ほんの数ミリ普通だったら   作:ぞんぞりもす

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訣別

 両親がアリウス分校にいたことと、両親に会う決意を固めたことを、私はイチカに説明した。リビングのソファで、イチカの胡座に収まるのが私の定位置となっていた。私の上にミズタキが乗るものだからちょっと動きづらいけれど、意外と癖になる安心感だ。

 イチカは後ろから腕を回して私の前で組んでいた。その拘束が緩くなる。

 

「殲滅作戦のとき、怪我した教官がいたって話を聞いたっす。ツルギ委員長がやったらしくて」

 

 イチカの声は暗かった。私は肩に乗るイチカの腕を優しく撫でる。

 

「そんな感じだと思っていました。殲滅作戦ですからね。私が黙っていることを選んだんです。だからあまり自分を責めないでください」

 

 その日のうちにイチカが元気になることはなかったけれど、翌朝、イチカは寝ぼけている私を抱きしめて「まずは一人でやってみるんすよね」と言った。

 私は頷いた。

 

「どんなことがあっても、帰る場所があることを忘れないって約束できるなら、行ってもいいっす」

 

 イチカはほほえんだ。まだ寝ぼけていた私の記憶には、穏やかな色調の風景画みたいに曖昧な、それでも確かにあたたかい、触ることのできる炎のぬくもりが残っている。端っこにある消えないしみはいつの間にか塗り拡げられていたけれど、見えないふりをした。私はきっとまだ大丈夫だ。

 

 

 先生によれば、私の両親はベアトリーチェなる人物のいなくなったアリウスをまとめ、最後まで指揮を取ったために負傷したらしい。

 

 大きな総合病院の廊下にはたくさんの人がいたけれど、みんな一人でいるみたいに静かだった。いきすぎた清潔と薬品のにおいが心をちくちく刺して落ちつかない。小さな体がさらに小さくなっている気がした。

 

 

 両親のいる病室の扉を開けようとして、やめる。嬉しさと恐怖がないまぜになったものを吐きそうだった。

 蝋燭の火が燃え上がり、風に火の粉が舞う。内側を焼き尽くしてしまいそうだった。痛いほどに心臓が波打っていた。

 

 意を決して、扉に手をかける。

 

 

 私を見た両親はまず、抱きしめた。痩せ細った両手が私に開かれ、まるで蕾が花開く神聖さに似たものを覚える。腕から伸びる点滴が巻きついた蔦のようだった。

 知らない人の知らないぬくもりなんて怖いだけで、でも、ぬくもりを忘れていたことを思い出したような嬉しさもあって、ぐちゃぐちゃになった。

 

 よかったとか、会いたかったとか。両親の口からこぼれた言葉は本物なのだろう。でも、痛い。心が悲鳴を上げていた。

 本来は感じるべき感動が私からは欠落していて、その事実にさらに胸が締めつけられた。

 

 少しだけ話して――というよりも一方的に質問されたような気がするけれど、私は訊きたかったことを口にする。

 

「どうして、私のことを守ったの?」

 

 娘の口調って、どんなのだろう。私の教科書はルイだから分からない。

 

 両親は私の問いに目を丸めた。意味が伝わっていないのかと思って、慣れないながらも娘の口調で説明をした。

 

 アリウス分校に協力を要請されたとき、どうして私を差し出さなかったのか。

 たったこれだけのことを言うのにずいぶんと時間を要した気がする。

 

 両親は言葉を失った。逆に私に「変なことなのか」と訊いた。

 狼狽が白い病室をくすませた。冬空はからっと晴れ渡っていて、温度のない光が窓から差し込んでいる。

 

 私は「分かりません」と首を横に振る。

 

「人を傷つけるすべをたくさんの生徒に覚えさせて、より多くの方々を傷つけて。正しいことなのかどうか自信が持てないんです。そうして人を傷つけるくらいなら、私が兵器になったほうがよかったんじゃないかとすら思います」

