『──……トくん」
遠くで、声がする。
静寂の中に、ポツンと投げられた石のように、その波紋だけがジワリと胸に広がって、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
何をしていたのだろうか。何を感じていたのか。何か恐ろしくて空っぽになってしまうようなことが起きた、ような気がする。
『ライト──」
瞼の裏に光が差し込み、名前を呼ぶ声がはっきりと輪郭を持つ。
誰かが、自分を呼んでいる。
──目を開けないと。目を開けるってどうやるんだ……。
『起きてください……ライトくん」
「うっ──』
愛しいものを触るような手つきで髪を撫でられ、動きが導かれる。
目に差し込んでくるのは明るい光。太陽の光だ。
窄めた目のまま、ライトは四肢を大きく伸ばしてあくびをかます。
後頭部には、やけに柔らかくて、温かい感触。なぜだろう、妙に落ち着くこの温もりが、なぜか寂しくなる。
──二度寝も、悪くないかもしれない……。
「ふふっ、ライトくん? もう起きてらっしゃらないと姉様に叱られてしまいますよ?」
「ぬぇっ!? ──って」
頭上からかかる声が脳を活性化され、弾かれたようにライトの体が跳ね起きる。
頭を振って、混乱した思考回路を無理やり戻すライト。ピンぼけした目を擦って数度瞬きをすることで自分が今どこにいるのか情報の受け入れ準備に取り掛かった。
背後を向いて上を見上げれば形のない雲が流れている。これから快晴となる空から目を下ろせば 城に見紛うほどに大きい建物──ロズワール邸が立ち塞がっていた。
それはいいのだ。対して驚くべきことではない。問題は何を枕にして眠りこけていたのかで、ライトは後ろに回していた視線を落として正体を見つける。
「レム!? なんでおれ、レムの……」
見下ろす形で、青い髪と見上げてくる微笑みが映る。
レムは芝生の上に座り、黒を基調としたメイド服のまま、なぜか完璧な膝枕ポジション。
「偶然です」
「うそじゃ……」
「本当です」
即答である。
一人庭園で騒ぎ立てるライトに対してレムはこれまたどうして落ち着きを払っていることか。
「仕事をサボっていたライトくんを、たまたま見つけただけです。たまたま見てたら、たまたまライトくんがこちらに倒れてきて、たまたま膝に頭が乗って──」
「偶然に偶然を重ねすぎ。それじゃあもう必然だよ、段取り完璧だね」
「ふふ、たまたま完璧でした」
「たまたまの必然は……怖いな。とりあえず、ごめんなレム」
「いえいえこちらこそ、ありがとうございますライトくん」
「いや、全然……。え? ありがとう?」
なんでそこで感謝の言葉が流れてくるのかわからない。違和感に眉を顰めるライトであったもののここは庭園に吹き抜ける風に乗せて忘れることとした。
しかし、
「でも、仕事サボったんだよ、おれ! すぐに戻るから──」
「ご心配なく」
「──え?」
「ライトくんに任された分、レムがついでに終わらせておきましたので」
小首を傾げながら微笑むレム。その顔があまりにも自然すぎて、ライトは一瞬、ほんの一瞬本当に心配いらない気がしてきた。
しかし、任された仕事の量はレムの下位互換的な立ち位置だ。人間の身でありながらそれを一日やっとでこなす自身もそうだが、レムはやっぱり鬼だ。
ただ、もう言ってしまった上、撤回することはできない。
「いつもありがとう、レム……ほんとに──」
「ライトくんとスバルくんが屋敷に来る以前と同じ仕事量だったので心配は入りません。のーぷろですね」
「急に屋敷のブラックさぶっ込むのやめようか!? この埋め合わせは午後の休憩と休日を返上してでもこなさないと」
「いえいえ、ライトくんがそこまでしなくても……レムは良かれと思ったことをしたまでです」
「その良かれがおれにとっては悪かれなんですよレム君。でもまぁ……」
