Re:ゼロから始める異世界UC   作:リクライ

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今回も長いです。





第二十六話 何も掬えない両手

 

 

 刻々と夜の色が強まり、星が瞬く。

 ロズワール邸に青白い明かりが薄く廊下を照らす中、一つの影が動いた。

 目に光を灯すことを忘れ、盲目に同郷の部屋に向かおうとするライトだ。ループの起こってしまう可能性が高い今日という日にレムと口論して、のちに話すこともないままこうして長い廊下を歩いている。

 

 ──本当に……長い廊下だ。

 

 何百、何千歩いたことだろうか。仕事に追われていたときはこんなこと感じなかったはずなのに、今では時間が引き延ばされたように長く感じる。

 朝までは五時間か四時間くらいだろうか。眠気の気配はないが後悔と自責が渦巻く中、警戒し続ける状態は神経が摩耗してしまう。

 

「────」

 

 ふと、ライトは私服のズボンに手を伸ばして、ポケットに手を入れた。指先が触れたのは柔らかく、それでいてどこかカサついた感触の布切れ。──血のついたハンカチ。

 手を入れたまま、軽く布の感触を確かめるように指を動かす。

 血がこびりつき離れないのと同じように、指先が張り付く気がして思わず手を引っ込めた。

 

 ──捨てようと、思っていた。 

 

 けれど、いつの間にかポケットに入れて以来そのままにしていた。

 

「……何してるんだろ、おれ……」

 

 自嘲するようにポツリと呟く。捨てるつもりだったのに、捨てられなかった。レムにとってのこれはただの拒絶の証だというのに。これを手放せないのは、一体どうしてなのだろう。 

 指先に残る、かすかな布の感触。

 意識してしまうたびに、レムの言葉が脳裏を突き刺した。

 

『そんなことを言う資格が、ライトくんにはあるんですか?』

 

「…………」

 

 足が止まる。

 喉が詰まって、思わず深い吐息をした。

 夜の冷たい空気が胸を満たしていく。

 結局、何も言えなかった。面と向かって話す機会なんてものは探せばいくらでもあったはずなのに、何も、言えなかった。

 自責が重みに加わって、ライトの頭が項垂れる。目に入るのは力なく赤い絨毯を踏んでそのまま止まる足。これじゃ長く感じるわけだ。

 諦念が足に絡みついたところで、足が二度と進まなくなる気がして踏み出す。

 心臓が脈動し、血が全身を巡る感覚が喉を圧迫して、ライトの呼吸は浅くなる。布の感触を潰すように手のひらに爪が刺さるがそのまま握り込む。

 爪痕が残る痛みが歩みを止めるなと訴えていた。

 

「……ついた」

 

 どれだけ歩いたのだろうか。長い廊下も、長い螺旋階段も通って辿り着いたライトの目の前にあるのは自室と大差のない扉。

 手をあげて扉の面に狙いを定める。

 呑気に眠りこけているだろうか。扉を乱暴にでも開ければいつもの冗談が心を少しでも和らげてくれるかもしれない。

 

「──昴いるか?」

 

 中で眠っているスバルを起こすために、少しだけ叩く力を強めたのだが布団をモゾモゾ動く気配を感じない。

 二度もノックしたが結果は同じで、中からの返答の声もなければ起きる気配もない。それどころか中に人がいないような気がして、焦燥が汗を引っ込ませ悪寒が背中をなぞった感覚に陥る。

 まさかと思いノブに手をかけて、勢いよく扉を開ける。早すぎた開扉は風を発生させてライトの目がわずかに細められる。

 一瞬の邪魔が霧散すると部屋中が明らかになった。

 目の前に広がったのは、

 

「すば、る。あれ……?」

 

 人っ子一人いない、もぬけの殻な客室だった。

 灯りは何もついてはおらず、掛け布団がめくれているところから抜け出たのだと察する。だが、行き先がわからない。

 静かに閉めて、足音ひとつ立てない忍者のようにライトは扉の前から離れる。

 

「昴……どこに行ったんだ」

 

 顎に手を添えて、ライトは長く伸びた廊下に視線を滑らせる。

 整然と並んだ扉の数々が、無表情に立ち尽くしていた。どの扉も閉ざされていて、もちろん中の様子は伺うことはできない。それこそ、扉を開けるまでには。

 

「扉……扉か」

 

 ライトはさっきまで足を置いていたスバルの客室前に歩みを進めた。そしてノブに手を置いて、そっと開ける。

 やはりと言ってか部屋は──変わっていない。

 だが、これだけではっきりした。今スバルがいる場所は、

 

「──禁書庫か」

 

 かすかな喋り声を廊下に響かせるライトはため息をついてしきりに歩みを進めた。

 なんで気がつかなかったのか。ロズワール邸三度目にしてもう四日目、いやもう日は跨いでいるから五日目だ。この日この一日、一歩たりとも客室に足を運んでいないどころか、廊下でばったりとスバルに会うことも、ましてや禁書庫に入ることもなかった。

 今日会えなかったのには理由がある。──契約だ。今日の朝まで守ってもらうというベアトリスとスバルの間で結ばれた契約。

 今日が一番の山だということを察して、ベアトリスはスバルを禁書庫に招き入れたのだ。

 何回か扉を開ける機会はあったにはあったが全てはずれ。これが頻繁に禁書庫の場所を入れ替えている証拠なのだとしたら、ベアトリスは超が付くほどのツンデレだ。

 

