Re:ゼロから始める異世界UC   作:リクライ

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第三十話 朝日に溶けない影

 

 

「「俺たちをこの屋敷で、雇ってくれ!」」

 

 

 ライトにとっては四度目。スバルにとっては三度目のロズワール邸使用人見習いから平使用人への出世生活が始まった──などと下剋上生活ができたらどれだけ良かったのだろうか。あいにく、そんなことを考えられるほどロズワール邸使用人生活は甘くない。

 スバルが言うにはこのロズワール邸での一週間を突破するために、越える必要がある関門は二つあるとのこと。

 一つ目は屋敷関係者からの信頼を勝ち取ること。これはラムやレムに拘らず二人の当主であるロズワールからの信頼を含めてだ。

 三度目のロズワール邸で相違あれど一応お眼鏡にかかっていたらしく、ライトはそれゆえ口封じされなかったとのこと。だが、ロズワールからの申し出に関してはなんと言っていいのかがわからない。二度目では『お前は騎士にならないか』とか、三度目では『ユニコーンは私のもの』とかジャイアニズムをぶつけてくる始末。はっきり言ってライトは対処に困った。ここはやんわりと断るのが吉なのだろうが、ユニコーンのことについては断固として首を横に振る。

 そして二つ目の関門は──ロズワール邸を襲う呪術師の撃破、と言うらしいが、

 

「うぇっ!? 犯人は村の中にいるぅ!?」

 

「バカ……! 昴、声がでかい……」

 

 部屋に反響するスバルの声にライトは人差し指を自身の口の前に立たせ声を潜める。

 ここは貴賓室。今、ライトたちはここで掃除用具片手に、床には雑巾のかかったバケツを置いて任された掃除をしていた。

 

「ぉぁめんご。で、ライト……一体全体どういうことなのよ。犯人が村の中にいるとかそんな情報」

 

「実は……前のループでスバルからレムに標的が変わったように見えたあれ。呪いの発動には共通点がある」

 

 眉を寄せ「共通点?」と疑問を隠せないスバルがライトへと首を傾けた。

 だが、ライトはモップの持ち手を強く握り込んで語る口を強く結ぶ。少しばかりささくれた持ち手が手のひらに食い込んで痛みを発しても、喉は布を詰め込まれたみたいに苦しい。

 

「…………っ」

 

「ライト、どうした……? もったいぶらずに──」

 

「昴は……す、昴は……」

 

 回せば回すほどに上手くなる知育菓子のように、冷静になった思考を転がせばますます共通点が出てくる。頭では否定したいのに、それをさせてくれない証拠がライトの記憶の中で燻って、そして囁いてくる。もしも間に合っていたらと。もしも一緒にいることができていればと。

 掠めるものにライトが捨てるように息を吐いて、ためらう口を動かす。

 

「昴は村に行かなかった。そして……俺とレムの二人で村に行ったことで必然的にずれた。俺が村の人の対処に追われてるときに誰かがレムに接触して、そして呪いを……。俺があのときレムに、ついて行ってたら──」

 

 脳裏によぎる、黒い瞳をしたつぶらな瞳。愛らしい姿と毛並みをした子犬。

 違うはずだ。まず、別れてからのレムを子どもたちと会うまでに会っていない。まだ一つに決めつけは早計で、憶測で語るには不確実性が残る。

 だからこそ思うのだ。あのとき離れずに、一緒に買い出しをしていたらと。

 

「待て待て……! それなったら二人ともおじゃんになってた可能性もあるんだぜ?」

 

「それは……そうだけどさ」

 

「こうならざるを得なかった……前回恨んだって何も返ってこないんだ。だから心に、魂に銘じて今度こそって。今は関門一つ目。早く掃除終わらせて頑張んねぇと」

 

 重い息を吐くライトの肩をスバルが軽く叩いて離れ、持ち場に戻ってモップを床へ振るう。

 いそいそと己の業務を全うするもザルな掃除をするスバルの背中をライトは呆然と眺めた。彼の言った言葉が頭の中で色が溶けて混ざるように離れないものになったのだから。

 確かにスバルの言葉には納得できる。

 しかしだ。

 

 ──理屈で言っても、できないんだよ。

 