ため息が止まらないことこの上ないが、寝坊助してた自分の代わりに業務をこなしてくれたんだ。一つ、いや二つ。とにかくたくさん感謝しないと男が腐敗する気がする。
「ありがとうねレム」
「では、感謝の気持ちとして──」
言って、レムが頭をちょこんと差し出す。
「撫でてくれてもくれても構いませんよ?」
「…………」
ないはずだ。レムにはないはずなのに、尾骨あたりから尻尾を振り回しているような気がした。
ツッコミどころが色々とありまくりすぎて、苦笑いのところでライトの顔がぴたりと止まってしまう。
──レムってこんな子だったけか? 前はもっと……。
『ライトくんに、そんな資格が──』
──誰の声だ。思い出せない、思い出せるはず。それを覚えてる。
無色の声色に嫌悪感が募った音に脳が突き刺された。
「う──っ」
「ライトくん? ライトくんどうかしましたか!? ライトくん!」
「なんだっこれ……?」
叩き崩されたように膝が崩れ、ライトは襲いかかる頭痛に顔を顰めてうずくまる。
おかしい。目がぼやけて、芝生がより蛍光な緑へとなりバサバサと音を立てて波を作った。
「少し安静になさってください……! 枯渇してしまった状態──した後遺症が今出て──たん──」
レムの声が、どこか遠い。水の中にいるみたいにくぐもって聞こえる。言葉がわからない。意味ではない、本当に音として認識できない。
だが、この背中を優しく撫でる小さな手がライトの痛みを遠ざけてくれる。『げんじつ』に引き戻してくれる。
「今治癒魔法をかけますから、ライトくんは楽な姿勢になってください」
「いや……もう、平気みたいだ。痛みが、引いてきた」
頬を包んでくれるレムの温かい両手を払いのけてライトが自身の顔に手を添える。あれだけうるさく変貌を遂げた視界が嘘のように落ち着いて見えた。まるで何かに受け入れた──忘れようとしているように。
治癒魔法をかけライトを癒やそうとしたレムは払われた手を見比べて、それから不安げな色を浮かばせた顔をずいっと近づける。
「本当に、ですか? しかし何かあってからでは遅いですし、ライトくんの負担になってしまいます」
「大丈夫だよ、本当に」
申し訳なさそうに眉を曲げるライトは笑いかけて、今にも飛びかかって治療してきそうなレムを片手を出して止める。
いい加減な態度にレムは口を開こうとしたが、身を乗り出そうとした体を引いて瞑目。呆れの含んだ吐息をするとレムはライトの左手を両手で包む。
「何かありましたら、レムにお申し付けください。たとえどんな場所でも、どんな状態でも、レムは迷わずに駆け付けますから」
「それはなんとも、頼もしい。男より男してる気がする」
「いいえ、レムの手を引っ張ってくれて救ってくれたライトくんの方こそ、ですよ」
「そうか、救って……救って?」
今、レムは自分になんて言っていた。救ってなんて、いない。自分の手には何も掬えてない。
胸中に渦巻く自身嫌悪に視線を迷わせるライトがふと、レムの両手で包まれる左手を眺める。左手には──白い跡がついていた。形はいつも通りで傷は塞がっている。でもこれはまるで、貫かれ引き裂かれたような傷だ。こんな傷、刻んだことも刻まれたこともない。これは、なんだ。
「──ライトくん」
「レム、この左手……俺どこでこんな傷を?」
「……お忘れに、なってしまったんですか……?」
柔らかに撫でる態度とは裏腹に、レムが眉を曲げてこちらを覗いてくる。淡青色の目に見つめられるライトは左手を振り解かずに右手で頭を掻いた。
なにか、まずいことを言った。だが、ライトに思い当たる節などどこにもないのだ。
「待って、やっぱなし。今のはなかったことにしよう」
「ですが、今日のライトくんはやっぱりおかしいかと思います。やっぱりあのとき……無理をさせてしまったから」
しゅんと音が聞こえるほどにレムは落ち込み出す。