「ユニコーン、起きれるか? ベアトリスちゃんのとこまで案内して欲しいんだけど……ユニコーン?」

 

 ライトの声が響くと、月夜に照らされる廊下に一点の光が現れてユニコーンが現れる。ユニコーンは小さいてで目を擦りながらふわふわと浮かぶとライトの肩に乗って首筋に寄りかかった。

 

「ごめんだけど、おやすみはあとだ……」

 

 このままだと二度寝してしまうユニコーンにライトは人差し指を向けた。指を差す人差し指はユニコーンの頬を小気味よくつつくと、緑色のバイザーが輝きを取り戻して首をこっくりさせていたユニコーンが起きる。

 

「…………(ジトー)」

 

「あー……禁書庫がどこにあるか教えてくれるだけでいいんだ」

 

「…………(はぁ……)」

 

 ライトの言葉にユニコーンがため息をつくと、いつものように飛ぶのではなく、指を差して気だるげに案内する。月明かりに照らされるユニコーンは白いこともあって、優しく光を温かに反射する姿は神聖さを帯びていた。

 ユニコーンが指し示す場所こそベアトリスが管理する禁書庫であることは確かだ。なぜいつもわかるのかがわからないが、きっとベアトリスから渡された特別な通行許可証でも隠し持っているのだろう。

 

「あそこで、本当にあってるのか……?」

 

「…………(こくっ)」

 

 思わずユニコーンが指し示す場所を二度見してしまうライトだが、当のユニコーンは頷いてあくびをしていた。

 場所は使用人の部屋がある場所だ。

 

「……嘘だろ。だってあそこは──」

 

 運命とはいたずら気質なようだ。まさか禁書庫に通ずる扉が──レムの部屋の付近だなんて。

 思考が脳に追いついたとき、咄嗟に出たライトの反応は無意識に情報を呑み込み喉を鳴らすこと。固唾を飲んで、ライトが視線を落とすと怯えるように手先が震えているのを見た。

 ライトの現在地はスバルが寝かされていたのは二階の客室の前で、使用人棟は屋敷の東側。そこの三階にレムの自室が位置する。

 

「……ありがとう、ユニコーン」

 

「…………」

 

 ライトが手を上げて感謝を告げると、ユニコーンは軽く手を振った後あくびの仕草をし、ネックレスへ戻っていってしまった。まだ出ていて欲しいが、仕方あるまい。

 深く息を吸って、そして深く吐いたライトは遠いフロアに向けて足を動かす。

 行かないといけない。この二つ眼でスバルの安否の確認をしないと話にならないのだから。

 向かう先は階段ホールで、上階を目指し急く足を前へ前へと押し出す。心拍が上がるとともに肺を締め付け、耳がこもって甲高い音が頭を掻き鳴らし焦燥感を増幅させた。

 

「よりによってレムの部屋の近くか。足音で起きてもし……いや今はただ向かう、それだけだ」

 

 普段よりは遅いもののそれでもスバルの部屋に向かうまでの時と比べれば数段早く階段を登って、ライトは三階に到達。

 ライトがたどり着いたとき、三階のフロアに足音が響く。

 ──二足の足音が。

 

「────」

 

 何かいる。ライトの二足の足音と、何かの二足の足音がこの廊下の壁を乱反射させて音が伝わってくる。

 何かあればかき消えてしまう普段の足音も、今では鮮明に鼓膜が拾った。

 

「誰……なんだ」

 

 喉仏を介さずに口の開け閉めだけの言葉。囁き声が何者かの足音と被る。

 息を詰まらせ、ライトの体が硬直しその場にとどまった。

 この慎重な足運びをする相手は一体誰なのか見当もつかないが、可能性としては三つある。

 一つ目は前回のとき同様緊張から尿意を催したスバルが禁書庫を抜け出してジャパニーズシノビの如くトイレに進む足音。

 二つ目は昴を呪い殺しにここへやってきた呪術師の足音。どういった手法を用いて呪いを使い、攻撃してくるのかわからないが、ユニコーンならどうにかできるはず。多分。

 三つ目は──

 

「……レムの、足音か。……起きてくれ」

 

 最悪の予想を立てて、いつでも阻止できるようにユニコーンに警戒を強めるように頼む。ネックレスから再び出てきた彼は先ほどの眠そうな反応とは打って変わって、辺りに漂う緊迫感から察知したのか飛び起きるように姿勢を正した。

 ユニコーンの必死な仕草を横目で見たライトは息を殺しながら壁伝いに歩く。

 夜空に浮かぶ厚い雲が地上を見下ろす月に目を隠す。窓に差す光が消え、辺りが暗闇包まれた。

 

「一体、誰なんだ」

 

 聞こえてくる足音がまばらになっていくのが聞こえてわかる。その歩みもだんだんと遅くなっていき、距離ももうわずかだ。

 空に蓋をする雲が途中で裂けて、合間を縫う月光が地上を優しく照らす。そのおかげで窓枠にかける手が月明かりに照らされて見えた。白く滑らかな肌が手のひらに広がっていて、小さく整った指をしている。

 ゆっくりと立ち上がり、ライトは影から出ないように息を潜めてユニコーンの前に手を広げた。

 

