Re:ゼロから始める異世界UC   作:リクライ

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第四十九話 明けない夜はない

 

 

 永久の闇が空間を支配してはライトの心を包んで、止まる。

 止まっているのか、進んでいるのかわからない。永遠は進むが、それと同時に停滞もしている。

 永遠は時間すら流れを忘れさせ、形を変えずに揺蕩う。それはもう止まっていると相違ない。

 虚無だ。誰もいなければ何もない。どこから始まってどこが終わりなのか。あるいは当初からこうだったのかもしれない。

 冷たい。氷雪の地獄に放り出された方がマシかもしれないと思うほどに。体が、心が、魂が、凍えて消えてしまいそうなほど冷たい。

 自覚。この暗闇の中、凍え震える自身の存在を覚えた。 

 刻の終焉に訪れるこの虚無は人間の希望や可能性すら刹那に等しい。どれだけ努力しようともどれだけ足掻こうとも世界の行き着く先は変えられない。

 

 ──それでも。

 

 何を思い、何をしてそこに至ったのか。それこそに理由があって、必ず意味が伴う。それまでの時間を懸命に生きることが、信じて託し、繋いでいく人の意志にこそ、可能性なのだ。無駄なことなんてない。

 自分なりの答え。ただ、この胸にある小さな熱にこそ何かがあるのだ。このくらい先を変えられる何かが。

 一点。変化だ。光が灯り、黒を破って浮かび上がってくる。

 キラキラした虹の光がライトの目の前に止まった。ローブが風に当てられたように光が靡き、やがてそれが人なのだと気がついた。顔は見えない。光の影が女性のようにも見えている。

 光が伸びてきて、それが手なのだと他人事のように思えば肩に掠める。優しく、労わるように。

 温かい。

 嬉しいのか怒っているのか、悲しいのか楽しいのか。ただ無性に心を引き寄せられて、丸裸にされたような感覚。

 魅入られる。

 溶け合う。

 無意識。

 行きたいと思えないのに、行きたい。行かなければならないと。

 しかし、引かれていく寸前。止められ、思いだす。

 一つの願い。祈り。

 私の──

 

『────一つの────』

 

 音にならない重なり合う言葉。聞き取れないのに、それこそが本物なのだと心が覚える。

 打たれ、虹の本流から逆へと遡っていく。広がった光が消えていく。

 遠くへ、遠くへ。やがて時間は針を軋ませて思い出したかのように動き出して、消滅した。

 

 

 

 

「────。っ──!」

 

 何か見ていたような気がした。そんな既視感すらほんの一瞬のうちに、霧のように霧散していって脳の奥へと消え去ってしまう。

 目を覚まし、何度もライトは目を瞬かせる。黒く沈んでしまう睡魔は死に似た恐ろしさを感じて息苦しさに呼吸が荒い。もしかしたらまた『戻った』のではないかと、そんな恐怖感が背筋を這い寄って耳元を囁くのだ。だって目の前に広がるのは──

 

「俺の……部屋じゃない」

 

 今まで寝起きをしてきた私室と違い、ライトの心に焦燥を煽る豪奢な天井をしていたからだ。

 ──客間だ。ロズワール初日に寝かされていたあの客間と同じ内装をしている。

 一瞬、目を疑うような感覚にライトは眩暈を覚えてしまう。だが一瞬だ。

 

「────」

 

 落ちついて見なければ、ごく当たり前のことが見えなくなるくらい視野は狭まる。なんてったって目には起きろと騒がしく光を差してくる日光なんてものはいないし、体の自由もきく。

 

「戻ってきた……いや、戻ってきたんじゃない。起きたのか。……よかった」

 

 安堵に胸を撫で下ろすライトが枕に頭を沈ませて、感触に心を遊ばせる。あれだけ胸を握りしめるように気を揉んだのが骨折り損じゃないかと思う反面、あの日の達成感が夢じゃないことに喜んだ。

 自身を柔らかに当てがう光は地上に眠る生物を温かに見守る夜の目だ。確か魔獣との決戦のときは完全に見開いた黄色いものをしていたが、欠けていて眠そうな印象を覚える。

 