「お前がさらわれていれば、お前が大多数を傷つけることになっていたんだよ」

「構いません。私がさらわれていれば、私は信念を持つことなんてなかったんですから。私一人を救うために多くを虐げて――いや、虐げてというか、もちろん人道的な配慮があったのは知っていますけれど。あなた方は強いから、たくさんの犠牲を払って私を救うよりも、もっと別の道を選んでほしかったんです。もっと弱いものの側に立つことができたんじゃないかと思います」

 

 ミズタキに出会わない世界線の私が誰を傷つけたって構わない。でも、高潔な白猫は生きる意味をくれた。

 私の信念を大切にしてくれる人がいるのなら、私だって大事にする。イチカやシーンを悲しませたいわけじゃないから。

 両手両足をふん縛ってのたうっても、どれほど血を流しても、私は信念の奴隷でなければならない。

 

 だから両親に問うた。

 

「どうして、より強いほう()を守ったんですか」

 

 愛に耐えられない私なんて、見て見ぬふりで捨ててくれてよかった。

 両親は答えた。悲しいほど、やわらかく笑って。

 

 愛しているから、と。

 

 地獄とは、人と人の関わりの中にこそ存在する。両親が人生を燃焼させて残した願いは、私にはあまりにも重すぎた。

 

 赤ちゃんの頃から少しずつ鍛えられる愛への耐久力とでも言うべきものを、私は持ち合わせていない。そうして押し潰されるくらいなら、明日も分からないまっくら闇で何も見えないほうがよかったよ。

 

 

 あのあと、私は何も言わずに病室をあとにした。両親から裏切られたような絶望が、帰り道で怒りとなった。

 

 自分を焼き焦がす衝動を抑えながら慎重に箸を運んだ。そのはずなのに焼き魚は歪な形にぐしゃっとなっている。

 

「両親とは、うまくいかなかったっすか」

 

 対面に座るイチカがそっと箸を置く。彼女は教材のビデオみたいにきれいに魚をほぐしていた。

 両親の行動が気に食わなかったと聞いたイチカは、唇を引き結んでしきりに頷いた。聞き分けの悪い子どもの言い分をどこか憐れんで聞いているみたいだった。

 

「アリウス分校で弱きものを守るなら、どのみち私は差し出されなければなりませんでした。それなのに」

 

 両親は多くの人の心を殺し、私が連れ去られないように配慮してくれた。

 本当は自分の信念を捨てたいことやシーンとのことは黙って、イチカが見たそうな私を演じる。味噌汁を見つめて口に運んだ。

 

「私は、両親が大多数の子どもを痛めつけてでも守ろうと思えるほど価値のある人じゃありません。私は自分の価値に自信が持てません」

 

 イチカはコップの水を一口だけ飲んだ。コップを置く音が爆弾の起爆スイッチと連動しているみたいに注意深く、コップを置く。コップの位置が自分の心そのものというように神経質に場所を調整した。

 

「少し、わがままを言ってもいいすか」

 

 夜明け前の空が私を見据える。私はほほえんで応じた。

 

「珍しいですね、イチカがわがままなんて」

「そうすか? じゃあせっかくですしもう一個追加で。好きって言ってください」

「……どうしちゃったんですか、イチカ」

「ううん、何も。ただ、もしかしたらカアナに嫌われてしまうかもしれないと思って。今のうちにもう一回聞いておこうと思ったんす。結局一回しか聞いてないっすから、記憶が曖昧になってきてます」

 

「もう」と言って、イチカに歩いていく。

 お願いだから、私には何もお返ししないでね。

 好きだと伝えることがこんなにも怖く、苦しいなんて思いもしなかった。イチカの頭を抱いて囁いた。

 

「大好きですよ。私の心には、あなたしかいません」

 

 イチカは小さな額を私の胸にぐりぐりと押しつけた。翼が私の背面に回りこんだ。いつもみたいに優しくじゃなくて強く押さえつけられる。求められているみたいでつらかったけれど、私もほんのり力を込めた。でも、私の力加減じゃイチカには物足りないかもしれない。

 

 イチカはぐりぐり攻撃をやめて、何度か深呼吸した。くぐもった声がした。

 

「カアナの心が壊れるくらいなら、私は他の人の心が壊れてほしいです。カアナは無事なままで、他の人が不幸になればいいと思うっす。これって、変なことっすかね?」

 