今にも消えてしまいそうな声で声を落としてしまうレムにライトはあたふたして、
「待って待って。どうしてそこでレムがこう……悲しそうな顔するのさ。別になんともないよ。ただ食い違い? みたいなの起きてるだけだから」
「前もそう言って、ライトくんは身体を壊していたじゃないですか……。今日はライトくんの大事な日ですのに……」
「──大事な日?」
「そうです! 今日はライトくんの……あ、違います! これはその……」
笑ったり落ち込んだり、今度は慌てたり。きょうのレムはなんだか忙しくて、見てて飽きない。両手で包んでいた左手を離して口をもたつかせるレムに口元が緩むライト。
すると、ニヤニヤするライトが目に入ったレムは一変して固まり、そして不機嫌そうに口元を噤んだ。
「計りましたねライトくん」
「そんな、違うよ。おれはただ気になったことを聞いただけ。レムみたいに言うなら、たまたまだよ、たまたま」
「こうして返されるなんて……いじわるですね、ライトくん」
「わかった、わかったよ。じゃあ今のは聞かなかったことにする。その代わりレムもおれの失言を聞かなかったことにしてよ」
耳を塞いであっちを向いてみせるライト。
ひょうきんな仕草をするライトを前にして、レムはクスッと口に手を添えて笑うと、
「ライトくんの体調は気になりますが、そう言うのでしたら。──はい。ではこれで、おあいこ、ですね」
「あぁ、おあいこだ」
なんと取り消してくれるらしい。
そうして長いこと見つめあってしまい、二人揃って笑う。なんだかおかしく思えてきて、なんだか疲れてきた。
まだよくわからないが、これもいい。この時間をそんな違和感で台無しにはしたくない。
「その調子だと、午後の業務もあらかた終わらせたんでしょ? これから何しようかな」
腰に手をやって見渡す限り青い空を見上げながらライトがぼやく。
レムが仕事を終わらせたと言うことはそれ即ち業務終了ということ。あるとしても昼食なり夕食なり作るだけの家庭的なことしか残っていない。
「昴たちも暇でしょ。早めの休日ってことで、今日は絵でも描いたりしようかな」
「絵、描けるんですか?」
「ラムほど上手にとまではいかないよ。ただ、見たままの風景が描けるだけ。多分昴もできるよ。仕事には必要ないみたいな特技持ってるし。ラテアートとか」
ラテアートをスバルに披露されたときはびっくりしたものだ。白鳥を作り出したときなんてその道の職を目指したらいいんじゃないかと思うくらい。
「ありましたね、確かに。あまり使い所のないスバルくんの特技でしたけど」
「その使い所のない特技にレムは一時間も翻弄されてたけど……まぁ、描くか。もう昼くらいだし、食べ終えたらメモ用紙に羽ペン持ってこなきゃだな」
「でしたら、ライトくん。少しついてきてもらえませんか?」
特に断る理由もなくレムの問いに「いいよ」と快諾するライトは手を引かれ後についていく。
「そういえばなんだけどさレム。これからどこにいくんだ? 厨房か?」
「それは着いてからわかります。でも思ったより早く着いてしまいましたね」
「え?」
レムの話に集中しすぎたせいか気づけば屋敷の、それも記憶にない普段は使わない扉の前にいた。前にある扉に無表情で見つめられるライトは人知れず息を呑む。
左右を見ても特に変わったことは見当たらない。ロズワール邸だ。
だが、変わったことは見えないが感じた。それは人だ。この扉の向こう側に人がいる気がする。
物思いに耽っていると左手を握る感触が逃げていって、ライトが戻った。ぼやけた視界が鮮明に映ると、レムがドアノブに手をかけるところだった。
「レムは先に入っていますので、ライトくんはそのままでお願いします。レムが合図するまで、絶対に扉を開けてはいけませんよ」
そう言ってライトを放って、開けたドアへレムだけ入っていった。