「俺、いつまで寝てんだ……」

 

 どれくらいの時間が経っていたのか。わからない、誰かに聞いて見ない限りは。

 すっかり冴えてしまった目をするライトはかけられた毛布を右手でどけて、身体を起こす。筋肉に力を入れても痛まないことから治癒は済んでいるのだろう。あれだけ鉄板にあてがわれたように痛み、血を流していた右手の掌は負った傷を忘れたかのように元通りだった。

 左手を見ても同じだ。歪に膨らんでいた手の甲は包帯の上からでもわかるくらい痛ましいものだったのに、今では真っ直ぐと骨が張っていてしっかりと繋がっていることがわかる。閉じたり開いたりしてもぎこちなさは皆無だ。

 

「治ってる……当たり前か。みんなありがとう」

 

 左手を顔の前に持ってきて、ライトは感謝を込める。なんだか今までの縁が込められているような気がして、無性に口にしたくなったのだ。

 口角を和らげるライトは深く息を落として、それから月光に反射する濃色の瞳をドア枠の上へ向ける。

 優しく照る光の色は黄色で、深夜を指す色彩だ。月もだいぶ傾いているし、夜明けを見られる時間帯かもしれない。

 

「……着替えるか」

 

 起きてから白衣のまま。ゆとりがあって大変動きやすい服なのだが、使用人服より落ち着かない。とは言っても、着慣れたくないのだが。

 

「──ん?」

 

 この大きいベッドから降りようと毛布の中で足を動かしていると引っ張られる違和感にライトが声を漏らす。

 視線を下ろしてみると動いたことによるぐしゃぐしゃとしたシワのほかに、横に伸びるようなシワが毛布に浮かんでいた。

 ライトは顔をゆっくりと動かして、シワの元である左側を見てみると、

 

「すぅ……すぅ……」

 

「レム、か……。俺が起きるのを、ずっと待ってて……」

 

 寝台に寄り添い、腕に顔を埋めて規則正しい寝息を立たせるレムがいた。

 自分が起きるのをずっと待っていたのだろうか。いつもの見慣れた改造メイド服を着たまま寝ていることから、レムはここに来てずっと寝ている。

 鬼化したとき、レムの青髪は乱れていて、魔獣の返り血で汚れていた。言うまでもなく今のレムは怪我の様子もなければ整っていて、無防備に寝顔を晒す彼女は可愛い。背中が大っぴらにあいたそのメイド服は見ていて寒そうだが。

 健気な少女の姿を目の当たりにしたライトは顔にかかる青い前髪に手を伸ばす。

 

「────」

 

 止める。片側、髪留めで止められた前髪の方から覗く閉ざされた目が見えたからだ。目の縁を赤くした、レムの目を。

 泣いていたのか。だが、自分なんかのために、とは言わない。それでは心配し、こんな時間になるまで診てくれていたレムの気持ちを無碍する言葉にもなるし、そんなこと言う気なんて毛頭ない。気付かされたのだ。他でもない、こうして自分の帰りを待ってくれているレムに。

 ただ、鬼族はフィジカルは頑丈といえど心は繊細で人間と変わらない。今はそっとしておこう。

 

「疲れるよな。そのまま、寝ててくれよ……」

 

 身体を細心の注意を払って動かし、ライトはベッドから抜け出そうとした。そのとき、

 

「だめ、です」

 

「──っ!」

 

 澄んだ鈴音のような声音が耳をよぎった。

 首が跳ねるように声の方へとライトは振り向く。細い指がすがるように布団を掴んでいて、「ん、ぅ」とレムは声を漏らしていた。

 

 ──起こしたか……?

 

 懸念がライトの頭を突っ走って息を潜め身構えるが、レムの身体が起きて目を覚ます気配は感じられない。

 別に起きてもいいのだが、むやみに他人の睡眠を害したくはないのだ。冷や汗が込み上げるライトは掠れる息をなんとか取り戻して声を押し殺す。

 一分、いや五分はたったかもしれないし、一瞬だったかもしれない。起きることがないと確信するライトは心を決め、身体を動かし──

 

「んー」

 

「────」

 

「らいとくん、そこは……だめぇ」

 

 ──夢の中の俺何やってんのさ!?

