何事もなかった日常が崩れたのは、秋の初めごろだった。朝は晴れていた天気が昼から急激に悪化するときのように、前触れがなく予想のつかない、私たちの気分をどん底に突き落とすような変化だった。
セイア様が再び襲撃されたのだった。
これにより、私はシャーレの当番に入る回数を極端に減らした。警備強化のためだ。
情報は錯綜した。隠蔽された。
絵の具がまざりすぎてどうしようもなくなった筆洗みたいな空が続く日々。各所が爆発寸前でぴりぴりしていた。
調印式は、煽られたみんなの不安を蹴っ飛ばすみたいな快晴の日に執りおこなわれた。
○
私が目を覚ましたとき、周囲は灰と火の海に様変わりしていた。痛む節々に気を遣いながら起き上がる。瓦礫が鈍い音を立てて足もとに落ちた。
記憶を手繰った結果、調印式の会場に何かとんでもないものが激突してきたのではないか、という結論にたどり着く。
私はどうすればいいだろう。まずは負傷者の救護か、あるいは避難誘導、戦闘。
混乱する頭に少しずつ晴れ間が覗いていく。しかし視界には明るい色彩が一切ない。冷静になるに連れて周囲が鮮明になった。
今まで聞いたこともないような悲鳴と叫び声が耳で反響して窒息しそうになった。触覚は痛みを訴え、動かそうとしても体が思うように動かせない。
「動けるものは負傷者の救護を! 戦闘に参加できるものは戦闘を!」
有象無象の叫びにまじり、ハスミさんの高い声を聞き取った。ハスミさんを探し出して駆け寄る。
「カアナ! イチカならすでに戦闘に参加しています! 運よく爆風が直撃しなかったようです」
私がいた場所のほうが、どうやら被害は大きいらしい。ハスミさんがひと通りの状況を大声で伝えてくれている中、不意に襲撃者が姿を現した。
ハスミさんは迷いなく発砲した。人の声の他にたくさんの銃声が聞こえていることに、私はようやく気がついた。
ハスミさんの銃口の先を見つめたまま、私は固まる。ガスマスクの集団は、一年前に私を襲った人と同じ制服を着ていた。よくよく思い出せば、一年前のあの子もガスマスクを回収していたように思う。
父さんとともに写真に写っていた人たちだ。
「な、なんで撃ったんですか……?」
「なぜ……!? 襲撃者だからです」
ハスミさんの顔に不快感といらだちが滲む。大きな翼が高圧的に広がった。普段なら恐れるであろうハスミさんの様子を見ても、私は一歩も引かなかった。
「違います。違いますよ……! あの人たちを相手に銃を撃っちゃいけません。助けられるべき者たちでしょう……!?」
「何をおかしなことを言っているのです! 被害者と加害者を間違えてはいけません!」
ハスミさんはこれ以上は無駄と思ったらしく、私に背を向けて走り去った。そして全体の指揮を取りながら戦闘にも参加した。
私は戦闘からも救護からも切り取られた名称のない空白を漂っていた。
きっと、かつての被害者と現被害者なんだと思う。でももう火蓋が切って落とされたから、引き返せないんだ。
やがて私はあたりに転がっていたライフルケースを拾い上げ、ハスミ先輩のところに行った。
ハスミ先輩は私がライフルケースを担いでいたからか、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「カアナ……! あなたの力が必要です。どうか援護に――」
「これ、すみません」
正義実現委員会の腕章を押しつけ、私は唖然とするハスミさんのもとを去った。
○
積み重ねた信念を、足跡を、ここで否定したくない。でも、イチカの立場や私の力を考えれば、正義実現委員会を相手に立ち回ることも不可能だ。
結果として私は戦闘を見て見ぬふりし、いま逃げ惑っている。正義実現委員と肩を並べていればこうはならなかっただろう。
「諦めろ、姫崎カアナ」
聞き覚えのある声はガスマスクのせいでくぐもっていた。一年前に怪我をしたあの子は、どうやら無事に仲間と合流できたらしい。「ついてなかったな」と言っていま私の前に立っている。
私は後ずさっていたが急に後ろに進めなくなり、背負っていたライフルケースにぶつかった。後ろ手に確かめた壁は固く冷たい。建物の奥まで逃げてしまったから、あとはもうどこにもいけない。窓は遠い位置にあった。
「――妙なまねはするなよ。どのみち下にも人員はいるが」
いずれこうなるとは思っていた。
ハスミさんのもとを去ったあと、襲われるのではないかと予測したころにはすでに相手に捕捉されていた。一人ならば巻けたけれど、今回の相手は団体で。ゆく先々で先回りをされて追い詰められた。
ライフルケースのスリングを力の限り握る。体が震えて仕方がなかった。想像力は残酷で、これから起こることをありありと伝えてくれる。