 できるものか。後悔を気にせずに前を向いて歩くことなんて。

 視線を拭き掃除道具から離した片方の手──左手に落として、ライトは冷たい感触を振って忘却させる。

 後ろを向きすぎてもダメだ。向きすぎれば前へ進む足が乗らないで迷子になってしまう。

 ライトも仕事再開し、埃を落としてはモップが絡みとって部屋が輝きを取り戻していく。部屋の隅から隅まで、考えうる限りの場所に手を回し汚れをこそぎ落とした。こうしていればなんだか頭がスッキリしてきて『聞こえない』気がしていいから、ライトはまた手を動かして仕事を全うする。

 すると掃除をあらかた終わらせてきたラムが部屋の中に入ってきた。おそらくは新人二人の教育係として掃除の出来を確認してきたのだろうが、

 

「トライ、バルス。掃除は………これはどういうこと」

 

「ん? 掃除してるだけだけど……なぁ、ライト」

 

「うん、そうだけど……どうしたんだラム? なにかあったのか?」

 

「……いえ、初めてにしてはなかなかの出来だと思っただけだわ。精進しなさい。ラムの目に欠伸の一つや二つが目に入ったとき、ラムが仕事を押し付けて……手伝ってもらうわ」

 

「言い直せてねぇだろ! 今すげぇパワーハラスメントがあったんですけど? ロズっちへの異議申し立ても、こりゃー視野に入りかねないなー」

 

「そんなことしてみなさい。毎日少しずつ、レムとラムの仕事を二人にかさ増しするから」

 

「やり方が陰湿! つか問題の解決になってねぇじゃねーか!! ……うわーその目結構マジ……?」

 

「ハッ」

 

 あれは確かに姉様のやりかねない顔だ。わずか数時間の付き合いだというのに、この改造メイドを見に纏う桃髪少女ラムはどのループでも変わらずこの態度。レムが尊敬するのもわかるくらい物怖じしない図太い精神をお持ちだこと。

 そうこうしているうちに嘲笑を置き去りにしたままラムが部屋を後にする。

 だんだん離れていく音だけがこの部屋を響かせ、ライトは減らず口を叩くスバルに肩をすくめながら歩み寄った。

 

「どうするのさ昴。ラム本気でやりかねない」

 

「いや、俺はあの反応を好感触と見た。ラムちーは俺らの仕事ぶりに焦ったのさ! あの嘲笑だってきっと負け犬の遠吠えに他ならない。この調子でこなすとすっぞー相棒」

 

「はいはい──ってラムどうしたんだ? 戻ってきて」

 

 首を振って呆れを露わにするライトが閉じた目を片目だけ開けてみれば、扉の前に再びラムが立っていた。

 言い忘れでもあったのだろうか。軽快に足を進めるラムの行き先にはスバルがいる。スバルはホウキを両手に期待の眼差しを隠さないでいた。

 

「お? こりゃ昇格待ったなしの確定通告か?」

 

「雇われたばかりのバルスたちに、この屋敷での出世なんて万に一つ……いいえ、ありえないわ。諦めなさい」

 

「再会早々待遇改善の希望を折るのやめてくんねぇか!? じゃあなんの用だよ、姉様」

 

 肩を下げて落胆するスバルを通り過ぎると、ラムは一点だけを半ば閉じた目でじっとりと床を眺めて腰を曲げる

 人差し指を床に立てて、ツーとひと撫ですると灰色の粉末が溜まって軌跡ができた。

 

「バルス──やり直し。本当に役立たずね」

 

「……本当だ。昴ずるしたな?」

 

「は? いやいやいや、俺はそこやったよ! そうこれはラムちーの先輩いびりの嘘であって……あれ? マジじゃん……くっぐぬぬ」

 

 よく見てみれば床の輝きにムラがあってスバルの体たらくがどんなものかわかってしまう。これくらいは許してもいいんじゃないかと思う。

 だが、ちょっとのサボりが後を引くのは多々あるため、先輩のありがたいお告げというのを素直に聞き入れることを勧めたい。生憎両手に力を込めて用具を振るうスバルには聞き入れるということは存在しなく、埃との格闘に意識を割いていた。

 唸り声を上げる下男スバルを横目にラムがライトの後ろを通り過ぎると、一見掃除の行き届いた場所をぐるりと一望。狙いが定ったらしく、ラムが窓枠へと進み出ていって人差し指を立てる。そして指でなぞった。