 

 落ち着け。平静を保つんだタカナシ・ライト。こう言うときは素数を、いやまず寝言について論理的に解説しなければ。

 寝言とは眠りの浅いレム睡眠時に多くなる傾向があると聞いたことがある。レムだからレム睡眠と一瞬、ほんの一瞬くだらんことがよぎったがスルーしておこう。とにかく、寝言を言ってしまうのは睡眠不足やストレスによるものであると証明されていて、詰まるところレムは疲れているのだ。うん、きっとそう。

 だから夢の中の自分が何かしでかしても関係は──

 

「しゅがーとそるて……まちがって、ます」

 

「────」

 

 一瞬でも考えてしまった自分を助走をつけてぶん殴ってやりたい。あと、自分が砂糖と塩を間違えるなんて初歩的なことするわけがないだろ。ない、はず。きっとそう。

 起きることはないにしろ、安心するのはまだ早い。音を殺し、ライトはそそくさとベッドからようやく抜け出すことに至った。

 足を床につけたライトは意味もなく腰を丸めて警戒体制を維持し、視線を張り巡らす。行き着いた先、ドアのすぐそばに椅子があった。その上には見慣れた青色のズボンに黒いシャツ、白い上着が几帳面に畳まれていた。

 

 ──これだ、これ。実家のような安心感とは多分これのことだよなぁ。

 

 近づき、椅子の上で主人を待っていたかのように堂々と鎮座する私服をライトはまじまじと見入る。

 見入るだけじゃだめだ。今、この服は長らく着られなかったために手を挙げて待っている。いらない緊張感を纏う白衣姿のライトが固唾を呑み込み、服に手を伸ばした。

 上の白衣を脱ぎ、椅子の背に引っ掛けたライトは黒いシャツを頭から被って次に袖を通す。

 しかし、違和感。

 

 ──なんか、新しい?

 

 着慣れた服のはずなのだが、どことなくそう感じてしまうのだ。下の白衣も脱いで、紺色のズボンに足を通したときも、店で試し履きしたときと同じ感覚が肌を沿ってわかる。

 気のせいかと思ったのだが、白い上着を着てもかっちりとした印象があって、長く付き合ってきたシワも見当たらない。

 

 ──なんか違うけど……着心地はいいし……。

 

 これもいいかもしれない。なんていうか、優しさを感じる。

 上着の前あわせをきっちりと整えたライトが椅子から目を背いて寝台を見た。

 ベッドの端に縋りつくようにして、小さな背中を丸めてレムはまだ眠っている。か細い腕を伸ばし、布をぎゅっと握ったまま。自分の帰りを待ち続けたまま、疲れ切った心と体がようやく眠りに落ちたのだ。ほのかに赤く腫れた目の縁を見てライトの体は無意識に動いていた。背もたれにかけた白衣を手にして。

 

「寒いだろうに……」

 

 白衣を持ち上げ、そっとレムの小さな体に被せた。晒された肩が、今さっきまで人肌によって温められた布の温もりに触れて微かに震える。それでも目を覚ますことはなく、安心したように、ふっと力を抜いてまた深い眠りについていく。

 せめて今だけでも、と安らぎを願いながら、ライトの指先は壊れ物に触れるように白衣の端を優しく整えた。

 

「すまないな……」

 

 かすれたライトの囁きが、静かな部屋に落ちた。聞こえたかどうかもわからないほどに小さく、それでいて痛むような声音。

 暖かな目でそっと見守るライトは離れてドアの方へと歩く。

 

「らいと、くん……」

 

「────」

 

 誘われて、ライトの目が横へと歩いた。横向きに当てられた光がレムを優しく包み込んで、頬に伝う涙を宝石のように煌めかせる。

 

「あぁ、大丈夫だレム。……ありがとう」

 