「──な」

 

 ライトの目が見開いた。

 何も聞こえず、耳が情報を堰き止めて目の前のことを拒絶しているのに、目は必死に繋ぎ止めようとしている。

 

「──っ」

 

 誰の声かわからない。ライト自身の息を呑む音なのか。それとも目の前にいる、胸に手を置いて浅く呼吸をしている者か。

 唇がわななき、現実から逃げるように体を置いて口角だけが後ろに後退する。

 絨毯を擦って足を進める者は呼吸を乱していて、肩が不規則に上下していた。息を吸うたびに大きく膨らんで、吐くたびに鋭く落ち込む。まるで、必死に自分を保とうとしているようだった。

 光の領域にその全身を露わにした。

 黒を基調とした、丈の短いエプロンドレスを身に包んではいない。その代わり薄手の青いネグリジェを着ている。普段に比べて幼い雰囲気がよく似合うが、そんな青い髪の少女が壁にもたれながら呻き、口元を黄色い何かで汚していた。

 

「──レム」

 

「ライ……ん」

 

 窓枠にすがっていたレムの手が、まるで意思を失ったかのように宙を泳ぎ、空気をかくように解けた。 

 

「ぁ、──レム!」

 

 ライトの喉奥から絞り出された叫びが、闇の廊下に響く。

 反射的に足が動いた。考えるよりも早く、体がレムの元へと駆け出していた。

 ふらつくレムの体が重力に引かれるように崩れ落ちていく。青い髪が宙を舞い、薄暗闇に揺れた。

 

 ──間に合ってくれ!

 

 ライトの心が叫ぶ。伸ばされた腕が闇を切り裂くように走り、細い肩を、頼りなく落ちていく身体を、ライトは胸の中でしっかりと受け止めた。

 

「レム……! レム、大丈夫か……!?」

 

 軽い──過ぎる懸念に騒ぎ立てる心をなんとか押し込めて、ライトはそっとその背中を支える。

 

「一体、なにがあったんだ……! レムがどうして」

 

 忍び声を鳴らしながら、ライトはその場に膝をつき、レムの身体をゆっくりと寄り掛からせる。背を預け、脚を伸ばさせ、レムの肩を優しく手で包む。

 冷たい。死んだ人間がどんな体温をしているのか皆目見当もつかないが、レムの体はひどく冷たかった。

 レムの顔色が優れない。崩れた呼吸、濡れたまつ毛、口元にはおそらく胃から逆流したもので汚れていた。

 色白の肌には暖かさを感じさせないくらいに青ざめていて、命を削られるように温もりを失っていく。目の下には隈ができており、途切れ途切れの吐息は暖かさを感じさせてくれない。その代わりとして、死の温度だけが無感情にレムの肩からライトの手を伝って感じさせた。

 

「──てっ、て……ぇ」

 

「しっかりしてレム……! たしかあそこに、禁書庫があるんだよな……!?」

 

 奥の見えない長く伸びた廊下を見渡すライトの首が飛び跳ねてユニコーンを凝視する。鬼気迫る両目を浴びせられたユニコーンは何度も頷いて先に飛んだ。

 少し苦しいかもしれないが、ライトはレムの首と脚に腕を通して抱き上げた。横抱きにされるレムの目は柔らかに閉じていても、肩がかすかに震えている。身体中の温もりが風船の口を開けられたように抜けていくレムが温もりを求めてライトの手を掴んでいた。

 

「間に合ってくれ……!」

 

 叫びたい心持ちを奥歯で噛み堪えながらライトはユニコーンが行き着く先──レムの部屋に必死に足を回転させた。

 禁書庫に通じている扉はレムの部屋だ。この先にレムの部屋があるとライトの直感がなぜかそう発するのだ。

 軽い咳をするレムにライトは眉を下げ、できる限り負担がかからないように揺れを配慮しながら全速力でユニコーンについていく。

 そうしてたどり着いた。ここがおそらくレムの部屋の前だ。

 

「ちょっとだけ、ここで待っててねレム」

 

 ゆっくりとレムを腕から降ろし、壁にもたれかける形で床に座らせた。ライトは目でユニコーンにレムを見ておくように頼んで素早く立ち上がり、扉の前に立つ。

 緊張に小さく震える手指を抑えてドアノブを掴み、呼吸を整えるライトが手首を回し──

 

「……! なんだユニコーン、レムを見ててくれ……!」

 

「……っ! (ぐいっ!)」

 

 レムを見ていたはずのユニコーンがいつの間にか扉の前に立つライトの側にいる。小さいユニコーンの手がライトの白い上着を掴んで引っ張っていた。

 急がないといけないこのとき、邪魔しないでほしい。

 ライトが必死に右袖を引っ張るユニコーンを払いのけてノブに手をかける。

 

「頼む、ベアトリス……!」

 

 ライトは一気に押し開いた。暗い廊下にライトの焦燥感が宿ったかのような轟音が鳴り響く。

 知ったことか。少しの迷いでレムを死なせてしまうのなら他人の睡眠だって妨げてやる。

 部屋に踏み込む。視界を埋め尽くすほどの本の棚とそれにもたれかかりながら読書をするスバル。そしてライトの正面には木製の脚立に座ったベアトリスが──

 

「……どういうことだ。なんも……なんにも……変わってない」

 