気を抜けばくずおれてしまいそうだった。靴裏からはしっかりとした固い感触が伝わってくるのに、何かに飲みこまれているみたいにまっくろいどろどろに全身が沈んでいく。
先走った心の熱が目頭に集まった。
薄暗い室内にマズルフラッシュが花開いた。鮮やかな赤が視界を彩った。
執拗に足を狙われ、歩くことも、立っていることもできなくなった。
耳にへばりついた銃声がやみ、ライフルケースを庇ってうずくまる私に近づいてくる足音が聞こえる。
「なぜ戦わない」
「……私は、意味もなく、弱きものを傷つけない」
私の声は頼りなく震えていた。今にも消えてしまいそうな蝋燭の火だけれど、それでも燃えていることに変わりはない。
「貴様……!」
投げ捨てられたガスマスクが乾いた音を立てる。
きれいな顔立ちのその子は私を睨みつけた。痩せた頬が、奥歯を噛んでいることを教えてくれる。歯ぎしりが聞こえてきそうだった。
「私だって、お前たちのように愛されたかったのに……!」
沈む前の太陽みたいに鮮烈なオレンジ色の頬に、一条の雫が伝った。美しかった。
銃口が私を捉える。わなわなと震えていた。私は顔を伏せて衝撃を待った。
私はミズタキみたいに、気高くありたかった。誇りを持ちたかった。命よりも信念を取りたかった。
ミズタキはたくさんの野良猫に囲まれながら、血に染まった毛を逆立てることもせずにじっとしていた。当時はどうしてやり返さないのだろうと思っていた。
でも今となっては、憧れを貫くために命を散らすことが愚かだとしても、そうありたいと思う。
衝撃が再びおとずれたのは、たくさんの足音が廊下を進む低い音が聞こえてからだった。
○
人ならざるガスマスクの者たちを残し、襲撃者たちはイチカの前から姿を消した。どうやらトリニティとゲヘナの予備戦力が近づいているらしかった。
「カアナは……」
イチカは周囲を見回す。味方から援護射撃はあったけれど、カアナのものではない。彼女の狙撃は正確無比であり、加えて狙いをつけるまでが早いからだ。
しかし、機械が綿密にスキャンするようにあたりを見ても、カアナはどこにもいない。ときどき小柄な人を見つけて凝視しては舌打ちしそうになるのを繰り返す。
連絡を入れても既読がつかない。何かの間違いであってくれと再び周囲を見て、モモトークを開き直して、電波状況を確認する。
もしかすると、ミサイルの直撃をくらったせいで身動きが取れなくなっているのではないか。
嫌な予感が背筋を這い上がった。
もしも瓦礫に埋もれているのならば早く見つけ出さなければならない。戦闘の疲労をものともせず、体が先に動いていた。
スリープにしたスマホを道中で何度も開いたけれど、一向に通知は入っていなくて。ロック画面に設定した安らかな寝顔だけが場違いに浮いていた。
「ハスミ先輩……!」
仮の補給地点で、ハスミが中心となって様々な状況を取りまとめていた。彼女を始めとして全員が出血していた。
イチカが戦っていた場所と同様に、ここも硝煙と血のにおいが煙にまじって漂っている。
ハスミはイチカに気づくと周囲の人たちに手で合図し、一人で輪の中から抜けてくる。重い足取りだ。彼女は何かをこらえるような、しかし堪えきれていない険しい表情をしていた。
ハスミがイチカに腕章をそっと手渡す。あまりの力で握られていたせいか、しわになっていた。
「姫崎カアナは、これを残して命令違反をしました。内通者である可能性が非常に高いです。今は怪我人の救助を優先しますが、いずれ本格的な捜索部隊が編成されることでしょう」
厳しい口調だった。イチカが口を挟む余地はない。
目を丸くしたままイチカは口を開閉させた。乾いた肺では、言葉をうまく音にできない。何を言ったところで副委員長の決定は覆せないだろう。イチカだって、カアナの取った行動がどれくらいまずいのか頭では分かっている。
ハスミは周囲を見回して一歩前に出る。彼女の体がイチカに影を落とした。
「正義実現委員会の副委員長として、看過できません。委員会としては厳しい対応を取ることになるでしょう」
イチカの顔に絶望が浮かぶ。
ハスミはわずかに雰囲気をやわらげて続けた。
「イチカは離れた区域にいる怪我人の救助に当たってください。――この騒ぎですから、私たちの間でうまく連絡が取れなくても、戦闘ではぐれてしまったせいで遠くをさまよい歩いても、不問とされる可能性が高いでしょう」
「ハスミせんぱ――」
「私はあなたに命令を伝えたはずですよ、イチカ。あなたも違反を起こす気ですか? 早く向かってください。怪我人が多いんです」
○
イチカはハスミから指さされた方向に走って、すぐに脇道に外れた。
カアナはスナイパーという役職柄、構える地点は開けていても、移動ルートが裏路地であることが多い。カアナと一緒の作戦行動の際に移動ルートを質問したり教えてもらっていたりしたため、イチカはカアナの通りそうな場所をなんとなく選べるようになっていた。