 ラムの指先がやや黒くなった。

 

「あっちに比べればまだ概ねいい方だけれど、甘いわね。窓枠がまだ汚れてる。目につかないところだからって、手を抜いていい理由にはならないわよ」

 

「そんなところも……? 手を抜いたつもりないんだけど」

 

「結果が全てよ。やる気があってもできてなかったら意味がないわ。それとも、トライは『努力したから大目に見て』なんて言うつもり?」

 

「……言わないよ。──これからもこの屋敷の主人であるロズワール様の品位を下げないよう努めてまいります。お姉様」

 

 言い切り、動作の一つ一つを丁寧に、かつ迅速に行う。背筋を伸ばし、踵をそろえてまっすぐ立つライトは己の胸に右手を当てて一礼。

 改まって肝に銘じるライトを見て腕を組むラムは瞼を落として頷く。

 

「ならいいわ。細かなところ以外なら、トライはいい線はいってると思うから、これからも励みなさい」

 

 そう言い残すと足早に二人を置き去りにして部屋を後にするラム。部屋に出る直前、横目でライトとスバルを見た後に扉を閉め、部屋には静寂が漂い始めた。

 一気に緊張が解けるのを感じ、気疲れを感じさせるようにライトは肩を落とした。

 

「嵐みたいに去っていった……」

 

「ラムちーのやつ言いたいだけ言いやがって。でもまあ、お眼鏡にかかってるらしいし……この調子で頑張っていこうぜ」

 

「そう、だね。俺もまだまだだな」

 

 壁に掃除用具をかけて、ライトはバケツに引っ掛かった雑巾に手を伸ばす。水が染みて、雑巾の色はバケツの中で白から灰色に変われば持ち上げて絞り上げた。

 至らない点がまだあると考えると、落ち込めばいいのか伸び代があって喜べばいいのか。

 現状、屋敷の信頼を勝ち取らなくてはならない以上、死ぬ気で努力しなければいけないのは確かだ。

 それに、

 

「──負担はかけさせたくない」

 

「ん? ライトなんか言ったか?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 黙々とラムに指摘されたことを含め、より丁寧になるライトを不思議に思いながらも、スバルは自分の作業に集中する。

 部屋の中にはライトが絞り切った雑巾を窓枠に当てがい、指先でこそぎ落としたことで揺れるガラス窓の音。喉を唸らせて床を吟味するスバルの声が響いた。

 汗を拭って、ライトは正面の窓を見る。そこに映るのは表情を固くする自身と、その背後に青髪の──

 

「────」

 

 目を擦り、ライトはもう一度窓を覗き込む。そこには反射する自分とスバルしか人はいなくて、ナニモ映っていなかった。

 掃除の手を止める右手が雑巾を握り込んで、ライトは大きく息を吸う。

 今は仕事をしないと──追いつかれそうで、嫌だから。

 

 

 

 

 夢と現の狭間にライトの意識が水のように漂う。

 それが泥のように凝り固まって、ある場所に停滞し流れ着く。そこにあるのはぼんやりとした影のようなものが揺らめくだけだった。

 しかし、次第に輪郭を帯びて色を持ち始めた。色……なのだろうか。目の前に繰り広げられるのは古めかしい感じで、色素なんて二つしかない。その白と黒が作り出す色が混ざって光と影を鮮明にする。

 温かみなんて、冷たさなんて感じないはずなのに、頭から水をかけられたように寒い。

 

 ──冷たい。寒い……凍えそうだ。

 

 冷たい空気がライトを吹きかける。身震いして歯が噛み合わない。両腕で摩っても熱なんて感じさせてはもらえず、ライトはただ次を待つのみだった。

 そんなとき、掌に別の感覚がのしかかった。

 軽いようで重い。重要な何かが抜けたことで、ただのモノになったものが手のひらに乗り掛かったような感覚。

 それは左手。左手が何かを握っているのだ。

 無意識に。無自覚に。不注意に。何かを握っている。何かを引き止めるみたいに、左手は握りしめて身体に残る温度を分けている。

 暗闇の中、手のひらにかかる感触に顔を向けて、ライトは自身が目を閉じていることに気づいた。

 おかしな話だ。目なんて閉じていれば、何を握っていて、今自分がどこにいるかなんてわからないはずなのだから。

 