 目の前に禁書庫は広がらなかった。代わりに焦る自分を呆れるように見る部屋がライトの頭を強く揺らす。

 踏み込んだ部屋にあるのは乱暴に床に捨てられた毛布と、こぼれ落ちた胃の内容物。ゴミ箱が近くにあるのにそこでできなかったのは、レムの容体が急激に変化したことが理由か。

 鼻の奥を切り裂く酸っぱい臭いにライトは顔を顰めて、自身の身体を部屋の外へと引き戻す。

 予想外の方向から殴りつけられたように思考が停止してしまいそうになるが、ライトは頭を振って、動揺に目を点滅させるユニコーンに目も向けずに隣の扉へと足を向けた。

 

「──ならこっちか!」

 

 ユニコーンも気が動転していて間違えたかもしれない可能性だってある。だからさっき見た部屋はレムの部屋じゃないはずだ。

 オカシクなりそうな心を鷲掴みにしてなんとか落ち着かせるライトはノブに手をかけ、乱雑に扉を開けた。そこにはベアトリスの管理している禁書庫が目に飛び込んでくるはずなのに、

 

「なんで……」

 

 ない。それどころか、一つ前の部屋よりも無個性の塊のような部屋だった。とてもレムが使っている部屋とはオモエナイ。

 バタバタと足を動かすライトは次々と扉を開けていく。隣を開けたらまた隣のドアへ。隣へ。となりへ、となりへ。

 

「どこ、どこだ……! どこ、どこどこだドこダどこだ、どこなんだ……! ──うっ」

 

 頬に衝撃を叩きつけられ、同じ言葉を壊れたように口から止めどなく流れ出しながら開け続けるライトが軽く横へと吹き飛んだ。

 鋭い痛みを発する頬に手を添えて邪魔したものを恨めしげにライトが見上げると、目の前に白い塊が緑の光を伴って宙に浮かんでいる。

 

「……ユニコーン。お前が袖を引っ張ってたのはこれのことなのか? でも、なんで……」

 

 片膝をついたライトは今まで開けてきた扉を、口を開けたようにぽっかりと空いた扉を見て言葉が止まった。

 扉は扉だ。だが、禁書庫に通ずる扉はただの扉ではない。空間を歪め扉を介して書庫へと繋ぐそれは──

 

「──まさか……っ」

 

 ──部屋を『扉渡り』したのか……?

 

 タイミングが悪すぎるにも程がある。数分前の迷いに迷って、警戒に警戒して足の速度に枷を施していた自分に助走をつけて殴りつけてやりたい。

 ユニコーンの伝えようとしたことをなんでよりにもよって自分が拒絶してしまうのだ。

 荒くなる息をライトは髪を触って落ち着かせた。どうすればいいのかわからないのに、時間がすぎるとともに有限の針がレムの命のタイムリミットまで差し迫っている。

 今からユニコーンに場所を聞いたとして、なんとかなるのか。いや、できるできないじゃなく絶対に間に合わせるべきなんだ。

 きっとベアトリスなら、彼女ならレムの体を蝕んでいる病魔から救い出してくれるはず。

 

「くっ、ユニコーン。禁書庫の場所がどこか、探してくれ」

 

「…………(こくっ!)」

 

 力強く頷くユニコーンに肺の力が緩みかけるも、ライトは膝に手を叩いて立ち上がる。

 駆け寄り、ライトは壁に寄りかかって瞼を閉ざすレムを再び抱き抱えた。気のせいだと思いたい。レムを横抱きにした瞬間、先ほどと比べて軽くなったような感触が腕に覚えた。

 

「……レムちゃん。今から禁書庫に……」

 

「──つれて……」

 

「え……? レムどうしたんだ。今、助けを、──っ」

 

 言葉を紡ごうとしたライトだが、力のないレムの拒絶に喉を詰まらせてしまう。

 だというのに、レムの手はライトの手を握りしめて意識を保たせて何かを伝えようとしている。

 聞かないといけない。聞かないと絶対に後悔する。

 

「姉、様の元……連れてっ──」

 

「──っ。ラムの部屋……禁書庫。どっちに、どっちへ行けばいいんだ」

 

 禁書庫を見つけたのかこちらへ近づいてくるユニコーン。淡青色に弱々しくもあって確固たる願いが込められた眼差しでライトを見上げるレム。

 その二つに迫られたライトは塞がった手では頭を抱えることもできず、顔を右往左往させる。

 

「ライト、くん……おねがい、します」

 

「────」

 

 瞳を閉ざし、こちらに向かうユニコーンにライトが歩みを進めるのを勘づいたレムは目尻に涙を浮かべて握る手を握りしめた。

 だが、弱るレムではライトに願いをぶつけるだけの力は残されていない。

 

「……ユニコーン」

 

「…………(ぶんっ! ぶんっ!)」

 

 ユニコーンが指を力強く示す先はここから真反対、それも最上階の場所だ。今から走っても間に合うかどうかわからない。

 それでも、ライトはレムを抱える手を強くして、

 

「禁書庫は……だめだ。──ラムの部屋に行く」

 

「ライト、くん」

 

 ユニコーンに首を振り、ライトはレムの言葉を汲んだ。

 行きたい。この身を使い果たしてでも、レムを禁書庫に連れ込んでベアトリスに診てやらせたい。でも、はしごを落とされたように絶望するレムを否定することなんて、自分にはできなかった。