 見慣れないイチカの上目遣いは、不器用な笑みに飾られていた。

 

「好きな人の不幸と他人の不幸をどうしても取らなきゃいけないのなら、どっちを選ぶかなんて決まってるじゃないすか。カアナは今、大多数の不幸を塞いで、私を悲しみのどん底に突き落とそうとしてるんすよ?」

「その訊き方はずるいですよ」

「ずるでもなんでもいいっす」

 

 やり取りの裏で、今の私も個人を選ぼうとしていることに気づく。結局自分だってそうなんだ。両親がアリウス生徒(大多数)よりも(少数)の幸福を選んだように。

 私の器が不出来だったばっかりに、私は苦しいんだ。

 

「私だってどちらかを選ぶしかないのは心苦しいっすよ? でも、たくさんのものを抱えることができないなら、本当に大切な一つを落とさないように選ぶしかないじゃないすか」

 

 私は両親に絶望したわけでもなくて、怒っているわけでもなくて、ただ、傾けられた愛情を受け止めきれずに、あふれた分を勝手に絶望に変えてしまっただけなんだ。

 あまりの情けなさに顔が歪む。

 

 私の顔を見たイチカは、もう一度、優しく人を呪った。

 

「カアナの心が壊れるくらいなら、私は他の人の心が壊れてほしいっすよ」

 

 

 両親との訣別は、存外あっさりとしたものだった。

 

 白い病室には死の気配が充満していた。儚い趣とも清潔な棺桶とも取れる静寂が私たちを見守っている。差し込んだ陽光はいつものように明るく、今日が日常の延長線にあることを静かに教えてくれる。

 

「弱きものたちを守るためには、もっと他にやりようがあったはずです。大人なんですから。私はそのことについて納得がいきません」

 

 私は努めてゆっくりと息を吸った。息を吐いた。

 

「加えて言えば、あなたたちと関われば自分が壊れてしまいそうだから、しばらくそっとしておいてほしいんです」

 

 自分勝手でごめんなさい。せっかく守ってくれたのにごめんなさい。

 家から離れてどこか遠くに住むから。あなたたちの視界にはもう入らないから。

 

 

 両親は俯いていた。私も俯いていた。

 あぁ、こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。両親だって、娘からこんなことを言われるために救ったわけじゃないだろうに。情けなかった。不甲斐なかった。

 両親はどうして私を選んだのだろう。八つ当たりにも似た疑問が、海で溺れる人が必死に水面から顔をのぞかせるように不規則に浮上する。

 

 

 私がもうちょっと普通だったら、こんなことにはならなかったのかな。

 

 

 握り拳は行き場を失った。人生に疲れたから、拳は解かれた。「ごめんなさい」ともう一度謝って、私は立ち上がる。

 私の背中に「しばらく戻れないだろうから、家はそのままでいいよ」と優しい言葉が投げられる。自分を傷つけた人にも優しくあれることが、強さなのかもしれない。私が誇っているのは所詮、仮初めの強さだ。

 

 

 何も言わず、私は飛び出した。

 拒絶した人間が涙を見せるなんておこがましい。

 

 

 廊下に出て扉が閉まった音が聞こえた瞬間、取り返しのつかないことをしたのだと実感がこみ上げて、こらえていた浅ましい感情が上りつめる。

 自分で選んだことなのに、責任を他人になすりつけたくなった。私は悪くないんだって、私を好いてくれる人の重みに押し潰されてこうするしかなかったんだって、叫びたかった。

 でも誰のせいにもしちゃいけない。私が全部悪いんだ。

 

 

 つらいと思うことがこんなにつらいなんて、知りたくなかった。

 手を伸ばす恐怖も、伸ばされた手を叩き落とす痛みも、叩き落とされた側の気持ちを想像する心も、いらない。

 

 人との関わりなんて――。

 でも、どうしようもなく、イチカに縋りたい。

 

 

 廊下を早足で歩いて、誰も見ていない非常階段を駆け下りて、向こう側にいる人のことなんて考えずに金属扉を押し開けて、自動ドアをくぐるころにはほとんど走っていたから、なかなか開かない自動ドアにぶつかりそうになった。