 ドアノブに手をかけたライトが涙を浮かべていつまでも、いつまでも心待つレムに手を振る。後ろ髪を引かれるような思いを胸にして、ライトは物悲しさを覚える。熱を覚えるこの思いが一体なんなのかわからないまま、開いたドアを抜けて、そっと閉まるドアの隙間から見続ける。

 ゆっくり、ゆっくりと。隙間から見える、白衣に包まれ、安らかに眠るレムが見えなくなる、そのときまで。

 

 

 

 

 ロズワール邸での一週間。幾度となく繰り返してきた一週間の一つ一つの日々を思い出す。レムやラム、村の人たちを救うことができた。屋敷で得られた立場もそうだし、とっくのとうに自分の居場所は与えられていたのだ。それを跳ね除けていた自分はどんなに傲慢で、どんなに天邪鬼だったか。

 少しくらい、自惚れてもいいのだと振り向かせてくれたのは他でもないレムのおかげだ。そして、自分の背中を押して優しく引き摺り出してくれて自身を顧みさせてくれたのは認めてくれていた村の人たち。

 きっと一生分の借りをみんなには作ってしまった。とは言っても、当の本人たちは首を横に振って、笑顔になる。人間誰しも、損得勘定で考えてなんていないのだ。ずっと狭苦しい考えでは自分も他人も何もかも押し潰してしまうことをあの人たちは無自覚にも知っている。

 

「すごい人たちだ」

 

 しみじみと、この世界で生きる人たちの強かさを思い出してライトは呟く。凄すぎて、それくらいしか言葉に言い表せない。

 目の前には海が広がっている。無数の灯りが煌めく、どこまでも続く広大な海を。

 星々がまるで一つ一つ命を内包しているかのように瞬き、息づいている。闇の中に浮かぶそれらは、自分たち、ひいてはこの星よりも遥かな時間を超えて輝き続ける。

 それよりは比較にもならないが、それでも広いロズワール邸の庭にライトは寝そべって心を広げていた。

 風が吹く。涼しい風が体をなでて通り過ぎる。

 草木が目を覚まし、あくびをするようにざわめいた。それに呼応するようにライトの口が小さく開かれてあくびが漏れる。

 

「はぁ……ユニコーンは、寝てるか……起こすのはやめとこう。俺のわがままに付き合ってくれたんだから」

 

 首元に伸びた手。金属の冷たさが指に伝わり、中に眠るものの存在を鑑みるライトの表情は穏やかだ。和やかな感謝を心から送るが届いているかは定かではない。

 無茶ことをする主人に傾倒してついてきてくれるユニコーンにはすまないと思っているし、同時に嬉しいとも思っている。たとえ腕がボロボロで、血も足りない。仮治療を済ませた自身に伴ってサポートしてくれるなんてどこまで健気で、どこまでもついてきてくれる。だから労わるのもまた主人としての勤め。

 パックなんて見てみたらわかる。エミリアがパックの実の娘であるかどうかはさておいて、父として、契約精霊として守る姿はまさに鑑だ。それだけを判断基準にするのもいかがなものかと思うところもあるが、パックがエミリアを守る姿勢は尊敬できるし、長年の付き合いゆえの言葉の重みには信頼感がある。過保護すぎる、といえばそうなのだろうが。

 とにかく自分自身、ユニコーンの力に翻弄されてどんどん前に突き進むのは良くない。その点まだ学ぶことも多いし、教えてくれる先人がこの屋敷にはいっぱいいる。ロズワールなりベアトリスなり、パックなりと色々。今日はおそらく病み上がりで厳しいと思うから、明日か明後日にでも頼もう。

 まだ見ぬ明日に思いを馳せるライトはつまんだネックレスを胸元に落として、それから腕を枕にして頭を下ろした。

 すると──

 

「……ん?」

 

 不意に頭上の、遥か遠くの方から人の生活音がしてライトが不審に思って首をもたげた。

 ロズワール邸の玄関付近に何やら動く影がある。忙しなく体を、足を動かして右往左往する小さい影。まさか、と思ってライトがうつ伏せになって警戒レベルを上げるが、すぐに杞憂だということがわかった。