やさしく扉が閉まって静まり返る廊下に対して、胸中をこねくり回され、ザワザワと騒ぐライトの心。
違和感がしこりを生んでいくのと同時に、ふと窓を眺めると外の天気は変わっていた。さっきまで晴々とした青が澄み渡っていいたのに、いつの間にか雲に覆い隠されている。
「なんか、おかしい……? ユニコーン、ちょっと話したいことがあるんだ。出てきてくれ」
ネックレスを軽く突いて中にいるはずのユニコーンを起こそうとするライト。だが、光ることもなければ返答もない。ただ静寂だけがライトの周りを落としていた。
「──ユニコーン」
*しかし誰も来なかった。
「……なんで、来ないんだ。禁書庫にいるのか? でもここにいるようにってレムが──」
探しに行こうにも約束を無碍にできないし、とりあえず見渡そうと顔を上げて右を向いた途端に声が詰まる。右に受けられるライトが見たのは廊下。途中、同じドアが点在している長い廊下。
長い。長い、長い長い廊下。終点がどこかわからないほど長い──廊下。
左を見る。同じく奥を見るほど底が知れないほど長い廊下がある。
「もう、なんなんだよ……」
永遠と永遠に挟み撃ちにされるライトが壁にもたれかかって縮こまる。こんなに広いのに、どうしてか屋敷が死んでいるかのように無音なのだ。
まず自分はどうやってここに辿り着いた。レムの手に引かれるまま、ドアの開閉も階段の登った感覚もなしに気づけばここにいる。間取りから察するに西棟の最上階のどこかにライトはここにいて、廊下で項垂れている。
手を叩けば音は響いて、何か言えば反響して耳に飛び込んでくる。ただその余韻がやがてなくなっていったとき、あるのは静寂さと孤独さ。
息遣いが鮮明になり、自分の鼓動まで聞こえてくる。
「──ぇ?」
静まり返った廊下に、扉の向こうからノックの音が鳴ってライトは顔を上げる。そして聞こえたのは、
「ライトくん、どうぞ。入ってきてください」
ほんのり優しく響いたレムの声に、ライトの胸に張っていた緊張がふっと溶けた。
「ああ……呼ばれた」
膝に手をかけてぐらりと立ち上がる。
扉に手をかけると、昼間の明るさがまだ残るはずの廊下にも関わらず、なぜか心はゆったりとした夜のように落ち着いていた。
ギィ、と扉を開ける。視界が切り替わる。
破裂音が耳を劈くのと同時に、視界に何かが覆い被さった。
「ハッッピィーバースデェーーィッッ!!」「はっぴーばーすでー!」「誕生日おめでとうございますライトくん」「祝ってあげるわ。感謝と喝采で咽び泣きなさいトライ」「おめでとーぉ」「おめでとう、かしら」「おめでとーライト」
「…………」
「ちょっ合わせるってプロミスったじゃんか! 点でバラバラって一体どういうことよ!?」
呆然としたライトがみんなの顔を見渡す。
黒の執事服を着た目つきの悪い少年、スバルがクラッカーを手に溌剌な笑みを浮かべながらギャンギャン吠えていた。
エミリアは慣れない異世界の言葉を頑張っていったためか眼がギュッと瞑っている。
レムはクラッカーを手にし、可愛らしい笑顔で顔を満たしていて、ラムは腕を組んで今にも嘲笑しそうな雰囲気を醸し出した。
ロズワールもベアトリスもパックも祝ってくれている。
見事な飾り付けが施されているこの部屋は──いつしか役目を忘れ去られたダンスホールだ。開放されたテラスから吹き込む風が紙吹雪を踊っている。この広すぎる部屋の中央には上質なクロスを敷かれた長机があって、料理が並んでいる。とは言っても参加者が限られているため量は控えめであるが、逆に質と演出が凝った作りでものすごく映える。
「どうしたんだよ相棒。俺たちのサプライズ演出に感極まっちまったか? ちょいちょいちょい、どうしたんだよ」
「え」
唐突に慌てるスバルにライトが瞬き、そして頬に伝う違和感に気づいた。
人差し指が恐る恐る目の当たりに向かう。目尻を撫でて指の腹に湿っぽいものを感じて、動揺でライトの手が震えた。