 走った。外に出てすぐ、イチカを見つけた。

 

 心配して来てくれたんだろうな。

 

「――イチカッ!」

 

 からからに乾いた声が天にも届きそうなほど高く響く。ぎょっとする周囲の目も気にせずに一直線に走った。

 ゆっくりと近づくイチカがタイミングを見て両腕と翼を開いた。生きる勢いそのままに私は飛び込んだ。後ろから追いかけてくる罵声と後悔から守ってほしかった。

 

 

 あなたの人生を破滅させる権利をください。

 根拠も何もなく、無責任に大丈夫と言ってください。

 あなたが、あのときどうしてあんなことを口走ったんだろうと後悔するような大丈夫をください。

 未来のあなたを後悔に打ちすえさせる権利をください。

 あなたが一生後悔するような大丈夫をください。

 私はあなたに何も返さないかもしれないけど、そのくせあなたから何かをもらいたいんです。

 

 

 まくし立てた私を抱きしめて、イチカは一言「大丈夫」と言った。私の家族は、もうイチカしかいないんだ。

 

 

 両親はたちまち体調を崩して、そのまま坂を転げ落ちるように他界した。私が自分勝手をはたらいた日から二週間後のことだった。

 

 両親の死を聞いたイチカは黙って私を抱きしめた。あなたのせいじゃないよと言わなかったところが、イチカの誠意みたいだった。

 

 涙には純度の違いがあると思う。あの日、被害者面をするために流した私の涙は、きっとこの世で最も穢れている。それに気づいた日から私は泣けなくなってしまった。

 

 

「イチカ、手紙が届いていますよ」

 

 ある日、差出人のない手紙がポストに投函された。私の見たことのない字でイチカの名が記されていて、どうして私の家に届いたんだろうと思いつつも素直に渡した。

 

 リビングで開封したイチカが読み進めるかたわら、私は休みがちになった学校への提出物をでかしていく。私には関係ないとでも言うように、ミズタキの尾が視界の下で優美に揺れる。

 

 ふと、イチカのすすり泣く声が聞こえて私は顔を上げた。

 

「誰からですか?」

 

 イチカは目もとを赤くしてほほえんだ。目尻に数本の髪が貼りついていた。

 

「カアナのご両親からです」

「責められたんですか……?」

「そんなわけ、ないじゃないすか」

 

 私はてっきり「イチカが私を唆したのだ」と責める内容が書かれているのだと思った。実際は「不甲斐ない両親で申しわけない。これからよろしく頼む」という内容らしかった。

 

『命の重みとか優先順位で敵を設定して、誰かを守るために誰かを叩いて、そんなことしても虚しいだけだと思っちゃいます』

 

 かつての私が言った言葉は、確かにその通りだった。でも、こうでもしないと耐えられなくて。私は所詮、ぬるま湯につかっていただけの子どもだったと思い知らされる。

 イチカが私の分まで泣いてくれて、乾ききった心の中に潤いをもらえたみたいでとても嬉しかった。

 

 

 葬式は叔父さんがすべて取り仕切ってくれた。

 パティシエにとって誕生日ケーキが日常の一部となるように、葬式屋の人も日常の一部に死が組みこまれているようで、平凡な作り笑顔を浮かべる葬式屋の人に、私は親近感を覚えた。

 人の死に反応できない神経はきっとおかしい。そのおかしさを肯定してもらえた気がした。

 

 

 一人で火葬場から出ると、雪が降っていた。気づけばクリスマスも新年もすぐそこまでやってきている。ほとんど学校に行かなくなってしまった私はイチカと違い、正実の用事も冬期講習もない。

 

 伸ばした手のひらが虚空を切って、指先にひとひらの雪が乗る。雪が溶け、かじかんだ指先から痛みが伝わった。この冷たさを、痛みと呼ぶことを知った。

 枯れ木と曇天の世界は、神様が罪人を叱っているみたいに重苦しい雰囲気を漂わせている。

 

 徐々に、イチカの手を求める私は脆弱になっているような気がした。

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