 ようよう明るくなりゆく空の下。影が影ではなくなって輪郭をあらわにしてくれる。

 黒を基調としたメイド服には白いエプロンドレスを付けられていて、肌の露出が多いという慎ましいメイドという概念を打破するものだ。こんな衣装を作るのは余程の変態魔術師でない限り誰も作らない。体を覆う白い布を離さまいと掴む小さな右手は、隠そうとしても隠せない焦りを抑え込んでいるようだった。薄暗い時間帯の中、青髪を揺らして焦りの軌跡を残す少女が、レムがいた。

 身を起こすライトは芝生の上にとりあえず足を揃えて玄関に向かって正座。おもむろに右腕を上げてほんの少し左右に振ってみせた。

 

「ぉーぃ……」

 

 風の声に負けるくらい控えめな呼び声をセットで。

 もっと声を張り上げてもよかった。ただ、

 

 ──お腹減った……。

 

 『顔が濡れて力が出ない』改め、『お腹が空いて力が出ない』だ。体と根気は揃っていても中が満ちていなければ精魂損失も余儀ない。だが、蚊ほどの声量もないライトの声。これで気づくはずがないに決まってる。

 

「──っ」

 

 こせこせとしていたレムの足がぴたりと止まった。青い髪がふわりと宙にまって、胸いっぱいに溜めた息を震わせるのが見える。

 まさか気づいたのか。雑魚みたいに小さい声を。いやいやそんなわけ──

 

「見つけました! ライトくん!」

 

「────あー」

 

 気づかれた。いや流石に早くないか。

 ポカンと口を開けて固まるライト。対して、驚くべき加速を発揮するレム。

 芝生を蹴って駆け寄り、小さな体を懸命に前へ進ませるレムは豆ほどの小ささだったのに、今じゃ15センチ物差しぐらいの大きさだ。

 いや、はや。はやすぎやしないか。

 だんだんと手を下ろすライトの目は達観していた。心は荒れ狂う大海原だが。

 

 ──そんなこと言ってる場合じゃない!

 

 引き延ばされた時間が理性によって強制的に縮み上がった。ついさっきまで固まっていたライトは地面に屈していた膝を叩き起こして立ち上がる。腹が減り、腹の虫がさざめくのを気合いで押し留めたライトはよろめきながら足を。足を。──もたついた。

 

「ちょちょ、レム! そんなに焦んなくても俺はどこにも──」

 

「ライトくん──っ!」

 

 ──ダメかぁ……。

 

 胸に響いて眉に力がこもる悲鳴が鼓膜を打ち鳴らした。

 腹を決めたライトはまっすぐにこちらへと飛び込むレムに中腰で構える。持ってくれよ、身体。

 歯を食いしばるライトは来る衝撃に備えて足を地面に縫い付けた。さながら釘のように打ち込まれた鉄筋の如し。そのままレムを受け止め──

 

「ライトくん──っ!!」

 

「とゔぁっ……」

 

 無理でした。

 一気に持ってかれるライトの御体。凄まじい瞬間の衝撃に遅れて潰れた悲鳴がライトの口から弾け、その場に置き去り。そしてその音を抱きつくレムが通り過ぎた。

 刹那、思考が目に映った青い髪によって引き戻されると小柄な体に腕を回して受け止める。どんなことが起きようとも決して離してはならないとライトは心に刻んで。

 浮遊。だが短い浮遊だ。背中が勢いよく芝生に打ちつけられたライトは無意識に両腕にこもる力が増す。体の熱が高まる一方、整えられた草が擦り潰れて白い上着が植物色に染み、背中から奇妙な冷たさが這い寄った。

 

「いっつつ……レム、大丈夫? どこも……」

 

 怪我していないか。と出そうになった言葉をライトは中断して、腕の力を抜けた。耳元、啜り泣く声が聞こえたからだ。それだけで、レムが押し殺してきた感情が伝わってくる。この子は、一体いつまで自身の帰りを待っていたのだろうか。