 

「ラムのところに行けば、なんとかなる……よな」

 

 そうに違いない。ラムは知識は豊富で、ライトの仕事でもスパルタで技術を叩き込んでいたのだ。病の一つや二つ、姉の力で跳ね除けてしまうに違いない。そう考えていないと、レムの心を優先して禁書庫に行かないことを選択した自分が殺したいほど憎んでしまう。

 

「レム、ラムのところに行けば……レム?」

 

 何としても確証が欲しい。そう思って腕の中にいるレムに聞こうとしてライトの口が止まった。

 空いていたはずの瞼が、力無く落ちていた。

 

「だめだだめだぞレムちゃん、目を開け! 頼むしっかりしろ!」

 

 揺さぶっても揺さぶってもレムの首が頼りなく揺れるだけ。その動きはあまりに無防備で、生命の気配が感じさせてくれない。全身を寒気が走り、胸の奥に押し寄せる危機感が一気に現実味を帯びてくる。

 ただ一つ──レムの小さな手がライトの手を握りしめていた。ライトから伝う温もりが、レムをこの世界に繋ぎ止めているかのように。

 

 ──急がないと……ッ!

 

 唇を噛みしめ焦燥に胸を焼かれながら、レムを横抱きにするライトは走り出した。腕の中のレムの身体はあまりに軽い。けれどその重みが今ではひどく重く感じた。

 この軽いようで重いのを、そして軽々と運べることは自分の力がただ単に強いのだと、信じたい。

 急げ。急げ急げ──急げ。急がないといけない。

 

「ラムの部屋、ラムの部屋……どこだ」

 

 レムの部屋は自分が部屋に戻って寝るときに同じ時間に被ることがあったので世間話ついでに聞いたのだ。どこの部屋を選んだとか他愛無い話だ。ライトはここ東棟の二階。レムは三階の部屋だとか大雑把なところしか教えてもらえなかった。

 当然だ。むしろ自分の方が不用心すぎる。

 しかしラムの部屋については、何も知らない。

 

「ラム、ラムどこだ……!」

 

「ねえ、さまの……」

 

「レム! なぁレムちゃん頼む、教えてくれ。──っ」

 

 口を開けて喉を鳴らすレムにライトが叫んで、窓側の壁に強く背中を打ちつけた。

 

「レム。おれは今、背中を、レムの部屋の真ん前の窓につけている。レムの頭のてっぺんがおれから見て右。わかったら二回、手を握り返してくれ」

 

 そう言ってライトは瞑目して、自身の右手を握るレムの手へあたりに飛び散った神経をかき集めた。

 そうして一度、二度と、指先に力がこもる。

 必死に応えようとしてくれた証にライトが口を強く結んで頷いた。

 

「……ありがとう。じゃあ次にラムの部屋……」

 

「右、です。それくらい、なら……しゃべれ──うっ、けほっ、けほっ……」

 

「苦しいんじゃないか……! 右……右ね?」

 

 弱々しく咳き込むレムに顔を歪めながら、ライトは右側とレムの顔を何回も見て、そして頷く。

 立ち上がり両手に力を込めるライトが走り出そうとしたとき、腕の中のレムが小さく口を動かした。でも聞こえない。空気だけ喉奥から通ってライトの鼓膜に温かい風が当たるだけ。

 耳をレムの口元に持っていくライトは声を殺すと、「四つ、先に」と確かに鼓膜が音を拾い、弾かれるように走り出す。

 

「けほっけほっ……う、ぅ」

 

「待ってて、あと少しだから」

 

 ライトは扉を一つ、また一つと通り過ぎていく。必死に走るライトの髪にはしがみつくユニコーンがいて、遠心力に弄ばれていた。

 また一つ、扉が通り過ぎていく。視界に扉が通り過ぎる度に心臓の鼓動が速なりライトの脳を圧迫させる。

 膝が崩れそうになるのを必死で堪える。堪え、走って、レムの言う四つ先の扉に辿り着いた。

 

「ラム! 大変なんだ、レムが!」 

 

 片方の膝を上げてレムを支え、空いた左手でノブを掴み、ライトはラムの部屋へと押し入った。

 扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは整えられたベッドの上に静かに横たわるラムの姿だった。これだけ荒々しく扉を開けて叫んだはずなのに、規則正しく上下する胸が、ラムがまだ目覚めていないことを物語っていた。

 まだ何も知らず、何も起きていない世界にいるようなラムの姿に、ライトの心臓が一つ、重く脈打った。

 レムの小さな呻き声がなければ、きっと立ち尽くしていたかもしれない。

 

「レム……。ラムちゃん、ラム早く起きてくれ──っ!! レムが!」

 

「んー」

 

 ベッドの上で横になっていたラムの瞼が、ライトの声でぴくりと揺れる。細く目を開けたラムは、ぼんやりと天井を見上げたまま、眠たげに呟いた。

 

「……だれよ、こんな夜遅くに……うるさいわね」

 

「そんなこと言ってる場合か!? 早く起きてくれラム!」

 

 まだ夢の中にいるような声音だったが、ライトの大きな声が再び耳に響いた瞬間、ラムの瞳がわずかに開き、顔がこちらに向いた。

 

「…………? なんでトライがここにいるのよ」

 