だが、彼女は見つからない。戦闘の疲労と絶え間ない捜索の疲労が、もはや気持ちでごまかせないレベルに達している。
イチカは木に全身を預けたあと、重力に抗うこともできずにアスファルトに座りこんだ。むき出しの膝を擦ったけれど、もしかしたらカアナは、もっとひどい怪我をしているかもしれない。光景を想像してイチカは息を呑んだ。
モモトークに既読もつかないままだ。着信を入れても、通話要求まではいくのに一向に通話が始まらない。軽快なメロディが余計に焦りを煽った。
焦りが熱に変わり、汗となって、やがて冷える。死んだように全身が冷たいのに、心臓だけは妙に活発になっていて気持ちが悪かった。
命を振り絞って立ち上がり、イチカは棒の足を動かした。
カアナから通話要求が届いたのは、それから少ししてからのことだった。
「カアナッ! どこにいるんすか!?」
半ば飛びつくようにイチカは声を荒らげる。答えはなかなか帰ってこない。細い息遣いだけが液晶から聞こえる。
「カアナッ! カアナ!」
『だいじょうぶ……ですよ。そんな』
こんなときでも、カアナは『えへへ』と照れくさそうに笑った。
『イチカの声を聞いたら、なんだかとても安心してしまいました』
「いいからどこにいるんすか!? すぐに教えて! 目印でもなんでも! 信号弾とかスモークグレネードとか持ってないんすか!?」
はやるイチカをカアナが窘めた。どちらが助けを求めているのか分からない状態だった。
イチカがやっとの思いで聞き出したのは、カアナのいる場所は、以前自分が襲われた際にイチカから見つけてもらったのとよく似た通りである、ということだけだった。
そんなもの、広いトリニティには五万とある。ざっと周囲の路地を見回しただけでも三箇所ある。イチカは途方に暮れた。
『めじるし……たぶん、クロアメの射程の中では、イチカのマンションがいちばん高いです……』
「それ、たぶん前と同じ通りじゃないすか……!」
無事であるカアナと再開できるめどが立って、もう、ばか――と心の中で思わず叫んでいた。でもそこにはいらだちが一切なくて、ただ純粋な喜びがその言葉を生み出していたのだった。
「カア――何やってんすか! 動かないで!」
曲がり角を曲がってすぐ目の前にいたカアナは、這って移動していた。もはや中身など無事ではないだろうに、穴だらけになったライフルケースを引きずりながら、彼女は緩慢な速度で這い続ける。
「止まれって言ってるでしょ! このバカ! アホ! いいから動くな!」
彼女が移動した痕跡は、足跡と言うにはあまりにも痛々しかった。怪物に襲われて命からがら逃げのびたような血痕が一直線に伸びている。
カアナがイチカを見上げるのはいつものことなのに、今日ばかりはそれが悲痛に感じられた。
「た、たて……立てなくて」
無理に立ち上がろうとしたカアナをイチカが止める。しゃがんだイチカと目を合わせた途端、カアナの目には大粒の涙が浮かんだ。
「わたし……こわくて。ご、ごめんなさい。たすけてください」
「うん、任せて」
カアナが助けてほしいと頼んだのは、これが始めてだった。
イチカの心に喜びと痛みが生まれる。今のカアナには頼れるものが自分だけという後ろめたい喜びと、命の危機にさらされないと助けを求めようとしないカアナの潔癖じみた生き様に対しての痛みだった。
もしもミサイルの爆風から復帰してすぐ、自分がカアナをいち早く見つけていれば――イチカは唇を噛んだ。
イチカはカアナの代わりにライフルケースを背負い、彼女を横抱きにして立ち上がった。一瞬だけくらっとしたが、カアナを前に弱音なんて吐けない。
カアナからは血のにおいがした。彼女は膝裏も背中も何かで濡れていた。
「恥ずかしいですよ……」
「歩けないものはしょうがないっすよ」
カアナの顔に血の赤がべっとりとついている。血の気が引いているせいで、やけに鮮やかに照れているように思えた。
カアナはイチカの首に腕をまこうとして、腕が中途半端にしか上がらず諦める。そのまま不服そうな顔で「ん」と顔を上に向けた。
「どうした――ん」
イチカが顔を近づけた瞬間、やわらかな感触が押しつけられる。
目を丸くするイチカから離れたカアナがほほえんだ。
「安心しました」
「あっ、あなたのほうが余計に恥ずかしいことしてるっすからね!? 人前でやっちゃ駄目っすよ!?」
「私、イチカに注ぎたいんです」
「それは私もっすけど……でも人前では駄目です!」
カアナは
「早く行きましょう。もう、苦しいのに何やってるんすか……」
イチカはカアナの手当てを優先したから気がつかなかったのだ。カアナの跡が、途中でスマホを取りに行ったような軌跡を描くことなく、一直線に進んでいた理由になんて。