 ライトの背中に、震える指先でしがみつくそれが、何よりあらわにしている。もう二度と離したくないとする左右の腕が。密着する体が。すがりつく泣き声が、何よりも。

 優しく、震えるレムの背中を撫でる。レムの溢れ出る感情がこれで治るかと聞かれれば、収まらない。むしろ堰を乗り越えた感情の泉は増して、堰を崩させるだろう。

 でもそれでいいんだ。今はただ、この時間がとても切なくて、一緒にいられることがとてつもなく嬉しい。

 だから今は泣いて、泣いて。そして話をしよう。日がてっぺんに昇るときまで。

 そうして、いつまで背中をさすっていただろうか。服を通り越して伝わる脈動に安心感が寄り添ってきていたとき、

 

「ほんとうに……っ、ほんとに……」

 

 卒然と、首にかかる華奢な腕が徐々に緩んでライトの胸にレムがうずくまる。

 しゃくりあげるような呼吸で、身体の重みのほとんどを預けるようにレムはライトの上に倒れ込んでいた。跨いで、跨って、離したくない一心で、パーカーの胸元を掴み震えながら。小さな拳にかかる力は驚くほど弱々しい。だからこそ、痛いほどわかるのだ。

 

「戻ってきて、くれたんですか……?」

 

 か細いレムの声が耳に届く。

 震えるような問いかけだった。わからなかった感情が引き出されて胸が締め付けられる。熱くなった。安堵と恐怖感の混ざった声音がライトの耳を揺らしては胸を打ち付ける。

 どれだけ自分のことを待っていたのか。レムの表情は見えないが、共鳴する心臓が脈打つたびにライトの喉を熱くする。湧き上がるものがあって、ライトは必死に押し殺すことで精一杯だった。

 それでも、言わなくちゃならない。

 レムがこの瞬間に求めているのはたった一つの、たった一人の証明なのだから。

 深く、深く息を呑んでから、ゆっくりと。

 

「……うん」

 

 頷いて、ライトは背中に回った手を外気にさらされたレムの肩にそっと伸ばす。両掌が脆いものを触るように、丁寧に。

 じわりと胸を濡らす感覚があった。レムの震える吐息がかかって、染み付く温もり──思いがあった。

 手のひらを通してライトの温もりがレムの肌を伝播する。暖かさが思い出したようにレムの細い指が暗灰色のパーカーをぎゅうと握りしめた。ここにつなぎ止めるように。

 

「ほんとうに……目を、覚ましてくれたんですか……?」

 

 一つ。

 

「ほんとうに……ライトくんはここにいますか……?」

 

 一つ。

 

「ほんとうに、レムの見てる夢じゃないんですか……? 幻覚じゃ、ないんですか……?」

 

 また一つと、確かめていく。だんだんとライトから身を起こし、両手を芝生に押し付けながら。

 乱れた呼吸と、涙の痕に滲む頬。自身を見下ろすその瞳には、喜びと戸惑い、おそれと安堵がないまぜになった、あまりに儚くて、あまりにも切ない青色をしていた。

 

「ライトくん……」

 

 かすれた声で、レムは下にいるライトを呼んだ。願うように。祈るように。

 ライトの瞬き一つに、微かな呼吸にレムは敏感に反応する。張り詰めた心が今にも弾ける寸前で、レムはどうにかなりそうだった。

 唯一安らがせてくれるのが、目を逸らさずに真っ直ぐと見つめるライトの瞳。瞳の奥、ほのかな紫がにじみ、星が瞬いているように見える双眸が淡青色の双眸と混ざり合う。

 

「──いるよ。ちゃんとここに」

 

 瞬き、ライトは朗らかな微笑みを浮かべて、唇を結んで感情の重みの分だけ苦渋の表情を浮かべるレムへと送った。肩からスルリと抜けた左手をレムの頬に重ねて。

 レムは触れられることに戸惑い、やがて受け入れる。顔を傾け、心地よさに柔らかに閉じるレムの瞳からポツポツと雫が落ちて、落ちて、蒼白いライトの頬へ染み込む。

 柔らかな手の温度と言葉が心を打ち、レムの口が緊張して固く震えた。ひどく、何かに恐れているのが緊張して震える体を通してライトは受け取る。

 