 あくび混じりにラムが呟くと焦るライトとは対照的にゆっくりと枕から頭を離し、目をこする。

 そうして覚醒した彼女の表情に、薄く嫌悪と呆れが滲んだ。

 

「麗しの乙女の寝室に忍び込むなんて……トライは男の中でも最低ね。死になさい」

 

「違う! レムが大変だからおれがここにいるんだよ!」

 

「……レムに何があったの? くだらない戯言なら──」

 

 桃色の髪に合わせた薄手の寝巻き姿のラムが不機嫌に眉間に皺を寄せて、これでもかと両腕の中をみせるライトを見て固まった。

 ラムの薄紅色の眼に動揺が陣地を広げ、揺れ動かす。正気が消えたように青白い顔をして瞼を閉ざすレムがラムの瞳にのめり込んだのだ。

 

「トライ、あなた……あなたは、レムに──ラムの妹に何をしたのッ!?」

 

「何をした? 何をしただって? こんな……っ!」

 

 喉が裂けそうになるくらいに叫ぶラムにライトの口角が痙攣したように上がると、奥歯が砕ける勢いで食い縛り堰を外れた。

 

「おれが! 何をしたっていうんだ──ッ!?」

 

 溜まりに溜まった不快感が腹の内から止めどなく溢れてくる。

 この世の理不尽。スバルや自身に、そして今レムに対して起こっている理不尽な苦しみに胸が張り裂けるくらい飛び出してくる。

 

「レムが何したっていうんだ──ッ!?」

 

 止めない。

 

「おれが何したっていうんだ!?」

 

 止まれない。

 

「こんな! こんな苦しいことなんて、代われるならいくらでも代わってやるよ!!」

 

 止められない。

 

「こんな! こんな……! こんな……」

 

 身勝手な心に、責任が重く潰しにかかってきてライトの喉が閉まる

 両手をレムの体で埋めてなければ真っ先に自身の顔面に当たっている。何もできない自分を打つ。それこそ殴り殺すくらいに。

 膨れていた風船が萎むように、レムを抱えるライトの腕が緩んでいく。

 だが、ラムは違った。

 

「触らないで!!」

 

 両腕に大事そうに抱き留めたラムがライトに向かって叫んで威嚇する。

 レムをこうやって傷つけたのがライトだと勘違いしているのか。万が一も億が一もありえないことだというのに、それを考えることができないほどにラムはライトと同じように切迫していた。

 口撃に怯んだのを見計らいラムは膝を枕に、レムの頭を寝かせた。

 

「レム、ラムよ。目を開けて?」

 

 ことは一刻を争う荒事だというのに、なぜ慈愛の帯びた目をレムに優しく振りかけるのか理解できない。

 レムは今に、死んでしまうかもしれないというのに。

 

「ラムどうにかできないのか? こんな悠長なことしてたら、レムが……!」

 

「黙ってなさいトライ!! これ以上口を開けたら本当に──」

 

「──て。ねえ、さま」

 

 下からの力無い一声は喉を張り上げて言い争う二人の耳になぜかすんなり通った。

 口論をやめて二人が声を撫でた少女に意識が向いて、ラムの声が途切れる。苛立ちを隠せずに膝を立てて一触即発になっていたライトも動きを止めて、視線を落とした。

 うっすらと目を開けたレムが姉の手をとって引き留めていたからだ。

 

「レム、目を開けてくれたの? 待ってて、今このペラペラと駄弁る輩を──」

 

「ち、がうんです……ねえさま。ライトくんは、何も……だから」

 

 この後に及んで、レムはライトを庇っている。買い出しの帰り道、すれ違って傷つけてしまって、もう顔も見たくないと思っていてもおかしくないことをレムにしてしまったのに。それなのに、どうしてレムは薄く目を開けて微笑みかけてくるんだ。

 受け入れられない光景を目を窄めて見届けるライトの意志とは逆に、自身の体はラムの腿に寝かされるレムへと近づく。

 ひざまづいて、震える手がそっとレムの手に伸びる。

 

「レム……手が、冷たいよな。ラ、ラム、ラムちゃん。レムちゃんの手をしっかり握ってやってくれ」

 

「えぇ。でも、トライは……ベアトリス様を呼べばレムは……」

 

「それが……ダメ、なんだ。無理なんだ」

 

「どうして──っ。ベアトリス様なら……」

 

「わかってる……! わかってるけど、ベアトリスの禁書庫は、ここから真反対の場所なんだ。ユニコーンは禁書庫の居場所がわかる……本当だ! でも……今から行っても、どうなるか」

 

 どうしようもなさすぎる状況が重みとなってのしかかり、ライトが項垂れてしまう。正面から息を呑む声が聞こえ、頭を上げるとラムが唇をかみしめて肩をかすかに震わせていた。

 諦めきれない。それは自分だって同じなのだ。まだ聞きたいこととか、話したいこととかがいっぱいある。仲直りだってしてない。

 

「レムちゃん、今から助けを……──っ」

 

 指先が触れた瞬間、あまりにも冷たい温度に息を呑んだ。まるで死人のような冷たさそこに生の温もりなんてものが微塵も感じられなかった。

 だというのに温もりを求めているのか、人を求めているのか、震えたライトの手を冷たい手が握っている。

 何を言っていいのかわからない。肺が痙攣して喉の奥で文字が詰まる。

 立ち会う資格も言葉をかける資格も持ち合わせていないけど、何か言わないと。

 

