは、おれだ……! 小鳥遊来翔、だ!
最終的に自身の証明を勝ち取ることができたライトは風を切るほどのガッツポーズをしたかったが、今はこの感動を噛み締めておくことにした。
もはや精神も疲れてしまって首が座らない思いだ。
「はぁー良かった……」
「でも、ライトくんは一回死んじゃってるから、これからはライトくんじゃなくて──ホロゥくん、だーぁね」
ロズワールが言い放った一言にライトは「え?」と口から漏れるのと同時に、ピシリと音を立てて空気が凍りついたのを感じ取った。
ロズワールの発言にエミリアは微笑のまま硬直する。その反応は一人には止まらなかった。レムやラムももちろんのこと、ようやく場を飲み込んでパックを撫で始めたベアトリスでさえも、だ。
彼女らの反応にライトは首を捻ることを止めることができず、ロズワールに質問をする。
「え、『ほろぅ』ってなんです? もしかしてすごいやつみたいな」
「すごいなんてもんじゃーぁないとも。『ホロゥ』とは曰く、死した命が生者の世界に思いや未練を残し、オドラグナに帰らず、常世を漂い続ける存在ってーぇこと。つまりライトくんはホロゥから無事生還したから、名付けてホロゥライトだーぁね」
「それって……幽霊じゃないですか」
何をそんな大袈裟に言うのだろうかこのピエロは。流石のライトでも彼の冗談に次ぐ冗談には失笑してしまって肩を震わせてしまう。
二人が違う意味を含んだ笑みをするのとは裏腹に、激しい動揺が走ったのは女性陣だった。
「ライト? ライトは本当にホロゥ、なの……? そんなのおかしい……ライトはちゃんと生きてて。もしかして屋敷の仕事が辛くてここに戻ってきちゃったの? ひどい、ライトのバカ。バカホロゥ。ひどいひどい、ライトは自分が辛くて死んじゃったから、仕事の恨みを私たちに晴らして、道連れにするつもりなんでしょ──!」
「え!? ちょっと待ってよ! おれはちゃんと生きてて、別に恨みなんかそんなの持ってないよ。ていうか、初日で過労死するほど、おれ弱っちくないからね!? ていうか仕事してないし! おれここで、これから二人と働くのはすごく楽しいって思ってたし、あーだからほら! 大丈夫……大丈夫だから! ね? あーもしもだよ? おれがそのホロゥ? になったら誰も巻き添えにしないし、きっとユニコーンと一緒にどっか飛んで行っちゃうかもだからさ」
「本当? ホントにホント? 本当にユニコーンと一緒に? でもそんなのやだ!」
強くうなづき、ユニコーンと仲良しポーズをしても、混乱して自分でも何を入っているのかわからなくなったエミリアが収集のつかない状態に。
誰か、誰かこの状況をなんとかしてほしい。どうしてこの状況で平然とパックは毛繕いができるのだ。ちょっとは契約主の精神状態を安定させないのか。ユニコーンでさえしてくれたというのに。
助けの目をライトが向けてもベアトリスはパックを抱えて逃げようとしていて、終いに姉妹ときたら身を寄せ合って、
「ごめんなさいトライ。ラムは良かれと思ってトライを馬車馬のようにこき使おうとしてしまったの。謝るわ。だからどうかオドラグナに」
「ごめんなさいライトくん。姉様の仕事とレムの仕事をほんの少し、かなり少し任せようとしてしまって申し訳ありません。だからどうかオドラグナに」
「なんで二人はそんなにおれを成仏させたがるの!? なんでさ──ッ!!??」
頭を抱えたライトの心からの叫び声が屋敷中を駆け巡った。