「今日、楽しい夢を……見たんです」

 

 こぼれ落ちる宝石と一緒にレムが途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

「姉様やスバルくんが、厨房で料理を作っているんです……。それで、レムの隣にはライトくんがいて……笑ってたんです。触ってしまったら消えちゃうんじゃないかって、思うほど寂しげで。……っ、触れたらそこで……終わってしまいそうで……」 

 

 語りがひしめく感情を押し込めて、それでも溢れ出てきそうで。我慢するたびに、レムの目は潤んで想いが累積していった。

 肺が意思に反して跳ねて、レムは投げ出してライトへ顔を埋めてしまいそうになる。だが、できない。

 

「……また、消えちゃったり、っ……しませんよね……?」

 

 悪戯に優しい夢を見せられ、潰れ消えてしまったライトを後に目覚め、胸が空っぽになるのがレムはひどく恐ろしかった。悪夢よりよっぽど、レムは苦しかったのだ。

 

「見たくないです……目覚めたくないです……っ。やっとライトくんに会えたのに……ぅっ、レムは終わらせたくないです……」

 

「────」

 

 張り詰めた琴線が切れ、レムの身体がどさりとライトの胸に被さる。寝台のように柔らかな温もりが寂しさを呼び起こされ、涙の雫が集まって落ち、レムの鼻柱を飛び越えてライトの衣服へ浸透した。

 けれど、白い上着を掴む小さな手でレムは縋って、離そうとしない。そうしていないと、霧が晴れるようにライトがいなくなりそうだったから。

 ライトは何も言えない。言えなかった。一心に向けられる感情がこんなにも熱くて、寂しくて切なくて、口が固く結ばれてしまう。一人にさせたくない。でも抱きしめられない。これ以上強く触れてしまったらレムがいなくなってしまいそうだったから。

 交錯して、会おうにもめぐり会えない二人の心。どちらかが進まない限り、生身は近くても心は寄り添えない、分かり合えないのだから。

 

「レムが、あのとき……わがままを言ってしまったから……ライトくんが目を覚ましてくれないんですか……?」

 

 嗚咽混じりに、レムの胸中に罪悪がよぎった。希ってしまったから、報いがドアを叩いてきたのだ。押し入ってきたのだ。心に従ってしまったから。伸ばした手を、取れなかったから。

 

「レムは……嫌なんです、耐えられないんです。あんなにも近いのに……伸ばせば届くのに、ライトくんの心は遠くって……」

 

 瞳を固く閉ざし、レムはライトの上でうずくまる。そうすれば、どこにも行かない気がしたから。

 痛ましげに眉を顰め、ライトはそっとレムの背中に手を添える。そうすれば、責で消えていかないと思っていたから。思っていたのだ。

 でも、でも──

 

「消えないでください。温かい夢……覚めないでください。目覚めなくてもいいから、レムを一生、ここに……置かせてください。だから……っ、だから……!」

 

「──絶対に、消えたりしない。どこにも行かないよ……レム」

 

 口内が砂漠と化し、喉が熱くなるライトが震え声でする。

 受け身でいられなくなった。こんなの耐えられない。何もしなくても消えてしまいそうなレムを、これ以上苦しめてしまうのは胸が辛かった。もっと早く気づけばよかったのだ。自分から進めば、現実からげんじつへ逃避するレムの手を繋いで止められる。

 たった一つの愛おしさにライトは腕をこめて、涙するレムを抱きしめた。

 

「…………っ。うそ、ですよ……」

 

「ほんとうだ。何度でも、俺は言うよ。消えたりなんてしない」

 

 左手をレムの方に回して、右手は芝生を押し付ける。ある限りの力を尽くして、ライトはゆっくりと体を起き上がらせてレムが足に乗りかかった。

 

「うそなんかないよ……レムが触れても呼んでも、今度はちゃんと俺応えるから。だから助けたい……もう悲しい夢なんか見なくていい。俺と一緒に、みんなと一緒に、同じ景色を──現実を見よう」