「……ここにおれがいても、意味ない。ベアトリスに会いに行く。あの子なら──」

 

 ラムにはできないのなら今から治癒魔法が使えるエミリアを起こしてこの部屋に向かわせて、そして真反対にある禁書庫にベアトリスに合流。禁書庫を扉渡してもらって、またここに戻る。

 可能性なら、そこらじゅうに転がっているじゃないか。

 でもこれは、きっと逃げの言い訳だ。ただ、この場に留まるにはあまりにも無力すぎるから。

 

 ──あのとき、レムと喧嘩をしなければ。

 

 ──あのとき、もっと早くに気づいていれば。

 

 そんな後悔ばかりが胸をかき乱す。立ち上がって扉へ向かおうとした、そのとき──

 

「……いかないで」

 

 掠れた声が耳を打つ。

 視線の下で、細く、壊れそうなレムの声が、離そうとするライトの手を止めた。

 離れようとして握った手を手離そうとしたはずだのに、レムはそれを良しとしない。

 

「レム……?」

 

 視線を落とすと、ラムの膝の上に横たわるレムが、痛ましげに瞼を開けていた。しっかりとその二つ並ぶ目でライトの方を見ていた。

 

「いかないで……ここに、いて」

 

 その一言に、ライトの中で何かが張り詰めて、きしみを立てて崩れていく。

 いく理由を、言い訳を、全て飲むように。

 

 ──逃げたいんじゃない。本当はただ、怖かったんだ。

 

 レムの手の温度が、掴まれた手から静かに染み込んでくる。震えるような力でも、確かにそこにいると伝えてくれる。

 死に戻りを伝えたときのペナルティと比べれば容易く身体を動かせるはずなのに、レムのたった一言が心臓を締め付けた。

 

「わかった……行かない。おれは、ここにいるよ」

 

 唇を固く閉ざし、無理に引き攣り口角を痙攣するライトがラムの方へ顔を向け、首をかすかに振る。

 ラムは、何も言わなかった。

 ただレムの言葉を受け止めて、ラムとライトの間に無音が落ちる。

 

「……ねえさま」

 

 そのとき、二人を見上げるレムが握られた左右の手を握り返して、沈黙に吐息した。

 今にも消え入りそうなレムの声を聞いて、ラムが目を見開き、青い髪を壊れものを扱う優しい手で撫でる。髪をなぞり、絡まないようにゆっくりと。その動きには言葉以上の想いが込められていて、レムの目が安らかなものに変わった。

 

「レム……? どうしたの?」

 

「レムは、ちゃんと……やれたでしょうか。ごめんなさい……ねえさまのツノが……たったひとつの、ツノを……レムのせいで」

 

 絞り出されたのは懺悔の声。引き出されるたびにレムの顔が悲痛なものへ変わっていって、これ以上話してしまったら消え入りそうだった。

 

「……あのとき、レムのツノがなくなっていれば……」

 

「……やめて」

 

 その言葉を遮ったのはラムの震えた声だった。

 

「それ以上、言わないで。レムのせいなんかじゃないのよ」

 

 ラムが濡れたレムのまつ毛を触り、そして頬に手を添えて柔らかく見つめ返した。

 二人が何を言っているのか、わからない。ただ、これがレムとラムの、二人を縛るナニカなのだと言うのはなんとなくわかった。

 

「ラムは、何も恨んでなんかいないわ。ツノを失ったことをレムを守ったことのせいになるなら、それでもラムはレムを選ぶわ。レムを、妹を持ったことも、ツノナシになったこと全部……ラムの誇りよ」

 

 しん……とした静けさの中、ラムの涙がレムの頬に落ちて濡らした。あたたかい雫が、まるで赦しのようにレムの頬を伝う。

 レムは目を見開き、ぼんやりと涙の感触を受け止めた。そして──その目尻にも、ぽたりと雫が滲む。

 

「お、ねえ……ちゃん」

 

「もう何も心配しないで。謝らないで。レムがいたから、ラムは生きてこられたの。レムがいつも隣にいたから……」

 

 震える手で、レムの頬に触れながら微笑もうとする。だけど、その顔には、止めようもない涙が伝い落ちていた。

 

「だから……行かないで。ラムを、お姉ちゃんを……ひとりにしないで……」

 

 気丈な姉のものではない。必死に縋るただ一人の姉のものだった。今のレムに聞こえていたのかはわからない。でも、レムの顔は朗らかになっていたのがラムの言葉が届いたことの証なんだ。

 

「──泣か、ないで……おねえ──」

 

 言葉が途切れて、レムの意を返さず肺が縮こまって小さく咳をした。

 力なく上がったレムの手が、ラムの目の縁に押し付けられて伝っていたのに、咳がそれを許さぬように弾いた。

 ──に思われた。

 

「レム……愛してるわ」

 

 レムの左手をラムが繋ぎ止めた。両手で大事に包んで、必死にされど優しく温もりを分け与えている。

 

「あり、がとう……おねえ、ちゃん。れむも、あいしています」

 

 レムの表情が安らかなものに変わっていき、握られた手を確かに握った。

 

「らいと、くん……」

 

「──レム。もう、目が……」

 