 ──なに、が……。

 

 心の声が反響しているのか、それとも口から出ている声なのわからない。鼓膜には、脳には、自分の声が反響して聞こえた。

 別の音も、また反響する。

 これは咽び泣き。必死に青色を引き留めようとする本能を理性で押さえ込んで送り出す桃色の嗚咽。薄紅色の双眼が、光を失いかける淡青色の二つ眼と交わり繋がる。その線も綻び、桃色の視線が青色の線を掴めずに、すり抜けるように彷徨わせた。

 

 ──これは……いや、だ。

 

 見たくない。何も見たくない。振り向きたくない。感じたくない。何も見なかった。何も悪くない。

 受け入れられない。心の中に染み込んで縫い付けてくれようとするな。追いついてこようとして、縋りついてこようとしないでくれ。

 何も、何も、何も何も何も何も何も何も何も。ナニもなニもなにもなにもナニモナニモナニモナニモ『──くん』

 

 ──!

 

 左手の感覚が一際増したとき、鼓膜を優しく触れる音がライトの固く閉ざした目を開かせた。開かせざるを得なくした。絶対に目を逸らすなと、逸らさないでほしいと言われたような気がしてならなかったから。

 全てが色素を吸われて白と黒の二色構成となるこの世界の中、息をするものだけが髪色と目の色を保たせている。薄紅色の瞳と濃色の瞳、淡青色の瞳が、モノクロの中で煌々と輝いた。

 その中、どこまでも広がる青空のような双眸が逃さないと、夜空のようなライトの目を差し止めていた。

 何か言おうとしている。聞きたくない。でも聞かないと、絶対後悔するはずだ。だから聞かなければならない。

 桃髪の少女の腿に頭を乗せる青髪の少女の顔をライトは覗き込んだ。固まりかけの右手を握って。

 

 ──なん、だ……レ──

 

『ごめんなさい』

 

 

 

 色が、なくなる。たった今、青色が電源を切られたように光を失って黒色に落ちた。

 一言だけ置いていって、空っぽになった器だけがライトの眼下に残る。

 空白は空間を蝕んで時間が止まったみたいに凍らせて固めた。

 違う。何か違う。こんなにあっけないものだったか。

 この場面はこんなにあっさりとして、胸に無を作る──

 

「返事してくれ……」「おやすみなさい。レム」

 

 情報が押し寄せてくる。記憶がライトの身体を打ちのめして転がしていく。

 もう聞きたくない。どうしてこんな酷いことを課してくるんだ。『ライトくん』もう何も聞きたくない。

 耳を塞いでいるはずなのに、両掌を貫通して音が脳を刺して掻き回す。

 

「ごめんって……」「どうしたの?」「エミ、リア……」

 

 ビデオテープが千切れる勢いでぐるぐると回し、その日の場面がずっと流れ続ける。

 それでも色だけは元に戻らない。

 目がまわる。脳だけが逸脱してその場にとどまり、嘔吐感も感じさせてはくれずにダイレクトに知見したものが押し寄せ、身体を掴み、引き裂いては投げられて『あなたを』細切れにされる。

 

「ダメだね」「どういう──」「言葉通りの意味さ、ライト──」「絶対に殺してやる──ッ!!」

 

 もう嫌だ。逃げたいのに逃げられない。終わりが見えないこの階段をいつまで登っていないといけないのか。

 怨嗟が来る。憎悪がくる。恨み妬む感情が縛り付けてくる。

 腹を殴られた。血が出ている。焼けるように痛くて、呼吸なんてままならないほどだ。

 桃色の少女が扉を超えて黒を追いかける。殺意を募らせた絶叫を、血を滲ませて破り裂くくらいにして。

 慟哭が響く。失ったものが、鮮血のように意識の中を染め上げる。

 崩れる影に『絶対に』手を伸ばしてもすり抜けて床に飛び散る。塵になって、水になって、ドス黒い塊が作られて密集し、一つの形になって、腕が伸びて、

 

 

 

 

 

 

 

『ユルサナイ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────ッッ!?」

 