恐る恐ると言ったふうにライトの首が机の、一番に自己主張するものへと向いた。
──ケーキだ。白いホイップクリームがふんわりと山を描き、真っ赤なイチゴもといスティロベリーが宝石のように並んでいる。ろうそくの灯が揺れるたび、優しい時間がそっと包み込んでくれた。
こんな華やかに祝われたことなんて、今まであったのだろうか。
「めっちゃ泣いてんじゃねぇか! 俺たちのサプライズ成功しすぎて、心にダイレクトで響いたあれ的な!? そんなに嬉しかったのかよライト!」
「へ、ははっ。ほんと、どうしたんだろうな今日のおれ。なんか何もかも置いてかれて、ぐちゃぐちゃになった感じだ。……本当にっ、おれ、どうしたんだろうな……っ」
膝の力が抜けて衝撃が加わり、足裏に尻がつく。
ひざまづいて、ライトは止めどない涙を拭っても拭っても感情のブレーキが壊れたのか止まらない。
すると、背中に小さな手がかかってライトの顔が張本人に持ち上げられる。水平線を越えてどこまでも続く天色の空がそこにあった。
「ライトくん」
「ぁぇ」
もう会えないと思った声にライトは気づいて、目の焦点が合致すると空と見間違えたレムの双眸と目が合う。
彼女の浮かべる笑みは、諦めと喜びが交差したように、どこか不完全で、けれど温かいものだった。
「今は思う存分、楽しみましょう?」
「──そうだな……!」
*
*
そのあとは色々あった。
空はすでに夜の顔になっているが、ロズワール邸は灯りを絶やすことはない。
レムとラム、それにスバルが腕によりをかけた料理を食べてほっぺが転げ落ちそうになったのは記憶に新すぎてこの場で復唱できるくらいだ。
特にいつ作ったのかわからないマヨネーズがかかったラムのふかし芋は絶品で、久しぶりの故郷の味に泣いてしまったのは隠したい『げんじつ』。
スバルとラムがめちゃくちゃに煽り散らかしていたのは感動していたときにも気づいてはいたが、今になってムカつきが神経を苛立たせて手に力が入ってしまう。
だが、雲がかかっていたずらに星を見え隠れさせる夜空を見上げて、ライトは吐息と共にむかつきを押し流した。
「平和、だな」
こんな日常が、いつまでも続いていてほしい。心の問題が先送りになっていても別にどうでも良くなっていってしまう。
目を閉じて、耳をすませば、空で形を変えて流れる雲の音が聞こえてきそうだ。
「じゃあ、あのエムっぽい形がカシオペア座と言ってだな」
「エムがなんなのかもわからないし、なにかの形にも見えないのよ」
テラスの端。スバルの必死の説明がベアトリスの吐息まじりの感想に吹かれ飛んでいった。
先ほどからやっているのはスバルが『昴を探そうゲーム』という自己主張の激しいゲームをしだし、結果すっ転んだもの。そのときの途端に憐れむような目を主にラムとベアトリスがしたのときたら、本当に面白いもので吹き出してしまった。
なお負けじと続けているスバルは異世界ショックに悩まされている真っ只中だ。
ちなみにエミリアはというと、
「わー! お星さまがきれー!!」
秘蔵のワインを見つけたスバルが食卓に並べて食べるのと同時に乾杯をしたのだが、そこで未成年がうんぬんかんぬん。
フェルトより年下がどうとかで喚いていたスバルを上手いことかわしたエミリアがワインを飲むとあら不思議。このように幼児対抗してしまったのである。
一概にアルコールに弱いわけではないらしく、開けた酒瓶は四本は下らない。あれで酔い潰れないだけで、今のようになるのは随分と早かったが。
「いつまで空を見上げてるんですか、ライトくん。ライトくん。ライトくん」
柔らかいものを左腕に押し付けて、いつもの三倍で呼ぶのはレムだ。
鬼というのは知ってはいたが、イメージとしてはお酒に強いというのが以前までの知識だ。だのにこの猛烈なまでに甘えるレムを見て、鬼族という知識がワンパンで吹き飛ぶ。