 ただ向いているだけだった。少しずれた場所をレムは見ていたけれど、声のした方向がわかるのか少し顔をずらす。そしてライトのいる大まかな居場所を捉えたレムが燃え尽きかけた灯火を宿した眼を向けた。

 

「らいと、くん」

 

 反射でレムの右手を掴んで、冷たい体を無意味なのは承知で暖めようとしてしまう。

 だが、決して離そうとしない。生きていてほしいから。幸せにいてほしかったから。

 こんなにも胸の奥が痛くなるほど締め付けられてなおも祈っているのに、どうしてこの子がこんな目に遭わなくちゃいけないのか。

 

「おねえ、ちゃんに……あわせてくれて──あり、がと……ぅ。れむは、ひどいことをいってしまって……きっと──らいとくんを、きずつけて……しまいました」

 

「いや……全然傷ついてないよ。気にして……ないから! あんなことになったのは」

 

 小柄な体に似合わない荷物を持ったレムがライトを置いて歩いていく。その少女に背負うには重い後悔を背負ったまま、今ここで崩れようとしてる。

 どうすればいいかわからなかったけど、みんなでその重みを分けることができたはずなのに。

 手の中にある小さくて細い手から力が脆く、儚く、消えていく。

 だからこうして、左手を重ねて白い右手を握っているのだろう。

 

「ふふっ、らいとくんは……やさしいん、ですね」

 

「全然だよ……。優しかったら、おれはレムが嫌がるようなこと言わなかった。おれがなんにも知らなかったから……」

 

「それでも、です」

 

「レム……」

 

 絶対に離したくない。遅れてしまったけど、ちゃんと掴んだのだ。

 ふと、ポケットの中にあるハンカチを思い出して、ライトは右手でまさぐって取り出す。そしてそれをレムの口にやって、周りについた汚れを拭ってやった。最後まで宿る命が取れないように優しく、丁寧に。

 

「ハンカチ……投げつけて──ごめんな、さい……。あらってかえすと、やくそくして……いたのに」

 

「……謝らないでくれ。レムも仕方なかった……仕方なかったんだよ。傷つけたおれもなんだ。だから……」

 

 仲直りをしよう。そう言おうとして言葉が詰まらせてしまった。なにも知らないでズカズカと土足で踏み入った挙句傷つけた自分にそんな資格があるのかと、頭の中を彷徨っている。

 しかし、まず仲直りするなら、謝らないと。

 

「ごめんな……レム。それに……もっと、もっと早く……おれが駆けつけていれば」

 

「らい、と……くん」

 

 どうしても喉を通らないライトへ、レムが小さく呼び声をした。

 目を合わせられないでいたライトの目が、いつの間にか色を取り戻したレムの目を見る。その小さな唇はふるふると震えて──

 

「──うん」

 

 それでも、レムは微笑んで、頷いた。

 これから、寄りを戻して、赦してくれるようだった。最初からなにもなかったかのように、これから、優しく、静かに。

 

「ご……めんなさ……ぃ」

 

「あぁ、おれもだ……」

 

「だから……れむは、らいとくんと……」

 

「うん……おれもレムちゃんと……。────」

 

 胸中に詰まった言葉を言おうとしたとき、ライトが手に伝わるかすかな異変に気付いた。

 手から力が抜けた。中の手がだ。

 軽いのだ。重要な何かが抜けたようにレムの腕が軽くなった。

 あまりにも静かすぎて──嫌な予感がライトの背筋を這い上がってくる。

 

「……レム?」

 

 返事がない。

 握っていたはずのレムの手が、力を失って指先から崩れるように落ちていく。

 ダメだ。ダメだこんな別れ方、誰も望んでいないっていうのに。力を入れているのに、レムの手がどんどん冷えて、離れていく。遠く、遠くへと。

 ライトがされるがままの手を握っても、もう──レムからの返事は返ってこない。

 

「……レム。ねぇ、レムちゃん……? 返事を、返事してくれ……」

 

 頬に片方の手を添える。

 呼びかける声は震えて、喉の奥で詰まって崩れる。

 なのに、レムはもうなにも答えてくれなかった。

 どれだけ手を握っても、レムは握り返してくれない。

 

「なぁレム、あやまる……あやまるよ。あやまるから……教えてくれよ」

 

 熱くなった瞳から、堪えていた雫がぽたりと、レムの手と自身の手に落ちる。

 それでも、レムは何も言ってはくれない。何も。微笑んだまま、眠るように。

 

「レム、おいレム……! いっちゃダメだ、いっちゃったら……なんにも」

 

「トライ……」

 

 言って、震えるラムがライトへ首を左右にゆっくりと振る。もう何もできないと、そう言われているかのような動きに首が締め上げられように息が詰まった。

 ラムだって苦しい。きっと。ここで叫んでも、これは受け止めるラムに対する侮辱でしかない。

 ラムはそっとレムの手を撫で、閉じた瞼にそっと触れる。

 

「……もう、なにも心配しなくていいわ。ゆっくり、おやすみなさい。レム」

 

 姉の声におだやかに見送られながら、レムはそのまま静かに──命を終えた。

 

 なにもかける言葉が見つからないまま、ライトは冷たいレムの右手を握って呻く。

 

 ラムも、静まった部屋で涙を流して啜り泣く。

 

 時間を知らす黄色い光が、レムの両手を握る二人に落とす。

 

 

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