 突然、喉を突くような息を吐いて、ライトは寝台の上で飛び跳ねるように──飛び出して床に落ちる。全身は汗で濡れ、肩が震え、脈打つ鼓動が耳の奥でジンジンと膨らませた。

 毛布だけが体にまとわりついて、ライトの身体を縛りつけた。

 視点が定まらない。ここはどこなんだ。加速度的に上がっていく心の太鼓の音が耳の中をのたうち回って胸を熱く締める。

 

 ──なんだ。なんだなんだなんだなんだよなんだなんなんだ、今の……。

 

 残死が瞼の裏に焼きついたまま、ライトの視線は焦点を結ばないで部屋中を失踪していた。しかし、白い光が網膜に差し込んで困惑が解ける。

 月がじっと見つめている。ただ平等に地上を照らす優しい光が、肩を荒々しく上下させて縮こまるライトを明らかにした。

 横を見れば魔刻結晶が光っていて、色は黄色。──地の刻だ。

 深夜だが、まだなりはじめで、ウシミツアワーには程遠い時間帯。本格的に眠ってから一時間経ってるかいないかで、そのときライトは悪夢を見ていたのだと自覚した。

 

「は、はは……明日も早いんだ。もう寝よう……」

 

 ヨタヨタと頼りのない足取りで心無い笑いを鳴らすライトは毛布を引き、ベッドへと倒れ込む。

 枕に顔を押し付け、毛布で覆い隠すライトは隙間からネックレスを見つけて引っ張り込んだ。それを握りしめて中で寝入るパートナーを確かめながら目を閉じた。

 

「…………」

 

 うとうと、うとうと。

 初日で疲れた身体を流れる血流は鳴りを落ち着かせて、だんだんと動かなくなる。自分で動かそうとしても動かす気を起こさないくらい寝台に縫い付けるライトの体。

 暗くなって、音が遠くなって。

 落ちて。

 落ちて。

 

 

 

 

 

『ユルサナイ』『ごめんなさい』

 

 

 

 

「ぅっ──!」

 

 一息に声が鼓膜を殴って、ライトの頭を、全身を跳ね起きさせた。

 手を口に当て、胃から込み上げてきたものを間一髪舌の奥にライトは止まらせる。苦い酸味が鼻を通り抜けた。

 

「ふ──んっ……なんだ、よ」

 

 喉が鳴って、危うく吐瀉物なりかけのものを飲み込んだライトは目に涙を溜めながらうづくまる。

 喉は熱く、眠気が襲いかかってきてもあの声が響いては眠りを妨げて起き、精神をすり減らす。

 どうしようもない恐怖がライトを揺らしては囁き、意識を苛ませた。

 眠りたい。でも眠ってしまえば声が聞こえてくる。

 だからライトはベッドに腰掛けて布団を被り、身体を揺すって眠気を遠ざけながら声が遠くなるのを、朝が来るのを待った。

 睡魔が瞼を落とし、声が起きさせてその繰り返し。

 何度も目を閉じさせられて、何度も引き戻され、眠りと目覚めの狭間を彷徨い続けた。

 

 

 

 時間を知らせる光は、まだ黄色い。夜はまだ長い。

 

 

 

 

 

「グゥッドモーニーング!! 今日も晴天、洗濯物に絶好調! ハピネスな一日にしようぜぃ!!」

 

「…………」

 

 昇る朝日を万歳三唱で迎えながら声高に喝采の声を上げるスバルと、その横に屋敷の門よりも遠いところに意識を飛ばすライト。

 ロズワール邸四度目の、二日目の朝がやっと始まった。

 あれから一睡もしていないし、それどころか元の世界で徹夜したときよりももっと酷い。手は震え、視点を朧げで、喉が渇いてそれで──

 

「──イト。おいライト、聞いてんのか?」

 

「……ぇ」

 

「『ぇ』じゃなくて……なんかデジャブ感。ってそれはいいんだけど、ライトボサっとすんな。さっ、俺に続いてさーんはいッ! ヴィクトリー!!」

 

「ゔぃ、ゔぃくとりー……」

 

「声が小さい! ヴィィクトリィー──ッッ!!」

 

 ──うるさい。

 