意外すぎる一面がぶっ飛ばしたのだ。
青い彗星はどこぞの赤に似て三倍。覚えておこう。
「あーはいはい、レムどうしたのさ」
「レムより空の方がご執心なんて、レムは少し寂しいれす。なのでこうなってしまうのはライトくんのせーれーす」
そう言ってさらに密着してくるレム。酔っているのか力が制御できていないらしく左腕が悲鳴を上げるも、ライトはバレないように眼が見開く程度に感覚を押し留めた。
奥歯を噛んで口を固く結んだライトは空いた右手をレムの頭に乗せて撫でる。レムはゴロゴロと喉を鳴らして喜んだ。
──鬼なのに……なんだ猫か。
改札の前で殴られる人みたいなことを言ってしまった。レムに殴られるなんて心配はなさそうだが代わりに左腕を潰されかねない。
でも、この痛みも肌を撫でる涼しげな夜風もどこかチグハグな気がしてならない。
「ごめんね。なんだか……信じられなくてさ」
「そうなんれすか?」
ライトの撫でとこの場にそぐわない言葉に、レムは抱き留めるライトの左腕にかけた力を緩めた。
開放されたのと同時に血の巡りが砂嵐のような感覚になるものの、さっきよりは幾分かマシだ。痛みもそうだが心臓に悪いのなんの。大荒れになる感情の海を凪にするのには苦労した。
ただ、それよりも追いついてきた感覚がライトの心を涼ませる。
「うん。おれ、今どこにいるんだろうってさ。今本当に自分はここにいて、みんなと本当に過ごせているのかわからなくなって……おかしいっていうのはわかってるさ。でも、なにか違うような気がするんだ。おれには──俺にはまだ、なにか……やり残したことが』
「そう、ですか。ライトくん……少し、付き合ってください」
「──ぇ」
声色が突然変わったのを耳にして周りのざわめきがなくなる中、ライトは肩ぐらいの身長のレムの顔と見合わせた。
さっきまで呂律の回っていて、理屈も通らない酔っぱらいレムちゃんはいなかった。
代わりに真剣味帯びさせた表情をして左手を握っていたレムが、そこにいた。
「ちょっと、待ってくれ」
「…………」
戸惑いが口から這い出る。それでもなお、レムはライトの手を引いたまま何も喋ってくれない。
雲行きがおかしな方向へと変わりつつあって、肌で感じたライトは手を引っ張って抵抗を示す。決して強く握られているわけじゃない。張り付いたようにびったりと肌と肌の間が埋まって何もない。
ただ、離れないのだ。
「待ってってレム! どうしたんだよ……みんなも黙っちゃってさ。ちょっと手を貸して──って、は?」
後ろを振り向いたライトの言葉が途切れ、驚愕に染め上げられる。
──誰もいない。最初から存在していなかったように、喋り声も笑い声も冗談も、何もかも尾を引かないでぷつんと途絶えていた。影も形もなかった。
途端に手のひらに伝わる温度にライトは恐怖を抱いてしまう。手の引かれるレムも、振り返ってしまえば消えてしまうのではないか。そんな気がしてならなかったのだ。
そんな予感は、
『ライトくん」
押し飛ばしてくれた。
「レム、その……みんなが。スバルもエミリアもラムもパック、ベアトリスもロズワールも誰もいないんだ。何かあったに──』
『──ライトくん」
食い気味に名前を告げられ、みんなのいたはずの場所から前に振り返った。
くぐもったような声の元へと。
『もう、終わってしまうのですね」
淡々と、目の前に佇むレムがそう紡いだ。
手の届く距離だ。そう手の届く距離のはずだ。はずなのに。
繋がれていたはずの手はもうすでに、外されていた。
「──は? なに……?」
ライトから何歩かのほんの少し歩けば手の届くところにレムが立つ。
だが、歩いても歩いても。走っても駆け出しても、その距離が縮まることはなかった。ゲームの位置座標にズレが生じたみたいに、走っても距離が縮まる気配なんて微塵も感じさせない。