 

 ──だから。

 

「手を離して、俺の目を……もう一度確かめて」

 

「────っ」

 

 日の顔が覗くとともに、ライトの放つ真っ直ぐな言葉がレムの息を詰まらせた。しがみつく両手が震える。離そうとしても離れない。最後の垣根が、たらればを強くしてレムの恐怖心を──心の窓に鍵をかけていた。

 背中を押さえていてくれるライトの左手がレムの戸惑いを消し去ろうとしてくれる。でも怖い。離した途端、瞬き一つでげんじつがなくなってしまいそうで。

 

「離しても、いなく……ならないでくれますか?」

 

「うん」

 

「ひどいことを……傷つけてしまった、レムを……レムは、許せますか?」

 

「それは……わかんないさ。けど、許すか許さないか、否定するか肯定するか──それだけじゃない道だって、きっとある。見つけるんだ……一緒に。頼ること、君なら……できるって、俺は知ってるから」

 

 梯子を外すような言葉だってことをライトは知っている。だからこそ、レムは今から一人で立つ力が必要なんだ。道は示した。後はレムが決めるだけ。それだけ。

 突然に突き落とされ、目の前に道を出されたレムはひどく困惑した。助けたいと言われた。頷いてくれたと思えば手を離され、信頼された。途方もなく、これが恐ろしいと感じてしまうレムがいた。でも、知っている。袖で隠れてしまっている左手首に巻かれたハンカチがレムを連れ出そうとしてくれていた。歩けと、歩きたいと胸を打った。

 だから。だからレムは──

 

「────」「────」

 

 薄明かり空が二人を横から照りつける。そして──二人の間に光が差した。

 眩い、黄金色の日差しの中、レムは安堵の色に滲ませるライトの微笑みを見た。

 途端、開きかけた窓が開かれて、穏やかな風が吹き込まれるのを感じる。凍りついた心。いっとき溶けた水によってすっかり錆びついてしまった心が目の前の少年によって動かされた。違う──レムが動かした。

 一斉に眠る鳥が羽ばたいた。開放され広がったように。自分を、見ていた世界さえも変える瞬間はここで紐解かれて、開かれたのだ。目の前にいるライトが、背中を押してくれたから。

 

「ここにいたんですね……ライトくん」

 

「ここにいるよ、レム」

 

 左手が離れる。でも、レムは寂しいなんて思わなかった。いてくれるのだから。

 するりと両手が白い上着から外れる。でも、ライトは追おうとはしなかった。温めてくれる心が繋いでくれるから。

 

「ありがとう、俺を呼んでくれて。ありがとう、いてくれて。信じてくれて」

 

「助けてくれて……ありがとうございます、ライトくん。レムを……レムでいさせてくれて、ありがとう」

 

 微笑み、ライトはレムの手を取る。包帯まみれの手だ。だが、触れても握っても壊れることはない手。繋いできた縁が左手に収まっているように巻かれて重なる包帯の数だけ想いがあるのだ。

 自身の腿に置かれた左手を取られるレムもつられて小さく笑った。巻かれた白のハンカチと白の包帯とが伝って、気持ちを繋がらせてくれたから。

 笑って、笑って。もう流れないと思っていた目からふいに涙がこぼれ落ちる。止まることを知らない奥底から湧き出てくる涙。それでもレムは笑い続ける。

 想い続ける涙は暖かくて、こんなにも晴れやかにしてくれる。重荷が解けたレムを見てライトもまた瞳を潤ませて流すのだ。

 

「──ただいま……レム」

 

「──おかえりなさい……ライトくん」

 

 涙に滲んだ視界の向こう、レムは雨空が晴れゆくような笑みを浮かべ、小さく息を吐いてそっと、けれどしっかりとライトの手を握り返した。

 今度は──もう、ためらわずに。

 ──レムはここにいて、ライトはここにいる。

 確かな温もりが居場所を生み出す。

 やがて朝日が世界に新しい色を差し込み、二人を静かに包み込んだ。

 

 

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