 傷口に香辛料を塗りたくられたみたいに神経が苛立つがなり声によってライトの不機嫌を募らせる。

 握り拳をさらに締めて、顔に影が差し込むライトは噛み合わない歯を噛み締めて高い音が鳴りかけた。

 対照的に軽く汗する額を爽やかに拭うスバルはノリの悪い同郷の手を取って上に掲げる。

 善意だ。これは気落ちするライトを励まそうとするスバルの善意なのだ。から回っているやる気を漲らせるスバルだが、虚な目をするライトはされるがまま。

 そんな二人を見比べる後ろの人物。日に当たって賛美を上げる銀髪を揺らす少女は首を傾けた。

 

「今日も朝からホントに元気よね」

 

「おいおい、他人事だなぁ、エミリアたん。それにライトも今日どうしたんだよ。ほれほれ、張り切っていこーうぜぇ」

 

 屋敷入り口から少し離れた場所にある階段で影に身を落としながら、日課の微精霊との会話を行なっていたエミリアが苦笑。エミリアの横には灰色の小猫型精霊パックが浮遊しており、ゴシゴシと顔を洗っている。

 標的が移ってスバルから解放されると、ライトの首に下がるネックレスからユニコーンが現れた。

 

「……どうしたのさ、ユニコーン」

 

「…………(よしよし)」

 

 ふわりとライトを一周すると、ユニコーンが傍に来て頭を撫でてくれる。

 ユニコーンには自分が今どういった心境なのか分かるのだろうか。もしそうなのなら余計な心配をかけさせてしまっているに違いない。

 ユニコーンの心遣いに小さく笑うと、ライトは彼を手に取って親指で遊ぶ。

 

「ありがとう、気遣ってくれて。でも大丈夫だから……心配ないよ」

 

「…………(ぎゅっ)」

 

 白いボディを撫でる親指をユニコーンが両手で大事そうに抱きしめる。

 戦っているときのギャップが激しすぎて風邪を引きそうだ。でも、そんな仕草に救われている自分がいるからこれからも支えになってほしい。わかってくれる人なんて、黒髪吊り目の相棒と契りを交わしたユニコーンしかいないのだから。

 

「顔とか洗ってるとこ見るとマジ猫だな。それはそれとして精霊とかも眠くなったりすんの? 寝坊したりとかする?」

 

「君たちも溜まると眠くなるでしょ? 精霊も活動力の源のマナが減少すると、まぁ似たようなことになるんだよ。マナの蓄えが十分じゃないと……ふにゃぁ」

 

「……はぁー」

 

 スバルの口舌の猛攻に欠伸をするパックに釣られてライトが大口を開けて欠伸をする。

 今の所をラムに見られでもしたら仕事が加算されてしまうが、生理的欲求に逆らうことなんてできなかった。

 目に溜まった涙を袖で雑に拭い、横を見てみればユニコーンもどこか眠たげだった。

 スバルはパックやライト、果ては目を擦るエミリアの態度に肩をすくめた。

 

「精霊使いともども夜ふかしさんとか、どうせ夜遅くまで好きな子の話とかで盛り上がってたんだろ? ……まさかライトと!? それは許せんなー許せん許せん。俺も混ぜろよー。あ、俺の好きな子聞きたい? それはねー、恥ずかしいんだけどー」

 

 手を組み目を伏せ、チラチラとエミリアを伺うスバル。

 スバルの態度にエミリアは「はいはい」とおざなりに手を振った。

 

「私が好きなのはパックで、パックが好きなのは私。お話おしまい」

 

「相・思・相・愛!? ライトは……話にとりあえず上げないとしてだな。俺の割り込む余地は!?」

 

「にゃいとも。ボクの魅力にリアはメロメロだよ。スバルも悪い男じゃなかったかもしれないけど、ボクと比べちゃかたなしだ。素直にリアは諦めるといいよー」

 

「なんだとー?」

 

「やるのか……にゃうにゃう!」

 

 詰め寄ったスバルにパックが目線を同じにしてガン飛ばしていると、悪ノリを加速させる二人の耳をエミリアがつまみ寄せた。

 

「二人とも調子に乗らない! そんなことばっかりだと、私も怒るんだから」

 

「「痛い痛い怒ってる怒ってる!」」

 

 急遽参加型の茶番劇をライトは横目にして階段に腰掛ける。

 今はそんな楽しげな雰囲気も刻々と精神ダメージを与えてくるためか、肺が縮んで深いため息が口から垂れ流してしまう。

 顔は項垂れ、前髪が視界に垂れてきて目の前が黒くなる。

 黒。三原色を感じさせない白と黒の二色しかない世界を彷彿とさせてくれる。思い出す、暗い思い出。口元を腹の袋から出たもので汚す少女。青色の目がずっと自分の方を向いていて──