「なに、言ってるのさ。それに、なんで離れるんだ……? いや、なんで近づけない……』
『…………」
「レム! ──っ!?』
ライトが手を伸ばそうとしたと同時に屋敷が弾け飛んだ。音もなく、また破片もなく、時間が遡って、建てられる部品がどんどんと離れていく。まるで逆再生されているように、バグがバグを呼び寄せる。
直立する足を支える床も無くなって一階が丸見えに。一階も地面から剥がれるように分解されて、部屋としての機能はもはや果たせそうにない。
天井が無くなり、屋敷──建物という概念がなくなるのにそう時間はかからなかった。
レムとライト。二人が床があったであろう場所に、宙に立ち尽くして向き合う。方や留めるように。方や息を詰まらせて固まるように。
「…………」「…………」
巻き戻るように崩壊していくロズワール邸とは正反対に空模様は正の方へと流れ続ける。奥から揺蕩う暗雲が空を覆って、どんよりとした空気を運び始めては月光を浴びるレムとライトを黒に染めた。
だがその悪天候も須臾の幻のようで、次に目にしたのは新しい朝を告げる黎明。
太陽が昇る。
森から顔を出していた日はすでに朝を迎えるものになって、速さは落ちることなく昼へと移る。
昼から夜。夜から深夜。深夜から黎明。
目にまとまらぬ速さで一日が終わり一日が始まる。
『あなたは、きっと遠くに行ってしまう。ここにいるのに、心は手の届かない彼方に」
「何を──』
レムの一言がこの世界に変貌を与える。世界の時針が急激に回され、太陽光が大空に軌跡を残して地平線に潜り込み、月が頭を出しては光の尾を引いて空に線を刻み込んだ。
動揺に空に目を走らせるライトとは正反対にレムは上に興味を示さない。いや、足を揃えて宙を立つレムはレムではない。たった今なくなった。
輪郭が朧げになって、細い肢体が女性のものだとかろうじてわかる。時折をその霧の中から切れ目が入り情報が飛び込む。
『それでも、何度もあなたの名前を……自分自身を傷つけるあなたを呼びます」
「……待って』
だが、のぞいたのは光だった。
明らかに見知ったものの外見ではない。
ただ一つ──目の前にいるのは得体の知れない何かだ。
『でも心配しなくてもいいんです。あなたなら──今のあなたなら恐れを、闇を乗り越えられる』
「待ってよ……』
しかし、恐怖感はない。むしろ全身を凍て刺すあの黒い靄──影とは違う、暖かさがあるのだ。
目の前の、光に会うために今日までの日々があった。そんな日なんて脳に刻まれてなどいないのに、何かが流れ込んでくる。それも須臾の一打に等しいもので、光に乗って込んでくる刻は記憶に行き着く前に通り過ぎていった。
『だから、為すべきを為して──迎えにきてください」
伸ばせ、手を。
出せよ、足を。
隣にいなくちゃならない。手を取ってまた歩き出して、胸中に詰め込まれてぐちゃぐちゃになった感情を、思いを曝け出して、それから。それから──
首にかかるネックレスが虹の光を放ってライトの眼前まで浮かび始める。
『枷が解かれた、そのときに』
「ま──うっ……』
強い金切音が耳を突き刺し、脳をかき混ぜる。
無色に見えるほどの彩色の耀きが、目の前の人を飲み込み始めて、ライトの目の中に入り込んでその先を行かせないよう視力を封じた。
まだ、間に合うはずだ。
足をがむしゃらに前に突き動かして永遠に埋まらない間をライトは懸命に踏む。手を、左手を突き出して、逃したくないイメージを掴もうとして。
『待ってくれ! ────!?』
際限ないと思われた光が消え、奥から漆黒が世界を呑み、光の影を侵蝕し始めた。最後となるこの情景にライトのつながっていた狭間の糸が切れるのと同時に透ける足場が消え、地の底へと引き摺り込まれる。
「────ッ!」
声にはならない。ただはっきりと光の隙間にのぞいた青い残光に、ライトは手を伸ばして。
伸ばして──