 

「うっ──ふ、ぅ……はぁ」

 

 嘔吐感に口元を手で覆い、そのまま前髪をかき上げてライトは深呼吸。

 徹夜したことで意識が朧げになればこんな気持ちなぞおさらばできるかと思っていた。が、事態は酷くなっていくばかりで、先ほどから視界に異常をきたしている。

 今日の夜に見たあの情景の延長線上のように、目に映るものにフィルターがかかっているように見えてしまうのだ。

 

「はぁ……──ん? どうしたんだ、みんな」

 

 後ろから聞こえる談笑が聞こえなくなって、気になったライトは指で口の端を押し上げて笑みを作り振り返る。

 振り返った先には紫紺の目に心配の色を宿らせて眉を寄せるエミリアがいて、

 

「ライト、ホントに大丈夫? 昨日のお仕事で何かあったの?」

 

「いや、何にもないよ。昨日の仕事だってラムにアドバイスしてくれたくらいで、そのあとは普通かな。むしろ昴の方が……」

 

「ああ、八割ダメだったな!」

 

「そっか、自信満々、で……え? ダメだったの? 八割も?」

 

「同僚が有能すぎて、肩身が狭い思いで候。まあ、八割は言いすぎたから、六わ……いや七割五分とかそこらへんくらい……」

 

「ダメなところの方が多いのは変わらないんだ……」

 

 自己評価が過小すぎるあまりスバルの成果を聞いたエミリアは責任を感じたようであからさまにしゅんとなってしまう。

 が、スバルたちに気を使わせまいとエミリアが顔を上げる。

 

「でもほら、初めての仕事で二割はうまくいったんでしょ? それなら大丈夫。きっとうまくやれるから、自信持って」

 

「だよな! 初めて二割はむしろ上々の上、こっから俺の背中に神風が後押しして快進撃が始まるぜぃ!」

 

「減らず口叩くならちゃんと有言実行して見せろよ」

 

「あーん? やんの……すみません違いますちゃんとやりますからなんでもないですだから何卒」

 

 喧嘩腰に詰め寄ってきたスバルがライトの微笑の裏にある感情に恐れ慄き、一センチばかりのタッパの差がより大きなものとなってしまう。

 何はともあれ、

 

「実際、ラムレムコンビのエールもといフォローと同僚の尻拭いあってやってけてる感じだよ。全力でやって二割なら俺の実力だからしょうがないし、輝かしい未来の俺に乞うご期待ってぇとこだな!」

 

「本人がそうやって前向きなら、何も言わないけど……」

 

 ミスターポジティブなナツキ・スバルのセリフにエミリアはどこか拗ねたように唇を尖らせる。

 その仕草に口をわなわなとさせて赤らめ顔になるスバルを横目に、ライトは堪えようのない欠伸をかました。

 本日二度目。先輩ことラムとレムの目に止まっていなければいいが。押し付け発言が冗談であってほしいのはライトの切実な願いだ。仕事を探し、それであったらやるまでだが。

 

「そろそろいくぞ。ラムとレムに怒られかねないからな」

 

「そんな時間か!? んじゃま朝の活力補給も済んだことで、今日も今日とて姉妹に指図教育されつつ使用人ライフに勤しむわけだから。あ! そんな生活に疲れ切ったらエミリアたんのお膝に飛び込みに行くから! そゆことでー!!」

 

 見事なスタートダッシュを決めて屋敷の入り口に駆け込むスバル。

 今日も異常なくらいにハイテンションで追いつくのにやっとなくらいだった。ただ、ここで突っ立っているわけにも行かないため、ライトはおぼつかない足取りで屋敷に戻って──

 

「ライト……何かあったらいつでも言って。私たち相談に乗ってあげられるから」

 

 

 背後から背中を優しくさするような声がかかって、思わずライトの足が止まる。

 どこからそんな言葉が思いつくのだろうか。自分はまだ心配されなくても平気──大丈夫だというのに。

 心配の言葉を、体を向けずに手だけ振って応答するライトは再び足を進めた。

 朝は来た。けれど心の夜の帷はまだ上がらないまま。

 

 

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